影の使命
リリアがヴァルグレイ家に嫁ぐより少し前のこと。
静まり返った執務室に硬質な靴音が響いた。
一礼しリリアは姿勢を正す。
机の向こうに座る男は口の端を吊り上げながら書類を差し出した。
「次の任務についてだが——」
リリアは無言で歩み寄り、書類を受け取る。中にはとある人物の経歴が記されていた。
「この男と結婚しろ」
「承知いたしました」
顔色一つ変えず答えるリリアに男は眉を上げた。
「少しは驚いてくれないのか?」
「貴方相手に感情を動かす利点はありません」
ページをめくる手を止めることなく淡々と告げると、男は肩を竦めて笑った。
「その返し、彼と気が合いそうだ」
リリアの表情は一切揺れない。無言のまま資料を読み進める彼女に、男はやれやれといった様子で両手を上げた。
「仔細を」
資料を読み終え短く促す声に男は両手の指を合わせた。
「その男の妻として屋敷に潜り込み、身を脅かす障害の一切を排除しろ」
「貴族の護衛を私に、ですか?」
暗殺を主とするリリアに護衛の任務は滅多に下らない。ましてや対象が貴族ともなれば別組織の者が任に就くはず。眉を寄せる彼女に男は笑みを深めた。
「単なる護衛ではない。この男は財務の矛盾を本人に直言した命知らずでな。それを囮に、群がる連中を根こそぎ光の下に引きずり出すのが本当の目的だ」
リリアは数秒の沈黙の後、任務の意図を理解し頷いた。
だが、男は珍しく言葉を続ける。
「万が一の場合には、彼の安全を最優先しろ」
その声音にはいつもの皮肉も遊びもなかった。
任務より優先される人命とは?
疑問が頭を過ったが取るべき行動は一つしかない。
リリアは右手を左胸に当て一礼した。
「仰せのままに」




