第一章5 『 真っ赤な色で生まれたクローバー』
「ひゃっ!」
「うっ──」
一瞬の閃き。刃の光が、ハジメとクローバーを救ったばかりの男の胸元に向かって走った。ハジメは目を見開いたまま凍りつく。
刃は速かった──目で追うのもやっとだ。しかし、男はそれを難なく受け止めた。少なくとも、最初はそう見えた。
「お父さんっ!」少女の声が叫ぶ。
「ぐっ……」
男は苦悶の表情を浮かべた。刃は彼の指の間に挟まれて止まり、その鋼が肉深く食い込んでいた。血が溢れ出し、手のひらをつたって滴り落ちていく。
「し、ししょうっ、て、手が──!」ハジメがうろたえて声を上げる。
だが、男はただ笑った──部屋中に響くような、豪快で底抜けに明るい笑い声だった。
「はははははっ! よくやった、よくやったぞ!」
彼は感心したように言う。
「さすがは我が娘よ。もし相手があのクズどもだったら、確実に心臓を貫いてたな!」
「えっ!?」ハジメは言葉を失った。
「でも、手がっ……! 血が……!」
「ばか、そんなもん気にすんな。」男は空いている方の手を軽く振って笑い飛ばした。「どうせすぐ治る。」
男はコートのポケットに手を突っ込み、小さな布の包帯を取り出すと、平然とした顔で傷ついた指にきゅっと巻き始めた。痛みのそぶりなど、微塵も見せない。
ハジメはただ呆然と見つめるしかなかった。この男、明らかに常人じゃない。
その時だった。ナイフを投げた少女──花子が、まだ意識の戻らないクローバーを抱えるハジメに気づいたのは。
「……っ!?!?」
花子は一瞬で硬直し、顔色がみるみる青ざめていく。額には薄く汗が滲んだ。
「ん?」父親が娘の視線を辿り、ハジメを見てふっと笑った。
「ああ、そうだな。坊主、こいつが俺の娘──国広花子だ。」
「ど、どうも……はじめまして……」花子は機械的に口を動かした。声がわずかに裏返っている。ハジメはクローバーを抱え直しながら、空いた方の手を差し出して、ぎこちない笑みを浮かべた。
「えっと……でも、さっきもう会って──?」
花子はその手を取り──思いきり、握った。
「ぐっ……くぅっ……!」ハジメは声を噛み殺し、全身に力が入る。
「よろしくね。」花子は微笑んだまま言った。その目だけが、感情を読ませなかった。
「そ、そうですね……はじめまして、僕は秋高一です、へへ……」
痛みに耐えながら、ハジメはぎこちなく自己紹介した。
「……あの、できれば……?」
彼はかすかに笑みを浮かべながら、握られた手をちらりと示した。
「あっ、ごめん!」
ようやく花子は手を離した。
ハジメはすぐさま手を引っ込め、バレないようにそっとさすりながら、涙をこらえた。
「そして私は──」
男は腰に手を当て、誇らしげに名乗った。
「──この家の主だ。国広実という。さて、坊主……よく聞け。」
その声色が急に低くなる。
「もし娘の髪の毛一本でも傷つけるようなことがあったら──その時は、殺す。」
「お父さんっ!?」
花子が非難するように声を上げる。
「そ、そんなつもりはありません、ししょう!」
ハジメは背筋を伸ばし、瞬時に姿勢を正した。
実は再び笑った。今度は目に鋭い光を宿して。
「よし、それでいい。そういう返事が一番好きだ。」
空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
実が手をパンッと叩く。
「さてと、もう遅いし、俺も疲れてて喧嘩する気にもならん。今から戻るのも危ないしな。……今夜は、ここに泊まっていけ。」
「はぁっ!? ちょ、ちょっと待ってよ、お父さん!」
花子が叫ぶ。
「花子……」
実の声は静かだが、決して逆らえない圧がこもっていた。
花子は唇を噛み、ふいっと顔をそらしてため息をつく。
「……わかったわよ。泊まってもいいけど──ソファで寝てよね。」
「……そ、それで全然大丈夫ですっ! まったく問題ありませんっ!」
ハジメは慌てて答えた。
どこで寝るかなんて、もはやどうでもよかった。今日の出来事を考えれば、ソファなんてむしろありがたいくらいだった。
「それで……クローバーくんはどこに──?」
「ん? そこのソファでいいさ。」
実が居間の方へと手をひらひらさせた。
「了解です……」
ハジメは慎重にクローバーを抱え直し、できるだけ揺らさないように気をつけながら、ソファに横たえた。
(……床か。まあ、最高だな……)
心の中でそう呟きながら、大きくため息をつく。
花子もまた、こめかみを押さえて深くため息をついた。
「もう……疲れたわ。寝る。」
そして鋭い視線を向けて、釘を刺す。
「変なことしたら、ぶっ飛ばすからね。わかった?」
「は、はいっ、花子さんっ!」
ハジメはピシッと立ち上がり、直立不動で返事をした。
花子はそれ以上何も言わず、くるりと踵を返して階段を上っていった。
静まり返った空間に、彼女の足音だけが響いていた。
「ばははははっ!」
実はまたもや豪快に笑い声をあげた。
「うちの娘、かわいいだろ? まったく困っちゃうくらいだよなあ?」
「そ、そうですね……うん……」
ハジメはかろうじて答えた。
ついさっきまで浴びていた殺意たっぷりの視線の余韻が、まだ心に残っている。
「じゃ、俺も寝るとするか。友達のこと、ちゃんと頼んだぞ。」
「はい、師匠……」
実は大きく伸びをしてから、ひらひらと手を振って廊下へと消えていった。
取り残されたハジメは、気を失ったクローバーを見下ろす。
一瞬だけ、静寂が重く感じられた。
ハジメは床に座り込み、長く息を吐いた。
ようやく、肩の力が抜ける。
だが──眠気はやってこなかった。
体は疲れ切っているのに、頭の中だけがぐるぐると回っている。
ハジメは周囲を見回し、立ち上がって家の中をゆっくりと歩き始めた。
(……思ったより、いい家だな)
暖かくて、きちんと手入れされていて、どこか“生きてる”感じがする。
歴史と温もりを感じさせる空間だった。
ふと、サイドテーブルの上に飾られた写真立てが目に入る。
好奇心から手に取ってみると──それは家族写真だった。
四人の笑顔が並ぶ一枚。
すぐにわかった。
髪がフサフサだった頃の若い実が、満面の笑みを浮かべている。
その隣には、長いピンクの髪を持つ美しい女性──恐らく彼の妻だろう。
下には二人の子供が並んで笑っている。
ひとりは花子。
幼いながらも、真剣な目つきと後ろで結んだ髪が特徴的で、すぐにそれと分かる。
その隣には、少し年上の少年が写っていた。
漆黒の髪に、整ったカット。
そして真っ直ぐカメラを見据える、鋭く澄んだ青い瞳──
「……奥さんも、あの子も、ここに来てから一度も見てないな……」
ハジメは小さく呟いた。
「もしかして……?」
ぶんぶんと首を振る。
(ダメだハジメ、考えるな。まだ何も分かってないんだから)
写真の情景を胸にしまいながら、ハジメはリビングに戻った。
再び床に座り込むと──その瞬間だった。
全身からアドレナリンが抜け落ち、一気に現実の重みが押し寄せてきた。
「うっ……!」
仰向けに倒れ込み、頭を抱える。
(な、何がどうなってるんだよ!?)
「えーと……整理しよう……」
「家に帰って、いつも通りパソコンつけて……。
そしたら急に、体が熱くなって、目が回って──ただの疲れかと思ったのに……」
ハジメは膝を抱え込み、小さく震え始めた。
「あの痛み……体中が引き裂かれるようで……もう二度と、あんなのは嫌だ……」
目をぎゅっと閉じて、呼吸を整えようとする。
「そして──気づいたら、水の中にいて……今、ここにいる。」
壁にもたれかかり、腕を抱いたままハジメは独り言を続けた。
「全部……まるで異世界に召喚されたみたいじゃないか。
でも、なんで? 何のために?」
「これって……まさか、いわゆる“異世界モノ”?
俺、実は選ばれし者……?
……それとも、ヤバい魔女が俺に執着してて、未覚醒のチート能力があるとか……?」
ぶんぶんぶん、と再び頭を振る。
(ないないないっ、絶対ないっ! 考えるだけムダだ!)
「……でも、少なくとも──この世界の言葉が理解できるのは助かるな。
今まで誰の言ってることも、ちゃんと意味が分かってる……努力したわけでもないのに。」
その考えは、ほとんど慰めにはならなかった。
「……疲れたな」
ハジメは呟いた。
視線の先には、クローバーがソファで静かに眠っていた。
ほんの数時間前まで、生きるか死ぬかの瀬戸際にいたとは思えないほど、穏やかな寝顔だった。
「……彼の家族……」
ハジメの声がかすかに震える。
「あの警官が……殺したんだよな」
あの時の、冷たく告げられた一言が脳裏にこだました。
(たしか、“目のこと”も言ってたような……赤いから、なのか?)
眉をひそめ、ハジメは考え込む。
「……昔、何かで読んだんだ。中世ヨーロッパで、“赤い目”とか“金の目”を持つ人は、悪魔の子とか言われて……迫害されたって」
「迷信で……ただそれだけで、狩られて、消された」
「……関係あるのかな」
天井をぼんやりと見つめながら、答えを求めるように目を細める。
「……わかんねぇよ」
そのまま、彼はソファの近くに体を丸め、床に身を沈めていく。
(少しだけ……休もう)
思考の渦の中に身を委ねながら、瞼が静かに閉じていく。
──とりあえず、今は静寂がある。
それだけで、今夜は十分だった。
* * *
数時間が過ぎた。
「……んぐ……今、何時だ……?」
ハジメがわずかに身を起こし、呻くように目を開ける。
窓の隙間から淡い光が差し込み、部屋の中に金色の筋を描いていた。
朝日が、昇り始めていた。
何度か瞬きをしてから、彼はため息をつき、見慣れない天井を見上げる。
「……知らない天井……夢じゃなかったか……」
小さく呟いたその声に、突然──
「何ぶつぶつ言ってんの?」
「うわっ──!」
ハジメが飛び起きた。
階段の近くに立っていたのは、すでに着替えを済ませたハナコだった。腕を組み、完全に目が覚めている様子でこちらを見下ろしている。
「お、お前……もう起きてたのか?」
「当然でしょ。何か文句ある?」
「い、いやいや! 全然ないよ!」
ハナコはため息をついて部屋に入り、眠っているクローバーに視線を向けた。彼の胸はゆっくりと上下し、まるでこの世界の喧騒とは無縁のようだった。
「まだ寝てるんだね」
「うん……お前は見てなかったけど、あの男……本気で殴ってきたんだ」
ハジメの声は次第に小さくなっていった。
「あいつの拳……光りだしてさ。俺、何もできなかった……」
ハナコの表情はあまり変わらなかったが、その声色にはわずかな優しさが滲んでいた。
「……どうせ無理だったんだから、自分を責めんな」
「……!」
ハジメは驚いたようにまばたきし、目を伏せた。
「……ありがと」
しばらく、沈黙が流れた。
ハジメは頭をかきながら、恐る恐る彼女を見上げた。
「なあ……なんで、あのとき俺たちを知らないフリしたんだ?」
「……え?」
ハナコは少し戸惑ったように首を傾げた。
「お前の親父さんと入ってきたときさ。急に緊張してたし、俺たちのこと全然知らない感じで話してたよな」
「ああ……それは、ちょっと……ややこしくて」
「どういう意味だよ?」
ハナコは小さくため息をつき、壁にもたれかかった。腕を再び組む。
「うちの父さん、クローバーのこと知らないんだ」
「……それがどうした?」
「アイツの目、見たことあるでしょ?」
彼女の声色が急に真剣なものへと変わった。
「……いや、実はよく知らない」
彼女はゆっくりとうなずいた。
「じゃあ、説明しなきゃだね」
「二百年くらい前、赤い目とか金の目を持つ人間は……生まれた瞬間に殺されたんだよ」
昨夜の予感が、確信へと変わった。
(やっぱり……)
「“魔王の血を引いている”とか、根拠もない言いがかりでさ。見つけたら即処刑。そうやって、ほとんどの人が殺された」
「金の目は……完全に絶滅したって言われてる」
「……でも、赤い目は?」
「少しだけ、生き残った人たちがいた。隠れながら、生き延びてきた」
彼女は窓の外に目をやる。朝の光が、その頬を優しく照らした。
「でも、ある時から彼らは……隠れるのをやめたんだ」
「……!」
「反撃に出た。徹底的にね」
「虐殺だった。兵士、異端審問官、それを支持してた一般人までも……皆、殺された。血と怒りに染まった戦争だったよ」
ハジメは言葉を失った。
想像できる気がした。
怒りに燃えた瞳。炎に包まれた街。
恐怖と絶望が入り混じる光景──
「最終的に、白紙和平が結ばれた。お互い疲れ果てててね。反乱軍のリーダーは姿を消した。“全てに失望して立ち去った”って話さ」
「でも……戦争が終わっても、憎しみは消えなかった」
「その通り」
ハナコは静かにうなずいた。
「差別は今もある。赤い目の人は、少数派で、法律も守ってくれない。嫌がらせ、暴力、時には殺人……みんな見て見ぬふりさ」
その言葉の重さが、部屋の空気を押し潰すようだった。
「……それが、真実なんだな」
ハジメは呟く。
「だから黙ってた。父さんはクローバーのこと知らないけど……あの目を見られたら、何をするかわからない」
その先の言葉は、彼女の唇からは語られなかった。
「……なるほどね」
ハジメが呟き、視線を再び眠っているクローバーに戻した。
「話してくれて、ありがとう」
少し考えてから、ハジメは首を傾げた。
「……それで、クローバーとはどうやって知り合ったんだ?」
ハナコは視線をそらし、首の後ろを掻いた。
「……あのバカがね。家の前で喧嘩してたの。数ヶ月前の話だけど」
◇ ◇ ◇
「おい、てめぇら黙ってろって言ってんだろ、クソガキどもが──」
「へぇ? で、どうするつもりだ? 魔王様でも呼ぶか?」
「……」
「信じちゃいないけどさ、だからこそ都合がいいんだよ。てめぇの金、誰も庇ってくれねぇ」
「やめ──っ!」
風が突如として爆発した。
クローバーの身体が吹き飛ばされ、近くの木造の家の扉に叩きつけられる。
その隙に、もう一人の男が背後から両腕を押さえつけた。
クローバーは歯を食いしばり、炎の魔法を呼び起こそうとしたが──
手首を拘束された状態では、力が発動しない。
「このクソガキが……さて、ポケットには何が──ぐあっ!」
鈍い音が響いた。
男の顔面に木の板が直撃し、彼はそのまま前のめりに倒れ込んだ。
クローバーが目をぱちくりとさせる。
目の前に立っていたのは、自分と同じくらいか少し若いくらいの少女だった。
肩まで伸びた桃色の髪が揺れ、彼女は両手で割れた板を握りしめていた。
「……ありがと」
クローバーが呟く。
「どういたしまして」
「このガキ……アイツの味方ってわけか?」
もう一人のチンピラが唸るように言った。
「誰かー! 誰か助けてー! 泥棒が家に押し入ろうとしてるー!」
少女──ハナコは大声で叫んだ。
「なっ……うるせぇ、黙らねぇと──」
「やめとけ! 誰か来たら面倒だ!」
「ちっ!」
男たちは罵声を吐きながら、裏路地の奥へと消えていった。
「……助かった」
クローバーは息を整えながら、もう一度礼を言った。
「いいって──あ、やば……」
ハナコの表情が固まる。
「……あんた、赤い目なんだ」
クローバーは無言で視線を逸らした。
その表情は、まるで心を閉ざしたように暗かった。
「う、ううん、違うの! そういう意味じゃないから!」
ハナコは慌てて手を振った。
「……気にしないのか?」
「するわけないでしょ。ほら、血出てるし……手当てしてあげる。ご飯もあるし。……だから、ここに来たことは誰にも言わないでね」
「……わかった。ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は少し照れたように微笑んだ。
「ハナコっていうの。あなたは?」
「……クローバー」
◇ ◇ ◇
「……そういうことだったんだな」
ハジメは小さくうなずきながら呟いた。
ハナコは腕を組み、どこか気まずそうに視線を外す。
「でさ、それからあのバカ、ちょくちょく現れるようになったのよ。大体、食べ物を盗むか、変なお願いしに来るかだけど」
「うん……想像できるよ」
ハジメは苦笑いしながら答えた。
ふたりの間に、静かな間が落ちる。