雨夢
あぁ……待って、待ってよ!行かないで。行かないで!
お願いだから、止まって!止まってってば!じゃないと、じゃないと大切な、大切なあなたが――!
「っ…………!!ハァッハァッ、ハァ……ハァ」
聞いたこともないような轟音を聞いた気がして、目が覚めた。
……目が覚めた、か。
「そうか、さっきのは……。夢か」
なんの夢を見ていたかはよく覚えていないが、じっとりと嫌な汗をかいている。腹の近くで布団を握りしめる拳に何かが落ちた。
見ればそれは水滴のようなもので、なんとなく頬を触れば濡れている。
そうか、泣くほど嫌な夢か、怖い夢を見たのか。
夢を思い出そうとしたが、うまく思い出せない。けれど、知らない大切な人が死ぬ夢だったのは覚えている。いや、今思い出したというのが適切か。
俺じゃない『誰か』の大切な人が、何かで――きっと事故だろう――死んでしまう夢。あれは、誰だったのだろう…。
考えても考えても俺にはさっぱりわからなかった。夢ではおそらく『誰か』が叫んでいた。俺じゃない女性のような声だった。その声になんとなく聞き覚えがある気がしたけれど、生憎、俺には事故にあってしまうような大切な人はいない。
だから、これはあくまでただの夢だ。そんなに気にするものなんかじゃない。
「……。……、…………」
それなのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう…。
雨が降っている。けれど、自分は傘をさしているわけではないのに濡れていない。よく周りを見れば、壁があり、天井があった。俺の目の前には大きな窓がついていて、そこから外を眺めている。
ここは、室内なのか。
ぼんやりとした思考の中、ただ雨が降り続く外を眺めた。
窓からは、二車線道路が見え、目の前に横断歩道も見えた。
「……?」
青い傘をさした人が横断歩道の向こう側から歩いているのが見えた。その人以外は雨だからか誰もいない。その人が赤信号で立ち止まっているとき、声がした。
――お願い、お願い……!このままずっと、止まっていて……!
また、まただ。前に聞いたことのある、女性の声。とっさに周りを見渡したが、俺以外には誰もいない。
不審に思っていたが、信号が青に変わったのに気がつき外に視線を向けた。
――夢が、夢が現実になってしまう…!嫌、お願い……!渡らないで!そのままでいて!!お願いだから……!!
そう叫ぶ、声がした。その声は悲鳴にも聞こえるほど悲痛な叫びで、焦りや絶望をこちらも味わうほどに痛々しかった。
どうしてそんなに、焦る必要があるのだろう。
呑気にそんな事を考えていたのだが、視線の先を傘をさした人から少し左にずらした。
それは一瞬だった。
傘をさした人に、トラックがものすごい勢いでつっこ――――
「っ……!?」
息を切らしたような状態で、勢いよく体を起こして目が覚めた。
また、夢を見ていたのか。
「はぁ…」
夢で良かった……。ふっと緩んだ頭にそんな言葉が浮かぶ。そうだ、夢で良かった……。知らない人であったとしても、トラックに轢かれて死ぬなんてことがなくてよかった。
夢だから、そんなに深く考えるだけ無駄なのはわかっているが、前に見た夢となんとなく似ている気がして、無意識に考えてしまう。
傘をさしていた人は誰なのか。そもそも聞こえてきた女性の声はどこから、誰のものなのか。この夢はわからないことが多すぎる。けれど、一つだけわかったことがある。声の主の大切な人は、あの傘をさしていた人なのだろう。
そもそも、あの場所は一体――。
考えれば考えるほど、不思議な夢でよくわからない。
思考に沈んでいるうちに、時間は刻々と過ぎていって、気がつけばもう出かける時間になっていた。
「――に会いに行くか」
誰に言うでもなく声を出し、さっさと支度して玄関のドアを開けた。
ザーザーと音を立てながらも、変に静かに雨が降っている。それはコンクリートを叩きながら、水たまりを作っていく。
横断歩道の白線が見えたとき、顔を上げて赤信号を睨みつけた。ちらりと赤信号から視線を上げたときに見えた傘越しの空はどんよりと黒に近い灰色で、余計気分を憂鬱にさせた。
正直、雨は嫌いだ。
…あれ、なんで、俺、雨が嫌いなんだっけ。
思い出そうとすればするほど、記憶が空と同じような黒い雲に覆われる。
――お願 、お い……!この まず と、止 っ いて……!
「……?」
なんだ?
なんとなく聞き覚えのある声がした。だが、声が途切れ途切れでよく聞き取れなかった。
誰かが近くにいるのかと思いあたりを見渡したが、近くには誰もいない。
何だ聞き間違えか。
周囲を見てるときに青信号になったらしい。
横断歩道を渡ろうと、一歩踏み出した。そのとき、
――夢が、夢が になってしまう…!嫌、お願い……!渡らないで!そのまま て!!お願いだから……!!
声が聞こえた。さっきと同じ声だ。渡るな、どういうことだ?思わず一歩進めた足を止める。
焦りと絶望とがぐちゃぐちゃに混ざったような悲鳴だった。でも、なんでそんなことを俺に言うんだ?意味がわからない。
知らない奴の声に耳を傾ける暇があるなら、彼女の声をききたい。優しい、優しい、彼女のこえ――。
そんな事を考えていた。
視界の右に光が見えて無意識に視線を向ける。
クソが、意味もわからない声なんかに気を取られなきゃ良かった。
心の中で悪態をついている間に、トラックは俺に突っ込んで――――
「……なんなんだよ。この夢、」
ここ3日間見続けている、似たような夢にいい加減うんざりし始めた。最初こそ恐ろしくてたまらなかったが、今となってはまたか、という感覚が強い。
ここまで連続で見ると、なにか意味があるのではと考え始める。
自分じゃない『誰か』の大切な人が、死ぬ夢。次の日には、その大切な人がトラックに轢かれる夢。そして今日は自分がトラックに轢かれる夢。
一つの考えに行き着いて、なんとなく背筋が寒くなる。
いや、そんなわけ無いだろ。そんなふうに自分の考えを否定する。きっと、この3日間の夢は全部似たようなもので、全く関係ないものだ。そうだ、きっとそうだ。
「……今日は、雨か」
なんとなく外を眺めて呟く。彼女――雨音は雨の日は特に調子が悪くなってしまう。それを思い出したら、じっとしてられなくなって慌てるようにベットから立ち上がって、出かける支度をした。
「……」
またか。正直そんな感想しか出てこない。また、ザーザーと雨が降っている中傘をさして信号が変わるのを待っていた。
今日で何度目だろう。二回目ではないのは確かだ。三回?いや、五回、七回……そのくらいはこの光景を見ている。
また、俺はトラックに轢かれるんだろうな。
わかっている、これは夢だ。夢だとわかっている。けれど、毎日のように誰のものかすらわからない声が聞こえて、トラックに轢かれて死ぬ夢なんて見ていたら、精神がすり減るのは当たり前だろう。段々と疲れてきていた。
この横断歩道はなんとなく、見覚えがある。目の前にある白い大きな建物は、確か――。
あれ、なんだっけ。この夢の中じゃ思い出せないものが多い。
俺は、なんでこの横断歩道を渡りたいんだっけ……?
そうだ、――に会うため。
どうせ、これは夢だ。何をしても俺はトラックに轢かれる。だったら、もう……。
案の定、視界の右側に光が映る。
「はぁ……」
全部を諦めるようにため息をついた時、トラックと俺は衝突し――――
「チッ……」
虚無感に混じった苛立ちに任せて舌打ちをして体を起こす。
なんで、こんな夢ばっかり見るんだよ。ふざけやがって。苛立ちをぶつける相手がいないのにも関わらず悪態をつく。
雨音に会いに行きたいのに、なんとなく、気持ちが沈んで何もしたくない。でも、きっとこの沈んだ気持ちも雨音に会えば変わるだろう。
今日も、雨だ。
前に会ったときに、雨の日は心細いと言っていた。だったら、なおさら会いに行こう。俺の気持ちより雨音のほうが大切だ。
彼女は……雨音は、体が弱い。ちょっとしたきっかけだけでも、危ない状況になりやすいほどだ。小さい頃から入退院を繰り返す彼女に会うことができたのは、ほとんど奇跡に近いだろう。
そんな事を考えている間に、出かける準備は整った。ドアノブに手をかけ、傘を掴み、どんよりとした空の下を進んだ。
しばらく進んで、バス停でバスを待つ。少し待つとバスが来た。
バスに揺られること十五分。病院近くのバス停で降りる。
横断歩道を渡ろうとしたが、赤信号で立ち止まった。
ザーザーと音を立てているはずなのに、気味が悪いほど静かに雨が降り続いている。コンクリートに打ち付ける雨粒がはねて靴を湿らせる。近くにできた水たまりには、いくつもの雨粒が落ちて水面を波打たせていた。
正直、雨は嫌いだ。うんざりだ。
毎日のように見る夢のせいで、雨の日はとことん気分が悪い。いつまでも変わらない赤信号を睨むときに見えたどんより足した黒いような雲は、余計気分を悪くさせた。
防水の靴でも買っておけばよかったな。そんなことを考えるほど、靴はいつの間にかぐっしょりと濡れ、時折吹き付ける強い風のせいで、髪も指先も、全身が濡れて少し寒いくらいだ。……その寒さは心にまで伝染しているのではと思うくらいだ。
このところ見ている夢は、本当に何なのだろう。俺ではない『誰か』の大切な人が轢かれる夢。そして俺は夢の中でトラックに轢かれる『誰か』の大切な人の役。
俺には、俺を大切だと言ってくれる人なんていない。雨音は俺が一方的に好意を寄せて会いに行っているだけだし、なんならうざったく思われているかもしれない。そんなだから、トラックに轢かれて死ぬのは俺じゃない。別の『誰か』の大切な人だ。
雨音に会うために毎日のようにこの横断歩道を渡っている。そのたびに、夢で聞いた声が俺の頭の中で反響する。
――お願い、お願い……!このままずっと、止まっていて……!
……だからどうした。お前に何を言われようと俺はここを動かなければいけないんだ。出なけりゃ雨音に会えないから。
お前の大切な人は俺じゃない別の誰かなんだから、俺に叫ぶなよ。その大切な人に言ってやれよ。生憎、俺には俺を大切だと思ってくれる人なんていないんだから。
信号が青に変わる。
一歩、足を進める。また、声がする。
――夢が、夢が現実になってしまう…!嫌、お願い……!渡らないで!そのままでいて!!お願いだから……!!
なんだ、俺は、また夢を見てるのか。うざったいな。だったら、早くトラック来いよ。早く目醒めろよ。起きろよ、俺。早く、早く、早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く――――!!!!
「起きろよ!!!」
そう叫んだのと同時に、視界の右に見慣れた光が写った。
「ハハッ」
楽しくも面白くもないのに、笑いが漏れる。
悪い夢はもうこれが最後がいいな。ちゃんと、目が覚めたら会いに行くからね、あま――
―――――ッ
夢の中では一度も聞いたことのないような轟音が鼓膜を突き刺して、体が宙を舞う感覚がした。
「ねえ、聞いた?病院の目の前での事故の話」
「ええ、聞いたわ。雨でスリップしたトラックが突っ込んだっていうのでしょう?」
「怖いわよねえ。それに事故に巻き込まれた方、即死だったそうよ」
「まぁ……」
遠ざかっていく看護師さんの話を聞く私は、ただ点滴の管やら、検査用の医療器具らが体から外れてしまわないように気をつけながら、布団にすっぽりと隠れて震えることしかできなかった。
今日は、今日も彼が来てくれるはずだった。
たまたま、病院の外を散歩しているときに出会った彼は、とても優しくて、彼は私が外に出るたびにいていつしかよく話すようになって、私の病室までわざわざお見舞いに来てくれるまで仲良くなった。
雨の日には決まって調子が悪くなる。いつだったかそう彼に伝えた時、面会可能時間を超えそうになるまで私と一緒にいてくれた。
病室に取り付けられた大きな窓からは、二車線の道路がよく見え、横断歩道を渡っている人がよく見える。だから、いつも彼が来るのを窓の外を眺めてみていた。
なのに、なのに、なのになのになのになのになのに!どうして……!!
今日に限っては、窓の外を見なければよかったという後悔ばかりが私を襲う。
ずっと窓の外を眺めていた。だから、見てしまった。見えてしまった。
トラックがものすごい勢いで、彼に突っ込んだ瞬間を。彼はあっという間に宙を舞って地面に倒れた。その後は、わからない。看護師さんがすごい勢いで病室に入ってきて、カーテンを閉めていってしまったから。
その日から雨の日に限って私は過去に戻る。
彼がお見舞いに来てくれる、雨の日に横断歩道を渡ろうとしている。決まって彼はトラックに轢かれてしまう。私の大切な、大切な人が、トラックに轢かれてしまう。
窓越しだから聞こえるわけないのはわかっている。だけど私は必死に叫ぶ。喉が引き裂けそうなほど痛んでも、息切れでめまいを起こしても、発作が起きてうずくまっても。
彼を助けたい一心で、助かってほしいという願いを叶えるために。悪い夢のとおりになってしまわないように。
「夢が、夢が現実になってしまう…!嫌、お願い……!渡らないで!そのままでいて!!お願いだから……!!」
結局、何をしても、私の大切な人はあっけなくトラックに轢かれてしまって、私は涙を大量に流しながら体を起こす。
あぁ、私はまた夢を見ているのか。早く起きないかな。今日の夢は晴れているみたい。だったら、起きれば彼が会いに来てくれる。夢で雨が降っていれば、目が覚めると彼はトラックに轢かれてしまう。
「毎日晴れてくれたらいいなぁ」
「ふふっ、そうねぇ」
「あっ、佐々木さんおはよう!」
おかしいな、夢の中なのに私はなんで挨拶してるんだろう。
「雨音ちゃん、おはよう。今日の体調はどう?」
「んー、元気!」
夢なんだから、早く起きようよ。この夢じゃ彼には――叶くんには会えない。
そう、会えない。そんなのやだ。
いつも、どうやって夢から覚めてるんだっけ。
そうだ、いつも寝てるんだ。眠れば夢から覚められる。
ずっとずっと、夢から覚めていたい。
佐々木さんと話しているはずなのに、私は上の空でずっと夢から逃げる方法を考える。ずっと、夢から逃げられるにはどうしたらいいんだろう。
ふと、自分の腕に繋がれた、点滴の管を見つめる。
だめだめ、そんな事しちゃ……。
腕から外に視線を向けるとあんなに晴れていた空が、今にも雨が降り出しそうなどんより雲に覆われていた。
「雨が降ってきそうねぇ、雨音ちゃんだいじょう、ぶ……?雨音ちゃん?雨音ちゃん?!」
なんだかウトウトしてきた。少し息苦しい。目を閉じる直前に、透明な線がたくさん空から降ってきた。
「雨音……」
「ん、……」
優しく私の名前を呼ぶ声が聞こえて、目が覚めた。私のすぐ横に膝をつく人の優しい笑顔には見覚えがあった。
「きょ、うくん?」
「そうだよ、雨音」
私が彼の名前を呼ぶとくすぐったそうに目を細めて、優しく私の名前を呼んでくれた。
あぁ、やっぱり私は夢を見ていたんだ。叶くんがいるこの場所が現実なんだ。
「よかった、全部、全部夢だったんだ。ほんとに、よかった……」
潤む視界の中で彼に抱きつくと、叶くんが困ったように笑うのが見えた。けれど、その困り顔の中にはわずかに気恥ずかしさを含んでいるように見えて、少し安心する。
「ねぇ……」
「ん?なあに?」
「私、叶くんのこと、すっごく、すっごく、大切だよ」
「……!」
彼は無言だったけれどわずかに驚いたように息を呑んだのがわかった。寂しそうに笑って私の頭を優しく撫でてくれた。
「雨音、君はさ、僕の手を取ってくれる?」
そっと私の腕の中から抜け出した彼は、私に向かって王子様のように膝をついて手を差し出した。
「……!もちろんっ……」
涙混じりの返事だったけれど、きっと聞こえただろう。やっぱりここは現実だ。優しい叶くんが夢の偽物な訳が無い。
そっと彼の手を握った時、高い機械音のような音が鳴り響く。それは結婚式のベルのように私達を祝福してくれているのだろう。
以前書いた作品をいろいろと補足したり付け足しをしたりでの、今作です。今回も謎に包まれているような部分があったりしますが、そこはこの作品の魅力として楽しんでいただけると嬉しいです。
友人と相談し、メリーバッドエンドにしたつもりなのですが、いかがだったでしょうか。書き方はハッピーエンドに思えるかもしれないですが…。
最後に、ここまで読んでくださった読者の皆様に最大の感謝を。