今日でいい人、やめます
「聖女さま! 聖女さま、起きてください!」
激しく扉を叩く音で、わたしは目を覚ました。
窓の外は、まだ真っ暗だ。
ベッドに入ったのは、確か深夜の二時過ぎ。いま何時だろう。体が鉛のように重い。
「聖女さま! バルド伯爵さまがお呼びです! 一刻を争う容態だと!」
「……すぐ、参ります」
わたしはよろよろと起き上がり、皺だらけの祭服に袖を通した。
鏡を見る余裕はない。見たところで、目の下の隈が濃くなっているだけだ。
わたしの名前はセレスティア。
このアルカディア王国、ただひとりの聖女。
七歳のときに聖女の力が発現してから、十三年。わたしはずっと、誰かを癒やし続けてきた。
馬車に揺られて到着したバルド伯爵邸は、煌々と明かりがついていた。
「遅い!」
寝室に入るなり、怒鳴られた。
ベッドの上で、でっぷりと太った伯爵が唸っている。
「一刻を争うと聞きましたが……ご容態は」
「見て分からんのか! 頭が割れるように痛むのだ! 昨夜の夜会の酒が悪かったに違いない!」
……二日酔い、だった。
わたしは三日ぶりの睡眠を、一時間で打ち切られて、二日酔いの治療に呼ばれたのだ。
「早くしろ! 何のための聖女だ!」
「……はい」
わたしは伯爵の額に手をかざし、祈りを捧げた。
温かい光が灯り、伯爵の顔色がみるみる良くなっていく。
「ふん、治ったな」
伯爵は起き上がると、わたしを見もせずに言った。
「ついでに娘の顔も診ていけ。ニキビができたと騒いでおる」
「……かしこまりました」
ありがとう、の一言もない。
でも、いいのだ。慣れている。
わたしは聖女だから。
聖女は、人々を癒やすために存在するのだから。
伯爵令嬢のニキビを治し――「遅いのよ、跡が残ったらどうするの!」と叱られ――屋敷を出る頃には、空が白み始めていた。
帰りの馬車は、出してもらえなかった。
「聖女は徒歩で民に寄り添うものだろう?」だそうだ。
とぼとぼと歩く朝の市場で、パン屋の軒先に小さな影がうずくまっているのが見えた。
痩せた男の子だ。じっと、焼きたてのパンを見つめている。
「……おなか、すいてるの?」
声をかけると、男の子はびくりと肩を震わせた。
わたしは財布の底をさらった。銅貨が三枚。わたしの全財産だ。
聖女の給金は、あってないようなもの。「神に仕える身に金銭は不要」と、ほとんどを神殿と王家に「献金」させられている。
「おじさん、パンをふたつください」
買ったパンを男の子に渡すと、男の子は目を丸くして、それから泥だらけの顔でにっと笑った。
「ありがと、おねえちゃん!」
「……うん」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
ああ、この一言のために、わたしは頑張れるのかもしれない。
そんなふうに、思っていた。
このときまでは。
神殿に戻ると、休む間もなく呼び出しがかかった。
今度は王城からだ。
「聖女セレスティア、参りました」
謁見の間で頭を下げると、玉座の隣に立っていた金髪の青年が、面倒くさそうに手を振った。
王太子ユリウス殿下。この国の次期国王だ。
「遅かったな。マリアンヌが待ちくたびれている」
殿下の隣で、豪奢なドレスの令嬢が扇をひらめかせた。
マリアンヌ・ロズウェル公爵令嬢。殿下の婚約者だ。
「聖女さま、ようやくいらしたのね。見てくださいまし、この肌。昨夜から荒れてしまって。三日後の夜会までに、完璧に治していただかないと困りますわ」
近づいてよく見る。……どこが荒れているのか、正直、分からなかった。
「あの、殿下。恐れながら、東地区で熱病が広がっていると聞いております。わたしはそちらの治療に向かいたく――」
「は?」
殿下が眉をひそめた。
「平民の熱病など、薬師に任せておけばいい。優先順位も分からないのか? マリアンヌは次期王妃だぞ」
「ですが、子どもが何人も高熱で――」
「セレスティア」
殿下は、心底うんざりした顔でわたしを見た。
「口答えするな。お前は聖女なんだから、命じられたとおりに癒やせばいいんだ。それがお前の存在意義だろう?」
「聖女なんだから当然でしょう?」
マリアンヌさまが、くすくすと笑った。
「……かしこまりました」
わたしは頭を下げ、荒れてもいない肌に祈りを捧げた。
その日の夜、ようやく東地区に駆けつけたとき、ひとりのおばあさんが手遅れになりかけていた。
わたしは夜通し祈って、なんとか全員を助けた。
倒れるように神殿に戻ると、神殿長が待っていた。
「セレスティア。王家の御用を後回しにして勝手な行動を取ったそうだな。今月の給金は返上とする。反省しなさい」
「……はい」
返す言葉は、それしかなかった。
自室に戻る廊下で、掃除係のメアリばあやとすれ違った。
神殿で下働きをしている、腰の曲がった小さなおばあさん。この神殿で、わたしに優しくしてくれる、たったひとりの人。
「セレスティアさま。また顔色が真っ白だよ」
「ふふ、平気よ、メアリ」
「平気なもんかね」
ばあやは、エプロンのポケットから小さな焼き菓子を取り出して、わたしの手に握らせた。
「あんたは働きすぎだ。たまには自分のことも大事にしないと、いつか壊れちまうよ」
「……ありがとう」
自分のこと。
自分のことって、なんだろう。
七歳からずっと、わたしの時間は全部、誰かのためのものだった。
休日は、一日もなかった。
お礼を言われることは、ほとんどなかった。
それでも。
――誰かの役に立てるなら、それでいい。
そう自分に言い聞かせて、わたしは今日も祈る。
毎朝、毎晩、祈りの間で国土に加護を注ぐ。この祈りが王国全土の結界を保ち、大地を豊かにし、瘴気を祓っていることを、知っている人はほとんどいない。
知られなくて、いい。
感謝されなくて、いい。
そう、思っていたのだ。
あの日が来るまでは。
それは、初夏のことだった。
王都の貴族街で、原因不明の病が流行り始めた。
高熱と、体に浮かぶ黒い痣。明らかに、瘴気による病だ。
おかしい、とわたしは思った。
王都は毎朝の祈りで浄化している。瘴気の病など、出るはずがないのに。
「セレスティア! いるか!」
夜、神殿に王太子殿下が乗り込んできた。顔が青ざめている。
「明日、謁見の間に出頭しろ。……病の件で、話がある」
翌朝。
謁見の間には、国王陛下、王太子殿下、マリアンヌさま、そして大勢の貴族たちが集まっていた。
全員の視線が、氷のように冷たい。
「聖女セレスティア」
国王陛下が、重々しく口を開いた。
「此度の流行り病について、そなたに問う。貴族街に配られた聖水は、そなたが浄化したものか」
「……いいえ、陛下。わたしは今月、聖水の作成を命じられておりません」
これは本当だ。ここ数ヶ月、聖水の管理はなぜかわたしの手を離れていた。
「嘘をつくな!」
殿下が叫んだ。
「配られた聖水の瓶には、聖女の紋章が押されていた! 病人は皆、その聖水を飲んだ者たちだ! つまりお前の聖水が、瘴気に汚れていたのだ!」
「そんな……ありえません。見せてください、その瓶を」
差し出された瓶を手に取った瞬間、指先がぴりりと痺れた。
……これは、聖水じゃない。
香料で誤魔化してあるけれど、中身はただの水。それも、瘴気に汚染された水路の水だ。
「陛下、これは聖水ではありません。誰かが聖水と偽って、汚染された水を――」
「まだ言い逃れをするか!」
殿下がわたしの言葉を遮った。
「証人がいる。マリアンヌ、前へ」
マリアンヌさまが、しずしずと進み出た。今日は白いドレスだ。まるで、聖女のような。
「わたくし、見てしまいましたの。聖女さまが夜中に、こっそり水路の水を瓶に詰めているところを……。ああ、恐ろしい。この方は民を癒やすふりをして、病を撒いていたのですわ」
「なっ……!」
嘘だ。真っ赤な嘘だ。
「そもそも、ですわ」
マリアンヌさまは扇を広げ、勝ち誇ったように微笑んだ。
「この方、本当に聖女なのかしら。皆さま、聖女の力の光を、間近でじっくりご覧になったことがあって? 手をかざして、治った治ったと言うだけなら、誰にでもできますでしょう?」
「馬鹿な、ではこれまでの治療は――」
「暗示ですわ。あるいは、安い治癒魔法。その程度で聖女を名乗り、神殿で贅沢三昧……ああ、なんて図々しい」
贅沢なんて、したことない。
給金も取り上げられて、パンひとつ買うのがやっとだったのに。
「わたくしが、お見せいたしますわ。本物の、聖なる力を」
マリアンヌさまが両手を組んだ、その瞬間。
彼女の全身から、まばゆい金色の光があふれた。
謁見の間に、どよめきが走る。
「おお……!」
「なんと神々しい……!」
違う。あれは聖女の力じゃない。
彼女の手首の飾りに、発光の魔道具が仕込まれている。わたしの目には、魔力の流れがはっきり見えた。
「陛下、あれは魔道具の光です! 聖女の力は、ああいうものでは――」
「黙れ、偽聖女!」
殿下の一喝が、謁見の間に響き渡った。
偽聖女。
その言葉に、貴族たちが一斉にざわめき、わたしを指差した。
「偽聖女……!」
「道理で、態度ばかり殊勝な女だと思った!」
「病を撒いた大罪人め!」
違う。違うのに。
十三年、この国のために祈ってきたのに。
睡眠を削って、食事を抜いて、あなたたちの二日酔いも、ニキビも、癒やしてきたのに。
誰も、わたしの言葉を聞いてくれない。
国王陛下が、静かに立ち上がった。
「聖女……いや、セレスティアよ。本来なら処刑に値する罪だが、長年の勤めに免じて命だけは取らぬ。――其の者より聖女の称号を剥奪し、国外追放とする」
ああ。
不思議と、涙は出なかった。
心のどこかで、ずっと分かっていたのかもしれない。
この人たちは、わたしを一度も、人間として見ていなかったのだと。
わたしは「聖女」という便利な道具で、道具が壊れたら、捨てるだけなのだと。
「ただし」
殿下が、当然のように付け加えた。
「出ていく前に、やることは済ませていけ。北の国境沿いの瘴気溜まりの浄化、王都の結界の張り直し、それから騎士団の治療が溜まっている。偽聖女とはいえ、多少の治癒くらいはできるのだろう? 全部終わらせてから出ていけ。ひと月もあれば足りるな?」
……ああ。
この期に及んで、まだ。
まだ、この人たちは、わたしを働かせようとするのか。
病を撒いた大罪人と罵りながら、その手で国を癒やしていけと言うのか。
胸の奥で、何かが、ぷつりと切れる音がした。
十三年間、張りつめていた糸が。
「嫌です」
「……は?」
謁見の間が、しんと静まり返った。
殿下が、信じられないものを見る目でわたしを見た。
「今、なんと言った?」
「嫌です、と申し上げました」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
生まれて初めて、口にした言葉だった。
嫌です。
たった三文字。こんなに簡単だったんだ。
「お、お前……自分の立場が分かっているのか!? 罪人の分際で――」
「罪人なのでしょう? 偽聖女なのでしょう?」
わたしは顔を上げて、殿下をまっすぐに見た。
「でしたら、偽物の浄化などお国のためになりませんわ。本物の聖女さまが、そこにいらっしゃるではありませんか。国境の瘴気も、王都の結界も、どうぞマリアンヌさまにお命じくださいませ」
「なっ……」
マリアンヌさまの顔が、一瞬で強張った。
わたしは胸元に手をやり、聖女の証である銀のブローチを外した。
七歳のあの日から、肌身離さず着けてきた、白百合のブローチ。
重かった。
こんなに、重かったんだ。
わたしはそれを、冷たい床の上に、そっと置いた。
「十三年間、お世話になりました」
深く、頭を下げる。
そして顔を上げたとき、わたしは、笑っていた。
「わたし、今日で――いい人を、辞めます」
「……なんだと?」
「休みなく働いて、感謝もされず、報酬も取り上げられて、それでも『誰かのために』と笑ってきた、都合のいい人。あなたがたの便利な道具。それを今日、この瞬間に、辞めますと申し上げたのです」
「き、貴様あああ! 誰に向かって……!」
「衛兵! その女をつまみ出せ! 今すぐだ!」
衛兵たちに両腕を掴まれても、不思議なくらい、心は凪いでいた。
引きずられていくわたしの背中に、殿下の怒声が飛ぶ。
「後悔するぞ、セレスティア! お前のような偽物、いなくなったところでこの国は何も困らん! 泣いて詫びても二度と戻れると思うなよ!」
戻らない。
誰が、戻るものですか。
謁見の間の扉が、音を立てて閉まった。
その夜、わたしは着の身着のままで、王都の門の外に放り出された。
荷物はなし。路銀もなし。
門が閉まる寸前、小さな影が駆け寄ってきた。
「セレスティアさま!」
メアリばあやだった。
ばあやは古びた外套と、パンの包みと、小さな革袋をわたしに押しつけた。
「あたしのなけなしの蓄えだ。持っておいき」
「メアリ、こんな……受け取れない」
「お黙り」
ばあやは、皺だらけの手でわたしの手を包んだ。
「あんたが偽聖女だなんて、あたしゃ一秒だって信じちゃいないよ。毎朝毎晩、祈りの間で床に膝が擦り切れるまで祈ってたあんたを、あたしはずっと見てきたんだ」
「ばあや……」
「いいかい、セレスティアさま。……いや、セレスティア。どこか遠くで、今度こそ、自分のために生きるんだ。うんと幸せにおなり。それがあたしの、たったひとつの願いだよ」
温かい涙が、ぽろぽろとこぼれた。
追放を言い渡されたときは出なかった涙が、止まらなかった。
「……うん。うん……! ありがとう、ばあや。元気でね」
わたしは外套を羽織り、夜の街道を歩き出した。
振り返らなかった。
空には、満天の星。
十三年ぶりに見上げた夜空は、涙が滲んで、宝石箱をひっくり返したみたいに輝いていた。
「自由、なんだ……わたし」
明日から、朝四時に叩き起こされることはない。
誰かの二日酔いのために走らなくていい。
「聖女なんだから」と言われることも、もうない。
わたしは深呼吸をひとつして、決めた。
これからは、助けたい人だけを、助けよう。
わたしが、大切にしたい人だけを、大切にしよう。
そして誰よりもまず――わたし自身を、幸せにしよう。
国境の森を抜けたのは、三日後のことだった。
隣国レーヴェ王国。アルカディアとは山脈を挟んだ、緑豊かな国だ。
森の小道を歩いていると、茂みの奥から、小さな呻き声が聞こえた。
「……う……ぅ……」
覗き込むと、木の根元に、子どもがうずくまっていた。
灰色の髪に、ぴんと立った獣の耳。ふさふさの尻尾。狼の獣人の男の子だ。歳は十歳くらいだろうか。
足首が、痛々しく腫れ上がっている。折れているかもしれない。
男の子は、わたしに気づくと、歯を剥き出して唸った。
「く、来るな! 人間!」
怯えた目。ぼろぼろの服。ずいぶん長いこと、ひとりでいたのだろう。
昔のわたしなら、頼まれなくても、誰にでも、無条件に手を差し伸べていた。
でも、いい人は辞めたのだ。
だから、わたしは訊いた。
「治してほしい? ほしくない?」
「……え?」
「その足。わたし、治せるの。でも、あなたが嫌なら、治さない。あなたが決めて」
男の子は、ぱちぱちと瞬きをした。
唸り声が、だんだん小さくなる。
尻尾が、へにょりと下がった。
「……いたい」
「うん」
「……なおして、ほしい……です」
「わかった」
わたしは男の子の前に膝をつき、腫れた足首に手をかざした。
温かい光が、ふわりと灯る。
「あ……」
みるみるうちに腫れが引き、男の子は目を真ん丸にした。
そっと足を動かして、立ち上がって、ぴょんと跳ねる。
「なおった! すごい! おねえちゃん、すごい!」
「ふふ。よかった」
「ありがとう! ありがとう、おねえちゃん!」
尻尾をぶんぶん振って、男の子は何度もお礼を言った。
ありがとう。
その言葉が、乾いた心に、雨みたいに染み込んだ。
そうだ。わたしはただ、これが欲しかっただけなのだ。
金貨でも、名誉でもなく。たったひとことの、これが。
「あなた、名前は?」
「ルカ! おねえちゃんは?」
「わたしは……セラ。セラよ」
セレスティアという名前は、あの国に置いてきた。
ルカは両親を流行り病で亡くし、獣人だからと働き口ももらえず、森で暮らしていたのだという。
「ねえルカ。わたし、これからふもとの村に行くの。……一緒に来る?」
「っ! いいの!?」
「ええ。わたしが、あなたと一緒にいたいから」
ルカは一瞬泣きそうな顔になって、それから、太陽みたいに笑った。
山を下りた先にあったのは、ミモザ村という小さな村だった。
石畳の坂道に、蜂蜜色の家々。畑と果樹園に囲まれた、絵本のような村。
村で一軒だけの宿屋の扉を開けると、恰幅のいい女将さんが迎えてくれた。
「いらっしゃい! ……おやまあ、あんたたち、ひどい顔してるよ! 飯は食ったのかい!?」
「え、あの、宿代が心もとなくて、素泊まりで……」
「つべこべ言わない! 座んな!」
どん! と目の前に置かれたのは、湯気の立つシチューの大鍋と、山盛りのパンと、こんがり焼けた鶏肉だった。
「あ、あの、わたし、こんなに払えな――」
「あたしが食わせたいから食わせるんだ! 文句あるかい!」
女将さん――ハンナさんは、腰に手を当てて笑った。
「そんなガリガリの体で遠慮なんかされたら、あたしの飯がまずいみたいじゃないか。ほら、坊やも! おかわりは山ほどあるからね!」
「いただきまーす!」
ルカがシチューにかぶりつく。
わたしも、スプーンをすくって、一口。
「……おいしい」
野菜の甘みと、お肉の旨みが、口いっぱいに広がった。
温かい。
誰かがわたしのために作ってくれたごはんを、ゆっくり味わって食べるなんて、いつぶりだろう。
気がついたら、ぽたぽたと、シチューに涙が落ちていた。
「お、おねえちゃん!? どっか痛いの!?」
「ううん……おいしくて。おいしすぎて……」
「……そうかい」
ハンナさんは何も訊かずに、わたしの背中を大きな手のひらで、ぽんぽんと叩いてくれた。
「ゆっくりお食べ。ここじゃ誰も、あんたを急かしゃしないよ」
その夜、わたしは十三年ぶりに、誰にも起こされず、朝までぐっすり眠った。
ミモザ村での暮らしは、あっという間に軌道に乗った。
わたしは村はずれの空き家を借りて、小さな薬屋を開いた。
聖女の力を大っぴらに使うと騒ぎになるから、表向きは「よく効く薬を作る薬師」だ。薬草の知識なら、神殿時代に嫌というほど叩き込まれている。そこにほんの少し、祈りの力を混ぜる。
「セラ先生! 婆ちゃんの腰、嘘みたいに軽くなったって!」
「先生、うちの子の熱が一晩で下がったよ! ありがとうねえ!」
「これ、うちの畑のトマト! 持っといで!」
薬代の代わりに、卵や野菜や焼きたてのパイが届く日もあった。
最初は戸惑った。対価を受け取ることに、罪悪感すら覚えた。
「あのねえ、セラ先生」
ハンナさんに、こんこんと諭された。
「働いたら報酬をもらう。助けてもらったら礼を言う。当たり前のことだろう? あんたの前の職場が、どうかしてたんだよ」
「……そう、ですよね」
「そうさ。それにね、ちゃんと受け取ってくれた方が、こっちも気持ちがいいんだ。ありがとうって言わせておくれよ」
ありがとうと、言わせてほしい。
そんな考え方があるなんて、知らなかった。
わたしは少しずつ、受け取ることを覚えていった。
報酬も。感謝も。優しさも。
冬の初めには、村の収穫祭があった。
広場に篝火が焚かれ、みんなで持ち寄ったごちそうを囲んで、夜まで歌って踊る。
「セラ先生も踊りな!」
「え、わ、わたし、踊ったことなんて……!」
「誰も上手さなんて見ちゃいないよ! ほら!」
ハンナさんに手を引かれて、輪の中に放り込まれた。
隣のおじいさんも、向かいの奥さんも、みんなでたらめなステップで、げらげら笑いながら踊っている。
わたしもつられて、ステップを踏んだ。転びそうになって、笑われて、また踏んだ。
楽しい。
胸の奥から、ふわふわと湧いてくる、この気持ち。
そうか。これが「楽しい」なんだ。
十三年間、お祭りの日も、わたしはずっと働いていた。人々が笑う広場を、治療のために横切るだけだった。
輪の外から、ガイさんがこちらを見ていた。
「ガイさんも踊りましょう!」
「……俺は、いい」
「だめです! ほら!」
わたしが手を引くと、ガイさんは仏頂面のまま、それでも大人しくついてきた。
村一番の大男が、がちがちのステップを踏むものだから、広場は大爆笑になった。
その夜、わたしは頬が痛くなるまで、笑った。
ルカはわたしの家の子になって、薬草採りを手伝ってくれている。狼の鼻は、薬草探しの天才だった。
そして、もうひとり。
「……セラ。奥の森に行くなら、護衛する」
村の猟師のガイさん。
黒髪で、無愛想で、口数が少なくて、体の大きな人。元は王都で名の知れた冒険者だったらしいけれど、本人は何も語らない。
薬草採りで森の奥に入るとき、ガイさんはいつの間にか、当たり前のようにわたしの隣を歩くようになっていた。
「ガイさん、あの、お礼を……」
「いらない」
「でも」
「……俺が、勝手についてきてるだけだ」
ぷいと顔を背けるけれど、耳が赤い。
魔物が出れば剣の一振りで倒してしまうし、崖のきわを歩けば黙って手を差し出してくれる。
「セラは、目を離すと無茶をする」
「し、しませんよ、そんなこと」
「する。先週、熱のある子どものために、夜の森を一人で突っ切ろうとした」
「あれは、緊急で……」
「だから、俺を呼べ。夜でも、雨でも、いつでもいい」
ガイさんは、まっすぐにわたしを見て言った。
「あんたはもう、一人で全部背負わなくていい」
「………………はい」
顔が熱くなって、うまく返事ができなかった。
ある晩、ハンナさんの宿の食堂で、村のみんなと夕食を囲んでいたときのこと。
「なあセラ先生、先生って、隣の国から来たんだろ?」
村の若者に訊かれて、わたしはスプーンを持つ手を止めた。
「……ええ。実は、わたし」
隠しごとをしたまま、この人たちの隣にはいられない。
わたしは、全部話した。
聖女だったこと。追放されたこと。偽聖女の汚名を着せられたこと。
食堂が、しんとなった。
怖かった。厄介者だと思われたら、どうしよう。
すると。
「――は!? なんだいそりゃあ!!」
ハンナさんが、テーブルをばん! と叩いて立ち上がった。
「十三年こき使って、給金も出さずに、濡れ衣着せて追い出しただって!? アルカディアの王様ってのは、頭の中に藁でも詰まってんのかい!!」
「セラ先生を追い出すなんて、見る目がなさすぎるだろ!」
「大丈夫だセラ先生、あんな国の連中が来たって、村のみんなで追い返してやるからな!」
「おれ、おねえちゃんのこと、ぜったい守るから!」
みんな、怒ってくれた。わたしのために。
疑う人は、ひとりもいなかった。
「……ありがとう、ございます……っ」
ぼろぼろ泣くわたしに、ハンナさんが特大のパイを切り分けながら言った。
「泣くんじゃないよ、ほら食べな! あんたはもう、うちの村の子なんだからね!」
うちの村の子。
その言葉が、どんな勲章よりも、嬉しかった。
夜、家に帰る道すがら、ガイさんがぽつりと言った。
「……聖女だったんだな」
「はい。黙っていて、ごめんなさい」
「いや。……納得した」
「え?」
「あんたの周りは、いつも温かい。傷が治るとか、そういうことじゃなく。あんたが村に来てから、みんなよく笑う」
ガイさんは、夜空を見上げた。
「聖女サマだからじゃない。セラだから、だ」
「……っ」
「肩書きなんかなくても、あんたは、あんたのままで十分すごい」
ずるい。そんなの。
わたしが十三年間、ずっとずっと、誰かに言ってほしかった言葉なのに。
星空の下、わたしは俯いて、涙が引っ込むまで、しばらく歩けなかった。
ガイさんは何も言わずに、隣で待っていてくれた。
――一方、その頃。
アルカディア王国は、静かに、しかし確実に、崩れ始めていた。
最初の異変は、追放から一週間後だった。
「殿下! 北の国境で瘴気溜まりが膨張しております! 周辺の村から避難民が――」
「マリアンヌに浄化させろ! 真の聖女だろう!」
ユリウス王太子の命を受けたマリアンヌは、しぶしぶ北の国境へ向かった。
護衛の騎士たちが見守る中、彼女は瘴気溜まりの前で両手を組み、金色の光を放った。
光は、確かに輝いた。
だが、瘴気は一寸たりとも晴れなかった。
「な、なぜですの……!? わたくしの聖なる力が……!」
「マリアンヌさま、瘴気が! 瘴気がこちらへ!」
「い、嫌! 下がりますわよ! 早く馬車を!」
浄化は失敗した。何度やっても、失敗した。
当然だ。彼女の光は、手首の魔道具が生み出す、ただの照明なのだから。
二週間後、王都の結界が軋み始めた。
十三年間、毎朝毎晩、セレスティアの祈りによって編み直され続けてきた王国全土の結界。その祈りが、途絶えたのだ。
結界の綻びから瘴気が染み込み、王都の外周部で例の病が再発した。今度は、貴族街だけではない。王都全域に、燎原の火のごとく広がった。
「聖水を配れ! 聖水はどうした!」
「そ、それが殿下……備蓄の聖水が、どこにも……」
備蓄庫は、空だった。
ユリウス自身が、遊興費欲しさに他国へ横流ししていたのだから、当然だった。そして偽の聖水を作って穴埋めしたのが、マリアンヌだった。ふたりの浅ましい悪事が、あの流行り病の真相だった。
一ヶ月後、実りの季節を迎えた畑で、麦が立ったまま枯れ始めた。
聖女の加護を失った大地は、瘴気を吸って、急速に痩せていった。
「マリアンヌ! 祈れ! 大地に祈りを捧げろ!」
「む、無理ですわ! できませんわ、そんなこと!」
「なぜだ! お前は聖女だろう!?」
「〜〜〜っ、うるさいですわね!! できるわけないでしょう、最初から全部、魔道具の光だったんですから!!」
追い詰められたマリアンヌは、ついに、玉座の間で叫んでしまった。
満座の貴族たちの、目の前で。
謁見の間が、凍りついた。
「……ま……偽物は……マリアンヌ嬢のほうだった……?」
「では、我々は……本物の聖女を、追放したのか……?」
「病を撒いたのは……聖女さまではなく……」
調査の末、すべてが明るみに出た。
聖水の横流し。偽の聖水。魔道具の細工。そして、でっち上げられた冤罪。
マリアンヌは公爵家から絶縁され、辺境の修道院へ送られた。
ユリウスは廃嫡の瀬戸際に立たされた。
だが、罰を下したところで、失われた加護は戻らない。
病は広がり、畑は枯れ、魔物は国境を越え、民は国を捨てて逃げ出し始めた。
大聖堂の鐘は、毎日、弔いの音ばかりを鳴らした。
そして、民は気づき始めた。
「なあ……聖女さまがいた頃は、こんな病、一晩で治してくれたよな」
「うちの婆さんも、真夜中に駆けつけてもらったことがある。銅貨一枚、受け取らなかった」
「あの方が偽物なわけ、なかったんだ……。俺たちは、なんてことを……」
市場のパン屋の前では、少し背の伸びた男の子が、毎日、空になった神殿の方角を見つめていた。
「パンのおねえちゃん……どこ行っちゃったんだよ……」
神殿の掃除係を辞めたメアリは、王都を去る日、祈りの間の床を最後にひと撫でした。
長年の祈りで、石の床には、ふたつの浅い窪みが刻まれていた。
小さな膝の形をした、窪みが。
「……見てみな。これが、あんたたちが捨てたものだよ」
「……セレスティアを、捜せ」
玉座の上で、国王は頭を抱えた。
「国庫のすべてを注いでも構わん。聖女セレスティアを捜し出し……連れ戻すのだ。この国は、あれなしでは、もう保たん……!」
捜索の手が、隣国レーヴェの小さな村に辿り着いたのは、追放から半年後のことだった。
その日、ミモザ村は、秋晴れだった。
わたしは薬屋の店先で、ルカと一緒に薬草を干していた。
「おねえちゃん、カモミールこっちでいい?」
「ええ、日なたにお願い」
のどかな午後。
その空気を裂いて、村の入り口から、蹄の音が響いてきた。
豪奢な馬車が二台。護衛の騎士が十数騎。
馬車の紋章を見て、わたしは干し草を持つ手を止めた。
白薔薇に剣。――アルカディア王家の紋章。
「セラ先生! なんか偉そうな連中が、先生を捜してるよ!」
見つかったんだ、とうかんだのは、それだけだった。
不思議と、恐怖はなかった。
馬車から降りてきたのは、ユリウス王太子殿下だった。
半年前より、ずいぶん痩せていた。豪奢だった金髪は艶を失い、目の下には濃い隈が刻まれている。
その後ろから、初老の男性が続く。
――国王陛下、ご自身まで。
「セレスティア……! ああ、捜したぞ、本当に捜した……!」
殿下は、わたしの前まで歩いてくると。
その場に、膝をついた。
王都の謁見の間で、玉座の隣から民を見下ろしていたあの人が、田舎の薬屋の店先で、土に膝をついたのだ。
「すまなかった! 我々が間違っていた! お前は本物の聖女だった! すべてはマリアンヌの……いや、俺の罪だ! 聖水を横流ししたのも、罪をお前に着せたのも、全部……!」
「殿下」
「頼む、戻ってきてくれ! 国が、国が滅びかけているんだ! 病が広がり、畑は枯れ、民が苦しんでいる! お前が必要なんだ! 給金は十倍……いや百倍出す! 大聖堂もお前のものだ! 聖女宮も建てる! だから――」
「顔を、お上げください」
わたしが静かに言うと、殿下は、すがるような目で顔を上げた。
国王陛下も、深く頭を下げたまま、絞り出すように言った。
「セレスティアよ……この通りだ。老いぼれの首など、いくらでも差し出そう。どうか、どうか民を救ってやってくれ。そなたの慈悲深さは、余が誰よりも知っておる。そなたは、苦しむ者を見捨てられぬ心根の持ち主であろう……!」
ああ。
この人たちは、最後の最後まで、そこに賭けるのか。
わたしの「いい人」に。
十三年間、さんざん利用してきた、わたしのお人好しに。
村の人たちが、いつの間にか、わたしの周りに集まってきていた。
ハンナさんが、腕組みをして騎士たちを睨んでいる。
ルカが、わたしの服の裾をぎゅっと握っている。
ガイさんが、わたしの半歩後ろに、黙って立ってくれている。
大丈夫。
わたしはもう、ひとりじゃない。
わたしは、息を吸って。
にっこりと、笑った。
「お断りします」
「……え?」
殿下の顔が、ぽかんと固まった。
「な……なぜだ!? 謝っただろう! 誠意も見せた! 報酬も地位も、望むままにやると言っている!」
「殿下。ひとつ、うかがってもよろしいですか」
わたしは、穏やかに続けた。
「わたしが十三年間、休みなく働いていたとき、あなたがたは、わたしに一度でも『ありがとう』と言ってくださいましたか?」
「そ、それは……」
「わたしが徹夜明けで倒れそうなとき、『休め』と言ってくださいましたか? 濡れ衣を着せられたとき、ひとりでも、わたしの言葉を聞いてくださいましたか?」
殿下は、何も言えなかった。
「あなたがたが今欲しいのは、わたしという人間ではなく、『聖女の力』という道具です。半年前と、何も変わっていません。……道具が謝罪で戻るなら、苦労はしませんね」
「ち、違う! 今度こそ大切に――」
「それにですね、殿下」
わたしは、少しだけ悪戯っぽく笑ってみせた。
「わたし、あの日申し上げましたでしょう? 『今日でいい人を辞めます』と。ですから、もう、嫌なことは嫌と言うことにしているんです。――あなたの国のために働くのは、嫌です」
「〜〜〜っ! き、貴様、民が死んでもいいのか!? 民に罪はないだろう! 聖女のくせに、苦しむ者を見捨てるのか!!」
出た。
「聖女のくせに」。
その言葉に、わたしより先に反応した人がいた。
「――おい」
ガイさんが、一歩前に出た。
それだけで、空気がびりびりと震えた。護衛の騎士たちが、一斉に後ずさる。
「あ……お前、まさか『黒狼』のガイ!? 元Sランクの……なぜこんな村に……!」
「セラは断った。二度も言わせるな」
「そうだよ! さっさとお帰り!」
ハンナさんが、塩の壺を掴んで振りかぶった。
「うちの村の子を、これ以上いじめてみな! アルカディアの王様だろうが皇帝だろうが、塩まいて追い返してやるからね!!」
「おねえちゃんは、渡さないぞ!」
ルカが、精一杯の唸り声を上げる。
「無礼な……! 平民風情が、王族に向かって……!」
殿下が声を荒らげた、そのとき。
「――そこまでにしていただこう」
新たな声とともに、村の入り口から、白い馬車の一団が現れた。
翼ある獅子の紋章。レーヴェ王国の、王家の紋章だ。
馬車から降りた壮年の紳士が、優雅に一礼した。
「レーヴェ王国宰相、エルンストと申す。アルカディア国王陛下、ならびに王太子殿下。……他国の領土で、我が国の民を恫喝とは、ずいぶんなご挨拶ですな」
「な……」
「先に申し上げておく。ここにおられるセラ殿は、我がレーヴェ王国が正式に保護し、教会本部も『真の聖女』と認定した御方。本人の意に反する連れ出しは、我が国と教会本部への宣戦布告とみなすが――よろしいか?」
実は少し前、村の噂を聞きつけた教会本部の司祭さまが、こっそり調べに来ていたのだ。わたしは大ごとにしないでほしいとお願いしたのだけれど、「万一に備えて」と、レーヴェ王国が後ろ盾になってくれていた。
アルカディアの騎士たちが、ざっと青ざめる。
疲弊しきった今のアルカディアに、大国レーヴェと教会本部を敵に回す力など、あるはずもない。
「そん、な……では、我が国は……我が国は、どうなるのだ……」
がくりと、殿下がうなだれた。
その姿は、哀れといえば、哀れだった。
……見捨てるのかと、殿下は言った。
正直に言えば、胸は痛む。あの国には、市場でパンを喜んでくれた男の子がいる。東地区のおばあさんがいる。メアリばあやがいる。罪のない民が、たくさんいる。
だから、わたしは決めていた。
「エルンスト宰相さま。……例の件を」
「承知いたしました」
宰相さまが、書状を差し出した。
「アルカディア国王陛下。教会本部より通達です。教会は、貴国へ複数の司祭と治癒士の派遣を決定しました。病の治療と、瘴気の浄化のためです。……ここにおられる聖女セラ殿の、強い願いによるものです」
「な……に……?」
殿下が、弾かれたように顔を上げた。
「加えて、セラ殿は毎朝、この地から祈りを捧げておられる。国境を接する土地への、広域の加護の祈りを。……貴国の国境沿いの瘴気が、この半年、それ以上広がらなかった理由を、お考えになったことは?」
「まさか……お前が、ずっと……?」
「民に、罪はありませんから」
わたしは、静かに言った。
「ですが、勘違いなさらないでください。わたしはアルカディア王家のためには、指一本動かしません。あの国で苦しんでいる、名前も知らない誰かのために、祈っているだけです。……それも、わたしがそうしたいから、しているだけ。あなたがたに感謝される筋合いも、命令される筋合いも、ありません」
助けたい人を、助ける。
わたしが決めて、わたしの意思で。
それが、いい人を辞めたわたしの、新しい生き方だ。
「王国の再建は、教会の管理と監督のもとで行われます。国王陛下、王太子殿下。あなたがたに課されるのは、聖女への依存ではなく――ご自分の手で、国を立て直す責務です」
宰相さまが、静かに締めくくった。
国王陛下は、長い、長い沈黙のあと。
深く、深く、頭を垂れた。
「……すまなかった。そなたに、合わせる顔もない。……それでも民を想うてくれたこと、この老骨、生涯忘れぬ」
そして陛下は、憔悴しきった息子の肩を支え、馬車へと戻っていった。
去り際、殿下が一度だけ振り返った。
何かを言いかけて、やめて、力なく頭を下げた。
馬車の車輪の音が、遠ざかっていく。
秋の風が、干した薬草の匂いを運んでいった。
「……終わっちまったねえ」
ハンナさんが、塩の壺を抱えたまま、ぽつりと言った。
「セラ先生、あんた、それでよかったのかい」
「はい」
わたしは、空を見上げた。どこまでも高い、秋の空。
「わたし、もう我慢はしません。でも、意地悪もしません。……わたしが気持ちよく生きられる道を、選んだだけです」
「――ったく、あんたって子は」
ハンナさんは、くしゃりと笑って、わたしの頭を撫でた。
「お人好しは辞めたくせに、根っこは変わってないんだから。……いいさ、それがセラだ。ほら、みんな! 今夜は宿で宴会だよ! セラ先生の独立記念日だ!」
「「「おおー!!」」」
村中に、笑い声が弾けた。
それから、一年が過ぎた。
風の便りによれば、アルカディア王国は教会の監督下で、少しずつ立ち直っているらしい。
ユリウス殿下は廃嫡され、王弟殿下の子が次の王に立てられた。新しい政のもと、聖女に頼らない国づくりが始まっているという。
派遣された治癒士さまたちのおかげで、病はおさまった。畑にも、緑が戻り始めたそうだ。
メアリばあやには、宰相さま経由で手紙を送った。
返ってきた手紙には、震える字で、こう書いてあった。
『よくやった。あんたは、あたしの自慢の子だよ』
手紙は今、薬屋の一番いい棚に、大切に飾ってある。
そして、ミモザ村の春。
「セラせんせー! 婆ちゃんの薬、取りに来たよ!」
「はーい! ルカ、三番の棚のお願い!」
「あいよ!」
わたしの小さな薬屋は、今日も大繁盛だ。
ルカはこの一年でぐんと背が伸びて、立派な看板息子になった。村の学校にも通い始めて、友だちがたくさんできた。獣人だからと除け者にする子は、この村にはひとりもいない。
「先生、これ、うちの畑のいちご! 薬代の他に、お礼!」
「まあ、嬉しい。ありがとうございます」
「ありがとうはこっちだよ! じゃあねー!」
ありがとう、と言って。
ありがとう、と言われて。
そんな当たり前のやりとりが、わたしは今でも、宝物みたいに嬉しい。
店じまいの後、わたしはいちごを持って、村はずれの丘に登った。
丘の上には、大きな樫の木が一本。その下に、先客がいた。
「ガイさん」
「……来たか」
ガイさんは、いつものように少しだけ口元を緩めて、隣の場所を空けてくれた。
ふたりで並んで、夕焼けを見る。
いつからか、これがわたしたちの習慣になっていた。
「いちご、食べます? 薬代のお礼にいただいたんです」
「ん」
大きな手が、ちょこんと小さないちごをつまむ。その姿がなんだかおかしくて、わたしはくすくす笑った。
「……セラ」
「はい?」
「一年前、あんたが初めてこの村に来た日のこと、覚えてるか」
「ええ、もちろん。ハンナさんのシチューで号泣した日ですね」
「あのときのあんたは、今にも消えそうな顔をしてた」
ガイさんは、夕陽を見つめたまま、ぽつりぽつりと言葉を継いだ。
「今は、よく笑う。よく食べる。よく怒るし、たまに昼寝もサボる」
「サ、サボってません! あれは適切な休息です!」
「ああ。……それでいい。それが、いい」
ガイさんは、居住まいを正して、わたしに向き直った。
その手に、小さな木彫りの指輪が握られていた。
不器用な彫り跡の、でも、丁寧に丁寧に磨かれた、白百合の指輪。
「え……」
「金も地位もない。口も上手くない。だが――」
夕陽よりも赤い顔で、ガイさんは言った。
「これから先の毎日、あんたが笑ってるのを、一番近くで見ていたい。疲れた日は俺が守るし、嬉しい日は一緒に喜ぶ。……セラ。俺と、家族になってくれ」
風が、丘の草をさらさらと揺らした。
わたしは、自分の胸に手を当てた。
十三年間、誰かのためだけに動いてきた、この心臓。
いま、それが、わたし自身の幸せのために、うるさいくらいに高鳴っている。
嫌なことには、嫌と言う。
嬉しいことには――。
「はい。……喜んで!」
わたしは、泣き笑いの顔で、左手を差し出した。
木彫りの指輪が、薬指にそっとはめられる。
サイズは、ぴったりだった。
「あーーーっ!! やっぱりー!!」
丘の下から、大声が響いた。
見れば、ルカとハンナさんと、村のみんなが、茂みからぞろぞろと顔を出している。
「ちょ、み、みんな、いつから!?」
「最初っからだよ! ガイったら、指輪彫るのに三ヶ月もかけてさあ! 村中ずーっとハラハラして見守ってたんだよ!」
「い、言うな、ハンナさん……!」
耳まで真っ赤なガイさんの隣で、わたしは、お腹を抱えて笑った。
「おねえちゃーん! おめでとーー!!」
ルカが、尻尾をちぎれんばかりに振って、丘を駆け上がってくる。
わたしは両手を広げて、飛び込んでくる小さな体を、ぎゅうっと抱きしめた。
「今夜は宴会だよ!! 村を挙げての、婚約祝いだ!!」
「「「おおーーー!!」」」
夕焼けの丘に、みんなの笑い声が響く。
わたしはガイさんと顔を見合わせて、笑った。
――ねえ、あの日のわたし。
真っ暗な街道を、ひとりぼっちで歩いていた、あの夜のわたし。
聞こえますか。
あなたが勇気を出して手放したものの先に、こんなにも温かい場所が待っていましたよ。
休みたいときに休んで。
食べたいものを食べて。
助けたい人を、助けて。
大好きな人たちに、ありがとうと言って、ありがとうと言われて。
いい人を辞めたわたしは、いま。
世界で一番、幸せです。




