第一章2 『 クリムゾン』
「あっ……ああああああああああああああああああああああああッ!!」
一は肺が破れそうな勢いで叫びながら、ほとんど三メートルも後ろに飛び退いた。濡れた砂の上に不格好に着地し、目の前の人物から這うようにして距離を取る。
だが、白髪の男は微動だにしなかった。代わりに小さくため息をつき、ぼそりとつぶやく。
「うん……まあ、それが普通の反応だよな。」
一は近くの岩に背を預け、肩を激しく上下させながら荒い息を吐いていた。
白髪の男は濡れた髪を手でかき上げ、まったく驚いた様子もなく、少し呆れたように言った。
「ま、しょうがないか。落ち着けよ。別にお前を傷つけたりはしねーから。」
「……え?ほ、ほんとに?」と、一は震える声で返した。
「本当だよ。」
……
……
しばらくの沈黙。
赤い目の男は興味深そうに眉をひそめた。一の方はというと、最初の恐怖はあったものの……何かがおかしいと感じ始めていた。あの悪魔のような赤い目を除けば、この男は全然危険に見えない。魔物の気配もないし、闇の力も感じない。ただ――濡れたティーンエイジャーが、そこに少しイライラした顔で立っているだけだった。
「ご、ごめんなさいっ!」
一はぺこりと頭を下げて叫んだ。「その、急に家にいて……それから、あんなことが起きて、痛みがあって……あれ、一体何だったんですか!?」
言葉を切る。一つ気づいたのだ。痛みが……消えていた。体も……普通に動く。どこも痛くない。
「何ぶつぶつ言ってんだか……」白髪の男は目を細めながら返した。「てか、その変な服、何だよ?」
「えっ?あ、ああっ!えっと……これはパジャマで……その、家にいた時に急にこんなことになって、着替える暇もなくて……その、まさか異世界転移するなんて思ってなかったし……」
一の顔は羞恥で真っ赤になっていった。
「……ピ、パジャマ?」
白髪の少年は、その単語をまるで初めて聞いたかのようにゆっくり繰り返した。
そして肩をすくめながら、「まあ……けっこう快適そうだな。俺、好きかも」
「えっ……?ちょ、待って……」
一はまばたきをしながら、ようやく周囲を見渡した。
「ここ……どこ?俺、なんでここにいるの……?」
白髪の少年は少し目を細めた。
「マジでわかってねぇのか?頭でも打ったんじゃないのか?」
「は、はぁ?」
一は言葉を詰まらせる。
「聞いてんだよ。頭打ったのかって」
少年は額に手を当て、首の後ろをかきながらうめいた。
「くそ……これ、どう説明すればいいんだよ……」
「え……?」
一はまだ状況を飲み込めず、首をかしげた。
すると、突然その少年の目が輝いた。
大きく息を吸い込み、プレゼンでも始めるかのようにその場で軽く跳ねる。
そして空を指さして、堂々と宣言した。
「オレの名前はクローバー・レクサス!そして今、お前が立ってるのは――シンユ王国の心臓、首都シンレだっ!!」
……
しばらくポーズを決めていたが、徐々に手を下ろし、頬をかきながら苦笑した。
「えーっと……よろしく、な?」
「は?あ、え?ちょ、ちょっと待って。今なんて言った?シンレ?シンユ?」
「そのまんまだよ。ここはシンレ」
クローバーは当然のように言った。
「うーん……こういう時、何て言えばいいのかわかんねーんだけどさ。お前、本当に何も覚えてないのか?自分がシンユにいるってことすら?ヤベーな、こりゃ……このまま放っておくわけにもいかねぇし……」
クローバーはぶつぶつと呟きながら、イライラした様子で爪を噛み始めた。
「……じゃあさ。せめて、自分の名前は覚えてるよな?」
「えっ?あ、うん!オレの名前は秋高 一です。よ、よろしく……」
一はぎこちなく名乗った。まだ現実を受け入れられず、戸惑いの色を隠せなかった。
「はじめ……?ふーん。変な名前だな」
「お前が言うなよ……」
一が小声でぼそりと呟いた。
「ん?なんか言った?」
「な、なんでもないっす!なんでもないっすよ!」
「……ふーん」
「……」
「ま、とりあえずその服はどうにかした方がいいな」
クローバーはまた首の後ろをかきながらため息をついた。
「ついてこい。知ってる場所がある」
「お、オッケー……」
二人は街の奥へと歩き始めた。
その時、一はようやく目にしたのだった――現実を。
これは夢じゃない。
夢のはずがない。
過去にタイムスリップした?――そう思いかけたが、それはすぐに否定した。クローバーの口ぶりや、自分の知識(歴史は得意科目だ)からしても、そんな単純な話ではなさそうだった。
ということは――
「オレ……異世界に、召喚されたんだ……」
ごくりと唾を飲み込む。
「はは……ははは……これ、夢だよな?な?」
無理やり笑いながら呟く。
「つねったりなんかしないぞ。映画とかでよくあるやつだし。第一、これ……夢にしちゃリアルすぎるだろ……。もしかして、明晰夢?いや、それにしても……この街……」
そこには、まるで歴史ドラマから抜け出してきたような中国風の街並みが広がっていた。
石畳の通り、温かい光を放つ赤い提灯、時の流れが磨いた木造の傾斜屋根の建物たち。
空気には香辛料と線香の匂い、そして雨に濡れた石の残り香が混じっていた。
人々の声が通りを包み込み、日常の喧騒が静かに流れていた。
そして、一つ気づいた。
――人々が見ていた。
いや、見られていたのは自分たちではない。
クローバーだった。
不気味なざわめきが、一の背筋を這い上がってきた。
な、なんであんな目でアイツを見てるんだ……?
まさか……アイツ、指名手配犯とか……?それとも、オレを騙して――殺すつもり……!?
呼吸が速くなる。胸が締めつけられる。
――パニック。
「オレ、さっきまで家にいたんだ……全部、普通だったのに……なんで、今こんな……やだよ……帰りたい……わけがわからな――」
「……おい。着いたぞ」
「えっ……?」
思考の渦から引き戻される。
「……うわ……」
二人の前に現れたのは、まるで歴史ドラマに出てきそうな伝統的な中華風の家だった。
派手さはないが、精緻な木彫りと、緩やかにカーブした瓦屋根が優しく光を反射している。
大きくはないが、長い年月を重ねてきたような落ち着きと威厳を感じさせる佇まいだった。
「ここが……お前の拠点とか?」
「拠点?は?」
クローバーは変な顔をして首をかしげた。
「普通にオレん家だよ。ほら、入れって」
家の中へ
一歩踏み入れた瞬間、一は空気の重さに気づいた。
息苦しい。まるで何年も換気されてないような、圧迫感。
空中には埃が舞い、揺れる提灯の光にぼんやりと照らされている。
床には紙や本が散乱し、古びた家具には衣類が無造作に掛けられていた。
壁の隅にはトレーニング用の重りがあり、低い机の上には錆びついた短剣が転がっている。
――変だ。おかしすぎる。
ま、まさか……ここで殺されるとか……!?
思わず身を引き、構えるようにして一歩下がる。
「……お、お前……」震える声で口を開いた。
「……オレに、何かするつもりなのか……?」
クローバーの動きが止まった。
深く息を吐き、肩を落とす。
「……オレ、化け物なんかじゃねぇよ……」
その言葉は、思った以上に重かった。
まるで鋭い平手打ちを受けたように、一は思わず息を呑む。
クローバーの瞳は大きく見開かれ、どこか……悲しげに、震えていた。
「……わ、悪い。怒鳴るつもりじゃなかった。今日は……色々あってさ。疲れてんだ。
でも信じてくれ……オレは、本当に、お前を助けたいだけなんだよ」
「オ、オレの方こそ……疑って、ごめん……ただ、初めてのことばっかで、頭がついていかなくて……」
沈黙。
目と目が合う。
――真紅の瞳。
確かに不気味な色。でもその奥には、どこか温かいものがあった。
奇妙な――優しさ。
着替えの時間
「よし」クローバーが言った。「ついてこい。キレイな服、どっかにあったはず」
――数分後。
「さて……どうだ?その服、気に入ったか?」
クローバーは満足げに笑いながら、一に尋ねた。
一は自分の姿を見下ろした。
濃紺の長袖チュニックがゆったりと体を包み、黒いズボンと、簡素な布製の中国風の靴。
「ど、どうだ?」
「……ちょっと、ゆるいかも」
「がああっ!服貸してやった相手に『ゆるい』とか言うか普通!?感謝の気持ちはどこ行った!?」
「ご、ごめんっ!えへへ……いや、ほんと、ありがとう。快適です」
「……」
「……」
――静寂。
「えっと……」
「それで――」
「それで――」
二人は同時に口を開き、言葉がぶつかった。
「お、おっと……ごめん。何か言おうとしてた?」
「いやいや、先にどうぞ。ボクが後で言うから……」
「うぅ……すまん。こういう気まずい沈黙って、どうすればいいか分かんないんだよな……」
一は気まずそうに首の後ろをかいた。
「分かるよ、その感じ。オレもこうやって誰かと話すの、あんまり慣れてないからさ……とにかく、だな――」
「うん……」
――その時。
ぐぅぅぅ~~~……
一の腹が、控えめながらも確かな音を立てた。
「おお……腹、減ってんのか?」
「え、ああ……うん、実は。朝から何も食べてなくてさ……」
「よし、それならちょうどいい店、知ってるぜ。ついてこい!」
信麗の街並みにて
街を歩くうちに、一はその光景に目を奪われずにはいられなかった。
「すげぇ……」思わず呟く。
そこはまるで、十九世紀の中国絵巻の中に入り込んだような世界だった。
石畳の小道が遠くまで続き、赤い紙提灯が風に揺れている。
木造の店々には手書きの看板が掲げられ、人々は優雅な長袍や質素なチュニックをまとい、日々の暮らしを営んでいた。
灯りの揺らめき、香辛料と香の混ざった匂い、ざわめく人々の声――
まるで伝説の一節に命が宿ったかのようだった。
「そんなにすごいか?」クローバーが肩越しに振り返る。
「オレにとっちゃ、いつもの風景だけどな」
「うおぉ……」
一の目に宿る感動に、クローバーは小さくため息をついた。
「……で、本当に何も覚えてないのか?名前以外は」
「え?ああ……」
(そうだ、コイツ……記憶喪失だと思ってるんだっけ)
(正直に異世界から来たって言っても……信じてもらえないよな。第一、まだそこまでの信頼は――)
「うん。正直、自分の名前と喋り方ぐらいしか思い出せないんだ……」
「そっか……それは、結構やばいな」
クローバーは眉をひそめ、ポケットに手を突っ込んだ。
「じゃあ、仕方ねぇな。お前が家族見つけるまで、オレが面倒見るか」
胸に鋭い痛みが走った。
――家族。
それはつまり、もう二度と会えないってことだよな……?
そんなの、嫌だ……
せめて、ちゃんと――「行ってきます」って言いたかったのに。
「心配すんな」
「……え?」
「オレはお前を置いてったりしない。信じてくれ」
唐突な言葉だった。だが、その声には確かな優しさがあった。
真紅の瞳――最初は不気味だったはずなのに、今は……暖かかった。
「……へへっ。ありがとな」
「それに、オレは“火”の属性持ちだ。誰かに絡まれても――」
「えっ、まって!魔法あるの!?!?」
「は?」
「全部教えてくれ!属性っていくつある!?どんな能力がある!?威力は!?射程は!?詠唱は!?ステータスは!?マナの総量は!?もしかして――」
「うおおおっ!?ちょ、ちょっと待てって!落ち着けって!注目集まってるからあああ!!」