あれ ? 私がパン職人みたいになってるわ?
あの後に私の体に入ってくれたのは、元パン屋のジュネさんだ。ジュネさんは若手の人気パン職人だったけど、ジュネさんのパンに毒を仕込んだ殺人が起きてしまいパンが売れなくなってしまった。
所謂風評被害である。
ジュネさんは、自分のパンを食べてくれた人が微笑むのが生き甲斐だった。それが……今まで喜んで買いに来てくれた人の足が遠退き、生活にも困窮していく始末。絶望したジュネさんは、風邪に罹患し衰弱してこの世を去った。死病ではなかったのに、気力が尽きていたのだ。
でも彼には心残りがあった。
自分のパンのレシピを、誰にも託さずにいたことだ。
彼は魔法騎士団の寮や本部にもパンを定期販売していた。
彼のお菓子のような甘いパンは、アレックス始めとする女子の騎士にも大人気だった。勿論調理パンも作成していたが、彼の得意なのはパンとお菓子の融合したものだった。
民間で売れなくても、騎士団等に販売していれば生活には困窮しなかった筈だが、ずっと根付いてきた地域民に裏切られたように感じた彼は落ち込んでしまった。時間が経てば解決したかもしれないのに。
「お母さん、もうお兄ちゃんのパン食べられないの ?」
母親にパン屋のことを聞く幼い少女は、閉店の看板のかかるパン屋の前で悲しそうにした。
「そうよ。お兄ちゃん、病気で亡くなったから。アンは、果物とヨーグルトのパン好きだったものね。他では売ってないものね。美味しかったよね」
母も娘もあの当時を思い出して、美味しい記憶を思い浮かべた。
それと同時に、ジュネの嬉しそうな顔も。
ヨーグルトの素材は、パンが水っぽくなる為に難しい品だった。かといって、ゼラチン等で固めすぎては良さがなくなるのだ。ジュネの多くの失敗を含む、長年の研究での案配が絶妙だった。クッキー生地のメロンパンも、パンと生地を別々に焼きクリームで合わせたものだ。クッキー生地にラズベリーやブドウ・オレンジ等、季節の果物を混ぜて焼き上げれば、季節限定パンの出来上がり。
粉の分量や果物の配合等、他者が真似しても上手く出来ないことで、ジュネの専売になっていた。
特別なことをせずともパンは売れるので、余計な時間や費用を当てて研究する者はあまりいなかったのだ。苦労せずにレシピだけ欲しい人は大勢いたが、ジュネはレシピを子供のように可愛がっていたので、雑に作られることを嫌い売買もしなかった。
値段は割高だが、パン2つ分くらいの値段。
ご褒美に食べると思えば食べられるだろう。
本当は希少価値があるので高額に設定し、貴族用に売ることもできるがしなかった。
みんなに食べて欲しいと思ったからだ。
材料費に僅か上乗せ程度の値段は、破格と言っても良いだろう。
でも、それが利用されたのだ。
1日20個限定の1人2個までの販売。
1人で作っているので、これ以上作れない。
儲けようと思っていない、研究中心の生活なのでこれが精一杯なのだ。
そしてある商家で起こった悲劇。
「あのパン屋の限定メロンパンなのですよ。是非一緒に召し上がりましょう」
嫁が珍しく気を使って購入したお土産だ。
いつもと違いわりと気の利いた土産に喜ぶ姑は、嫁と一緒にティータイムにそのパンを食べた。
姑は「ありがとう」と言ってパンを口にすると、嫁も微笑んで返事をしパンを食していく。2つのうち、1つは姑の好きなオレンジの、嫁は苺のものを。
そして食した直後、姑が吐血しもがき始めた。
喉元を苦しがって掻きむしる姑。
「苦し、助、て、医者を…………」
「ああ、お義母さん、すいません、すいません」
姑は嫁に手を伸ばすも、嫁は後ずさり泣いていた。
数えきれない思い出が瞬時に脳裏を駆け巡る。嫁姑の仲は悪くなかったが、5年経っても嫁には子供ができなかった。
そのことで、義両親と夫は夜間に揉めていたことを嫁は知っていた。
こっそり聞き耳を立てたある日、姑は夫に彼の幼馴染みの娘を勧めた。
「あの娘は昔からお前が好きだったのよ。あそこの家は多産だからすぐ子宝を授かるだろう。嫁のことは仕方ない、お金を多めに持たせて実家に帰そう。お金を持たせれば、無下には扱われないだろう。そのうち子がいる家に後妻にいけば、責められることもないだろうさ。私達が元気なうちに、多忙なお前の代わりに孫に教育をしてあげたいんだ。私が義母さんにしていただいたようにね。お前だって解っているだろう?」
夫は俯いていたが、顔を上げて姑の顔を見た。
そして「わかった」と、返事をしたのだ。
結局嫁には、仕事が一区切りついてから夫から話をすることになった。互いに愛を囁きあった者への最後の恩情だったのだろう。
夫の方から嫁へと求婚する為に嫁の家に通い詰め、やっと結婚した過去がある。
夫の家は大きな商家で、その妻になるのは大変に困難な仕事(帳簿や使用人の采配等)が肩に掛かる。大勢に囲まれて暮らすのだ、気も休まらないだろう。後継ぎを産むのも大事な役目だ。
それを全て熟なすことは出来るのか?
娘は幸せになれるのか?
嫁の両親は悩んだが、娘も商家の息子も大丈夫だと言う。
「僕が必ず守りますから」
「私もこの人が良いの」
頬を染め、幸福そうな表情の娘。
その言葉で嫁の父は、結婚を受け入れたのだ。
嫁の父は賛成したが、母は戸惑っていた。
商家の女将のことを知っていたからだ。
『頭の良い彼女さえも、あの家に認められるまで10年はかかった。とても厳しいと何度も弱音も聞いた。だが今は、誰もが認める商売人。普通の姑よりも、もっと厳しい人になった筈だ』
その思いもあったが、若い2人に押しきられて結婚を許していた。そんな苦しい思いを当時の嫁は知らなかったであろう。
そして嫁はできうる限り、厳しい指導の下、商家の仕事を覚え商家を盛り立てた。
そして仕事も落ち着き始め、子作りを望まれるようになってもその気配はなかった。閨の行為は毎日のように行われたが、月のものは来て落胆する日々が続く。義両親も最初こそ孕みやすいと聞く食べ物や精力剤を勧めるも、次第に口も出さなくなっていた。特に怒られることも嫌味を言われることもない嫁だが、落胆の気配は感じていた。
夫も庇ってくれていたが、辛かった。
いつ離縁の話をされるのか、いつも不安で重苦しかった。
そんな夫も離婚を決意し、嫁を捨てようとしていた。
嫁の両親は2年前に既に他界し、実家は従兄が継いで嫁と子供もいた。
嫁が帰る場所なんて、何処にも無かったのだ。
………………だから、こんなことをしてしまった
嫁は姑が倒れた後、同じ毒を飲み込んで倒れた。
使用人が気付いた時、2人とも既に息はしていなかった。
直ぐに医者が呼ばれたも、既に手遅れだった。
葬儀前の死因の検証で、パンに毒が仕込まれていることが解った。
そして嫁が飲んだ毒も同じ物で、商家で取り扱っている物だった。
嫁は賭けていた。
もし姑が苺のパンを選べば、1人で死のうと思っていた。
でも、姑はオレンジの方を食べた。
そして亡くなった嫁は妊娠していた。
謀らずも、待望の子供がそこにいたのだった。
結局家庭内の殺人と言うことで、公にされることは伏せられた。
それでも何処からか話が漏れ、ジュネのパン屋が関わった話が広まったのだ。
嫁が亡くなった後、舅は嫁への怒りを隠さず怒鳴り散らし、部屋の物を投げ続けた。そして疲れ果て、見ないふりをしていた亡き妻を思うと、悲しくて悲しくて泣き暮らした。夫もそうだ。亡くなった2人を思い泣いていた。そして自分の子供のことに対しても。
「俺が守り続けていれば、今頃は……………ああっ」
嫁が普通の状態ならば、きっと体の変化に気づいただろう。
でも、そのような精神状態ではなかった。
そして、死んだ嫁も後悔していた。
「わ、私は、待ち望んだこの子まで殺してしまった…………何て言うことを………………」
アレックスの元には、嫁とその子供とジュネがモヤモヤの状態でいた。アレックスはモヤモヤに向かってどうしたいか聞いていた。真剣な顔での憐れな魂への問いかけに、彼らは答える。
「お、俺はパンのレシピを誰かに渡したい」
周りを見ていなかったジュネは、死んだ後に店の前にあるたくさんの花束と哀悼の言葉を貰い後悔していた。自分のことでいっぱいで、悔しさしかなかった。もうダメだと思い込んでいた。
誰かに頼ることや愚痴すら言わずにいた。
悩みを相談して欲しかったと、店の前で泣いてくれる人も多くいた。みんな生活はカツカツで、金銭では頼れなかっただろうけど、心配はしてくれていたのだ。声を掛けられたことも忘れていた。
死んでから、やっと解ったのだ。
そして、小さいモヤモヤも言う。
「ぼく、もういちどぱんがたべたい。おかあさんがたべたとき、ぼくもおいしいっておもってたの。あれたべたいなあ」
それを聞いて、嫁のモヤモヤはまた泣いていた(ように見えた)。
「そうね、パン美味しいもんね」
「うん、たくさんたべたいな」
「そうね。食べたいね」
「うん!」
嫁はすすり泣きしながら、「この子の願いは叶いますか?」とアレックス聞いてくる。
「ああ、任せろ。叶ったら成仏しろよ」
「わかりました」
「たべられるの? すごいね」
ああと、頷くアレックス。
因みに姑はいない。
本人は誰に何を言われても退かない矜持を持っていた。
例え、殺されても自分の道を行くと言う矜持を。
なので毒殺は想定外だが、嫁の気持ちも解ると言って既に成仏していた。何も恨んでいなかった。
それを嫁に話すと、また泣いていた。
「何てことをしたのだろう」と。
アレックスは慰めない。
ただ「今度生まれ変わったら、同じことはしないことだ」と言うだけだった。
「痛たたっ」
腹部の痛みを感じつつエルーガの体に入ったジュネは、ジュネのバイト先に行く。そして「師匠に貰ったレシピなんですが」と言って、パン屋夫妻にレシピを見せた。そして手早くレシピ通りにパンを作って見せた。夫妻はびっくりだ。そして「是非買い取らせて欲しい、そしてこれからも働いて欲しい。勿論職人として雇うよ」とエルーガの中のジュネに言う。もともと優しい人達なのだ。でもジュネがいなければエルーガはパンは作れない。ジュネは勉強に集中したいからと言って、辛そうに断るのだった。
「バイトをしなくても、いつでも来ておくれ。あんたは娘みたいな者なのだから」
ジュネの名前を出したレシピは、パン屋夫妻に取っても垂涎ものだった。美味しいと有名で、亡くなったことを惜しまれていたから。もう既に風評被害はなく、食べたいと熱望する者で溢れていた。
そんなレシピだが、ジュネはエルーガが学校を卒業できるくらいの金額で譲ったのだ。かなりの破格の安さである。
そしてそのお金は、体を貸してくれたお礼にとエルーガに渡った。今はアレックスが預かっている。
そして嫁とその子供は、作りたてのパンを代わる代わるエルーガの体を借りて食べたのだ。
「痛っ、あ、大丈夫坊や」
「あっ、なんかぴりっとしたよ。いまは、なんともないよ」
「おいしいね、おかあさん」
「うん、美味しいね」
微笑みながら味わって食べていた2人。
生きているうちに、食べたかったと言うのは飲み込んで。
彼らは満足して光に溶けた。
「みなさん、ありがとうございました」
「おにいちゃん、おねえちゃん、ありがとうね」
手を振って見送るアレックスと、私の体に入っているジュネとモヤモヤの私。
そしてジュネも去っていこうとした。
「レシピを渡せから心残りはなくなった、ありがとうな。エルーガには少しだけど、このお金で勉強してよ。頑張ってね」
「ありがとう、ジュネ。頑張るよ」
「おうっ」
「今度はみんなに頼れよ」
「わかったよ」
そしてキラキラと輝いて去って行った。
ジュネのレシピを渡したパン屋は、今後繁盛するだろう。
でもきっと、ジュネと同じようにあまり儲けようとはしない気がする。そんな人達だから、ジュネも渡したんだと思う。じゃなければ、違う人に譲ったと思うんだ。
姑と嫁、子供が死んだ商家では、未だ悲しみに沈んでいた。
夫と舅は気力が戻らないらしく、店を甥夫婦に譲り隠居した。
どうやら店を守る矜持は、姑には及ばなかったようだ。
夫の後悔は子供のことばかりで、嫁には関心が薄いようだった。
所詮そんな気持ちは伝わるから、嫁はここに来ようともしなかったのだろう。
それは子供も同じだった。
母を守らない父には用はないのだ。気持ちだってない。
ただ恨んだりもしない。
無関心なのだ。
子供はきっと母と一緒に生まれ変わり、今度こそ幸せになるだろう。
アレックスが言うには、カランデレ元侯爵夫人やジュネが体に入ってくれたり時間も経過しているので、もう即死はしないと言う。
アレックスの宮殿で、そんな話をしていた私とアレックス。
どうやら体に入れる日も近いようだ。




