14,不穏な予兆、陰る雲
薄暗く、澱んだ場所。耳障りなきしみが、一定の間隔で聞こえてくる。まるで、あの牢屋のようだ。
出口はあるのに、容易く出て行くことは叶わない。一度足を踏み入れたが最後、逃しはしないと足をつかまれているような。
漂う空気の悪さが目立つのは、この場の雰囲気がそうさせているだけだ。息がしづらいのは、閉塞感を覚えるからだ。押さえつけられるような圧迫感が、発せられているからだ。
──負けてはいけない。一度でも意識を逸らしてしまったら、その瞬間喉元に噛みつかれる。
認めたくなくとも、抗いたいと理解していても、肯定しなければならない。目の前で繰り広げられる今こそが、現実だと、
しかし、なす術はないのだと思いたくはなかった。相対する光景に歯がみする。せめてもの抵抗とばかりに。何かで紛らわしでもしなければ、到底耐えられそうになかった。
身じろぎひとつ、呼吸ひとつするのも億劫だ。止めてしまったならどんなに楽だろう。けれどそうはいかない。まだ人間である以上、生きている以上は生憎と動かさなければならない。生きるとは、面倒なことばかりだ。
充満する息苦しさに催す吐き気。それと同時に胸の奥からせり上がってくる、久しく忘れていた感情。
無意識のまま唇をかんでいたのが功を奏した。痛みのおかげで、消えそうになる理性がぎりぎりで保ってくれている。この理性を消してはいけない。狂いそうになる思考回路で、残るのはその一心のみだ。
──屈してはならないと。
「所詮は暇つぶし、だろ。どうせやれることは何もないんだ」
そう言った相手の顔をぎっ、と睨む。睨んだにも関わらず、相手はより楽しそうに笑うだけだ。
浮かべられる勝者の笑み。支配しているのは、優位に立っているのはこちらなのだと、見せつけるように。
「……冗談じゃない」
「冗談を言ったつもりはないけどな。今まで退屈だったんだろ? 丁度良い遊びをさせてやるんだ。ありがたく思えよ」
言葉が出てこない。言い返せない。震える唇を噛んでばかりでは、反論もできない。
「さて、選んでもらうぜ?」
影が差し、真上から見下ろされる。つかまれた腕はびくともしない。彼に対する抵抗なんてあってないものに等しくて、それがわかってしまったから無性に悔しい。これが彼との差なのだと、思い知らされているようで。
近づかれる。ゆっくりと。殊更に時間をかけて。吐息のかかる距離。耳元でゆっくりと囁かれた。
「これは、命を賭けた選択なんだからな」
「――っ!」
その低い声音に、背筋が総毛立つ。もしも叶うなら、今すぐにでもここから逃げ出したい。けれど、そんなことは叶うはずもない。
低く笑う彼の声を聞く一方で、遠くの風を鮮明に拾っていた。
**
夜半にリディオルが訪れてから二日後。ついに出発する日がやってきた。
「いーい天気ー」
ルパで初めて朝を迎えたときには汽笛に驚いたものだった。四回も聞いていれば耳に慣れてくるし、これが最後かもしれないと思うと名残惜しくもある。またいつか、聞ける日が来るだろうか。
部屋の窓から身を乗り出して、ラスターは港の方角を眺めた。
ほぼ全開に開け放った窓からは爽やかな風が舞い込んで、これから向かう道のりを後押ししてくれているかのよう──なんて思うのは考え過ぎか。ここ数日で一番の天気を、いい方向に向かう前兆だと当てはめたくなってしまう。人やものにあやかりたくなるのは、人間の性もしれない。それでも浮き立つ心は抑えきれなくて、これから待ち受ける旅路に期待してしまう。
「落ちるなよ」
シェリックから短く声をかけられた。
「へーきへーき。それよりさ、絶好の航海日和じゃない?」
ラスターはよじ上った窓の縁に腰をかけて、足をぶらぶらと揺らす。一歩間違えれば地面に真っ逆さまだ。よく木登りをしていたラスターには、懐かしい感覚が思い起こされる。
うまく上れなくて悔しかった感情。途中で脱げてしまった靴。手を滑らせて落下し、青あざを作った尻。
失敗をした数だけ人は学ぶのだと、祖母に教えてもらった。
「暖かいし、気持ちいいし。こんなに晴れると思わなかった」
ラスターが目を細めて首を上向かせながら仰ぐ空は、お世辞ではなく綺麗だ。上空には小さな雲がぽっかりと浮かんでいて、遠くの方は水平線と見わけがつかないくらい真っ青な色をしている。ルパの港で、最初に出会ったあの空のようだ。
「海を映し出した鏡みたい」
空は海とまるきり同じ色彩で、見ているだけで吸い込まれそうになる。
「むしろ逆じゃないか? 一説には海が空を映し出していると言われてる。水面に映った空の色で、海は青く見えるらしい」
「そうなの?」
「あくまでも一説だけどな」
シェリックの説明には頷けるだけの説得力がある。けれど、そうなると空は地面や建物の色まで映し出さなければいけなくなる、海しか見えていないと言いたそうに、空は素知らぬ顔で青色を貼りつけている。
「反対でも捉えられない? 同じ色だし、どっちでもいけそう──でもそっか、そうなると
どっちが正しい色なんだろう」
真剣に呟いたラスターの背後で、妙な息が聞こえてきた。抑えようとするも、堪えきれず吹き出しかけたような。
「……ボク、真剣に考えたんだケド?」
ラスターは振り返り、シェリックへと正当な抗議を向ける。
「柔軟な発想をするのはいいことだ。俺には思いつかない考え方だったから、意表を突かれたんだよ」
いつの間にか距離を詰めていたシェリックが、同じように外を眺める。
言い訳のように聞こえるのは、シェリックと何度も同じようなやり取りを重ねているからだろう。たくさん話してくれると、嬉しい反面嘘くさい。別の意味を誤魔化しているのではないかと疑ってしまう。
なんとなく窺っていたその横顔が急に引き締まった。
「これ、崩れそうだな」
「え、嘘」
これもまた唐突に言われ、ラスターはもう一度空を仰ぐ。くっきりと主張する深い色。あの遥か先に空の果てがあると言われたら、容易く信じてしまうだろう。陽気な日差しは天高く、出かけたくてうずうずする天気だというのに。これが、崩れる?
どんなに目を凝らしてみても残念なことに、ラスターにはわからなかった。
「だって、こんなにいい天気なのに?」
「ああ」
シェリックは何を見たのだろう。不吉なことを口にするなり、荷物を詰めに戻ってしまった。ラスターは納得できず、食い入るように空を見上げる。
雲ひとつない、あるいは雲が少しあっても、ほとんど青空が見えている場合には快晴と呼ぶのらしい。今の天気はまさにその状態なのに。
「降りそうにないよ?」
「遠くに見える雲が速い。あとは──勘だな。アルティナの方向は暗くなり始めているし、荒れるんじゃないか?」
めげずに言ってみるも、寄越されたのはつれない返事だった。
「アルティナってどっち?」
「左」
言われてみれば、黒っぽい雲がなんとなく見える。片手で覆ったら隠せてしまうくらいの小ささだ。あれだけで?
シェリックから「これだからネボの日は……」なんてぼやきが聞こえてくる。何かよくないことでもあるのだろうか。
シェリックの目にはきっと、ラスターとは違うものが見えているのだ。そんな結論に達したところで、ラスターは縁から飛び降りる。間違っても外へではなく、室内に。
空をどれだけ眺めても、わからないということだけはわかった。
「待たせて悪いな」
「終わったの?」
「ああ」
シェリックが荷物を肩にかけている。いつでも出られるとばかりに。
ラスターも、窓の下に置いていた自分の鞄と棍を手に持つ。両端に珠のついている棍は、ラスターの大事な相棒だ。
万端な準備に気合いを入れたところで思い出す。そういえば、訊きたいことがあったのだ。
「ねえシェリック、夜明け前に聞こえた汽笛って、ボクたちが乗る船だったんじゃないの?」
汽笛を聞いたのは、本日で四回目。けれど身体が音に慣れてきたようで、汽笛が鳴ったら起きる時間だと認識してしまっている。
今日もなんとなく汽笛に起こされたのだ。ラスターが窓から港を臨んでみたとき、ちょうど出ていく船の灯りが見えたのである。焦って準備しようとして、シェリックを強請起こすも、すげなく「まだ早い」と言われてしまったのだ。そのあともシェリックは起きる気配がなかったので、ラスターもすごすごと布団に潜り込んだのである。
少々目が冴えてしまってなかなか寝つけずにいたが、いつの間にか寝落ちてしまっていたようだ。気を揉みながら訊いてみたのが今である。
「あれは漁船だ。客船の出航は昼近くだから心配するな」
「なんだ、違ったんだ。良かった」
ようやく答えが聞けて、ラスターは胸をなで下ろす。乗り損ねていたらどうしようかと不安に固まっていた心が、ゆるゆると解けていく。
夜明けとほぼ同時に鳴る汽笛は、長年続いてきた朝の儀式だ。
明日になればまた同じように鳴るその音、ラスターにとっては今日が最後だ。いつかまた、聞けるときが来るだろうか。
「さてと」
「うん」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく唇を持ち上げる。隠しきれずにいた気持ちは、シェリックを見たらより増長された。
「行くか」
「行こっか」
口に出したのはほぼ同時だった。
**
たどり着いた港には、とうにリディオルの姿があった。彼は海を眺めており、シェリックたちが来たことにまだ気づいていない様子である。未だ気づきもしない彼へと声をかける。
「早いな。朝は弱い方じゃなかったか?」
リディオルは今日も変わらず、黒い外套を羽織っていた。ちらりとこちらを見たものの、また視線を海へと戻してしまう。海風ではためく裾をものともせず、何かを待っているような、そんな双眸をしている。
しばらくして今度はちゃんとこちらを向いたリディオルは、和らいだ表情を見せた。
「──駄目だな、今日は。それから、いくら俺でも昼前には起きてるぜ」
「日取りが悪い。おまえ、寝ないときは本気で寝なかったろ。最高何日徹夜してたんだ?」
「それは俺のせいじゃねぇし──さてね。数えたことないから忘れたな」
目元を緩ませたリディオルの後ろには、小型だがそれなりに広そうな船が停泊していた。
少し離れたところに泊まっている漁船と比べると、こちらの方が小綺麗で大きい。客船だからという理由もあるが、アルティナ行き客船は一様に立派なものが多い。アルティナ製の船がほとんどであることも、要素のひとつに列挙しておこう。
毎回思うのだが、こんな大きな物体がよく水に浮かぶものだ。初めに試みた者は、海の向こうに行きたいと考えていたのだろうか。今でこそ他の陸地があるとわかっているが、当時はどこかに着く保証すらなかっただろうに。
「ねえ、この船がボクたちの乗る船?」
気後れしているようなラスターから、おずおずと問いかけられる。シェリックが答えるより早く、リディオルが頷いた。
「そうだぜ」
「うわぁ……!」
感動と好奇心、そして恐らくは冒険心。それらの感情が入り交じり、ラスターの口から何とも言い表せない感嘆の声が漏れた。
実際に船を目の前にして、今まで抑えていた興奮が一気に膨れ上がったのだろう。そんなに楽しみにしていたのか。
気後れしているのではないかと思ったのだが、どうにも違ったようだ。好奇心を表へと出さないように、我慢していただけか。
「ね、ね、あれが大きく広がるんだよね?」
今度は隣にいるシェリックの服を引っ張り、船の上方を指さす。ちょうど視線の先で太陽が被ったので、片手で影を作りながら目を細めた。
「ああ、そうだ」
今はまだ丸まっている白い布。くくられている紐が解かれるのはもうすぐだ。
次第にうずうずしてきた気持ちも抑えられなくなったようで、ラスターは船の方へと駆け出した。小脇に抱えた鞄が落ちそうになり、走りながら器用に抱え直していく。
「ね、早くー!」
「はしゃぎすぎて転ぶなよ」
あまり効果はないだろうとわかっていたけれど、言わずにはいられなかった。
「平気ー!」
ラスターは後ろ手に手を振り、船の中へと入って行ってしまった。
「元気だな、あいつは……」
ラスターを見送ると、そこには二人だけ残される。あそこまではしゃがれると、こっちまで浮いた気分になってくるから不思議だ。
「あの元気がどこまで続くか見物じゃねぇ?」
「そうだな」
リディオルにつられ、シェリックも笑った。──笑って、自身のことについてひとつ思い出して。
「──ときにおまえ、平気なのか?」
船から目を逸らしたのを見られていたのだろう。リディオルの真面目な声が、シェリックへと尋ねてきた。さすがに今思い出したとは言いにくい。何について問われているかわかっているからこそ、こちらも渋面にならざるを得なかった。
「船、苦手だろ?」
無言を通していれば、追い打ちをかけるようにリディオルは明確にしてくれたのである。シェリックが今まさに考えていた問題を。
「……なんとかするさ」
なんとかなりはしないので、なんとかするしかない。確実に体調を崩すのは目に見えているから、船室辺りで倒れていればそのうち着くだろう。着けばいいのだ、着けば。
「あー、相変わらずなんだな」
「ほっとけ」
ここ数年は船に乗る機会もなかったし、機会があったとしてもそう簡単に慣れるものではない。そもそも乗船拒否をしていたら、慣れるどころかそれより前の話だ。
「嬢ちゃんは大丈夫かね?」
「さあな。船に乗ったことはないらしいが」
「最悪、二人してぶっ倒れるんじゃねぇか?」
可能性はないとは言いきれないから辛い。ただし、あまり想像したくない事態ではある。
ラスターは海を初めて見たと言っていた。ならば、船に乗るのも初めてだろう。シェリックと違い船が弱くなければいいのだが、こればかりは体験をしてみないことにはわからない。
いくら願望を並べ立てても、現時点では予測しかできないだろう。
「ま、俺たちも中に入ろう。置いて行かれたら、笑い飛ばすだけじゃすまされねぇ」
「ああ」
二人は足下にある各々の荷物を持ち、既に見えなくなったラスターの後を追う。
一抹どころではない不安だけ、置き去りにできたら良かったのにと。