第8話 『偽りの勝利』
包囲は、完成しなかった。
丘の稜線に人影が見えたとき、隊列はすでに向きを変えていた。前に出る者はいない。合図が一つ、二つ、低く回り、流れだけが静かに反転する。
「――退路、確保」
上官の声は短く、迷いがなかった。
矢は飛んでこない。
敵も、追ってこない。
ルカは列の中央で、荷の動きを見ていた。人が詰めすぎないよう、速度が揃うよう、視線で追う。誰かが前に出そうになると、手のひらで軽く制する。それだけで、列は保たれた。
「……助かったな」
小さな声が背後で漏れる。
「罠なら、もっと引き込まれてた」
別の声が続き、周囲が頷く。
地形の陰に収まった瞬間、音が減った。風が布を撫でる音だけが残る。
上官が振り返り、ルカを見た。
「判断が早かった」
それだけ。
理由も説明もない。
評価だけが、置かれる。
ルカは軽く頭を下げた。
「報告は、若いのに任せます」
近くにいた兵の名を呼び、前へ押し出す。戸惑いが一瞬、すぐに張り切った声に変わる。
場の空気が、少しだけ明るくなる。
ルカは列を外れ、担架の並ぶ方へ向かった。血の匂いが、乾きかけた布の匂いに混じる。鼻の奥が、少しだけひりつく。
息をしているか。
応答はあるか。
それだけを確かめ、次へ。
「……あんたが動いてなきゃ、もっと前に出てた」
兵の一人が言った。礼とも、言い訳とも取れる調子。
ルカは肩をすくめる。
「前は、詰まりやすいんで」
冗談の形にすると、言葉は軽くなる。
数字の上では、成功だった。
死者はいない。
列は保たれた。
夕刻、陣が組まれる。焚き火は低く、火の粉は上がらない。
「今回は、うまくやったな」
誰かが言う。
「次も、この調子でいこう」
同意が重なる。
ルカは焚き火の外に腰を下ろした。輪には入らない。近すぎない位置。
ポケットの中で、金属が軽く鳴る。
金貨。
指先で一度、回す。
落とさない。
欠けた縁に触れた瞬間、ひやりとした感触が残った。
すぐに、指を離す。
顔を上げると、星が一つ、見えていた。
勝ったように見える夜だった。
だからこそ、何も変わっていないことに、まだ誰も気づいていない。




