会いたい
少年は夢を見た。
まだ幼い頃のこと、少年には幼なじみの少女がいた。
二人は仲が良く、よく行動を共にしていた。
ある日。曇天が空を隠す夏の夕方の事だった。
勢いよく吹く空っ風とやや涼しげな大気の中で少年は息を吸ったり吐いたりしていた。
隣には例の少女が座っている。
少年は幸せだった。
まだ何も分からないが、少女がいてとても幸せだと、それだけで嬉しいと思っていた。
涼しい風に当たりながら少女は少年にむかって呟いた。
「私ね、明後日引っ越すの。」
少年は言葉を理解出来なかった。
何故だろう、突然のスコールが降り始めた時に人は傘を持っていない。
概ね少年もそんな感じだった。
降られ濡れるのが当然だった。
悲しいという感情もわかなかった。
ただひたすらに何故という言葉が頭の中を掻き回していた。
少年の口から言葉は出なかった。
いつもより早くなった呼吸からでる息がどんよりとした天気の中に反響しているように聴こえた。
周囲はいつもより暗く、薄く、空気さえも自分の周りから無くなったような錯覚だった。
その日は日も暮れて何も言葉をかわさずに帰路に着いた。
見慣れた町の風景も若干灰になったようで、大好きだったカレーライスは味がしなかった。
少年は眠れずに夜を過ごした。
雲におおわれて星の見えない暗い夜。
悲しかった。
ただひたすらに悲しかった。
疑問を吐いても答えは返ってこない。
それゆえに、余計に悲しかった。
深夜、丑三つ時を少し回った頃。
少年は家を出た。
眠れず考えがまとまらずただただ悲しいという感情を吐露する自分に嫌気が差して、夜町を散歩しようと考えた。
親に見つからないように、トイレの小窓から外に出る。
家のような囲われた空間よりよっぽど外の夜の方が空気が美味かった。
歩く度に虫の音色が風の吹き木々が揺れ動く様が、水辺で跳ねる小魚の音が自分の心に渦をまく疑問に静寂をもたらす様だった。
目的もなくフラフラと歩いていると、町で一番大きな支流にたどり着いた。
ただ十個の寸先も見えないだろう暗闇が川の先まで続いている。
これが少年には痛かった。
忘れようとする少年の考えをまるで意図したかのように掻き回してくる龍だった。
少年は川辺に座り込むと刻々と時間が過ぎるのを待った。
時間がこの気持ちの渦を鳴り止ますだろうと、龍が通り過ぎるのを待とうと。
どれくらいだっただろう。
川辺に来て半刻くらいだったかもしれない。
ひょっとしたらほんの一瞬だったかもしれない。
そんな時間にいるはずもない人の声がした。
「ねぇ、ここで何してるの?」
少女の声だった。
少年は耳を塞ぎたかった。
もう一緒にいられないと知って、二人の時間は一人の時間に変わると知って。
そして、一人の時間は二人の時間に代わらないと知っているから。
少年はしゃがみ込んだ。
足は水に使っていてひんやり冷たいと感じるのに、体全体は今にも燃えそうなくらい熱を感じていた。
何も考えられずただ涙がバレないように俯くことしか出来なかった。
嗚咽を漏らさないように黙り込むことしか出来なかった。
そんな少年のことを分かったように少女は続けて言った。
「昨日言ったことはほんとだよ。
だからさ、今日だけこっそり抜け出してあなたの家に行こうと思ってたの。」
少年は驚いたように少女の顔を見る。
まだあどけない目をぷっくり腫らし、声にならない声で疑問を垂れた。
少女はそんな少年を見て
「一緒に見たいものがあったから」と言い、少年の手を握って歩き始めた。
少年は手を引かれながら、支流を上っていく。
少女の手は少年の手より冷たかった。
ひんやりとした感覚が、川を流れる水の音が、少年を澄んだ。
少女は幾分か歩いた後に足を止めた。
そこは本流と支流が別れる場所だった。
周囲には木々が茂り普段生きてる世界と切り離された様で神秘的だった。
「着いた。」少女が言った。
少年が顔を上げるとその先には幾重にもなる蛍の光があった。
暗闇の中で点々とする黄色は月光のない今日の夜にある唯一の光であった。
初めて見た光景だった。
あまりに世離れした光景に思わず息が詰まる。
少女が手を伸ばすと光は少女に寄ってきた。
一定の間隔を保って周囲を照らす光に驚いて目を見開いていると、少女が呟いた。
「私、遠くに行くんだって。
親の仕事の都合でね。
ほんとは行きたくないって言えたら良かったんだけど、どうしてもダメみたい。」
少女の方を見ると少し微笑んだ様子で光を見ているのが見えた。
少女はそばにあった睡蓮の花を手に取った。
少年はその時絵になるなと言いたかった。
しかし、少年の言葉は少女の言葉にさえぎられた。
「私、睡蓮が花の中で一番好きなんだ。」
少年は睡蓮を見た。
少女は睡蓮の花弁を一枚一枚ちぎっては川に流していた。
本流の上流に流された睡蓮の花弁は支流と本流に別れていく。
それを見た少年は胸を抉られる気持ちだった。
途端に花弁を無くす睡蓮を見て少年は何も考えられなくなった。
ただひたすら、少女の事で頭が掻き回された。
花弁が全て散った睡蓮を川に流すと、それは本流の流れに乗って川を下っていく。
「帰ろっか。」
少年は少女の一声で本流を下るように歩き始めた。
睡蓮の後を追って。
前を歩く少女の事で頭が痛む少年は考えるのをやめた。
明日以降、こうして並んで歩く機会が訪れるとは限らない。
なら今だけでもと思い、考えるのをやめた。
夜風に吹かれながら、本流を下る少年は気持ちが良かった。
カラッと乾いた川風と少女の横顔が眺められて今日はきっといい日だと思った。
少年の家の前に来ると少女は言った。
「明日にはもう会えないと思うけど、私はいつか会いに来るからね。」
そう言って手を振ると少女は暗闇に熔けたように居なくなる。
冷めた手と少女の言葉が頭を反芻して、少年は今夜のことが幻でないと感じた。
家を抜け出したトイレの窓に戻りそっとトイレを出る。
部屋に戻り布団に潜ると自然と眠気が襲ってくる。
幾らか寝ただろうか。
気づけば日が昇り、部屋の窓には煌々と光が差し込んでいる。
窓際に置かれた花瓶は百合から待雪草へと変えられている。
目が覚めた。
真っ白な空間とちょっと新品のシーツと湿布のような薬品の匂いがする。
周りには誰もいない。
ただ電子音が鳴るのみだった。
しかし、一息つく間もなくその規則正しい電子音は不規則に揺れだした。
ドアが開いたのだ。
そこには一人の少女が立っていた。
「会いに来たよ。」
少女は俺の方へ歩いてくる。
少年は少女に向かって手を出した。
少女は少年の手をとると、まるで朧のように白に消えて溶けた。
この日少女はあの時の約束を果たしにやってきたのだろう。
あどけなさ残る瞳を向けた少女は少し大人びた少年と仲良く暮らすのだろうか。
喧騒に居る今日の朝にはもう誰も知らない事だろうか。
きっと二人は再会できた喜びに睡蓮の花を愛でているだろう。