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【短編集】けむりの家  作者: みけねこ
7/8

鳥の囀り

  


「お前ら頭がおかしいよ」

 興奮して目が血走った彼女を見ると“お前もどこかおかしくなっているぞ”彼は思った。


 年末から父が上京した際、彼は息子を連れて、彼の兄のもとを訪れることにしていた。なかなか予定が付かず、正月を少し過ごした。前日の晩まで、彼ら一家は父を頼りにして、おせちなんかを食べてだらだらと過ごしていた。というのも、兄のもとへ行くことがこの父親のひとつの必要な行事でもあったし、しかし彼にとってはどうでもいいことに肩入れする行事でもあって、ただの負担に過ぎない出来事であったからに他ならない。要するにこの行事はこの父親にできたひとつの隙であり、彼に対する借りでもある。

 その日、天候はすこぶる快晴だった。昼過ぎ、彼の娘と嫁は家に残して、車で出立するとしばらくして彼は飲物を欲した。途中のコンビニによるつもりでもあったから、別段何か考えあぐねることもなく、そのコンビニの駐車場で車の足を止めた。

「あんたも何か飲むか」と彼は父に尋ねた。父は相変わらず不器用な形で“ああ”といっただけだった。

 もうすぐ4歳にもなる彼の息子は「僕いらない」とはっきり答えた。

「そうか、でも途中でほしくなるかもしれないからな」

 彼がそう返しても子供には何の反応もなかったが、言葉通りに彼は考えていた。

 車から出ると、快晴の空から降り注ぐ日の光がやけに彼の横顔を刺した。目を細めながら少しの動揺を彼は覚えていた。それは彼という人物に時々ある不思議な感覚といってもいいかもしれないことだ。なにかしら彼自身、わたしはいつもどこか間違っていて、どうしようもない過ちを犯しているのではないかという妄想に憑りつかれ、自分が今何をしているのかわからなくなってしまうのである。

 車に戻るとその不安は的中した。

 ――住所はわかるか?

 彼の質問に父親は何かを拒むような態度をとった。

 わからずに出たのか? そう尋ねると、と父親は前日から食事をふるまったり、子供たちが遊びに来たりしていて、全然余裕がなかったじゃないか――とよくわからないことを言い始めた。携帯電話も忘れてきたから、居所を示す情報がひとつもないのだという。彼は兄とはもう数年会っていない。兄のことはもう兄とも思っていなかったわけであるし、父親が兄のもとに行きたいというのであるから、彼は別段兄の居所など知っておく必要もなった。

 ――時間になったからといってすぐに出立したのはお前だぞ。

 だから何だというのだろう。

 ――今日ナシだ。ナシにしよう。

 ――あしたなんかもういけないぞ。

 ――そしたら今年はもういい。ナシにするぞ。

 そうしたらここで終わりにしてもいいかもしれない。今年でこの行事を終わらせた方がよかったのかもしれないではないか、とも彼は思った。しかしそうさせない理由が彼のどこかで脳裏をかすめた。これは彼にとって家族という関係を証明する唯一の行事ではないだろうか。この行事を遂行しなければ、彼の家族はどこにもなくなってしまうのではないかという焦燥感が、彼をこのどうでもいいはずの行事に積極的に作用させているのは間違いのないことだった。

「とりあえず、家に戻ろう」

 彼がそう言うと同時に、子供が泣くように喚いた。

「大丈夫だから――」

 と彼は言いながら、車を自宅へと戻らせた。


 ――また宏だけ連れていくつもりなの?

 師走に差し掛かったころ、父親から来たメッセージを見て彼女が言った言葉だった。彼にはそのことがどうにも脳裏に残って仕方なかった。

 コンビニを出たのはもう3時前である。そこまで40分はかかる道のりだった。戻るにしても同じ時間はかかる。ただでさえ彼女は息子を連れていくことに反対であった。別段彼は息子をこのつまらない行事に誘って連れていくべきことかどうかはよくわかっていなかった。

ただ娘とさらに息子を置いて大人二人で出てしまうのは子の面倒を見るのも大変だろうと気にしていたために、そうしようと決めたまでのことで、無理やり彼が息子を連れて行こうとしたわけではなかった。

「このまま行ったら帰りは9時過ぎるな――、遅くなればこの子がかわいそうだ」

 彼から話を切り出した。

「だからやめればいいだろう――」

 父の返事にはあまり耳を貸してはいなかった。どちらかといえば、彼は彼女が息子を連れていくことに反対したことを気にかけていた。たまの親子水入らずと、その中に孫がいることは、彼にとっての親孝行であることが彼女にもわかっていた。――そしてわかっていてそういうことを言う彼女である。彼は胸糞悪くなっていた。彼は小さいころからこの親が嫌いであった。そして母親も兄も――。彼は、彼女にもそのことを散々聞かせてきたつもりである。彼は家族という不可思議な関係の重荷を抱えて生きてきた。そしてそれがどれだけ厄介であったか――。兄に会いたいという父親の希望に対して、彼がそれを叶える必要はないようにも思える。けれども、この親以外に彼の肉親はもういない。そのために彼にはこれが必要な行事のひとつであるようにも思えてくる。

「けれど、今日以外にチャンスはないよ――。戻って携帯を取ってからまた行くしかない。明日は明日で私も忙しいから」

「だったら高速に乗ろう――」

「高速だと片道1600円くらいではないか? ――往復3200円くらいではないか?」

「それくらいでもいい――、それに今回高速を利用すればどのくらいで向こうにたどり着けるかわかるから、いい機会だ。無駄にはならない」

「それならいいけれど――」

 息子はいつの間にか寝入ってしまっていた。チャイルドシートの背もたれに頭を突っ込むようにして顔を上げて口をぽかんと開けているその姿は、親のほかには誰にも見せることのない息子の姿である。

 家に一度戻ると、父親だけ携帯を取りに家の中へと入った。彼は息子の顔をもう一度見ながら、この事態の収拾をどう持っていくべきかと思った。

「二人とも寝ていたぞ――」

 父が車に戻るとそういった。二人とは彼女と娘のことだ。彼はそれならば好都合と思い、また兄のもとへと車を走らせるのであった。


 兄がいるところには記憶にある。

父がいつも言う。

「牛乳屋の裏だ。そこがめじるしだ。わかるか?」

 しかし、この親が言うには牛乳屋はもうなくなっているし、そこを目印にしようとしてもこの車のナビが牛乳屋を表してそこを指すわけがない。父のいうその場所は牛乳屋といわれる場所はもうシャッターも締め切られていて店舗も何もないところだということと、その空き店舗の上を貸しアパートとして利用しているということだけである。彼はもうそこにいる兄を見てもいない。もしかすればその場所は父が言うだけで、ただの幻想なのかもしれない。本当はもう兄は死んでいて、そこには兄外の誰かが住んでいて、父は彼に何かしらの教訓として今もなおその存在を知らしめたいだけのようにも思える。もう5年以上も彼は兄に会っていない。それなのに彼がなぜ兄が生きていると思えるのかといえば、父がそう話すからで、それ以外に何もない。――とすれば、もしかしてこれは父の記憶の中の嘘で、作り上げられた現実を彼がただうのみにしているだけのようにも思える。――兄は誰だっただろうか、実のところそのことすらも彼にはもうわからなくなっている。

出がけに息子が彼にこう言った。

「誰に会いに行くの?――」

「宏、お前のおじさんに会いに行くぞ――」

「オジサン?」

「そうだ。お父さんの兄さんだ」

 彼はしかし心の中で言葉をざわつかせていた。兄はこの子にとっておじさんだろうか?

 父は言っていた。

「あいつももうおしまいだな。――夏に居住場所の更新があって連絡を取ったんだ。お前のサインがいるからって――。そしたらメッセージの返事は〝こっちは体調がわりぃんだ‼ 勝手にすりゃあいいだろうが‼ だってさ。――しようがないからとにかく送った書類は返っては来たけど、字なんか震えちゃって、読むのもむつかしいくらいになってたよ――」

 彼はこの快晴の日の暮れていく夕陽を見ながら、自分が何者なのかを見失ったように思えた。


 年始のUターンが始まって、国道はせわしなく車の往来がある。渋滞とは言わないまでも、道は大部分車で埋め尽くされている。K県を縦にS湾まで走る国道はG号線までは信号待ちをほとんどせずに走ることができる。けれどA市を通り抜けるのは至難の業である。A町から高速に乗ればT海岸まではすぐに行ける。

「E市で混雑と出ているけれど、乗るだけ乗るぞ――」

「混んでいても大したことないんじゃないか?」

 それは確かに父親のいう通りであった。E市JCTではむしろ車が捌けて、K環状道はT海岸までほとんど車の影を見ることはなかった。

時間を見ると4時を回ったところであった。日はまだ町の陰の上にある。赤く燃えるような空に夕闇が襲い掛かってくる様を見ながら、彼は息子のことを憂いていた。そして鳥のさえずりような声でしゃべる息子がどうしようもなく可哀想に感じてくるのである。

 ――あいつももうおしまいだよ。

 兄はいつそうなったのだろうか? 最後に会ったあの日、兄はニタニタと笑いながら祖母の暮らした部屋の中で酒を飲んでいた。

「いいよやるよ」

 一升の酒を手土産と言いながら彼らにふるまっている自分に陶酔しているような兄を見ていると、父がどうして彼を援助しようなどというのかわからなかった。

 ――それでも面倒見るのは俺しかいないんだよ――。という父に、今の彼にどんなチャンスを与えたって、資産を投げうって仕舞うだけで使用もないことだということは父にもわかっていたはずであった。さんざん家族を罵倒して自らに酔っているだけで何にもなりえない兄の何に父は将来を見たのであろうか?

 ――あいつももうおしまいだよ。

 それはもうわかっていたことではないか――。あの時、父がことに出ていれば兄もまた、兄の名誉と誇路を保てたかもしれなかったはずである。

 ――あの時、もし訴えたら俺は仕事を失くしていたかもしれないんだぞ……。

 あの時、兄を悪者いし立てたのは学校側だけではない。兄を悪者にしてしまったのはこの父のためでもある。一言、あの好調に謝罪せればよかったのではないか? けれどもあの時、兄の学校の校長がうちまで来てわざわざこう言ったとき、兄の全部は終わった。

「わたしもそろそろ定年でして――、ことは大事を要するとは思いますが――、ほかの生徒のこともありますし――。何、原野さんのお子さんだって、まったく責任がないというわけではないのですから――、ここは波風立てることのないように――、その方が双方のためにも良いことだと思われますよ――。ですから今回のことに関しては、――ええ、穏便に……――」


 彼はまだ依然として車を走らせていた。高速道路は全く混む気配もなくスムースにT海岸のICで降りることができた。陽が山影へ沈んでいた。空は赤く染まってその先からだんだんと藍色の夜空がやってきていることがよく分かった。

「案外ICからあいつの家前は近いんだな――」

 ICの出入り口からすぐのここ4,5年でできたショッピングモールを過ぎると直ぐに兄の生活する家がある。彼は通りを折れて裏路地に回った。3階建ての建物の2階の部屋のひとつが兄の部屋である。エンジン音がやむと父はすぐに車から降りた。

「ちょっと見てくるから――」

 出がけに父はこういった。

 ――奴に会うわけではない。

 彼にとってそれは了解ずくのことだった。兄の手紙のことを聞いていたからなおのことである。おそらく兄にあったとしても大きな声で喚かれるか、ことによるとナイフかバットかを持ってくるに違いなかった。前の家を兄が出払った時、やはり扉や壁は穴だらけになり、押し入れや部屋の隅にはごみ袋が山積みになっていたという。

 父が階段を上がっていくのを見ながら、彼もまた建物のまどを見た。小窓からはオレンジ色の明かりがこぼれている。あそこはおそらくトイレであろう。どうせ消すのも面倒で点けっぱなしのままなのである。

 ――生きているか、確認するだけだから。

 これではしかし、生きていることも確認できないのではないだろうか? 父はすぐに下りてきて彼が思うことと同じように、ただわからないといっただけであった。

「まあ、トイレの灯りはついていたことだし、一応生きてはいるんじゃないか?」

「一昨年まではそれがよく分かったんだけれどな――」

 話を聞いているだけであるから実際のことは何もわかっていないが、一昨年まではT市の生活課が兄の許を訪れて就職支援などを行っていたが、配置換えで担当者が入れ替わってからは全く情報が入らなくなったのだという。

 彼はいずれにしてもこれ以上詮索のしようもないことはわかっていた。

「あまり、長居しても来たことがわかっちまうよ――」

 彼はそういって父を車へと戻すと、また車のエンジンをつけ、その古びた建物をあとにした。


 海岸までいかないか? と言い出したのは、彼からだった。

「ああ、予定よりも早く着いたからな」

 兄の住む建物から海岸までは目と鼻の先にある。車を走らせれば数分のところである。

 彼はこの子にこう言い聞かせて出てきた。

「大きいお砂場へ行こう――。海もあるぞ」

 彼の息子は以前に同じところを訪れていた。それは彼がここへ時々足を運んでいるからであり、しかしその時、兄の何を思っているかといえば、別段何に関しては興味もないようにしているわけで、場所という概念に兄が出てくることのほか、別段彼自身の生活の中で、兄はいてもいなくても変わりなくなってきていた。

 C海岸に着いた頃にはすでに陽は山際へ沈んでその輪郭の端だけが紅く燃えるような色をしていた。車を降りて、子供もおろす。風は詰めてく少し強めに吹いていた。

 彼は息子を海岸まで連れていく。

「きれいなお空だなァ、宏」

「ただの夕方だよ」

 なかなか現実的な子供である。そしてこの子を見ていると、ある一つの胸糞悪さが彼を襲う。去年、彼が父親の住む長野へ向かった時のことである。その時も今回同様「またこの子を連れて行くの?」と嫁が言う。その前には「お義父さんに子供を預けるとなんだか取られちゃったように感じて嫌なの」「宏、もしかしてお義父さんのところに行ったまま、もう帰ってこなくなっちゃうんじゃないかな?」「お義父さんは宏のこと養子にしたいとかいうんだもん」

 彼にはそのどれも当てはまることはなかった。子供を養子にしたいというのは相続を養子にした孫にすれば税がかからないというだけの話で、本当に養子にして彼の家族から切り離してしまおうと考えているわけではないからだ。

 しかし、嫁はいくらそう話しても彼の父のことを疑ってかかり、不信感を募らせた。彼には嫁がどうしてそうなるのか理解できなかったがこれだけは守ってほしかった。

「今のこと、絶対に父親の前では言わないでくれよ」


 彼は浪打際に息子を連れていき、波に向かったり、押し寄せる波から体を引いて逃げたりと、それらを繰り返して見せた。

 子供はそれを見てとても嬉しくなり、同じことを何度も繰り返した。

「ほらほら、早く逃げないと濡れちゃうぞ」

 子供はキャーキャー叫んで波に向かったり、逃げたりを繰り返している。

 父は寄ってきて話した。

「帰りにもう一度見に行こうか?」

 彼も同じことを考えていた。牛乳屋の前についたときは、まだ日が暮れる前で明るかった。暗くなればもしかしたら部屋の明かりがついているのを確認できるかもしれない。

 彼は「そうだなあ」とだけ相槌を打っていた。


 5時をすぎるとすぐに夜がやってくるのではないだろうかというくらいに、都心の方は建物の灯りが瞬きはじめ、夕闇は天を覆っていく。山際の紅い陽の色もいっそう紅く暗くなっていく。

 そろそろ帰路につこうと思い、子供に声をかけた。父は公衆トイレに足を運んでいるようだった。彼も子供をそこへ向かわせた。

 トイレから出るとあたりは真っ暗だった。海風が冷たく、息子は

「寒いよ。怖いよ」とくり返し言う。

「そうだなあ、帰ろうか」

 彼がそう言うと息子は喜んで足踏みをした。

 車に戻って父親と話した。

「牛乳屋の前、通るだけ通ろうか」

「そうだなあ」

 もはやどうでも良さそうにしている。

 C海岸か、N湖町を抜ける。途中に牛乳屋があるが、やはり二階の灯りはついていなかった。

「携帯には連絡が来るから、生きてるだろう」

 父はそれだけ言ってあとは物静かになった。

 彼の息子は、大人しく外の風景を眺めている。

 帰りも同じ道を行くしかなかった。


 帰宅は7時前になった。思ったよりも早く帰れたので彼は安心していた。嫁は娘と寝室にいて声をかけても返事はなかった。

 まだ夕食はできていなかったので、息子と一緒に風呂に入ることにした。

「夕食は風呂から出る頃に出来てるよ」と父が言ったからだった。

 夕食は鍋にした。おせちなんかはもう食べ尽くしてなかったし、彼はお酒を飲みたかった。7時半すぎまで待つと鍋が食卓に乗った。

 彼は一度2階にある寝室へ行った。

「夜ご飯ができたけど食べるか」と嫁さんに訊いた。

「この子のがめを覚ましたら大泣きするでしょう?」

「食べないの?」

「私はいい」

 彼は違和感しかなかった。別段そんなに慎重にならなくても問題はないはずだ。

 彼は一回に降りて、食卓に座った。父は食器を洗っている。

 彼は先に食べることだけを告げて、子供に分けて、自らも箸で取って食べ始めた。去年の暮に貰った獺祭が一合ほど残っていたので、それを飲みながらいっしょに具材を頬張った。


 彼は酔ってくると腹が減ったのか鍋の具をガツガツと無心に食べ始めた。子供にもすすめるが、ぼんやりゆっくり食べている。父親もやがて橋を持って食べ始めた。すると彼はいつの間にが時間が9時を過ぎているのに気がついた。取り皿の具材だけ食べて風呂にしなければと思った。

 と、そう思った時だ。2階からバタバタと音がして扉が空いた。嫁だった。目が血走って、膨れ顔とはこういうのか、本当に顔が真っ赤になってこういうのだ。

「お前らは頭がおかしいよ!!」

「なに?」

 彼が口にできた第一声はこの程度だった。

「もう宏も眠そうにしてんじゃん。いつまで飯食って酒なんか飲んでんだよ!! ふざけんじゃねえぞ!」

 とだけ言ってバタンと扉を閉めてまた嫁は二階に上がった。彼の内心はこうだ。

「やったかーー」

 モーツァルトが姑に嫁に対する扱いが酷いとガミガミと延々言われたときに鳥の囀りのような曲をひらめいたという逸話があるが、そんなもので済まされるわけがない。


 彼は一も二もなく突然喚き散らした嫁が許せず、二階の寝室の明かりをつけて話した。

「おい、どういうことだ」

「なに、やめてよ。娘が寝てるんだから」

 彼はやはりと思った。卑怯な女だ。子どもを盾に自らの発言の責任は取らないつもりだ。それはこの男にとってとても残念な結果だった。もう今更後には引けない。次に出た言葉はこれしかなかった。

「だったら、出てってもらうしかないな」

 嫁の表情は変わらない。

「金は払ってやるから、今すぐ出ていけ!! 子供を連れて実家に帰れ!! もう戻ってくるな!」

 彼は嫁に怒鳴ったが、嫁は意に介せず無表情のままだ。

 彼は嫁のことはどうでも良かった。子どもなど盾にしようが、ここまで来たら関係なかった。向こうが非道なやり方を取るならこっちらも同じようにやるだけだ。当たり前ではないか。

 彼は寝ている娘の脇を抱えて寝台から放り投げた。床にゴンと音を立てて落ちた娘は、悲鳴を上げて泣き叫んだ。

「早くこいつと、下にいるお前の息子、一緒に連れて出て行け!!」

「やめてよ」

 嫁は投げられた娘を抱きかかえてこちらを見た。

「ああ!? 関係ねえだろうが! 俺等は頭おかしいんだろ? ふざけんなはこっちの台詞だろうが! 何様だ。子ども盾にして言いたいことだけ言いやがって、そんなに嫌だったらな、さっさと出てけ!! わかったのか!!」

 嫁は黙ったままだ。娘はまだ泣いている。

 彼はそのまま黙って1階に降りた。宏はまだ食事を食べ終えていなかった。

「宏、早く食べな」

 彼は残っている鍋の具材を少しずつ彼に食べさせた。そうしているうちにまだバタバタとニ階から音がして、バタンと扉が空いた。

 嫁が娘を抱えて泣きながら来たのだ。そして父親に向かってこういった。

「全部お前のせいだ。畜生! 全部お前のせいだからな!」

 彼はもう飽きれる他なかった。もはや恐喝に近い言い草だった。彼は黙って息子に食事を与えているが、息子も怖くなってその場で泣き始めた。父はそれを見るやいなや言う。

「どうしたっていうんですか?」

「うるせえ! あんたのせいだ! ふざけんじやねえぞ!」

「愛衣さん、私のことは何を言われたっていい。けれど子どもたちの前でそんなことは言っちゃいけない」

「畜生!」

 それだけ話すと嫁は二階へまた逃げた。

 彼はそれを追いかけた。

 二階の客間で続けて怒鳴り合う。

「お前なんだってあんなこと言ったんだ」

「子供があんなに眠そうにしてたじゃない。どういうつもり?」

「そう思うなら連れたいってくれてよかった話だろう」

「私に何でもさせるの?」

「お前、わからないだろうが、あんな親でも俺の唯一人の肉親だぞ、もう帰ってくるなとでもいうのか? お前がいつも言ってるのはそういうことなんだぞ」

「うるさい! 二人してそうやって私を悪く言って! ふざけるんじゃねえ!! おかしいのはアイツだ!」

 その瞬間、彼は自分でも何をやっているのかわからなくなっていた。気がついたら彼は嫁の顔を何度も殴っていた。

 気がついたときには嫁の目のはしと口の端が紅く腫れていた。


 数時間経った。

 子どもたちは父親とともに一階の客間に布団を敷いてたち親が寝かせた。

 彼は嫁と二階の客間で互いに座っている。

「もうこれで言い逃れできないね」

 嫁は高圧的にそういった。

「自分の言ったことをよく考えてみろよ。別に警察に申し出たければ出ればいい。そもそももう家を出ていけと言ってるんだ。私が捕まれば仕事がなくなって、私は養育費を払えなくなる。そうしたらアンタは働きながら二人を養わないといけなくなるぞ」

 この場合、たしかに警察沙汰にするのは利口ではなかったであろう。

 親は翌日早々、家をあとにして1階は子どもたちだけ寝ていてあとはもぬけの殻になっていた。

 彼はさらに嫁にいつ家を出るのかと言い寄ったが、未だに答えが返ってくることはなく、またいつもの生活に戻っていくだけであった。


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