氷の城
翌朝。
リリアは淡い朝の光が射す廊下を緩やかに歩いていた。
屋敷は静けさに包まれている。床には埃一つなく、磨き上げられた大理石が鏡のように光を返す。壁に並ぶ燭台や額縁は左右対称に配置され、主の几帳面さを窺わせた。使用人たちは早くからそれぞれの持ち場で端然と働いている。
リリアは通りがかる侍女たちに柔らかく声をかけた。
「おはようございます。朝からご苦労さま」
侍女たちは驚いたように顔を上げ、すぐにはにかんだ笑みを浮かべて頭を下げる。
「お、おはようございます、奥様」
「おはようございます、何かお困りのことがございますか?」
「いいえ、今のところは何一つ不自由ないわ」
リリアの返答に侍女はほっと息をつく。
「それなら良かったです」
「何かあればいつでも申し付けください」
「ありがとう」
ふわりと微笑むリリア。
彼女が歩き去ると、侍女の一人が小声で囁いた。
「あの方が奥様・・・・・優しげな方だったわね」
「ねぇ。・・・もっと気取った令嬢がいらっしゃると思っていたわ」
「旦那様も奥様には微笑まれるのかしら?」
「まさか、あの旦那様が?」
くすくすと笑いあう声が朝の空気に溶けていった。
裏庭へと続く回廊を抜けると、風が頬を撫でた。石畳の先に伸びる庭は手入れが行き届き、季節の花々が見る者の目を楽しませる。
その一角——少し奥まった場所でリリアは足を止め、しゃがみ込んだ。
赤いペチュニア。
他の花壇が庭師の手で均整に整えられているのに対し、この一角だけは少し不揃いで不格好。しかし土は濡れ、まめに手が入れられていることがわかる。
「おはようございます、奥様」
背後からの嗄れた声に振り返ると、庭師が麦わら帽子を手に立っていた。
「おはようございます」
リリアは慌てて立ち上がり、スカートの裾を払う。
庭師は人の良い笑みを浮かべながら、その様子を見守っていた。
「その花が気になりますか?」
「ええ」
庭師の笑みに寂しげな影が差した。
「亡き大奥様が大切にされていた花壇でしてね・・・・・・・・今は旦那様がご自身で手を入れておられるんです」
「旦那様が・・・・・・」
リリアは静かに頷き、花を見下ろす。大きな花弁が精一杯上を向いていた。
庭師は声を潜め内緒話を打ち明けるように囁いた。
「旦那様は無口で少し不愛想な方ですが、ここにいる時だけは穏やかな顔をされとるんですよ」
「あら、私もぜひそのお顔を拝見したいわ」
「奥様にはきっとすぐにお見せになりますよ」
庭師の言葉にリリアはぱっと顔を綻ばせた。
その日の昼下がり。
アルベルトは書斎で政務文書を整理していた。扉の向こうから執事が声をかける。
「旦那様、お茶をお持ちしました」
「ご苦労。そこに置いてくれ」
執事は銀盆を机の端に置き、ふと思い出したように言った。
「奥様は朗らかな方でいらっしゃいますね」
アルベルトの手がわずかに止まる。
「朗らか?」
「ええ。今朝は屋敷を回って使用人たちに声をかけられて。親しみやすいご様子に侍女たちが驚いておりました。」
執事は微笑みながらそう言い、頭を下げて部屋を辞した。
残されたアルベルトの脳裏に浮かんだのは、昨夜無表情に近いほどの静けさで彼の言葉に頷き返すリリアの姿だった。
イメージが結びつかず、別人の話を聞いているかのよう。
今はそんなことどうでもいい。
所詮は契約上の結婚。新妻がどんな人間であろうと自分には関係ない。
アルベルトは頭を振り、再び視線を手元に落とした。




