契約の結婚
王都の首都、その高台にそびえるヴァルグレイ邸は夜でも灯りが絶えなかった。
重厚な黒曜石の壁と、並ぶ白い柱。威圧感を感じるほど無機質で堅牢な屋敷だった。
リリア・フレインは長い馬車の旅を終え、ようやくその門の前に降り立った。空気は冷たく、遠くの鐘楼が夕刻を告げる音を運んでくる。
今日、この屋敷に嫁ぐ。
掲げられたヴァルグレイ家の紋章を見上げ、リリアは静かに息を吸う。
一礼し、重たい門扉をくぐった。
迎えに出た執事が恭しく頭を下げる。
「旦那様がお待ちです」
執事に導かれリリアは屋敷の奥、書斎の扉の前に立った。部屋の中には一人の男がともしびに照らされ座っていた。
黒髪をきっちりとなでつけ、深い灰の瞳は氷のように静か。
それが彼女の夫——アルベルト・ヴァルグレイだった。
机の上には書類が整然と並び、彼は手元に視線を落としたまま口を開いた。
「座りたまえ」
低く抑えられた声。リリアは小さく礼をして椅子に腰を下ろす。やがてアルベルトは羽ペンを置き、彼女へ向き直った。
「まず誤解のないように言っておく」
感情のこもらない平たい声で続ける。
「この婚姻は家同士の契約に過ぎず、情愛を交わすためのものではない」
短い沈黙。
リリアは瞼を伏せ、柔らかな声で答える。
「承知しております」
淡々としたその返答に、アルベルトの眉がわずかに動いた。彼は一瞬だけ口を開きかけ、しかし言葉を飲み込む。
貴族の女性にとって結婚は家の繁栄と世継ぎのためのもの。アルベルトの言葉はすなわち、自分に価値がないと告げられるのと同じ。並みの令嬢ならば涙か怒りを示すだろう。
だが、リリアは違った。
顔色一つ変えず、ただ静かに受け止める。
そこには羞恥も悲嘆も反発もない。彼女の表情はまるで湖面のように穏やかで揺らがなかった。
アルベルトは言葉を続ける。
「屋敷では好きに過ごすといい。庭でも部屋でも干渉しない。欲しいものがあれば使用人に伝えるといい。必要なものは手配させる。
——ただし、私の仕事の邪魔だけはするな」
「心得ております」
やはり反応は淡白で、そこには何の含みもない。アルベルトは椅子に背を預け、しばし沈黙した。
「・・・・・・ほかに言うことは?」
「いいえ」
「そうか」
短い応酬ののち、アルベルトは軽く合図した。扉の外に控えていた侍女がリリアの前に進み出る。
「話は以上だ。長旅で疲れているだろう。部屋に案内させる。」
リリアは立ち上がり、一礼した。
「お気遣い感謝いたします」
その声音にも表情にも、作り物めいたところはない。淡々と、けれど誠実に。
書斎を出ていく彼女の後姿を見送りながら、アルベルトは深く息を吐いた。
「・・・・・・随分と静かな女だ」
リリア・フレイン。彼女はいったい何を思い、この屋敷に来たのか。
アルベルトの灰色の瞳が扉の向こうをしばらく見つめていた。




