第1話 声優引退〜普通の女子大生に戻ります
――ステージのライトは、まぶしいけれど、熱狂はそこまで大きくなかった。
橘まどかは、静かな部屋の机に向かいながら、数ヶ月前の光景を思い出していた。大学卒業式の帰り道、ふと立ち寄った書店で新刊棚を眺めたあと、まっすぐ帰宅して、制服のように着慣れたアイドル衣装のジャケットをクローゼットに押し込んだ。もう、二度と着ることはないのだろう。
机の上には、大学の卒業見込証明書、退所届のコピー、そして一冊の手帳。今日付のページに、彼女は静かにボールペンを走らせる。
「橘まどかは、大学卒業をもって、声優活動を終了いたします」
その一文を何度も書いては、消し、また書いた。決意は固まっているはずなのに、こうして言葉にするたび、どこかに揺らぎが残る。
中学のときに見たアニメに衝撃を受けて、声優という職業に憧れた。高校では演劇部に入り、ボイストレーニングに通い、大学進学と同時に小さな事務所に所属。トレーニングとオーディション、収録とバイトを繰り返す日々の中で、彼女は少しずつ“橘まどか”という声優としての名を築いていった。
けれど、華やかな夢の世界には、いつも見えない壁があった。
“それなりに順調”――誰かがそう評するのなら、まどか自身も否定はしないだろう。深夜アニメで名前のあるキャラクターを演じ、ゲームのメインキャストにも抜擢された。イベントにも呼ばれ、サイン会で直接ファンの声を聞く機会もあった。少しずつフォロワーが増え、名前で検索されることも増えた。
それでも、それ以上にはなれなかった。
アイドル声優ユニット「Twinkle Leaf」の一員として参加した最後のイベントは、都内の小さなライブスペース。百人に満たない観客の前で、歌って、踊って、MCを回した。最前列のファンの顔は何度も見ている常連で、まどかに向けて手作りのボードを掲げてくれていた。
「まどかちゃん、今日もMC良かったよ!」
ステージのあと、マネージャーがそう声をかけてくれた。控室の鏡の前でメイクを落としながら、まどかは「ありがとうございます」と笑った。でもその笑顔は、ステージに置いてきたものより、少し薄かった。
先輩メンバーは23歳、24歳、そして25歳。まどかは最年少だったが、決して“若手の希望”というほどでもなかった。事務所の後輩たちが次々とTikTokやYouTubeでバズり、アニメの主役を射止め、SNSでフォロワーを爆発的に増やしていくのを、ただ横目で見ていた。
(私はこのまま、どうなるんだろう?)
その問いが心の奥に沈殿していったのは、いつからだったろう。
大学では、メディア表現を学ぶ学科に所属していた。授業でプレゼンやエッセイを書くうちに、声で伝えることとは違う「言葉で伝える力」に目覚めていった。声優仲間には秘密にしていたが、広報系の学生団体でイベント企画や文章制作に参加した経験もある。自分の言葉で人を動かす、その感覚が妙に心地よかった。
そのとき、初めて“演じる”ことではなく、“表現する”ことの意味を考えた。
大学4年の冬。ゼミの打ち上げで、ふとクラスメイトにこう聞かれた。
「まどかちゃん、声優ってすごいよね。でも、卒業したらどうするの?」
その問いに、言葉が詰まった。演じることが好き。夢だったから頑張ってきた。だけど“将来の形”がまったく描けなかった。
その夜、自分のプロフィールページを久しぶりに見直してみた。事務所のHP、Wikipedia、SNSの固定ツイート――そこには「代表作:アニメ『恋染めリリック』佐々木ハルカ役」とだけ書かれていた。
そこから数ヶ月が経った今、机の上でまどかは静かに息を吐いた。
引退を決めたことを、誰かに話すのはまだ怖い。けれど、自分の中ではもう結論が出ている。再出発するなら、いましかない。声ではなく、自分の言葉で、人に伝える仕事をしてみたい。もう一度、自分の人生を自分の声で語るために。
スマートフォンに届いたメール通知に目をやると、「選考通過のお知らせ」という件名が見えた。
準大手の広告代理店――まどかが広報志望で応募した企業だった。
ふっと、頬が緩む。うれしさというより、安堵だった。
声優だった自分を恥じるつもりはない。むしろ、あの時間があったからこそ、今の自分がある。ステージで浴びた光も、マイクの前で震えた声も、全部、嘘じゃなかった。
でも、それはひとつの物語の終わり。
「お疲れさま、橘まどか」
声に出して言ってみたその言葉は、思ったよりもしっくりきた。
「次のステージは、もう自分で選んでいいんだよ」
机の上の便箋に、もう一度、引退の言葉を丁寧に書き記す。今度は、最後までペンが止まることはなかった。
物語の幕が一つ下りるとき、次のページが開かれる。
橘まどかの声優人生は、ここで終わる。
でも......人生そのものの物語は、これからだった。




