第一章6 『 吊るされる音』
「うわっ、てめぇマジで許さねぇぇぇぇ!!」
クローバーの突然の絶叫に、ハジメとハナコは心臓が止まりそうになった。
彼は一瞬で跳ね起き、目をギラつかせ、拳を握りしめて殺気満々だった。
「ク、クローバー!?」
ハジメが叫ぶ。
数秒の間、クローバーの意識はまだ現実に追いついていなかった。
彼は何度かまばたきをして、見知らぬ部屋を見回す。
「あ、あいつは!? どこ行ったあのクソ野郎!!」
「それ、何時間も前の話でしょ」
ハナコが眉をひそめて返す。
「クソ……どれだけ寝てたんだよ……」
「ほぼ一晩中だよ」
ハジメが答える。
「くそぉ、殴り返したかったのに……まだ肋骨が痛ぇ……」
「だから言ってんの! あんた、もうちょっと自重しなさいっての!」
ハナコがピシャリと怒鳴った。
「うるせぇ……頭ガンガンすんだよ……」
クローバーが耳を押さえながらうめいた。
「はっはっはっ! やっとお目覚めか、坊主!」
ミノルの爆音のような声が部屋に響き渡った。
彼は部屋に入ってくるなり、クローバーの頭をゴシゴシと撫でた──いや、ほぼ乱暴にかき回した。
クローバーの顔から血の気が引く。
ハナコの父と同じ空間にいるってだけで、十分に地獄だった。
「さてと、自己紹介──おいおい、赤い目してんじゃねぇか」
ミノルが言った瞬間、クローバーは硬直した。
「う、うあ、あの、その……!」
声が裏返る。
「お父さん!!」
ハナコが鋭く叫ぶ。
「そんなの関係ないでしょ! クローバーはいい人なんだから!」
「は? 何言ってんだ、ハナコ」
ミノルが首を傾げる。
「お前、まさか俺が目の色ごときで人を差別するって思ってたのか?」
「そ、それは……」
「どんだけ酷い父親だと思ってんだよ! 娘にそんなふうに思われるとは、俺は悲しいぞ!!」
大げさに胸を押さえ、舞台役者ばりの演技をするミノル。
「そ、そんなつもりじゃ……!」
「てかさ、前から誰か家に出入りしてるの、気づいてないと思った? 甘い甘い」
「なっ、なにそれ!?」
ミノルはクローバーに向き直った。
クローバーは完全に魂が抜けかけていた。
「で、お前がその正体ってわけか。名前は?」
「ク、クローバー・レクサスです! …sir!」
「クローバー、ね」
ミノルがにやりと笑う。
「で、うちの娘と付き合ってんのか?」
「付き合ってないから!」
ハナコが即座に叫んだ。頬は真っ赤だ。
「ほぉ、じゃあこっちの男か?」
今度はハジメに視線を向けるミノル。目が完全に悪ノリモードだ。
「な、なに言ってんですか!? お、俺は昨日この街に来たばかりで!!」
ハジメの顔も真っ赤。
「はぁ〜、最近の若いもんは……」
ミノルが大げさにため息をついた。
「ま、いいや! 好きにくつろげよ、坊主たち!」
「どうせ何もしないくせに」
ハナコが腕を組みながら冷たく言い放つ。
「何言ってんだ! 飯くらいは運んでるぞ!」
ミノルが自信満々に自分を指さす。
「ふーん。そりゃご立派ね」
声は乾きすぎて、空気すら砂に変わりそうだった。
一方その頃、クローバーはよろよろとハジメの隣へ移動してきて、半分眠ったような目でささやいた。
「……逃げた方がよくね?」
「……いや、もう少し様子見よう」
ハジメは真剣な目で家族劇場を観戦するように言った。
「そっか。なら、しょうがないな……」
ふたりは無言でソファに並んで座り、腕を組み、わずかに首を傾けた。
まるで低予算の昼ドラを鑑賞しているかのように。
そして、十分すぎるほどの口喧嘩を経て、最終的に取り決めがなされた。
ミノルが暖炉に火を入れ、ハナコが朝食を作る、ということで。
しばらくして、部屋には卵とトーストの香ばしい匂いが漂い始めた。
暖炉の火はパチパチと音を立てながら燃え、リビングを暖かなオレンジ色に染めていた。
昨夜の緊張感が、ほんの少しだけ、溶けた気がした。
そして、ついに皆がテーブルに集まった。
「いただきます…」
ハジメが反射的に呟き、周囲を見渡す。
……誰も何も言わない。
あれ、こっちじゃ言わないのか? と、心の中で戸惑った。
「ハナコ、これめっちゃ美味い!」
クローバーが口いっぱいに食べ物を詰め込みながら言う。
「口に物を入れたまま喋らないでよ、ほんと…」
ハナコがため息交じりに注意する。
「俺の愛しの娘よ、これは本当にうまいぞ!」
ミノルも陽気に言いながら、同じくモグモグと食べていた。
「はぁ…また一人、口に物入れたまま喋ってるし。ハジメくらいだよ、まともなの」
ハナコが呆れたように言った。
「……!」
ハジメは頬をかきながら、少し赤面した。
「へへっ…あ、ありがとう…」
「落ち着けって」
クローバーがこっそり肘で突きながら耳打ちしてきた。
だが、そのささやかな平和は唐突に破られた。
ピッ、と、鋭く機械的な音が部屋に響いた。
一瞬で全員の動きが止まる。
「また捕まったね」
ハナコが平坦な声で言う。
「……」
ミノルの表情が一変する。陽気な顔はどこにもなく、厳しい仮面に切り替わった。
「な、なんの音ですか…?」
ハジメが戸惑いと共に尋ねた。
「警察の信号だよ」
クローバーが答える。まだ少し食べ物を噛みながらだったが、ごくりと飲み込んで続けた。
「あの音が鳴るときは、反逆者を捕らえたって意味だ。……そして、公開処刑するって合図でもある」
「……ッ!」
ハジメは勢いよく立ち上がり、椅子がガタンと音を立てた。
「な、なにかしないと! 誰かがまた殺されるんだ!」
クローバーは目を伏せ、表情を暗くする。
「……俺たちにできることなんて、何もないよ。ハジメ、お願いだから座ってくれ」
「で、でも……見てるだけなんて無理だ! また昨日みたいに誰かが──!」
昨日目にした吊るされた死体たちの映像が、脳裏に蘇る。
手が震え、胃がひっくり返るような感覚に襲われた。
「見てるだけで済ますのかよ!? それって、奴らと同じじゃないか!!」
「死にたいの!?」
ハナコが立ち上がり、椅子を後ろに押しやった勢いで叫ぶ。
「少しは考えなさいよ、ハジメ! 奴らの視界に入った瞬間、今度はあんたが処刑されるんだよ!!」
「で、でも……俺は、ただ…!」
「座れ」
その一言は、雷のようだった。
ミノルはほとんど動いていない。
ただ、肘をテーブルについて、指を組んで顔の前に置いたままだった。
だが、その声の重みだけで、ハジメの身体は地面に縫い付けられたように動かなくなった。
ハジメは震えながら立ち尽くした。
「……どうしてですか」
かすれた声で問いかける。ミノルの目を見れなかった。
「どうして、何もできないんですか……」
「お前に、無駄死にしてほしくないからだ」
ミノルの声は静かで、だがどこまでも揺るがなかった。
「座れ。今のお前じゃ、何一つ通用しない。ただの犬死にだ」
「……っ」
その言葉は、拳よりも重かった。
それが、真実だったからだ。
俺が何をできるっていうんだ? 走っていって、お願いですやめてくださいって言うのか?
……バカバカしい。滑稽すぎる。
ゆっくりと、ハジメは席に戻った。
胸の奥が焼けるように熱かった。恥ずかしくて、悔しくて、情けなくて。
その時、外から長く、無機質なビープ音が響いた。
処刑は、終わった。
誰も、口を開かなかった。
誰も、フォークにも手を伸ばさなかった。
朝食は静かに終わった。
──言葉がなかったわけじゃない。
ただ、口にする力が、誰にも残っていなかっただけだ。