第一章4 『 鍾路帝国』
「今週は来るなって言ったでしょ! 私まで巻き込まれるじゃない!」
「わかってるって、ハナコ。でも、今回はちょっと事情が違う」
「そんなの関係ない! 本当に──ん? その子は? ていうか……なんか、あんたに似てない?」
「わーお、失礼な言い方だな」
「……」
「ハジメ、ハナコ。ハナコ、ハジメ。以上、自己紹介終わり」
「は。は。冗談言ってる場合?」
クローヴァーはため息をついた。
「ハジメは記憶を失ってて、家族もどこにいるかわからない。俺はそいつの面倒見てるだけ。腹も減ってるから、ここに来た。それだけだ。納得したか?」
ハナコはハジメに視線を向けた。
その目が、すっと柔らかくなる。
「……大丈夫?」
ハジメは固まった。
その声──まるで、舞い散る花びらのように優しい。
頬が一気に熱を持った。
「ぼ、僕は……だ、大丈夫……ちょっと、ショック受けてるだけで……」
「……ってことは、見ちゃったんだね」
ハナコはそっと視線を落とし、ふぅっと息を吐いた。
「……うん」
「まだ話してないんでしょ?」
「目覚めたばかりで、混乱してるやつにあれが最初の情報ってのはキツすぎるだろ? なあ、ハナコ」
「……まぁ、それはそうかもね。ちょっと待ってて。何か食べるもの持ってくるから」
そう言って、ハナコは奥の部屋へと小走りで消えていった。
沈黙が部屋を満たした。
「……その赤面、全然隠せてないけど?」
「う、うるさいっ!」
「ふふっ……」
だが次の瞬間には、クローヴァーの笑顔は消えていた。
目を伏せ、声を落とす。
「教えるよ……」
ハジメは思わず身を乗り出した。
部屋の空気が、さっきとは違う何かに変わったのを感じた。
「百年ほど前、シンユウは平和な島国だった。ほとんどが農民で、技術は遅れてたけど、独自の文化と穏やかな暮らしがあった。エネルギーに関しても、ほんの基礎的な知識しかなかった。……けど、ある日、ジョウルー帝国が現れたんだ」
「ジョウルー……」
「戦争って言えるようなものじゃなかった。あいつらはエネルギーの達人だった。こっちは歯が立たなかった。──この街だって、昔は“シンレイ”って呼ばれてたんだ。でも今は“シンレイ”じゃない。“シンレイ”は“シンレイ”じゃなくなった。ジョウルーが俺たちを“近代化”してやったんだよ……文化を押しつけるって形でな」
ハジメの胃がきりきりと痛んだ。
「じゃあ、歴史を……消されたってことか……?」
「その通り。でもな……反抗する者たちもいる。“カミカゲ”って呼ばれてるグループがある」
「……」
「リーダー格はめちゃくちゃ強いって言われてる。でも、外で吊されてた人たちは……ただの下っ端さ。捨て駒だよ。そして帝国は──ああやって見せしめにするのが好きなんだ。『逆らえばこうなる』って、街中に吊るしてな」
それまで淡々と話していたクローヴァーの声が、そこだけは怒気を含んでいた。
拳が震え、肩がこわばっているのが分かる。
「……最低だ……」
「そうだよ」
ハジメは頭を抱えたくなるほど混乱していた。
「でも……なんで? カミカゲってそんなに強いなら、なんで止められないの!? なんで人が死ぬのを放っておくんだよ!? もし本当に正義の味方気取りなら……そんなの許せない!」
怒りに震える声。
「戦う覚悟がないなら、最初から名乗り出るなよ……!」
クローヴァーはしばし黙り、こめかみに手を当てて深く息を吐いた。
「気持ちはわかるよ。でも、話はそう単純じゃない」
「……どういう意味だよ?」
「カミカゲはただの反乱軍じゃない。生き残りだよ。ほとんどは占領後に生まれた連中で、シンユウが“自由”だった頃を知らないやつらばかりだ。誰かに家族を奪われた者もいる。戦わざるを得ない者もいる。そういう奴らの集まりだ」
ハジメの拳が握りしめられる。
「だったらなおさら、ちゃんと戦えよ! なんで……」
「戦ってるよ」
クローヴァーが遮った。
「見えないだけだ」
「……どういうこと?」
クローヴァーは壁にもたれ、腕を組んで続けた。
「帝国は何もかもを支配してる。軍も、エネルギー学院も、経済も、メディアも……全部だ。正面から戦争を仕掛ければ、カミカゲなんて一週間も持たない」
「……」
「だからやつらは、影で戦ってる。諜報。暗殺。補給路の撹乱。市民が完全に“ジョウルーの奴隷”にならないように、できることを少しずつやってるんだ」
ハジメは息を呑んだ。
クローヴァーの声……それはただの伝聞ではなかった。
実際に“見た者”の声だった。
「でも……なんで自分たちの仲間が吊されても、助けに行かないんだよ……! 何もしないなんて……!」
クローヴァーは、静かに目を閉じて答えた。
「してるさ。でも、全部がうまくいくわけじゃない」
「……」
「帝国の手は深い。カミカゲは強いが、万能じゃない。誰かを助けるたびに、拠点がバレるリスクがある。作戦が潰れる可能性もある」
その紅い瞳が、陰を落とす。
「戦争には──“負けなきゃいけない戦い”もある」
ハジメの喉が詰まった。
「こんなの……こんな世界……嫌だ……」
「……わかるよ」
クローヴァーの声は、まるで誰かに寄り添うような、静かな響きを持っていた。
──その時だった。
「はい、お待たせ〜。料理できたよー」
ハナコが戻ってきた。
湯気の立つ料理をテーブルに並べながら、二人に向かって優しく微笑んだ。
「……ありがとう」
「ふふん。さすがハナコ、頼りになるな」
クローヴァーが微笑みながらそう言った。
「それで……ハジメくん」
ハナコの声は穏やかだったが、その瞳には鋭さが宿っていた。
「あなたは、どこから来たの?」
「うっ……!」
「お、いい質問だな」
クローヴァーが前のめりになって興味津々とばかりに口を挟む。
「どこの出身なんだ?」
「え、ええと……」
ハジメは首の後ろを掻きながら、時間稼ぎを試みる。
「わ、わかんない……へへ……」
「……記憶がないんだよ」
クローヴァーがすかさずフォローを入れた。
「…………」
「ま、どっちにしろ」
話題を変えようとしたのか、クローヴァーが続ける。
「そのうち分かるさ。だから今は気に──」
ヒュッ──!
次の瞬間、空気が一変した。
ハジメの襟元が強く引っ張られ、彼の顔がテーブルに叩きつけられる。
そして──冷たい金属の感触。
喉元に押し当てられたナイフの感触が、体中を凍らせた。
汗が一筋、頬を伝い落ちていく。息が……できない。
「お前……帝国のスパイか?」
ハナコの声は、さっきとは別人だった。
冷たく、鋭く、ガラスの破片のようだった。
「な──?」
「ハナコ、落ち着け! 頭冷やせ! そのナイフを下ろせ!」
クローヴァーが立ち上がり、緊迫した声で止めようとする。
だがハナコは微動だにしない。
ナイフは、まだ喉元に当てられたままだ。
「なんの目的でここに来た? もう、あれだけやられて……それでもまだ足りないって言うの……?」
その声には震えがあった──だがそれは恐怖からではない。怒りだ。
「ナイフを下ろせって言ってるんだ」
クローヴァーの声が氷のように冷たくなった。
「理由は、あんたが一番わかってるはずでしょ……」
「ナイフを──下ろせって言ってんだろッ!!」
怒号とともに、ハナコがハッとしたように体を震わせる。
カチャッ──
刃が木の床に落ちた音が、静まり返った空間に響いた。
「はぁっ……!」
ハジメは喉元を押さえながら、必死に後退る。
心臓の音が耳の奥で轟き、他の音など何も聞こえなかった。
クローヴァーの紅い目が怒りに燃えていた。
拳を固く握りしめ、今にも爆発しそうな雰囲気だ。
「スパイなんかじゃない。なんでそんなこと──」
「わかってるでしょ」
ハナコが鋭く遮る。その声はかすかに震えていた。
「……」
「……」
「彼はスパイなんかじゃない」
今度は静かに、誓いのようにクローヴァーが繰り返した。
ハナコは顔を背け、その表情は読めなかった。
ハジメの頭は混乱していた。
──何なんだ、この人たちは?
どうしてハナコは、あんな反応をした?
まさか……この二人、カミカゲの一員なのか?
だが、そんなふうには見えなかった──
ハナコが長く息を吐く。
「……ごめんなさい、ハジメくん」
その声は遠く、冷めた響きだった。
「きっと、あなたには……いや、どうせ分からないわ」
「……ぼ、僕……ごめんなさい……」
言葉を絞り出すように、ハジメが呟く。
「謝らなくていい」
クローヴァーが一歩前に出て、再びハジメを庇うように立ちはだかる。
「お前は何も悪くない」
──四十分後。
重苦しい空気は、依然として部屋に残っていた。
料理は美味しかった。
ふっくらとしたご飯、よく味の染みた肉、香り高いスープ──
だが、それらがどれほど美味しかろうと、空気は冷たかった。
言葉にならない警戒と不信感が、机を囲んでいた。
ハナコは──ハジメを疑っていた。
それは明らかだった。
そして、ハジメも否定できなかった。
なぜなら──彼は、嘘をついていた。
でも、それだけじゃない。
もっと深い何かがある。もっと恐ろしい何かが。
この二人は──何を背負っている?
ハナコをあれほどまでに変えてしまう過去とは、いったい……?
もしかして──誰かを失ったのか?
何か、違法なことに関わっていた?
頭の中から、あの死体の光景が離れなかった。
街の通りにぶら下がる、冷たい目をした遺体たち──まるで警告か戦利品のように吊されていた。
この世界の残酷さは、否応なく突きつけられる。
──そして、心底、憎いと思った。
***
夜が更けた頃。
「そろそろ帰ろう、ハジメ」
クローヴァーの声が、ぼんやりとした思考を引き戻す。
「……あ、うん。そうだね」
「……なあ、ハナコ」
「何よ」
「お父さん、まだ帰ってないよな。今夜……本当に帰ってくるのか?」
「……たぶん」
「……心配なら、俺たち残っても──」
「いい。いらない」
「……そっか。何かあったら、逃げる場所は分かってるな?」
「……うん」
「行こう、ハジメ」
「う、うん。えっと……その……バイバイ、ハナコ」
「……じゃあね」
***
ドアを出た瞬間、ハジメは目を強く閉じた。
あの光景が、また脳裏に蘇る──
風に揺れる死体たち。
夜の静けさの中で、まるでこの街の歪んだ誇りのように吊るされていた。
クローヴァーは長く息を吐き、慣れた手つきでガスランプに火を灯す。
まるで、これが日常かのように。
「……慣れろよ、ハジメ」
「……ム、無理だよ。絶対、慣れられない……」
「……だよな。俺も昔、そう言ってたよ」
「……」
そのとき──
重く、規則的な足音が近づいてきた。
──ブーツの音。
クローヴァーが瞬時に反応した。
全身がこわばり、低く呟く。
「……クソッ、走れ」
ふたりが動き出して四歩──
鋭い声が、夜を裂いた。
「おい! そこのお前ら!」
ハジメの心臓が冷え込む。
胃が、底まで落ちていくような感覚。
「……っ、まずい」
「……」
「こんな夜更けに、子供が何やってるんだぁ?」
「……友人の家に行ってました、隊長。すぐ帰るところです。し、失礼を……」
クローヴァーは素早く返答した。
その声は慎重で、計算されていた。
「こら、俺が話してる時は、ちゃんと顔を上げろ!」
ハジメは即座に従った。目を見開き、顔を向ける。
だが──クローヴァーは動かなかった。
「おい、そこのガキ! 聞いてんのか!」
ハジメがクローヴァーを振り返ると──
彼の目は虚ろだった。
「ク、クローヴァー……何やってるの!?」
ゆっくりと、クローヴァーが男の方を向く。
兵士の目が見開かれ、次第に笑みへと変わった。
「ははっ、やっぱり……レクサス坊やじゃねぇか! まさか、こんなとこで会うとはなぁ。覚えてるか?」
「……っ!」
「え? 何の話……?」
男がクローヴァーの肩に重い手を置いた瞬間、
ハジメには、彼の体が明らかに強張るのが分かった。
「知っといてほしいんだがな」
男は何気ない口調で言った。
「お前の親をどうしたかって? あれはな、別に個人的な理由じゃねえ。楽しかったわけでもない」
一くんの顔から血の気が引いていくのを感じた。
「……両親のこと、か?」
クローバーくんの表情が変わった。紅い瞳の奥に、嵐のような怒りが渦巻き始める。
「でもな、理解しとけよ。帝国に逆らうってのは、つまり帝国に逆らうってことだ。個人的な感情なんて関係ねぇ。俺は寛容な人間なんだぜ?目の色が違っても気にしないし、誰でも平等に扱ってやるさ」
「……」
「けどな――もう一度でも反抗するようなマネをしたら……そのときは迷わず殺す。速やかにな。慈悲としてな」
その言葉が空気に溶け込む暇もないうちに、クローバーくんの拳がぎゅっと握りしめられ、歯ぎしりの音が静寂を破る。
彼の全身から怒りが噴き出す。熱く、鋭く、制御不能な憤怒。
そして――
一瞬の動きで、クローバーくんは拳を振り抜いた。拳に宿る炎がちらりと揺らめく。
その一撃は、容赦なく相手の顔面を捉えた。
一瞬、時間が止まったように感じた。
そして――
軍人は少しよろめき、頭が横に跳ね、口の端から細い血の線が流れた。
彼は奥歯で舌を押し当てて傷の具合を確かめると、苛立ち混じりの深い溜め息をついた。
「……この制服、新品だったんだぜ、クソガキが……」と彼は唸る。
その目がクローバーくんを見据える。彼はもう構えていた。指先からパチパチと炎が弾けている。
その光が、紅い瞳に宿る怒りを照らし出す。構えは硬く、逃げる気配は一切ない。
恐れていなかった。立ち向かう覚悟がそこにあった。
その姿に、男はにやりと笑った。
警告もなしに、男の拳が光を帯びる――金色の不安定な輝き。まるで肉体に圧縮された稲妻のように。
そして――
打った。
バキッ。
クローバーくんはその一撃を感じる間もなく、身体が吹き飛ばされた。
激しい痛みが腹部を襲う。
まるで内臓がねじ切られたような激痛。
息を吸う暇もなく、背中が地面に叩きつけられる。
「がっ――!」
口から血が噴き出し、石畳に赤い染みを広げる。
はじめくんは反射的に後ずさりし、息を呑む。
軍人はクローバーくんの倒れた身体に歩み寄り、無言でその胸にブーツを押しつけた。
容赦なく。
クローバーくんは激しく咳き込み、身体が圧力で震える。それでも彼は手を伸ばした。かろうじて、男のブーツに触れようとする。
「そのままブーツを燃やしてみろよ」と男は嘲笑し、さらに力を込める。
「燃やせるもんならな――ただ顔を焦がすだけだ」
クローバーくんは歯を食いしばり、押し返そうとするが、身体はもう言うことを聞いてくれなかった。
「くっ……か、……」
視界が滲む。指先がかすかに動いた。
そして――
闇。
彼の身体は、力を失い、その場に沈んだ。
「……クソガキめ」
男がぼそりと呟いた。
はじめくんの体が動かない。
四肢が命令を拒否する。
その場に立ち尽くし、震えていた。言葉も出ないほどの恐怖。
目の前で友達が――クローバーくんが、ただの虫けらのように叩きのめされた。
自分は、それを見ているだけだった。何もできなかった。
いや――何一つ、していない。
何ができただろうか?
魔法もない。
もし止めに入ったら、自分も――
「おい、お前」
軍人がこちらを振り向く。
はじめくんの喉が詰まる。
膝が震える。
「お前の“勇敢な”お友達について、何か言いたいことでもあるか?」
「あ、あ、あ……ぼ、ぼく……」
呼吸が乱れる。震えが止まらない。
――役に立たない。
そのとき、別の声が響いた。
「……もう、そのへんでやめといたらどうですか?」
柔らかく、落ち着いた声だった。だが、その言葉には空気を凍らせるほどの重みがあった。
「……なんだと?」
「もう十分でしょう。少年は気絶してるし、こっちの子も怖すぎて動けない。これで教訓にはなったと思いますが」
はじめくんは顔を向けられなかった。怖くて、体が動かない。
だがその声には、何か――何か普通じゃない冷たさがあった。
ひとつ前の言葉が優しかったのに、次の瞬間には命の匂いがする。
「……口の利き方に気をつけろ。相手が誰だかわかってんのか?」
「……はい、わかってますよ。でも、それでも言わせてもらいます。“もう十分です”」
最後の一言には、刃のような鋭さがあった。
はじめくんの血が凍る。
軍人は一瞬ためらい、それから不機嫌そうにブーツをクローバーくんの胸から退けた。
そして離れ際、ちらりとはじめくんを睨みつける。
「……情けねぇな」
「っ……」
男の足音が闇の中に消えていくと同時に、張り詰めた空気が少し緩んだ。
「ふぅー……ギリギリだったな」
男がにっこり笑う。
はじめくんがようやく顔を上げる。男は四十代くらいだろうか。
若々しい雰囲気を保ちつつも、歳月の中で落ち着いたような短髪をしていた。
「でもさ――」
ペチンッ。
突然、軽くおでこを叩かれた。
「いっ!?な、なんですかっ!?」
「バカなのか?いや、バカだな。こんな時間に何で外をうろついてんだよ。ああいう連中はどこにでもいるんだぞ?夜の街を平気で歩くなんて、正気の沙汰じゃねえ」
怒ってはいるが、どこか兄貴分のような、呆れた優しさを感じた。
「ま、とにかく……友達は朝までは目を覚まさねぇだろうな。連れて帰ってやれ」
「……ぼ、ぼく――」
「聞いてるか?」
「は、はいっ!でも……彼の家、知らなくて……」
男は目を見開いた。
……瞬き。
「……マジかよ!?最低の親友だな、オイ」
「……」
「……はぁ、仕方ねぇ。今夜はうちに泊まれ。こいつも連れてけ」
「わ、わかりました!す、すみませんでしたっ!」
「うんうん」
はじめくんはまだ意識のないクローバーくんを抱きかかえ、男の後をついて行った。
……そして、意外なことに。
着いた先は――花子さんの家だった。