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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
二章 船
21/207

21,忍び寄るのは黒い悪意


 ひっそりと立ちこめる暗雲。それは船が進行する方向の右側からやってきて、空という空をことごとく覆い尽くそうとしている。雲の動きは意外にも速く、一刻も経たないうちに半分以上が陰ってしまった。あんなに輝いていた星の全てを隠してしまうまで、時間の問題だ。


「もうすぐ来そうだね。曇ってきた」


 リディオルの言葉が気になり、部屋に戻ってきたラスターは、ずっと窓にへばりついて外の変化を眺めていた。

 兆しを経てからの変貌へんぼうと。

 移りゆくのは時間だけではない。一刻一刻と変わっていく海──荒れ狂い始める波の様子に、別のものが襲いかかってきそうだ。


「──それだけ見ていれば天気も変わるだろうな」


 シェリックはと言えば、片手で顔を覆ったまま寝台で仰向けになっていて、時折ラスターに合わせて言葉を返すだけだ。

 初めはラスターも黙って外を見るだけだった。もう眠っただろうかとこっそりこぼした独り言を聞き取られ、遠慮がちに何度か会話を交わして今に至る。


「寝てなくて大丈夫なの?」

「……寝てはいる」

「眠ってなくてってコト」


 体勢としては寝ているかもしれないけれど、それはラスターの言う『寝る』とは違う。

 受け答えがあるから、まだ大丈夫だとは思う。それはラスターが思うだけで、実際は悪化したりしていたらどうしようと、心配になってしまう。

 ラスターが薬を作り終え、二人で戻ってくる途中にリディオルに遭遇した。話している途中でシェリックの症状がぶり返し、リディオルとの会話を切り上げて戻ってきたのだ。症状の辛さはシェリック本人にしかわからない。無理やり抑えていたのではないらしいけれど、部屋から動いたことで悪化したのではないだろうか。

 だから大丈夫かと聞いたのに──あの場で助けてもらった身としては何も言えない。シェリックが来てくれたことでどうにかなったのは確かだ。いてくれたことで安心できたのも、かけられたひと言に嬉しくなったのも、全部シェリックのおかげだ。


「……これから嵐が来るなら、嫌でも目が冴えるだろ」

「それまでまだちょっとは時間あるじゃん。いつ来るかわからないんだし、体力を温存しておくのも大事じゃない?」

「……人のこと心配してる場合か」

「ボク、船に酔ってないもん」


 今はまだ、だけれど。


「……嵐が来たらわからないぞ」

「そうだケド、来なきゃわからないよ」


 窓から離れ、シェリックをうかがう。良くなっているとは言っても、それは動いているよりはましというほどだろう。明かりの下で照らされた頬は、うっすらとした青さをさらけ出している。今の時点で無理をしていることは百も承知だ。眠らないのは理由あってか、それとも眠れないのか。いまいち判断がつかない。

 シェリックは、部屋に帰ってきてから一度も起き上がろうとしない。そっとしておくのが一番かもしれないが、症状を改善できるなら試してみるのもひとつの手段だ。


「何か調合しようか?」

「いい」


 思いつきで言うと即座に切り捨てられる。これでは何もできない。ややあって、シェリックがぼそぼそとしゃべり出した。


「複数の薬は、あまり飲まない方がいいんだろう? リディからもらった薬の効果がまだ残ってるだろうから、それがなくなったら頼む」

「──あ」


 そうか。薬は飲み合わせもある。効果が得られるものもあれば、反対に打ち消し合ってしまうものもあるのだ。リディオルが渡していた薬の成分はわからないから、ラスターも軽はずみなことはできない。

 効果が切れるまで最低でも数刻はかかる。今はやめておくのが無難だ。

 無碍むげに断られたのではない。ラスターの心をふわりと軽くさせた。


「うん。じゃあ、もうちょっとあとかな。お水もらってくるよ」

「ああ……頼む」


 今度は頼ってくれたのだとわかって、少し嬉しくなる。本当、自分は単純だよなあなんて思って。


「ちょっと出てくるね」

「……近く、嵐が来るからな。気をつけろよ」

「うん、へっちゃらだよ!」


 大丈夫。きっとなんとかなる。そんなことを思いながら、ラスターは意気揚々と部屋を出たのだ。



  **



「──な、言ったとおりだったろ?」


 とりあえず船員のいる厨房に向かおうとしていた矢先、ラスターの足は後ろから止められた。

 声のした方を振り向く。壁に背を預け、腕を組んでいる人物と目が合った──気がした。濃さの違いで人影は見えるのだが、暗いせいで本当に目が合ったのかまではわからない。

 はっきりと姿を捉えられない。けれどそこにいるのが誰なのかくらいは、声だけでも推し量ることができた。

 神出鬼没とは、きっと彼のことを指すのではないだろうか。


「ほんとだね。空が曇ってきた」


 壁から離れて歩いてくるのは、すっかり見慣れてしまった黒い外套。リディオルだ。


「これからひと嵐来るっつーのに、歩き回るとは。嬢ちゃん度胸があるねぇ。どこまで行くつもりだったんだ?」

「ちょっと水を取りに。厨房まで行けばもらえるかなって」

「水場だったら厨房だな。あいつは? まだ倒れてんのか?」

「うん。相当辛そうだったから、水を飲めば少しはすっきりするかなって思って」

「そうか」


 任されたからには、ラスターのできることをしよう。今はまだ薬を作れる状況にないから、それ以外のことを。

 本格的に嵐がやってきたらどうなるかはわからない。ラスターもシェリックと同じように、動きたくなくなる可能性だってある。

 立っていられないほどの揺れに襲われ、船が呑み込まれてしまうほどの高い波が立ちはだかり、雷と豪雨がひっきりなしに騒ぎ立てる──これらは全て、ルパで漁師から教えてもらった話だ。

 怖いと思うより、わくわくしてしまうのは、ラスターがまだ目の当たりにしていないからだろう。本物の嵐はきっと、ラスターの冒険心など一瞬で塗り替えてしまうに違いない。


「どうなることかと思ったけど、嬢ちゃんのおかげだな」

「ボク、何もしてない。傍にいただけだよ」


 シェリックが船に弱いという話は聞いていたし、薬を持っていたのもリディオルだ。ラスターがしたことはこれといって何もない。強いて挙げるなら、今水を取りに行っていることか。


「嬢ちゃんは優しいぞ。なんせ──」


 そこから先は声が小さくて聞き取れなかった。ラスターはリディオルに聞き返す。


「え、なに?」

「いんや? どうせだし、俺も行こう。そろそろ危なくなるからな」

「ありがとう」


 先ほどもシェリックに言われたのだ。嵐が来るのはラスターもわかっているし、動き回るのが危険なのも知っている。みんなして心配しすぎではないだろうか。

 先導してくれるリディオルの後に続く。


「ついでに、俺の暇つぶしにつき合ってくれるかい?」

「暇つぶし? リディオルの? 別にいいケド……何するの?」


 小首を傾げ、ラスターは問いかけた。シェリックに水を届けたあとでいいだろうか。


「嬢ちゃんは何も。俺といてくれれば、それでいい。まあ、そうだな。面白いといえば面白いぞ」


 そうなのか。一体何をするのだろうと思ったそのときだった。


「──俺が」

「──え?」


 リディオルの止まった足。つられてラスターも立ち止まる。

 ──そういえば、向かっている方向が違う。先を行くからついついリディオルについてきてしまったけれど、こちらは船の先端に向かう道だ。厨房に行くなら反対方向、船尾側に向かわなくてはならない。

 せり上がってきた唾を呑み込む。ラスターの喉が、いつもより大きく鳴った。

 聞いてみてもいいだろうか。ラスターが気づいたことを。リディオルは知っているだろうか。


「ねえ、リディオル。こっちって、厨房の方向じゃないよね……?」


 あるいは知っていながらこちらへと来たのか。物言わぬ背中に薄ら寒いものを感じて、ラスターの足が後ろに下がる。


「まあ、楽しむのは嬢ちゃんじゃねぇけどな」


 どうしてだろう。

 彼がこちらを向く。

 浮かべられている表情は、いつもと変わらないはずなのに。薄暗くて見えないはずなのに。なぜか鮮明にわかる。彼がどんな顔をしているか。どんな顔で笑っているか。

 もう一歩、足が後退する。

 どうしてだろう。ここに──リディオルの前にいたくない。何か得体の知れない人物が、ラスターの目の前にいる。


「っ、え──」


 さらに後ずさろうとした足が、いうことをきかない。地面に吸い寄せられたように、足の裏がその場から離れない。振り向かせまいと押された背中が、向かい合わさることを余儀なくさせる。


「なん、で……」


 まだ距離はある。それなのに、この耳朶じだから巣食われる寒気はなんなのか。ねっとりとした空気が、身体にまとわりつく。初めからここに潜んでいたのか、リディオルから発されたのか。心臓がわしづかみにされ、そこから無理やり引きはがされていくような感覚がある。

 ラスターは必死に服をつかんだ。そうでないと取られてしまう。何に。正体などわからない。ラスターの目の前にいる、この得体の知れない彼に。

 リディオルの口がゆっくりと動いた。


「そう。例えば、『命の選択』ってやつに、つき合ってもらおうか」

「あっ、やっ、嫌だ、わあぁぁぁぁ──!?」


 身動きひとつも叶わぬまま。頭の中をぐしゃぐしゃにかき回されて、周りの何もかもがなくなっていくのを感じた。手を伸ばすも、その手には空しかつかめない。

 ──シェリック。

 遠くに浮かんだ幻。寝台で仰向けになっていた彼の姿。それも浮かんだ途端に黒く塗りつぶされ、ラスターの意識は強制的に奪われていった。




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