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翡翠の星屑  作者: 季月 ハイネ
二章 船
15/207

15,小さな亀裂、走る音


 船が出港してから早半日が経過した。

 やることと言えば、海原を眺めるか船内を探検するくらいだ。暇を持て余す以外には特にない。

 大抵の人間であればとっくに船旅に飽きて昼寝をし始めるか、三半規管の強い者であれば読書を、船乗りならば与えられた仕事をこなしている頃である。じっとしていても揺れる船内では、慣れている者でもない限り、何かしようとは思わなくなるようだ。

 海の上は、空でも飛ばない限り逃げ場がない。陸に慣れている人間にとっては、閉じこめられた空間とも言える。


 そんな中でこの半日間、ずっと海を眺めているラスターがいた。

 甲板にある欄干の片隅に寄りかかり、ただただ海ばかり見ていたのである。

 赤茶けた髪が海風に遊ばれ、暗青色の瞳はここではない、どこか遠くを見ていた。

 思い出すのは母親のこと。今まで訪れた場所、向かいそうな土地。様々な地方を歩いてきたけれど、こうして生まれた国を離れるのは初めてだ。

 ルパの漁師が海はいいぞと言っていたのでこうして海を見に来たのだが、ラスターと同じことを考える人はどうやら少数らしい。初めは一緒になって眺めていた人も、徐々にその数を減らしていき、ついにはラスターただ一人になっていた。海しかなくてつまらないと、誰かが感想を述べていた。

 海だけなんてとんでもない。進む船がぽこぽこと生み出していく泡。ルパに向けて飛んでいく白い鳥の群れ。遠くで船とすれ違ったし、雲も一緒に進んでいく。ラスターの顔と同じくらいの魚が泳ぐのも見た。浮いていた海藻を食べ、また海中へと潜っていった。これがきっと、海なのだ。


 ちなみにシェリックに至っては、初めから船室にこもりきりだ。好きにしてこいと言われたので、ラスターはその言葉通り好きにしているのだけれど。

 赤みを増した太陽を、何をするわけでもなく見守っていた。


「不思議だなあ」


 地平線を見れば、景色の大半は確かに海と空だけだ。目印のない海路をどうやって正確に進んでいけるのだろう。

 ラスターは欄干に乗せていた腕を立てて、頬杖を突く。

 太陽が昇り、沈む。日々その繰り返しがずっと続いて、終わりなどないのだと信じていた。今よりもっともっと小さい頃、太陽がそこにずっといないのが、不思議で仕方なかった。

 幼いラスターは祖母に尋ねた。どうして太陽は一日の半分でいなくなってしまうのかと。


『お日様はね、その日その日の役目を終えたら一度隠れてしまうのさ。半分しかいられないのはね、ずっとお空にいたのでは、お日様も疲れてしまうからだよ』


 疲れてしまうのは大変だ。太陽はかくれんぼしなければならないのかと。そう言ったラスターへ、祖母は優しく笑った。


『そうだね。毎日毎日隠れなきゃならないね。それも大変だね』


 ラスターは頭上を指して、再び尋ねた。あの月は何かと。太陽と一緒にいないのは、仲が悪いからなのかと。一緒にいればいいのにと。

 薄れた記憶でも覚えている。指差した先にあった、神々しいまでの白黄色を。


『お月様はね、お日様が沈んでいなくなってしまったあとに、お空が寂しくないようにと思って出てきたんだよ。誰だって、一人きりは寂しいだろう?』


 今度は祖母から問いかけられて、ラスターは真剣に頷いたのだったか。一人きりは寂しいと、祖母の言葉に同意して。

 丁寧に教えてくれた、しわくちゃの祖母の顔。離すまいと繋いだ、手の温もり。

 夜になると二人だけの特等席で、おしゃべりをした。早く寝なさい、なんて文句は一度も聞いたことがない。いつも優しく、ときには厳しく叱ってくれた。母親がいなくなってからは、ラスターのたった一人の家族だった。

 母親を探しに行くと言って出てきたときは、笑顔で送り出してくれた。反対されてもおかしくなかったのに。あれからもう三年になる。祖母は元気でいるのだろうか。

 あの生活がずっと続くのだと、それこそ終わることがないのだと信じていた幼き頃。あの頃は家から遠く離れるなんて、決して考えも及ばなかっただろう。


「輝石の島に向かってるなんて、嘘みたいだよね」


 口に出せば出すほどますます現実味がなくなってくる。未だに信じられないのだ。真新しいもの好きな母親でもあるまいに。まさか自分が故郷を出て、国をも離れ、こうして船に乗っているなんて──


「……よく飽きないな」

「ひゃっ!」


 背後から低い声がして、ラスターは肩を飛び上がらせた。

 恐る恐る顧みたラスターが目にしたのは、最高に不機嫌な顔をしているシェリックだった。暗くなってきているせいで辺りは見えづらい。幸い彼は、船内に続く灯りのついた通路にいた。夜目には自信がないラスターにも、辛うじてその顔が見えたのである。


「びっくりした……って」


 シェリックの様子をまじまじと見つめる。顔は青ざめ、眉根にはずっとしわが寄ったままだ。不機嫌というよりも、これは。


「シェリック、大丈夫?」


 単に機嫌が悪いだけではなさそうだ。

 出発前、リディオルから言われたのだ。彼いわく、「もし嬢ちゃんが大丈夫そうなら、シェリックのことを見ていてほしい」と。

 ──あいつの船酔い、酷いんだよ。昔と変わってなければ、今回も死んでるはずだ。

 言われたことに従って、ラスターも初めは船室にいようとしたのだ。しかし、シェリックから、ここにいてばかりいないで好きにしろと部屋から追い払われてしまったのだ。なので、ラスターはこうして景色を見に来ていたのである。

 部屋に戻らなかったのは、決してシェリックに追い払われただけではない。景色を見ていても退屈しなかったという理由からだ。

 シェリックを見ると、ラスターも船室から動かない方が良かったのではないかと思えてくる。この状態は酷い。リディオルの助言どおりだ。


「……船だけは慣れなくてな」


 手すりに半身を寄りかからせながら上がってくる姿は、半分死にかけのていである。

 ラスターが手を貸すかどうか迷っている間にも、シェリックが隣までたどり着いてしまった。なんとなく複雑な思いで見てしまう。と、あることに気づいた。

「もしかして、今まで寝てたの?」

 ところどころぼさぼさになった髪と、しわの寄っている服。隣に来たことでそれが見て取れた。

 お節介になるかもしれない。出すまいと決めていた口を、躊躇ためらいつつ開く。


「まだ部屋で休んでた方がいいんじゃない? 歩くのも辛いんでしょ」


 シェリックは欄干で腕を組み、そこに顔を埋めている。普段何が起きても大抵は平然としているからこそ、より辛そうだ。


「……いい。今あの空間に閉じこもっていた方が余計に酷くなりそうだ……」


 かすれた声で返事がくる。重症な様子に、ラスターは乾いた笑いを漏らした。


「リディオルからもらった薬は? 飲んだ?」

「……ああ」


 リディオルから話を聞く前、ラスターに渡されようとしていた薬は、横からシェリックにかすめ取られたのである。どうしてと抱いた疑問はその後、リディオルの助言で判明した。恐らくは酔い止めの類ではないかと推測される。

 それならばラスターよりシェリックが使った方が良い。酔う気配も兆候も、ラスターは避けられている節がある。

 一度だけ、ラスターは船室に戻ろうとしたのだ。部屋をちらりと覗き、シェリックが横になっているのが見え、静かに扉を閉めて部屋をあとにしたのである。

 あのときは単に疲れているだけかと思ったのだが、どうやら違っていたらしい。起きるのも動くのも億劫だったのだろう。


「風に当たった方が落ち着くんだ?」

「ある程度は、だな……」


 シェリックの話す声が、いつもより数段低い。低すぎて、地底から響いてくるかのようだ。

 あちゃあなんて思いながら。


「水でも持ってこようか? ちょっとは楽になるかも」


 隣で額を手すりにつけているシェリックから、何も反応がない。どうしようと思案していたら、微かにああ、という答えが返ってきた。

 反応自体に鈍いのか、それとも答えるのがわずらわしいのか。どちらにしろ、あまり良い傾向とは言えない。


「リディオルから薬もらってくるのもありだよね」

「……いや、いい。リディオルの薬は効かないみたいだしな」


 まさに身を以て体験済みであると言えよう。薬、と言えば。


「薬……あったかな。ボクの荷物にあったら一緒に持ってくるよ」

「いらん」


 今までの反応が嘘のような即答で返され、ラスターは一瞬言葉に詰まった。


「じゃあ、水だけもらってくるね。ちょっと待ってて」

「……おまえ、船初めてだよな」


 船内に向かおうとしたラスターの足が止められる。


「うん。そうだよ?」


 答えながら思う──どうして今、そんなことを訊いてくるのだろうか。


「なら、俺のことなんか気にしなくていい。傍にいても、何も面白いことはないぞ」


 その言葉に、むっとした。


「俺のコトなんか、って。困ってる人が目の前にいるのに、放っておけないよ。ボクでできるコトがあるなら、してあげたいし」

「十分間に合ってる。ありがた迷惑だ──俺に構うな」

「シェリック!」


 それだけ言うと、緩慢な動作で身を起こしたシェリックはラスターの横を抜けていく。顔を背けたまま、船内へ戻っていってしまう。

 あとには、ラスター一人がぽつりと残された。

 シェリックの状態は気になる。しかし、追いかけてもいけないような気がして、ラスターはシェリックを見送る形になってしまった。


「……なんで、あんな言いぐさするのさ」


 ──ありがた迷惑だ。

 シェリックからそんなことを言われたのは初めてだ。全面的に拒絶された場面なんて、それこそ初めて会ったあのときくらいではないだろうか。

 よほど触れて欲しくない事柄なのか、虫の居所が悪かったのか──シェリックにとって、ラスターは連れでもないということか。

 いくら互いを詮索しないのが暗黙の了解だったとしても、そこまで干渉しないようにしなければならないものだっただろうか?

 突然突き放されたような衝撃が、ラスターの頭を真っ白に塗りつぶす。


「……外の方が落ち着くんじゃなかったの?」


 確かにそう言ったのはシェリックだったはずなのに。

 落ちてくるわだかまりに足を取られ、ラスターはその場から動けずにいた。



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