17,些細な同行、混じる人
船室がここまで遠いと思わなかった。
船の中を走るなと注意する者がいなかったのをこれ幸いと、ラスターは船室までを駆け抜けたのである。扉を前にして立ち止まると、軽い息切れに襲われた。
シェリックは戻ってきているだろう。去っていったうしろ姿を思い出すと、どうしようもなく胸が締めつけられた。思い出しただけだ。理屈ではない。なのに、ちり、と走る痛みはただ切なく、苦しい。
今の今まで、一度もこんなことはなかったのに。
引き結んでいた口を開き、息を吸って、吐いて。ラスターは勢いよく扉を開く。と、ちょうど真正面の窓際に座っていたシェリックが、俯いていた顔をこちらに向けてきた。
「ラスター?」
丸くした目で呼ばれたその顔色は、先ほどと比べるとずっと良さそうである。
部屋の明るさもあるせいか、しかめ面ではなくなった表情のせいか。理由がなんであれ、快方に向かっているなら良かった。
「起きてたんだ」
「ああ。だいぶ休めたからな」
窓に向けていた体勢を扉側へと向ける。緩慢な動作ではあったけれど、シェリックが出した声もしっかりとしている。波がある症状だから、今は比較的落ち着いているようだ。
「──さっきは悪い。気が立っていた」
密かに安堵していたところへ、思いがけない謝罪を受けた。ラスターは目を見開く。
「ううん。ちょっとびっくりしたケド、気にしてないよ」
出した言葉とは反対に、内心では胸をなで下ろす。いつものシェリックだ。これから先ずっと、話せないままだったらどうしようかと思っていたのだ。
見なかったことにして問題を先延ばしにしただけではないかと、ラスターのどこかで見もしない誰かがささやく。もやもやとした気持ちは聞こえなかったふりをして、自分の荷物を探した。
めぐらせた首がそれに行き当たり、ラスターは鞄をひっつかんだ。
「ちょっと出かけてくるね」
急がなければならない。待っている人がいるから。
「──は? どこに?」
「わからない。ケド、熱を出した人がいるって聞いたから、行ってくる」
「熱を出した人?」
「うん」
一応話しておいた方がいいだろうか。強行突破するという手段もよぎったが、それはあとで咎められるだろう。一から説明するのは苦ではないが、概要だけでも説明した方がいいかもしれない。
悩んだ末に、ラスターはシェリックへと向き直った。
「あのね──」
そうして船員から聞いたばかりの話をする。急に熱を出した女性がいること。船員が医師を探していたが、船内には見つからなかったこと。それを聞いて、ラスターが何かできるかもしれないと提案してみたこと。
「それで、荷物を取りに来たんだ。その熱を出したって人がアルティナのお嬢様らしくて、お母さんとこっそり出かけてたんだって。いつもならいる従者の人とかが今回はいないみたいで、だから余計に慌ててる、って感じかな」
「おまえは何をしに行こうとしているんだ?」
「症状診て、わかる種類だったら薬を作ろうとしてる。わからなかったり、材料足りなかったらお手上げだケド、できるコトがあるならそれをやりに行くよ」
ラスターの説明をシェリックはじっと聞いてくれていた。
予想外の出来事が起きたときこそ、その対処法が問われる。
大国のお嬢様、ともなれば対処はより慎重に、かつ迅速に行われなければならないものだろう。ラスターが行って何ができるかはわからないけれど、力になれると豪語してしまった以上はやれることをしたい。
ここまで伝えたなら、もう行っても大丈夫だろう。
「船員さんたち急いでるみたいだし、ボク、行くね」
「俺も行く」
身を翻しかけたラスターの足が止められる。今、なんと。
「え。でも、シェリック、体調──」
「問題ねえよ。保険のために行くだけだ」
言いかけた言葉が遮られる。
動作は常よりもゆっくりで、声に覇気もない。それでも問題ないというのなら別にいいのだけれど──いや、鵜呑みにするのはまずい。
様子を見て駄目そうなら強引にでも止めようと、ラスターはこっそり決める。それと、少々気になる単語があった。
「保険って?」
「気にするな。こっちの話だ」
首を傾げるも、背中を叩かれて強引に終わらせられる。船室がわからず迷うと思われているのだろうか。ラスターは一人でもちゃんと戻ってきたのに。
廊下に明かりは点いているが、今はれっきとした夜だ。一人で出歩かせられないと思われたのかもしれない。
どちらにせよ不服だ。
「ほら、行くぞ」
「……うん」
納得はできなかったけれど、ラスターは頭を振り、思考を切り替えた。ここで押し問答を繰り広げている場合ではない。今は、他にも先にもすべきことがある。
材料は足りていただろうか。ルパで仕入れた分を換算しても、きっと間に合う量のはずだ。足りなくてもどうにかする。いや、しなければならない。荷物を握った手に力が入る。
助けたい。力になりたい。ラスターが役に立てるのなら。
「ラスター」
「──なに?」
頭へと乗せられた手に、ラスターは上を向く。
ああ、やっぱりまだ顔色は悪い。先ほどは良さそうだと思ったけれど、青白いことに変わりない。船の廊下に薄暗い照明しかないのも助長しているのだろう。早く終わらせよう。シェリックに無理をさせないように。
「あんまり張りきり過ぎるな。それと、考え過ぎるなよ。おまえはたまたまそこにいただけなんだから」
「ありがとう。なんとかなったら、シェリックもゆっくり休んでよ?」
「ごめんだな」
「なんでさ」
間髪入れずに返され、ラスターは口をとがらせる。保健だと行ってついてきたくせに、自分だけ断るのは卑怯ではないか。
「なんとかなったらじゃなくて、おまえができることをやってひと段落ついたらな」
言い直された言葉。ラスターはうっかり頬が緩んでしまった。にやついた顔を見られたくなくて、抱え上げた荷物で顔を隠す。それからシェリックの腕を叩き、了承の返事をした。
「──うん。約束したからね」
「約束にもならないだろ。終わったら寝る気満々だぞ、俺は」
「あはは、そうして」
シェリックの言い方に、吹き出すのを止められなかった。体調は、万全の状態にしておくのが一番だ。
廊下の隅で待っていた船員の元へと走り寄る。もう一人の姿は見えないので、もしかしたら先に向かったのかもしれない。ラスターが近づくと、彼の目がシェリックへと向いた。
「そちらは、連れの人ですか?」
「ええ、邪魔はしません」
応じたシェリックが片手を挙げる。
「わかりました。どうぞ、こちらです」
船員はそれ以上疑問を挟むことなく、先を歩き始める。彼の先導に従って、ラスターとシェリックは奥の船室へと連れられていった。
他の乗客は各々の船室にこもっているのだろうか。驚くほど誰ともすれ違わない。話し声も聞こえてこず、あるのは三人分の足音と、船の稼働音だけだ、
甲板に続く廊下を途中で右折し、階段を下っていく。
船の中心部に向かっているのだろうか。海から守るように、外界から遮断するように。
厳重な船室なのかと思いきや、上階と同じように窓はついている。甲板よりも海面に近いどころか、これは海の中だ。小さな魚が列を成し、船とは反対に泳いでいく。海の中こそ、彼らの世界だ。
ラスターたちの頭上にある照明の数は、上の階よりずっと多い。海中では太陽の光が届きづらいからだろう。
歩いてきた廊下の最奥で、船員は立ち止まる。木登りでつかまる枝のような腕を持ち上げ、その扉を三回叩いた。
「失礼します」
船員が叩いたばかりの扉を開き、脇へ退いた。
「どうぞ」
船員はラスターたちを促す。彼が一歩避けたのは、そのためかと納得した。
「お連れしました」
「ご苦労様でした」
途端に浴びせられたのは、痛いほどの視線。それも一人だけではなく、その場にいた五人ほぼ全員からだ。驚愕、心配、不安、困惑。
こんな子どもが現れて、頼りなく思われているだろう。
大丈夫だろうかと、不安もよぎらせているに違いない。
物言わずとも、注目する目が物語った。口で直に言われるよりも居心地が悪い。身の置きどころのなさを示してくれずともいいのに。
深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。前だけを見据えることで、それらの視線を意識から追い出した。シェリックがいなかった頃はいつも浴びていた反応だ。慣れたとはいえ、あまり気持ちのいいものではない。
彼らが何も言ってこないのは、背後にシェリックという大人が控えていたからだろう。切れ目の長身で、その場にいるだけでも威圧感が漂っているからだ。努めて笑顔を引っ込めてしまえば、威力も倍増してしまう。睨みをきかせたら、誰もが身をすくめるに違いない。
ラスターは、微かに宿る安堵感を認めるしかなかった。シェリックは保険だと言っていたから、恐らく、ラスターに向けられる態度を予測しての同行だったのだろう。
子どもに過ぎないラスターと、ラスターと比べたら遥かに大人であるシェリック。保険の効力は、こんなにも大きいのかと。
いいなあと思う。早く大人になりたいのに、月日がそれを許してくれない。大人になれば、こんな視線を投げかけられることもなくなるのだろうか。それはいつになるのか。
シェリックにもあったのだろうか。早く大人になりたいと、そんな風に思っていた時期が。今より若い、ラスターと同じくらいの年齢のときに──ラスターは思考を閉ざす。それ以上はいけない。
──過去に何が起きていようと、互いに一切干渉しない。
二人の間で決められている暗黙の了承。暗黙とは言っても、一度だけ約束に似たものを交わしたことを、シェリックは覚えているだろうか。
シェリックが何者なのかはわからない。それはシェリックにとっても同じことだ。
何故彼が最果ての牢屋に入っていたのか、ラスターは訊く気などない。気にはなるけれど、訊いてまで知りたいとは思わないのだ。会うべくして会った人物であり、なるべくしてなった奇妙な関係である。
ラスターも自分のことについて話す気はない。必要があるのなら話そうとは思っているけれど、必要がなければその限りではない。別に知りたいなんて思っていないだろうし──
「あなた方が、医師の代わりの方ですか?」
現状を思い出して、ラスターは慌てて居すまいを正す。
疑いの眼差しが注がれる中、唯一違う反応をしたのは、奥に座っている女性だった。微笑む姿は穏やかではあるけれど、友好的なのかまでは判断がつかない。
「うん。そっちの子が、具合悪くしたんだね?」
「ええ、そうです」
女性が腰かける椅子と、その前にある寝台。どちらも決して華美ではない。けれど、ラスターたちの船室とは表面の艶めきが違うことから、良い素材で作られている家具だと察せられる。
寝台には、女の子が一人眠っていた。
額には布が置かれ、彼女の頬は赤い。平常よりも早い呼吸で、かけられている布団が上下している。話題に上がっていたアルティナのお嬢様とは、きっと彼女のことだろう。
「ボクはお医者さんじゃないから詳しい判断はできないケド、薬なら作れる。それでもいいかな?」
「ええ、構いません──説明してあげてください」
視線をずらし、ラスターの背後へと声がかけられる。
「はっ、はい!」
上擦った返事が上がり、振り向こうとしたラスターの視界に飛び込んできたのは、寝ている少女に負けず劣らず、上気した顔の若い女性だった。
淡い色合いの服装は彼女を穏やかに見せる。肘までまくった白衣からは長い腕が伸び、腕と同じように長い指は、身体の前で所在なさげに組まれている。飴色の髪を後頭部の高い位置で結わえ、前髪を留めているためによく見える表情は、憂いと戸惑いとで揺れていた。
見たところ、シェリックと同じくらいの年だろうか。
「わ、わたしは治療師見習いのセーミャと申します。お嬢様の症状を見たところ熱があり、喉が少し腫れていました。風邪ではないかと予測しております!」
「あ、ありがとう」
彼女の勢いに押され、ラスターはしどろもどろになってしまう。言い終えるなり、彼女は勢いを失くしてしゅんとなった。どうしたのだろうと思う間もなく。
「あなた、薬師なんですね。症状はわかるのに、薬がなくて解決できないなんて面目ないです。お薬、お願いします」
医者がいないのではなかったのか。薬がないとは、彼女にとっても予想外だったのだろう。
その様子が本当に悔しそうで、ラスターはしっかりと頷き返した。
「うん、任せて」