英雄譚の裏側に
日も傾きかけた頃、アルベルトは図書室へと足を向けた。扉を開けると棚の影にリリアの姿が見えた。膝の上で一冊の本を開いている。
「ここにいたのか」
アルベルトの声にリリアはゆっくりと顔を上げた。
「旦那様。お仕事ですか?」
「ああ。資料の確認が必要でな」
さっと本を閉じ、退出しようとするリリアを手で制したアルベルトはその背表紙に目を留めた。
「それは・・・・・・ライネルドの英雄譚か」
リリアは小さく頷く。
「はい。幼いころから好きな物語なんです。正義のために戦った英雄、理想を貫く姿が美しくて」
アルベルトの瞳がわずかに揺れた。
「・・・・・懐かしいな。私も昔、憧れた覚えがある。」
リリアが目を瞬かせる。
「昔?」
「子供の頃の話だ」
アルベルトはわずかに口元を緩め、棚にもたれて視線を落とした。
「剣を振るい、悪を討ち、民を守る。その姿にただ憧れていた。・・・・・だが現実は正義だけでは動かない。理屈も立場も思惑もある。理想は掲げるほど遠のくものと知ったのはいつ頃だったか・・・・・・」
その言葉には疲れが滲んでいた。
リリアは本を胸に抱き静かに微笑む。
「それでも、掲げる価値はあると思います」
涼やかな声がアルベルトの胸に染み込む。
「・・・・・・理想を?」
「はい。理想に向けて努力を続けるその姿は人に力を与えます。人々がライネルドの奮闘を見て自らも立ち上がったように」
「ああ・・・・・・・」
ふと視界が滲みだし、アルベルトは顔を逸らした。
「読書の邪魔をしてすまない」
リリアは首を振った。
「いいえ。好きな物語についてお話できて嬉しかったです」
アルベルトは書棚から数冊抜き取り、図書室を後にした。背後で扉が閉まるまでページをめくる音が耳に残っていた。
扉が閉まってしばらく経ったあと、リリアは本の間から薄い紙片を取り出した。粗い紙の上には細い筆致で紡がれた意味を成さない文字が並んでいる。リリアは視線を走らせると棚に向かい、手順に従って指定された本を一冊ずつ抜き取った。
歴史書、童話集、年代記——それぞれのページから必要な文字を拾い、頭の中で組み替えて意味を繋げていく。手紙の趣旨を読み取ると今度はその紙片にいくつかの記号を書き付けた。
書き終えた紙片を細く折り畳む。
視線を落とした拍子に手元の本の表紙が目に入った。
剣を掲げ雄叫びを上げる姿はアルベルトには似ても似つかないが、その瞳に宿る光は近しいものを感じる。理想と現実の狭間で揺れる彼をリリアは浮標のようだと思った。波に飲まれてもなおまっすぐ立ち続け、誰かの指標になる。
ふとリリアの口許が緩んだ。
「貴方が肩入れする気持ち、わかった気がします」
抜き出した本を元の棚へ片付けると、リリアは図書室を出て庭へ向かった。周囲に人がいないことを確認し、口をすぼめて息を吹く。人の耳には届かぬ空気の震えを聞きつけて一羽の鳥がリリアの元に飛来した。差し出す脚に紙片を結び付け、嘴の周りを優しくくすぐると小さく囀る。やがて満足すると翼を広げ飛び去った。
その姿が見えなくなるまで見送り、リリアは屋敷の中に入っていった。




