氷が、溶けたふりをする
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薄暗く、血の匂いが染み付いた地下牢で、彼はただ静かに目を閉じていた。
天井から下がる荒縄が両手首に食い込み、つま先だけが辛うじて地面に触れている。
それでもギルベルトは、まるで処刑台に立つ聖人のように、微動だにしなかった。
「……吐け! 貴様ら本隊の狙いはどこだ!」
苛立ちに任せた敵兵の鞭が、彼の背中を容赦なく打ち据える。しかし、若き将官であるギルベルトは、表情一つ変えなかった。皮膚が裂け、血が流れ落ちても、彼は呻き声一つ、瞬き一つすら敵に与えることはない。
氷のように冷ややかな翠の瞳が、ただ虚空を見つめているだけだった。
どれほどの時間が過ぎた頃か。
突然、地上から轟音が響き渡り、地下牢の扉が爆破によって吹き飛んだ。
「閣下!!」
土煙の中から飛び込んできたのは、彼の直属の部下であり、前線部隊の指揮を執るリアナだった。
彼女に続く精鋭たちが、瞬く間に残存する敵兵を制圧していく。
拘束を解かれ、崩れ落ちそうになったギルベルトの体を、リアナが慌てて支えた。
「遅くなって申し訳ありません! すぐに脱出を……!」
「……リアナ」
血に染まりながらも、ギルベルトの声音は普段の執務室にいる時と変わらず、酷く冷静だった。
「囮作戦は……成功したか?」
その言葉に、リアナは力強く頷いた。
「はい! 閣下が敵の目を引き付けてくださったおかげで、本隊は敵の補給基地の制圧に成功しました。ですが、こんな無茶な作戦……!」
「なら、いい。撤退するぞ」
味方の野営地に帰還するや否や、リアナは周囲の軍医たちへ向けて声を上げた。
「軍医を呼んでください! 閣下が傷を……!」
「必要ない」
しかし、ギルベルトはリアナの言葉を静かに、しかし有無を言わせぬ口調で遮った。
「この傷を……部下たちに見せたくはない」
「閣下……」
「治療はできるだろう、リアナ」
命令でも懇願でもない、ただ静かな問いかけ。しかしその翠の瞳に真っ直ぐ射抜かれたリアナは、反論の言葉を全て飲み込んでしまった。
「……はい、閣下。こちらへどうぞ」
リアナは軍医から医療キットを受け取り、ギルベルトのために用意された天幕へと誘導した。
「閣下、失礼します。軍服を……」
血と泥に塗れた上着とシャツを、傷口に触れないよう慎重に剥ぎ取っていく。現れた彼の上半身を見て、リアナは息を呑んだ。鍛え上げられた白い肌には、鞭の痕や焼きごてによる痛々しい傷が無数に刻まれていたのだ。
あれほどの拷問を受けながら、救出された時も平然としていた彼の強靭な精神力に、改めて畏怖の念を抱く。
「……消毒します。少し沁みますよ」
リアナが薬液を染み込ませたガーゼを深い傷口に当てた、その瞬間だった。
「……っ、う……!」
今まで決して痛みを表に出さなかったギルベルトの口から、微かに、しかし確かな苦悶の漏れ声が響いた。
ビクッと体を震わせた彼に、リアナは慌てて手を止める。
「か、閣下!? 申し訳ありません、痛みましたか……?」
見上げると、ギルベルトは酷く苦しげに顔を歪めていた。
傷による発熱のせいだろう。
彼の白い頬には微かに赤みが差し、額には玉のような汗が滲んでいる。荒い呼吸のたびに、引き締まった胸元の筋肉が上下していた。
「……いや、すまない。少し……熱がある、ようだ……」
「っ……」
リアナは思わず言葉を詰まらせた。
普段の、隙一つ見せない氷の将官としての顔からは想像もつかない、無防備で弱々しい姿。
熱を帯びた潤んだ瞳と、汗ばんだ肌から立ち昇る男の熱気に、リアナの胸の奥がドクン、と大きく跳ねる。
(だ、だめよ、相手は上官で……それに怪我人なのに!)
クラクラする頭を必死に振って邪念を追い払い、リアナは真っ赤になった顔を誤魔化すように治療を続けた。傷口を縫合し、丁寧に包帯を巻き終える頃には、彼女自身もひどく体力を消耗した気分だった。
「終わりました、閣下。しばらくは安静に……」
「ああ……助かった、リアナ。君がいてくれて……よかった」
熱に浮かされたような掠れた声でそう呟くと、ギルベルトは疲労からか、静かに目を閉じて深い眠りへと落ちていった。
彼に毛布を掛けながら、リアナはその穏やかな寝顔をそっと見つめ、大きく安堵の息を吐いた。
――リアナがテントを後にした数分後。
すう、とギルベルトの翠の瞳が静かに開いた。
そこに熱に浮かされたような濁りはない。あるのは、冷徹なまでの知性と、獲物を狙うような暗い光だけだった。
「……やはり、君は優しいな」
彼ほどの訓練を積んだ者が、あの程度の傷の消毒で声を漏らすわけがない。
拷問の痛みなど、彼にとってはとうに制御下にあった。だが、自分に向けられた彼女の動揺と、あの隠しきれない熱っぽい視線を引き出すためには、少しばかりの「弱さ」というスパイスが必要だった。
そして——治療をリアナに命じたのも、むろん計算のうちだ。ほかの軍医などに任せるつもりは、端からなかった。
自分の傷に、あの細い指だけが触れることを許す。
それだけのことが、彼女の心にどれほどの楔を打ち込むか、ギルベルトは完全に理解していた。
自分の前でだけ見せる上官の無防備な姿。
それが彼女をどれほど揺さぶるか、彼は計算し尽くしている。
「あのまま軍医に預けられなくて、本当に良かった」
包帯の巻かれた胸元を撫でながら、ギルベルトは誰にも見せない昏く甘い笑みを浮かべた。
優秀な部下であり、どうしても手に入れたい愛しい女。
彼女を完全にからめ捕るための作戦は、囮作戦よりも遥かに順調に進んでいるようだ。
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