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【短編集】けむりの家  作者: みけねこ
5/8

学生日記


 かすんだ記憶をたどるとここが今どこだかわかる気がする。けれど、視野がぼやけていつまでもここがどこだかわからない。ここはどこだろうか、天井らしきものが見える。朝の光で漆喰の壁の白さが妙に明るい。

「飯!」

 と声がしたのは、父がそう叫んだからある。

 私はその声で眼を覚ました。いつになく身体のだるい朝だった。

 最近は毎日夢を見た。

 そのほとんどが恐ろしい悪夢だった。

〝悪夢〟と言葉に出来ても、どんな悪夢だったかはよく覚えていない。幼いころの嫌な記憶のようでもあった。

 それだけ断片的にわかった。

 その夢には必ず母親が出てきた。

 ――夢の中でマザコン。――御恐ろしい。


 家出娘と付き合っていることがあった。その娘は夜な夜な忍んで家の庭に現れて、私の部屋の窓を叩いた。

 一晩話すと大抵どこかへ消えてしまう彼女は、私を誘うような素振りで夜のうつらうつらしている頃に来ては言うのであった。

「暇、あるか?」

 そんな彼女と花見に行く機会があった。大勢人が集まって、私と彼女も学校の知り合いと会った。綺麗な桜の花を見るでもなく酒を飲んで話をした。その時私は酒を飲み過ぎたので、帰り途中の駅のベンチで寝そべったりして、休み休み帰ろうとしていた。すると、彼女が心配したらしく、女友だちの家で私と彼女で休ませてもらえるようにしてくれた。

 私を見兼ねたその彼女の友人は、私にお粥を作ってくれた。出汁の素を入れすぎた雑なお粥だったが、いや、助かった。

 私がお粥を食っていると、その友人は煙草を吸い始めた。

「やめたんじゃなかったの?」

 彼女は嫌気がさしたかのような言葉尻で、友人の背中に向けて棘のある言葉を突き刺した。

「吸わないと手首切りそうになる。」

 その友人は力なく、けれどもはっきりとそう言った。

 私はこの萌黄色の温もりのある絨毯に、血飛沫が汚す瞬間を想像した。

「お粥、うまいね。」

 その友人は無理に私に微笑んだ。心にはその微笑みはないようだった。

 その日彼女はその友人の家に泊まり、私もその傍で寝た。

 寝ながらまた私は、その友人の血飛沫のそれを思い起こしていた。その時、とあることを思い出した。最近よく見る私の夢はそんな恐ろしさに似ていると何となしに思ったのだ。

 ロフトみたいな板の間の二階が寝床になっている。

 目覚めた時、私はそこにいた。

 屋根から飛び出た窓が一つある。その窓から注がれる光の筋をぼうっと眺めた。埃が舞って散っているのを目に焼きつくほどに見て、何か湿っぽい空気と一緒に煙の匂いがしてくるのに気がついた。恐らく父がこの山小屋の外に在る竈で朝食を作っているのだろう。その匂いが窓から這い上がってきているらしい。あんまり煙が入ると臭うので、私は急いで窓を閉めた。私の腹は何気なく空腹を伝えていた。

 一階の床はコンクリートで固められただけの土埃の酷い所である。一枚板の上等なテーブルが一つ真ん中に楚辺って、マルタの椅子がちょんちょんちょんと、その周りを囲っている。それ以外には厠があるのみであとは何もない。管理人はいないが、登山客がいれば泊まれると言ったところである。そしてそんな我々が登山客であった。

 小屋から出ると確かに父が竈に向かって食事を作っていた。

 私と父の中で挨拶と言うのは交わしたことがなかった。私は黙って持参したポリタンクから水を捻って出して、顔を洗った。

 父は釜のそばでしゃがみながら飯盒で米を炊いて、レトルトのカレーを温めている。その姿は何だか子供が外で遊んでいるのと同じような無邪気さを醸している。飯盒が火からずらされて置かれているので、私はその火の上に鍋を置いて湯を沸かした。

 父は目を細めて私の鞄から箱をとって、そこから煙草を一本くすねた。火をつけて一本呑んでいる。

 ――また勝手に吸いおるのか。

 それを見ながら思った。

 父は何かを威圧するような態度で立ち上がり、薬缶に火を当てているところを見ている私を見降ろして言った。

「やっぱり山では予報はあてにならん。早く下りないと雨になる。」

 ――昨日の予報は確かに晴れだった。

 ラジオからは今日の予報が繰り返し流れていた。私は沸かした湯で珈琲を入れた。父もくれと言うので二つのコップにインスタントの粒を入れる。湯で溶かすとプクプクと泡が少し湧いて、それから焦げ臭い珈琲の匂いがした。気がつくと辺り一面霧で、視界がなかった。

 私は純粋に感嘆した。

 風が強く吹いている。起きた時の湿っぽい空気はこの霧のせいかも知れなかった。早くしないと本当に雨になるかも知れない。

 しかし、これは面倒なことになったと思った。

 下りるのに雨とは思わなかった。――とかひとりでに呟いた。それで、何となく私の友人fがしばし威勢よく言っていたことを不意に思い出した。



 ――なぜ、山に登るのか。

 fはいつも唐突にその言葉を口にした。彼も山に登る男だった。自分で言っていて面白いと思っているらしい。山の話をすればいつもそればかり言っていた。私にはそういう思い込みの激しいfが面倒臭くて莫迦らしかった。そのためか一々こうして記憶に残ってしまっているのだった。だが、こういうfの莫迦らしさが、この時は私の言葉としても浮かび上がってくる感情のこもった言葉のようにも思えた。

 ――私も父もなぜ山に登るのだろうか。

 死ぬためかな。

 何となくそんな事が頭をかすめた。それ以外にこれと言った決め手のある理由が見つからなかった。

 ――或いは人間ではなくなるためか。

 fの回答は本当に莫迦らしい。

『そこに、山が、あるからさ。』



 しかしfの野暮ったい繰り返しの語が、この時だけは素直に頭に響いたのだから私は不思議だった。確かに山に登ると言うのは、そこに山があるからであった。そしてそれ以外に何もないからということなのも確かなことだった。そういう意味でfは間違ってはなかった。然しそれを突き詰めずにただ言葉を口にしているだけなのだから、結局fは、阿呆としか言いようがなかった。

 fは兎も角として、私と父はこうして時折山に向かって旅行をした。それは習慣みたいなもので、毎年夏になると山に来て、人の営みと言うものを忘れた。

 ――生きていたって。

 私は山に登るたびにそう言う思いをずっと繰り返した。そしてそれ以上を言葉として訳さなかった。



「母親からまた手紙があったな。」

「なんで。」

「俺の誕生日だったから。」

「それで?」

「なにも? ――ただ、神様に導かれ日々どうのこうの言ってて、結局俺の事はどうでもいいらしいね。」

「へへ。」

「何のために連絡よこしたんだか。」

「気持ち悪いな。」

 父は飯盒から米を出して皿によそった。レトルトの袋を破いてその米にかけて食べはじめた。

 私もそれを見て同じようにした。



 ここのところ毎日見ている母親の夢は、覚えていることが何一つない。しかし母親の夢であることは確かで、こうして毎日それを追っていくと、やがて私は子宮の中に帰るのかと思う気もしていた。けれどもそういう気がすると何故だか私はプールに飛び込むところを思い起こした。そのまま息もしないで深く潜水して、そのうちプールの底は底無しの大きな水溜りに変わって、私はどこまでも潜る事が出来るような気がして愉快になった。

 いつしか見たスコットランドの映画に、麻薬中毒の男が間違って便器に薬を落としてしまい、それを取るために便器の中に飛び込んだら、そこはどこかの海の底だったというシーンがあった。そんな感覚にも似ていた。便器の中で薬を取り戻すと男は声にもならない喜びを叫んでいた。

 ――それは水の中だから声にはならないだろうが。

 私は、食事を済ませてから小屋に戻りしばらく無造作に本を読んでいた。

 戦後、日本で既婚の老女が米人に雇われて春本の翻訳をしながら、若い日を思い出し、その翻訳の手伝いとして雇った大学教授の男と家の前の坂を眺めながら、逢引をする話であった。そして、それをそのまま小説にして老女は夫に復讐を果すと言うものであった。

 然しそれを読んだとして私に何一つとして考えは生まれなかった。前にも後にもイメージは起こらなかった。ただ読んだだけで空気の体積でも確かめるかのように慎重に息を吸って、その味を確かめた。

 そして呆然としていた。

 父が一生懸命に飯盒の容器を洗っていた。それを見ていた。私に何か思う事があっただろうかと。

 やがて心臓の鼓動だけが気になった。それを思って、不図、この本の世界にどっぷり入り込んで、そのまま記憶もおかしくなってしまいたいと感じた。

 けれども依然として、そういった感情はフツフツとわき出てくるだけのことで、頭は空っぽだった。

 私は、この小屋を眺めれば眺めるほど、そのうち平衡感覚を失っていった。

 そして段々自分が何をしているのかも分からなくなって、そのうち悪夢は現実で、今が夢の中なのではないかと言う風にも思えてきた。

 そんなことに現をぬかしていると、私は生きたって死んだってあまり変わらない様な気がするのだった。

 ――もしそれが自由だと言うのだったら。

 生死なんていうものは誰も構いはしないだろうと思った。こうした飛躍はどうにもならない。自分自身もどうすることもできない私を気付かせた。しかし私は依然として何の感慨も浮かばなかった。揚句、自分で自分を嘲るように笑った。

 私はこの不毛さの先っぽで俄然、笑いが込み上げたのだ。



 自称秀才と呼ばれた男がいた。根岸高男と言った。彼はその渾名に似合わず俗な人間だった。なのに、こう、いつも、高飛車なのだから可笑しかった。自分の認める物が世界で一番と言いたいような論理が彼の言葉をいつも作り上げていた。

 根岸と私は同じ研究室で知り合った。私は折角同じ研究分野で大学を卒業していく仲なのだからと思って、根岸を良い奴として見ていく他はないと初々しく接していた。然し彼はいつも私の話には何だか明後日の方を見ていたので、私は別で彼の親しい友人に彼の事を聞いてみることにした。

 答えは予想通りだった。

「よくあんなのと一緒に居られるね。」

 そう答えたのは、然し彼の最も親しい友人であった。けれども険もなく言えるその台詞を聞いて、その人は彼を友人とも思っていなかったらしいと私は思った。

 ――こわい、こわい。



 根岸は人からデブと莫迦にされていたが、彼自身は気付いてはいなかった。洗いが足りないのか、いつも服からカビの臭いがした。甘ったるい音楽を聴くし、聴かせたがるし、音楽の話をよくしたがって面倒な人間でもあった。日本の音楽なんてサブカルチャーもいいところなんだけれども、それが大層お気に入りらしく、とても素晴らしい代物を見せつけたかの様に聞けと強要してくるので、私は心で嗚咽しながらもよく話を聞いていた。然しそれは彼が自称秀才と言われるだけあって、自分がすべて一番という人柄そのものであった。そして渾名を謳い文句に許してやる他なかったのも事実だった。

 ――まぁ、自称秀才だから仕方あるまい。

 と、こう言った感じである。



 根岸はどうやら自身曰く、何に関しても通であり、特に強調して言うのが音楽の素養があるということだった。詳しくは彼自身が語りたがらないから分からないが、自分で自分を評価しているところがまず面白い。

 私はある時ジャズバンドを聴いていた。そこで思い付いて結構良いからと勧める様にかるく根岸に聴かせてみた。

 少し聞いて根岸は

「ただの室内音楽じゃん」と言って予想通り聞く耳も持たないで莫迦にした。

 それで私は

「ジャズバンドだからね。」

 と言って根岸を遠回しに諫めた。

 そして加えて、

「でも、アナタはそれほど良いものを聴いてきたんですね」と言った。

 根岸はにかにかと笑った。

 ――ほめられたとでも思ったのだろうか。

 私はため息だけついて黙った。

 そんな根岸の家に行くことがあった。

 然しこれはマズかった。

 その時根岸は、自分の部屋で好きな音楽を聴きながらライトノベルなんかを読んでいた。そしてそう言ったものの本を何故か執拗に私に薦めてくるのであった。よく見ると彼の部屋の本棚はゲームの取り説と攻略本の他はほとんど漫画かライトノベルだった。

 初め私は根岸に二の句も告げさせないようにして断った。

 それは根岸の薦め方が余にも乱暴で強要するような態度であったためだった。それからこの私と合いそうもないその趣味に圧倒された。ゲーム機の横でソフトが山積みになっている。壁じゅう本棚になっていて隙間なく本が敷き詰められている。絨毯は埃っぽくて体じゅうが痒くなりそうだ。洗濯物がカーテンレールに無造作に掛けられていて、部屋は湿気っぽい。ブラウン管が青く光っていて、それだけ妙に時代から取り残された感じである。パソコンはノート型で、その横にはコンパクトディスクがケースに入ったまま山になっている。ベッドには猫がいて、毛だらけになっていた。t君はその猫と一緒に横になって本を読んでいる。私は六畳だろうワンルームの片隅に座って、本よりもこの狭苦しい部屋にどことなく嫌悪感を覚えた。

 ――彼の部屋だ、彼の部屋がここにある。

 しばらく沈黙した後、然しそれでもまた、同じようにとりあえず執拗に薦めてくるので、私は仕方なしにその薦めてくる一頁だけ読ませてもらうことにした。

 ――だけど、こんな気だるい、幼い読み物。

 嫌だと思った。お伽話に毛が生えたように見えたこの文章が、この時は眼に痛かったのである。そして私はやる事もないので、その部屋の隅で蹲るようにしてこの時の情景を記すことにした。

(身もだえそうです。この音楽も、この部屋も。彼は幸い本に夢中なので、私はそれ以上の事はありませぬが。)

 通の根岸が良いと言う甘ったるい女の歌と、このいやったらしいほどの軽い音楽は、私の腐った部分をくすぐる様だった。唾液の粘っこいような、そんなふうな歌が部屋中に響いていた。

「お前は、仕事は探しているのか。」

 根岸は急に話を変えてきたので、私はびっくりして眼を見張った。

 が、即座に、シリアスに

「いや、まだ何もしてはいない」と答えた。

「俺は、就活はしない事にするよ。」

 彼の言葉に私はさらに目を見張った。彼はしばらく私の言葉を求めるかのようなそぶりを見せたが、やがて本の世界に戻った。

(ただ、仕事を探さないと宣言されて、何も言えませんでした。)

 然しそうした拒絶したげな感覚を突き付けられて、そう言えば私は、今こうしているのと同様に、何か漠然とした世界に身を投じているのと同じ様に、その存在の認識もされずに消滅しようなどとも考えているのかも知れなかった。

 ――生きていれば楽しいこともあるか。

 不毛な事を考えていてそこまでたどり着けば、私は正気をとり戻せた。それから、それだけを感じることが出来る時だけは、生きることは、心地よかった。思えば、そう言う時以外は死んでいくことだけを思っていた。その時間、また自分は何をしているのかも分からないまま呆然と時を過ごしていることも知っていた。朝起きて気分が良ければ吉、あとは一生懸命になる他は今私が読んでいる本の中身の老女のように、自分が思うままを夢想する。そして、しかし実際は、自分の体調の事ばかり考えていなければいけなかった。

 眼が覚めたから、起きようと思う。

 腹が減るから、飯をこしらえて食う。

 疲れたから、風呂に入る。

 眠いから、寝る。

 本当の毎日はそれだけだった。

 そして眠る前にはfが言っていたこう言う言葉を思い出した。

 ――今死ぬも一興、明日死ぬのもまた一興。

 ここのところ毎晩、頭の一片でそうした事を考えながら同じことを繰り返して、疲れて寝た。しかしもう一片では、確かに感じることのできない生き恥を何処かで宿しているのに気付いていた。それは、別段、死ぬことは考えられたとしても、それに向かう事は出来ない様であったからである。

 ――他人も同じことかな。

(たぶん、恐らく。)

 私自身、人間として、同じ土俵にいたいと言う気持ちだけはある様だった。

 根岸の家に招かれてから数カ月後の事だった。卒論の中間提出で私たち四年はみんなが忙しい時期になった。私もそれであたふたした日々を送らなければならない時期になった。

 根岸はそんなある日、今日飲みにでも行かないかと言って私を誘ってきた。私は忙しさのあまりににべもなく断ると、彼は私の姿を横目に流して去った。私はみんな忙しい時期に何を考えているのかと不快に思った。けれども、すぐに忙しさでそんなことは忘れた。

 


 卒論提出には先生の印が必要だった。

 そのために私は研究室に先生を訪ねる機会があった。

 私は、そこで根岸に会った。根岸はt君と先生と三人で酒を飲んでいた。

 ――そう言えば根岸は酒にも通だと自分で言ってたな。

 私は先生の赤くなった顔を見ながら瞬間感慨に耽った。そして思わず、

「おい、提出は済んだのかよ」と根岸に向けて言った。いや、この場合は言ってしまったに等しかった。

 だから私はすぐに、しまった! と思った。

 ――人の事に構っている暇はないのに。

 酔って機嫌よくなっている根岸は、

「大分前に済ませた」

 とか、先生にも確認を促すように言って

「そういうお前はまだなのか」とか他にも

「のんびりやってるんだなぁ」などと、偉そうにして説教くさく語りながら

「俺にはプライドがあるから、」と言った。

 私はその一言に驚いた。

 ――で、次の句はなにか。

 と思わされて思わず唖然として構えてt君を見た。

   焦ったりはしない?

   人よりは優れている?

   俺は秀才?

 いずれにしても、変な臭いを醸す言葉なのは確かだったので、

 ――莫迦?

 と、言いたかった。

 先生も何だか困ったような顔をして私を見ていた。

 私は落ち着いて肩の力を抜いてからt君には次の言葉はないのだと気がついて

「俺には君の言ってることの意味が分からない」と言った。

 そう言われた根岸は私を、まるで汚い物を見る様に睨みつけてただ黙っていた。

 私は背筋を伝う冷ややかなものも感じ取れる気がした。しかしそれはほとんど感じ取れずに萎えた。

 つまり、余にもばかばかしくて、

 ――何だ。プライドって!

 なるほどしかし、みんな忙しい中、こいつだけそれを俯瞰したいがために、そう言う事を言うのか。

 私はこれ以来根岸とは口をきかなかった。

 話す度に何か失望させられる気になるのが嫌だった。

 然し、いずれにしても人が生きるのだったら誇りだけは持っていたいと思うということなのだろうと根岸の事を思い出す度に思えた。

 私はそう言い聞かせて納得するしかないような気がするのだった。



 父はいつの間にか飯盒の洗いを終えていた。そして私の弄んでしまった本を取り上げて鞄に押し込んでから言った。

「早く支度しろ。」

 そして私と父は山を降りる支度をした。

 父も私も、合羽を用意して山小屋をあとにした。

 霧の中、視界の届かない世界に少しずつ歩みを進めながら私も父も黙っていた。山道は少しずつ下っていた。道の周りには苔桃の木など腰ぐらいの背丈の植物しかまだなかった。虫や動物の気配も感じられない。不思議な世界であった。

 雨は周りの木が身長を超えたぐらいで少しずつ降り出した。

 父も私も用意してあった合羽を着た。

「滑らないように気をつけろよ。」

 父が言った。

 然し黙って私は道を降りた。

 忘れた事を思い出していた。それは忘れてしまおうと思って忘れたことだったが、どうやら忘れきれずに覚えていたらしかった。

 やがて山道はぬかるんで、足を下ろしていく度に滑りそうで怖かった。父も黙って一生懸命下りている。延々続く道を行くと言う事の何が良いのだろうか、私には分からないが、こうしての山登りをしたのだから下りなくてはいけないのだった。ただ樹木の匂いと、冷たい空気が心地よかった。

 そして山道と自身の歩調と葉に当たる雨音と、鳥の声と前を歩く父とでリズムが出来た。そのリズムを追いかける私は、それを無心に取り組む他に、考える事があった。

 然しそれがどうして考えているのか、分かった事ではなかった。

「なぜ山に登る?」

 ――そこに、山が、あるからさ。 

 つまり、山に登るとfを思い出してしまう訳で、――とりあえず、それだけの事だった。



 fと初めて話したのは学科の資料室だった。資料室は学科の研究分野の専門書が一応揃っている所だった。私は先生に印刷を頼まれたので、偶然資料室を訪れてfに会った。

 その時、机に本が塔のように、身長よりも高く積み上げてられていた。その傍の椅子にfが座っていた。fは酒を飲んでいた。

「君、一杯どう?」

 私はfに言われるがままにビールを受け取って乾杯した。

「ご機嫌ですね。」

「いやもう参っちまった。これ終わらないわ。」

 よく見ると机には原稿が散らばっていた。表紙には卒論と明記されていた。

「大変そうですね。」

「いや、無理だよ。助けてくれ、君、手伝え。これ書くの。」

 私のいる大学ではレポートを手伝わされるのはよくある話だったが、卒論まで付き合わされるなんて言う事はなかったので、私は顔をしかめる。そして、それを返事にした。

 fはそれを見て、

「嫌だなあ。面倒くさい。」

 と、平気で言った。

 私はこんな先輩もいたのかと呆れたので積み重なっている本を見て、

「だけどよく積み重ねましたね。こんなに読んでるのに、書けないものですか」

 と話を逸らした。

「いや、これは、何となくつまらないから、積み重ねてみただけ。ヒゲの真似。」

「ああ、ヒゲさん。」

 ヒゲとは先生の渾名である。

「うん。」

「は、はぁ。」

 ヒゲは五〇代半ばのメタボである。ヒゲがコロッケみたいな形をしているのでヒゲコロッケと言う渾名だったが、なんせ髭が黒いので黴が生えたコロッケみたいだと言う話になって、気色が悪いのでヒゲだけ渾名になったという経緯がある。

 確かにヒゲの研究室にはいつも本が塔のように積み重なっていた。けれども、

 ――何だろう、この人は。

 それがfの第一印象だった。

 それからそのあとfと会ったのは、私が四年にあがった時だった。私はヒゲの研究室のゼミに入った。そしてfはまだ、ヒゲの研究室で学生をやっていた。つまり、あの時あのまま、卒論でこけたのである。

 亜子さんと私で、資料室で話をしていた。亜子さんは、別の研究室の先輩で、サークルの演劇研究会で知り合った仲だった。私は演研にいた訳ではなかったが、大道具仕事が上手だと言う事で手伝いとしてよく呼ばれていた。

「あいつは冗談で生きているから――、」

 私がfのことを言った言葉である。

 その言葉に亜子さんが笑った。

「そうじゃないですか?」

 と加えて言うと、亜子さんは頷いて

「あいつはねえ……。」と何か思い出すように又、笑った。

 亜子さんもなんだか納得しているらしかった。



 研究室には自称秀才の山岸を除いてはfぐらいしかいなかった。他にもゼミ員はいたけれども、ほとんど顔を出さなかった。私はt君には見切りをつけて大学ではfと話すようになっていた。又、あつこさんもfの事をよく知っていた。fは亜子さんのいる研究室にも顔を出していたからだった。

 ある日、fは先生になじられていた。

「文献を読まずに論文は書けませんよ。」

「ああ、へえ。」

「それに、説得できるほど資料がそろってないけれど? 本当に分かってる?」

「いや、しかし、探す時間がないもので。」

 先生は鼻でため息を漏らした。これ以上何も言えないと言う感じだった。

「とりあえず、まず、本を教えてあげるから。」

「いやあ、良いですねえ。ありがとうございます。」

 fは調子を違えて言ったので、

「貴方ねえ。何考えてるの?」

 こんな会話を私と亜子さんで廊下を通っている時に耳にしたのである。

「自分の研究を、何だか分かっているのかなあ?」

「さあ、どうなんですかね?」

「彼、漫画にかなり詳しいけど、あれじゃあ、現実にギャグ漫画だよ。」

 私は口を押さえて笑った。

「それから気障なんですよ。変に」

「気障ね」

 


「踊る阿呆に見る阿呆」

 と言う阿波踊りで唄われるよしこ節があるが、これをfがいつもぼやいていた。

 しかもそれを誰に対しても言っていて、その言葉が人をどういう気にさせるかなどfには関係ないようだった。

 誰彼構わず、自分を慰めるように言っては、ダメな自分に開き直っていた。

 彼の言葉はいつも空を掴んでいた。人に対して言っているのではないと思った。自分に言っているのだと思った。自分が阿呆で、それを見ている君たちもどうせ阿呆。そんな感じの言い方だった。俺にかまうなと言いたい様にも思えて気障だった。

 その他fは、何をしていても、それはいやだ、だめだ、むりだ、つまらない。と、それだけを喚くので、時折私は堪え切れなくなって、

「じゃあ、あとは、もう、……。」

 ――死んでしまえ。

 と、私は言ってしまいたい事がしばしあった。

 そして、これ以上、fに私が言える言葉はなかった。それがfにとって一番の慰めで、最良の言葉のように感じていた。

 けれども、流石に私でもここまでは口には出来なかった。

 黙っていればつけあがるfは、駄目な方に駄目な方にと話を進めて行くので、私たちのテンポを少しずつ乱していった。だから彼が生きていることは冗談なのだと言うしか私たちには出来なかった。そういう認識でいなければ私たちがおかしくなってしまう。fはそういう人間だった。

 私たちはそれぐらい彼が生きているということが恥であるように思っていた。



 それでも私が彼と付き合いがあったのは、同じ研究室に居るt君が、余にもつるみたくない人物だったからと言う事もあった。

「莫迦だなあ、俺は、本当に莫迦だなあ。」

 そんなこんなで、私は、大学最後の一年間をこう言いながら過ごさなければならなかった。

 また、fが冗談と言うのは、彼の様相と生まれからも言えた事だった。

 まだ若いのに髪の毛が白髪だらけでバサバサとしていた。さらに下の前歯の一本が抜け落ちていて、上の前歯はさし歯で一見綺麗にそろっていたが、fが笑うとその歯は飛び出してしまう事があった。そのせいか笑い方はぎこちなく、言いようのみすぼらしさを感じさせる。そして、座敷童子のように、居るのか居ないのか分からないこの世のものではない様な見た目は、私たちにとって、何処か不快だった。また、小さい頃から歯はあまり磨いたことがなかったと言うぐらいであるから、初めは相当貧相な家に生まれたのかと私は思っていた。

 然し彼の家は案外に裕福だった。

 ――冗談だろう。

 と思った。

 彼の母は昔、フォークを唄っていた。当時はかなり有名だったらしく、印税と時折来る出演の依頼で食っているのだと言う。あとは国分寺の駅から坂を降りたところでカフェだかバーだかやっていた。

 私はそんな彼のツイッターでこんな呟きを見た時に噴いた事があった。

「帰れ! お前ら! 女もいねぇのに店を開ける意味はねぇ!」



 そう言えば、気が付くと洒落た服を身にする彼であった。

「あいつは裕福だよ。」と、亜子さんが言った。

「そうなの?」

「だってそこの紫陽花、買って来たの、あいつだし。」

 資料室の窓際には洒落た三つ程の毬のような紫陽花が鉢から顔を出していた。それがさらに三つ並んでいる。赤、青、白。

「あんなの買ってる余裕、私たちにはないよ。」

 そして亜子さんも卒論が出来ずに留年した先輩の一人だった。

 私たちはそれでも彼が生きているということが恥であるように思っていた。




「また莫迦な事言ってる。」

 そう言ったのは亜子さんだった。

 それが亜子さんと私が初めて会話をした最初の一言だった。

 私はそれに笑いで応えた。

 この人ぐらい私の事を的確に言える人を私は他に知らないだろうと、この時思った。それ以来この亜子さんと言う女性と私は懇意の仲だった。それは私が三年にあがった時の話で、私がサークル棟の掃除を手伝っている時だった。

 私とサークル棟との付き合いは、山岡と言う肥満児、山ちゃんと、夢河と言う爆弾野郎、ユメとの付き合いから始まっていた。山岡も夢河も私と同期で、学籍が私、ユメ、山ちゃんと言う順だったために、三人は一年からの腐れ縁だった。そして、山ちゃんとユメは演劇研究会の裏方組だった。演研は脚本組と役者組と裏方組で別れていて、裏方組が私にとっても最も気楽だったのだ。それは山ちゃん、ユメがいたからという事もあったが、亜子さんがいたからと言った方が良かった。

 亜子さんは面倒見が良かった。私が演研を訪れた時、あまり口を利かない私に良くしてくれたからという経緯があったことからも言えた。

 亜子さんが私に何を感じたのか知らないが、話した時から亜子さんと私は何か通じるものを感じていた。それは何だったか分からないが、その時話をしてから二年音沙汰なしだったのを、私が三年になって、研究等に出入りするようになってから、度々資料室で会うようになっていた。そこからあの時の新人歓迎会の時の関係がよみがえってきたのである。

 裏方組の新歓では恒例の台作りがあった。台を作るだけの事だったが、それを早く綺麗に作るのが問われるのだ。私は山ちゃんとユメ、二人の付き合いで行ったので、あまりやる気がなかった。けれども大工仕事は心得ていたので、ユメ、山ちゃん、とその次に私が台をささっと作ってしまった。

「なんか懐かしい人がいる。」

「あ、お久しぶりです。」

「今度講演あるんだけど裏方で残ってるのってあの二人と私ぐらいなんだけど、今度手伝いに来ない?」

「もっといませんでしたっけ?」

「案外みんな忙しくなってきちゃったし、最近の子たちみんな出来ないのよ。」

「そうなんですか。」

 と、そういう具合だった。


 私が丁度暇なfを捕まえて、一服しながら雑談に耽っている所に急に割って入ってきた一言だった。私はこういう大胆だけど嫌味のない調子で物を言える人が好きだったのかも知れない。

 家出娘の事を考えなければ、その身体に触ってみたいとさえ感じることもあった。

「今ですね。ヒゲを磔にして、そのまま三途の河に流そうかっていう計画を立ててたんですよ。」

 三途の河とは大学に来る途中にある河で、私はその川をそう呼んでいた。本当はs川と言った。

「そうそう、先ずベロベロに酔わせてね――。」

「やっぱり莫迦な事言ってる。」

 亜子さんはそう言うと煙草に火をつけて呑んだ。

 彼女はライター志望だった。然し彼女の文をどこで見た事があっただろうか、私は知らなかった。実際のところ私は、彼女が何をやっている人なのか、ほとんど知らなかった。居酒屋で夜に働いていると言う事と、あとは腹の据わった恰幅良い女だと言う事だけの認識しかない。他には煙草が似合わないのと、fに尻を追いかけられていると言う事だけだった。

「山本はさ――」

 fの姓名である。

「――もう、いいよ。」

 私は亜子さんの呆れた顔を見て笑った。

「だって彼は甲斐性無しじゃない。なににしても。」

「確かに、すぐに何かに依存する癖がありますね。」

「それでも先生には気に入られてるんだよね。」

「可愛いもんなんじゃないんですか?」

「先生も会話の相手が欲しいからね。」

「亜子さんも別の意味では可愛がられてるじゃないですか。」

「そうかな。」

 彼女はそうかなと言いながらも嬉しそうだった。

 亜子さんの快活のある女らしさが先生に気に入られていたのだと、私は思っていた。けれども私は亜子さんのそうした快活の好さとは違う、もう一つの顔を見る事があった。私はそれの所為で亜子さんが壊れるのではないかと思う事もあった。

 久保次郎と言う男がいた。クマと呼んだ。その名の通り、クマみたいに体が大きいのである。亜子さんが〝クマさんみたい〟と言ってから、そう呼ばれるようになったのであった。

「mゼミの。クマと付き合ってるなんて、信じられないよね。」

「うん。」

「え――」

 と言ったのはm先生だった。

「――あいつ、久保次郎と?」

「先生、誰だかわかったんですか?」

「だってうちの研究室で男がいないって考えたら、すぐわかるじゃない。」

 私はそれを聞いて、

 ――そんなに飢えてたか?

 と思った。

「どう思う?」私はfに向けて言った。

 資料室にいた。m先生と私とfで、m先生の研究室は亜子さんの所属ゼミの研究室である。つまりm先生は、彼女の先生だった。この日はm先生が私たちに酒を奢ってくれると言うので、御馳走になっていた。

「なんか、モテない同士というか、寂しい同士でくっついちゃった感じだよな。」

「うん、でも次郎ちゃんは最悪だと思うなあ。」

「5回目だって」

「は?」

「だから、クマ。俺に言うんだよ。」

「5回目?」

「だから、……回数。」

「莫迦じゃないの?」

「嬉しいんでしょ? 初めてだから、クマ。」

「何の報告だよ。」

「絶倫の報告? あいつ、殺しても良いかな?」

 m先生はそれを聞いてへらへら笑った。私も苦笑するしかなかった。

「久保次郎にも困ったもんだな。先月なんか下のトイレに落書きして。あれ、あいつがやったんだってな。」と先生がそれに付け足す様に言ったのだった。

 私も、fもそれは知らなかったが、クマが女に諄い事はよく知っていた。

「亜子さんどう思っているのかね。クマのその言葉。」

 と、私は何となく興味があってfに聞いてみた。

「大木、隣でそれ聞いてたけど、別に何とも思ってなかった感じだったなあ。」

 ――大木とは亜子さんの姓名である。

「そんなもんかあ?」

「あいつは、それよりも精神的安定を求めてるから、」

 ――精神的安定?

「本当かあ?」

 私にはその精神的な安定と言う言葉が的確ではないように思われた。寂しい同士と言う言葉に関しては何となく分かっていたけれども、彼女の寂しさは、行き場のない寂しさではなかったように思っていたのであった。

「知ってるか、次郎ちゃん、n研究室の給湯室ぶっ壊した話。」

「ああ。」

「亜子さん、気がふれたのかな。」

「もう言わんでくれ。」

 そのfの言葉に、私も何だかちょっと悲しかったのだと不意に気付いたのだった。

 久保次郎が給湯室の洗い場を壊した件は、aと言う女にその時言い寄って振られたからだった。

 aはその給湯室でクマに襲われそうになったので、

「あんたとは無理だから。あんたとは、無理だから!」

 と、そう言って振り切って逃げたのである。それで動揺したクマは、その洗い場を蹴りあげてぶっ壊したのだと言う。しかもn先生の教弁の最中に。

「莫迦だねえ。女に免疫のない奴。」

「ああ、莫迦だ。」



「着いたぞ。」

 風も強く、霧も早く流れて、私と父は岩場の道を歩いていた。私たちはいつの間にか高い木立の森を抜けて、岩肌のゴツゴツした斜面を下っていた。父は下の方を指さして言った。

「右、気をつけろ。落ちたら死ぬぞ。それから道を見失って谷に下りると、ガスで死ぬからな。地獄谷って云うやつだ。あそこ、見ろ。黒い影が見えるだろ。あれが黒沢の湯の山小屋だ。」

 谷には本当に少しばかりの川が流れていて、下の方を手繰っていくと黒い建物がもそっと霧の下に辛うじて見えた。

「今日は、あそこに泊まるの?」

「ああ。多分、こんな感じじゃあ下りられないだろう。」

 二人して強風なので、大きな声で一つひとつ確認するかのように言葉を交わしてまた歩いた。雨は足元からも吹きぬけて襲ってきた。もう何もかも水浸しで身体は冷え切っていた。

「着いたらすぐ、ひとっ風呂行くか。」




「女は子宮で考えるって、」

 廊下ですれ違った亜子さんに突然、言われたのである。

 私は驚いて笑う事しかできなった。何があったのだろうと思った。

 ある日、三途の河を渡る手前で、亜子さんに会った。

「あら、お兄さん。」

「あら、お姉さん。」

 小さな緑の自転車に乗って悠々とやって来たお姉さんは、私の傍に寄って来て自転車から降りた。そして二人で並んで歩くことにした。

 ショベルカーが住宅の密集している何だか汲々としているような所を一台、一軒の家を崩していた。

「ねぇ、ちょっと待ってよ。」

「え?」

「あれ、面白くない?」

「ああ、家ね。壊してるんでしょう。」

 私は素っ気なかった。

 あんな物、壊れてしまったって、私には関係ないと思って見ていた。

 亜子さんが勿論そんな事を言いたいが為に〝面白い〟と言った訳ではなかったのは分かっていた。唯、その時の私には、その誰のものでもない様な家がショベルカーで崩されて行くと言う非凡な様が、何でもない様な事柄に見えて仕方なかった。

 タイル貼りの風呂場に浴槽があって、それがショベルカーに因って剥き出しにされてしまったとしても、もぬけのからのその家に人間味のある時間を見出す事への感慨は、私にとって崩れていくその一軒の家を見ているより更に無意味だった。

 そしてその浴室の隣の小部屋、凡そ四畳半か、六畳かの部屋の棚が何故か未だ残されていて、若しその中からハンガーに掛けられているその家のもとの家主の服が露わになって私の眼に付いて、その家の生活を想像させ得たとしても、又、廊下の壁の下半分が板張りで、もう上半分が壁紙の貼られた清潔感の感じる清らかな場所だとしても、私には関係ないと言いたかった。

 どうせこの家に不幸はないのだ。これで幸せに終わるのだ。私にはこの終わりがとても幸福なのだと思った。

 ――実際私に、何の関係もない。

 何の話にも汚されていないそのままの無垢な家が、こうして意味有り気に、不要なものとして壊されて行く。その瓦礫の落ちる瞬間を、一階を制しているキッチンのあの雑多な空間を、何の問題をも感じずに唯、そう、見ていたのである。

「中、ああなってるんだ。」

「本当だ。」

 その日、帰りも亜子さんと一緒になった。

「ねえ、お兄さん。お兄さんは人を好きになると、どうなるの。」

 それは突然の質問だった。

「ん。そうですねえ、」

 そう言ってからしばらく考えた。亜子さんは隣で自転車を押しながら私が応えるのを待っていた。出来るならばあまり答えたくない質問だった。然し彼女は黙って私が応えるのを待っている様だった。人の話の聞ける人なのだと思った。

 しかし、そう感心したのと共に私は彼女の意志が強いのを感じとって少しばかり驚いた。いや、実際のところは分からない。もっと不気味な何かを感じていたかも知れなかった。女の人は時折、こうして不気味に閉口すると知っていたが、快活な彼女がこうして黙して平静としている事は恐ろしかった。

 私は少しどもり気味になって話した。

「嫌だな、何か。人の事を好きに思う時は、悲しい歌ばかり聞いてます。」

「え、どうして? 私なんかうきうきするけど。なんか、楽しくならない?」

 亜子さんは俄然強く応えてきた。私はこうなれば正直なところの話しか出来ない様な気がした。

「いや、僕はいま、そういう事に責任持てないんですよ。」

「そうか。」

 亜子さんはずっと真っ直ぐ先を見ていた。その表情からは何も読み取れなかった。

「だから、そういうの考えると、悲しい歌ばかり聞きたくなりますね。」

「どんな歌なの?」

 私は苦しい顔をして亜子さんを見た。

 亜子さんは私のその顔を見て少し目を泳がせ気味になった。

「私、何でどうしてばっかり言って、いつも駄目だって思うんだけど、また言ってる。」

 ――この人は何を求めているのだろうか。

 それは亜子さん自身にも分からない事だったのかも知れなかった。

「うん。まあ、でも良いんじゃないですか。そういうの嫌いではないですよ。」

「でも教えてはくれないんでしょう。」

「分かってるじゃないですか。」



「御免下さい。」

 父が山小屋の引き戸を開けて言うと、一人の老人が出てきた。

「いらっしゃいませ。こんな日に、あらあら。全身濡れてますけど。」

「すみません。この嵐じゃこれ以上歩くのは大変で、まだ部屋は空いてますか。」

「こんな嵐じゃみなさん来ませんから、もちろん空いていますよ。」

 私はそのやり取りだけ聞いて靴を脱いで受付の前の椅子に座った。

 歩いている間はあんまり水を飲んでは疲れるだけなので、この時数時間ぶりに水筒を開けて水分を取った。末端は冷え切った身体でも芯の方は熱くて、咽喉を通った水は潤いと共に気持ちの良い冷たさを運んだ。雨は何処からともなく窓硝子を打った。

 私は窓ガラスの向こうの霧の中を伺っていた。霧は形を変えながら流れて行くのだけれども、いっこうにその向こうの景色を見せてはくれなかった。

 私と父は部屋に案内されてそこで服を脱いで、洗濯ロープに脱いだ服をかけて干した。鞄から新聞紙を出して敷いて、その上に鞄やら濡れたものを置いた。それからまた鞄からビニールに入った着替えを出して、着て、風呂に入る事にした。

 傍の地獄谷から硫黄のガスが噴いていて、温泉が湧いているので山小屋には珍しく風呂があった。脱衣所と湯船しかないと言う粗末なところではあるが、別段身体を洗う事を目的とはしていなかった。ただ、冷えた身体を温める事だけが私と父には必要だった。

 檜の風呂だった。湯で檜が白く変色していた。後は建物自体は黒々としていた。私は乳白色の湯の皓々としているのを眺めて、かけ湯を汲んだ。身体の汗と埃を流した。湯の滴る音は響いて止んだ。湧き出る湯の音だけがあった。

 ――今頃になってなぜ私は母の夢を見るのだろう。

 だが、不意に気が付いたのは、この嵐で吹き飛んでもおかしくはないだろうと思わせるぐらいキシキシと小屋は軋んで、風の音が不安を煽るように唸っていると言う事だった。

「女は子宮で考える、か。」



「あたし、頭弱いからなあ」で始まる自己紹介から、今に至るまで、このノンという女ほど嫌な奴はいなかった。

 その自己紹介の最後はこうだった。

「やだよー。男怖いよー。あたし、無駄に言い寄られるんだよー。」

 ――自信過剰か。

 だが、確かに、この女の周りには男の方が多かった。その分女に妬まれるのを恐れているのだろうと思った。

 しかしだいたい、先ず、頭弱いからなんて自分で自分を悪く言うというのは、大抵それで許されることを望んでいるのだと私は思った。それでいて、ある事ない事言われてもみんな、嫌な気にしかならないだろうと思って、

 ――こいつは……。

 と、それ以上は恐ろしくて考えにも起こさないように振り切った。

 ノンは 根岸と最も仲の良い友人のふりをしている例の人だった。そして根岸と同じで私と同じ研究室に居たのだが、彼女は幽霊ゼミ員だった。彼女がゼミに顔を出すとしたら、たいてい根岸が飲み会があるからと誘ってしまう時だった。この女は遊びにしか興味がないのだった。

「就活とか、へ! 卒業したら婚活だ! 玉の輿、玉の輿。」

 私はぎょっとした。

 この女の酔った勢いはひどかった。まるで独り言のように発せられた暴言だった。

最早お嬢様の域を超えた。

「はあ?」

 私は呆れる他なかった。

 根岸は高笑いでその発言を迎えた。

「玉の輿に乗ってえ。すぐに離婚して、その男の金で好きな事する。するぞー。」

 どうしてこう言う事が言えるのか私にはよく理解が出来なかった。幾ら男に言い寄られてばかりいるからと言って、体たらくな人間にそんなに気前の良い事をする人がいるだろうかと思った。

 ――驕っておる。

「貴女みたいな人が玉の輿なんて、ないと思うけど……。」

「うるせえ。」

 彼女は俄然汚い言葉を発した。

 私はそれに笑いもせず、言い返す事もせず、

「あ、そう」

 とだけ言った。興味がなかった。

「あたしの男、みんな下僕になるんだよね。男はみんな下僕だよ、下僕。」

 根岸ひとり、何故かへらへらしていた。

 そして、

「あれはな。」

 とか分かったような口で言うのだった。そういう根岸も下僕のようにこの女の言う事には忠実だった。だから私はこう言う根岸の言葉には虫唾が走った。

 話はその男とは、つい先日お別れしたと言う内容だった。

(この女の男など知った事ではない。)

 男を飾りのようにとらえているのではないかと感じた。しかしその割に大分しつこい未練がある様だった。


 けれどもだいたい私はこの二人の言葉を信用していなかった。言葉ひとつひとつは浅はかな様な気がした。

 それでも二人の会話は私に聞かせるかの様に続いた。

「でしょう? だけどアイツの家にナプキンが散乱してたのは驚いたわー、あれどういう意味なんだろー。」

「お前、まだ出入りしてんの?」

「だって、他にいないんだもん。」

 この女は大学から帰るのが遅くなれば、近くのアパートに間借りしているその前の男の家に泊まったりして、関係を続けているのだと言う。

 男好きの女というのはそういう関係でさっぱりとできないらしい。けれども私はその男も男だと思った。

 ――その下僕に一度は会ってみたいな。

 そう思って、けれども莫迦莫迦しい、と思いなおして気分が悪くなった。

 ――男とくっついていないと生きられんのらしい。

 そしてノンは卒論の中間提出が過ぎると、暫し大学にも顔を出すようになった。時折資料室にも顔を出すようになってノンは私にもちょっかいを出してくる事があった。

「君、面白いよね。」

 けれども私にはこの女が気持悪くて仕方がなかった。下僕扱いされるのも御免だったし、それよりもこの女は不潔だった。性に素直すぎるのだと思っていた。

「絶対顔立ちは良いんだから、もっと女子に気を遣いなよ。」

「なんで?」

「なんでじゃない。もっと女子には優しく。」

「君、女子だったの?」

「女子、女子。」

「へぇー。」

「へぇじゃねぇ。」

 私は笑ってしまった。そして家出娘を思い出しながら言った。

「女っていうのは付き合いだすと面倒だよな。」

「何が?」

「営みがないと気が済まないらしい。」

「あーでも、そんなもんでしょ。」

 私は外に出歩く方が好きだった。

「恋したいなあ。恋したいなあ。」

 ノンは勝手に話を続けた。

 ――あの男と元気にしていればいいのに。

「みんなセックスの後って何する?」

「話す。」

「え、何を?」

「何をって、話さないの?」

「え、尻取りするんだけど。」

「……。」

 そしてある日、ノンに意地悪く私は、こういう相談をした事があった。これは一種自信過剰なノンに対しての仕返しの意味を込めた。

「花梨ちゃんて、俺の事好きなんですかね?」

 夏前、私は花梨と言う人からしばし誘われて、サークルの公演やら、活動に参加していた。彼女は演劇研究会の部員で、大道具を指揮していた。梅雨に入ると四年は最後の公演があるからと言って、大道具の手伝いに私を引き入れたのだと言う事だったが、それが毎度毎度誘われるのと、余り忙しくもないのに駆り出されたりして、この花梨ちゃんの話相手ばかりさせられるので、私はどういう事なのかと思っていた。

 花梨ちゃんは細身の人で、けして力仕事が得意だとは言えない体格をしていた。それが何故、演研の大道具のボスをしているのか不思議だったが、彼女の身の振りの下手さときたら堪らない物があった。

 ――役者向きではない。

 と私も見た瞬間分かった。莫迦に当たり前のようにボケをかましてる所とかもみていると、単なる裏方の華なのだろうと思った。つまり無駄に男にモテると言う事なのだろう。ネジの遊びの部分みたいなものである。実際、大道具を指揮して引き締める事が出来ていたのは演研の部長であるようだった。

 つまり花梨ちゃんは演研の裏方の単なる華だった。そしてノンは元演研だった。

 事情は知らないが、花梨ちゃんとはいわばこの女の宿敵だった。

 ノンはキレた。

「花梨ちゃんは男をおかしくしくさせるのが上手いの。あんた莫迦なの?」

「別に私が誰を好きになろうと、誰と付き合おうと、貴女には関係ないでしょう?」

「じゃあ言い寄られたら?」

 ――それを聞いてどうする。

 私は呆れながら応えた。

「それは、そうでしょう。」

(断る理由はない。)

「あんた、イタイ人になっちゃうよ。」

 意味が分からなかった。

 ――ああ、ああ、私は貴女に素っ気ないですからね。

 と、思いながら笑ってノンの顔を見ていた。男なら全員下僕にしてみせたいのか、ノンは思った通りの反応を見せた。

「男ってなんでこう、みんな莫迦なんだろうね。」

 私は苦笑した。

「あれでしょう。花梨ちゃん嫌いなんでしょう。」

「分かる? あたし、分かりやすいでしょう?」

 ――嫌味のつもりだろうか。

「もしダメだったら、眼の前で思いっきり笑ってやんよ。」

 私はその言葉に関して別段何とも思わなかった。

 翌日、又私は資料室で調べ物をしたり、資料を刷ったりと忙しくしていた。

 そこにノンが入ってきた。

 私は低い声で軽い挨拶をした。

 ノンは何だか知らないが、黙って私を見てからこう言ったのである。

「お前みたいな奴はなあ!」

 ――なんだよ。

 私は声にもしないでノンを見た。女は黙って私に言おうとしている事を飲みこんでしまったらしく、ただ私を睨むばかりだった。

 ――嫌な奴だ。

 言いたい事があるなら、最後まで言え、と思った。その方がまだ私も張り合いがあると言うものだった。彼女の事を真に受けるのだとしたら、どうせ男を下僕と思っているのだ。私から優しく何か言おうならば付け上がるだけなのだから、この女の相手をする時は観察に徹する事しか出来なかった。どうせ構ってほしいが為に、ある事ない事言いまくっているのだから、言い分を聞くだけ聞いて、拾える言葉にだけ返答していただけなのに、その結果がこれである。


 天井を見上げると、蛾やら蠅やらが蠢いている。湯船の端に頭を乗っけて少しだけ力んだ。足先が顔を出す。

 ――疲れたな。

 力を抜くとそのまま乳白色の中に身体が埋もれてかき消えた。

 いろんな人がいて良いのだろうが、もっと安らかならば良いのに、何でこうも気を遣わなければいけないように仕向けてくるのだろうか。

 考えは要らない。変に思う事もない。ただ単にもっと目前の事に手を差し伸べていけば良いだけなのに、一人で大ぶりかまして三振アウトなんて、とてもカッコ悪い。

 けれども心のどこかでいい気味だとも思っていた。



 夕食は山小屋の方から少しばかり出せると言うので、頂く事にした。

 ご飯に山菜のお浸しと味噌汁が付いた。

 御馳走を言って部屋に戻って、あとは持参した菓子などを食らった。

 私はほとんど口を利かなかった。そして、お茶を啜りながら本を読んでいた。

 父はまた風呂に入ると言うので、私は放っておいた。

「お前は行くか?」

 父は大抵二回目の風呂を誘うのである。

 私は振り向きもせずに、本を読みながら返した。

「いんや。行かんよ俺は。」

 この人はいつもそうだ、欲張りで風呂に二度入る。

「本当にいいのか?」

「ああ、行かないよ。」

 ――そしてしつこいのである。

「俺は行くからな。」

「いってらっしゃい。」

 然し本を読んでも読めない事があるのだ。書かれている文字を追いながら頭では別の物語を自分の中で考えていたのである。それは無性に湧き出る血の騒ぐ事だった。寝転がりながら本を読んでいるようで、目の前の壁を見ていた。

 私には眠れない時があった。それは本を読めない時の様なものだった。現実は私の意識の中でしか働かないと言う事だ。眠れない時は分からない事が起きた時に限っただろう。これは曖昧にしか判断できない。私も欲深い人間である。けれども求めているそれ自体は茫漠とした実態のないものだった。あの光沢のある芋虫みたいな動きの無機質な物体がムニョムニョと言うのだ。

 ――あれは、何だ。あれは、何だろう。

 そうした塊が私の眠れない原因の塊だった。

 その変な塊は大抵失望感と共にやってきた。

 私は二日に一辺しか眠れない時があった。大学四年になってから数カ月はそんな感じだった。私は病気なのだと思って、けれども自然治癒を待つ事にした。精神科になんか行きたくなかった。私は眠れない時は眠れないとは思わずに眠らないと思った。自分の身体が眠りを欲していないと言う事を受け入れて、分からない事を分かりそうになるまで思いを巡らせながら、その記憶の中で言葉を拾い歩いた。

 そんな事で私は私の生きている世界を理解しようとしていたのかも知れなかった。

 ――やはり死んでも死にきれないらしい。

 私は無我である時、何に向かっているのだろう。考えても一向に答えは出ないだろうと分かってはいるのだけれども、そういうふうに考えて、又、頭は空っぽになっていた。不思議な感覚である。



 花梨ちゃんが私と関わろうとすればするほど私はそこから逃げたくなった。それは演研の手伝いなどないのに、それを口実に私を呼び出すからであった。無論、そんな事であれば、私は自然ではなかった。緊張があった。――何だろうと考えざるを得なかった。それは、別段慣れ合いでも、深い仲になりたいと言う感じでもなかった。

 花梨ちゃんは床に置かれたコンロの上にフライパンを乗せて、その前に正座して、お焼香でもしているみたいにチャーハンを作っていた。私は演研の資材の入った段ボール上に腰かけていた。

「それ、座ってると怒られるよ。」

「あ、すみません。」

 私は隣のダンボールに座りなおした。

「駄目だったらダンボールの上は。」

「そうか。駄目だったら、か。」

 私は地べたに座るのは嫌だった。けれども仕方がないので、地べたに尻をついた。

「ご飯は作るの?」

「作ります。」

「今朝も?」

「パンとサラダとヨーグルト。ハムエッグ。」

「自分ひとりで?」

「ええ、母はいませんから。」

「すごいねえ。」

「普通です。簡単です。」

「昼は?」

「食堂で」

「それなら楽だねえ。」

「でも、お金が減ります。」

「自腹なの?」

「一部、小遣です。」

「お父さん?」

「そう。穀潰し。」

「え、普通でしょう?」

「そう言われます。」

「酷いお父さん。」

「もう、慣れました。」

「これ少し食べる?」

「い、あ、いいです。」

 花梨ちゃんはどこかで私を好いているのだと思った。けれども迷惑だった。私の気が許さなかった。理由もなしに人を拘束するなんて失礼な話である。私はペットではないのだから、こんな正攻法でないやり方は気にくわなかった。話があるなら、そちらから出向けばいい話だった。そんな関係だとしたらサヨナラしたかったのである。私はそんなに優しい人間ではなかった。もっと必死で息をしていた。死んだ方が楽だと思うぐらい生きたいという本能と葛藤している中で、私は人と関わっていた。

 又、別のある日、私はまた演研から呼び出された。面倒と言う事しか頭になかった。

 演研に行くと挨拶もなく、又、一も二もなく、こう切り出した。

「貴女は人を口説くのが下手ですね。」

 私は莫迦を言っているのは分かっていた。けれどもこんな莫迦な状況は、莫迦になって莫迦にするしかなかった。

 花梨ちゃんは度肝を抜いて私を見ていた。顔にそう出ていた。然し何を言われているのか分かっているようだった。その事が逆に私を嫌な気分にさせた。けれども花梨ちゃんは明らかにショックを隠せないのだと思った。

「忙しいので、今日はこれで帰ります。」

 私は言いたいだけ言って帰ろうとした。

「待って、待って。」

 呼び止められたのは意外だった。

「なに。」

 呼び止めるのはいいけれど、花梨ちゃんから言葉は出なかった。花梨ちゃん自身、自分の心と言うものを考えた事がないのだと私は思った。自分が思う事は思うままに思う人だった。だから予想できない事に対応できない人だと私は思っていた。

 この時のこの反応はその通りだった。

「何もないなら――。」

 と言って私はその日は何も交わさずに帰った。

 翌日、私が昼前に研究室に顔を出すと、花梨ちゃんが今朝、研究室に来て、私を探していると伝言を頼まれた、とヒゲが言うのである。

 私は、

「そうですか。分かりました。」

 とヒゲに言って、花梨ちゃんは放っておいた。

 私は疲れていた。わざわざこちらから出向く気は起きなかった。


 夕方、花梨ちゃんは再び研究室を訪れた。

「こんにちは。」

 その時私は、丁度ヒゲに出された課題をこなしている所だった。

「あ、ごめん。ずっと忙しくて。――用があるって訊いてけど、何?」

 わざとらしかった。私はわざと、わざさとらしかった。

 花梨ちゃんは訊ねたはいいけれど、唇をかみしめたまま、まだ言葉を考えている様だった。

 見兼ねて、

「あっちへ行こうか」と資料室の方に誘って、二人で話す事にしたのだった。

「俺が言いたいのはね――、」

 私から切り出した。

「どうして、俺ばかり構うのかっていう話なのだけどね。」

 こう言う時、――嫌だな。と思うのだった。言いたい事は私は言ったのだから、それ以上に私の言葉を聞かせると言うのは、骨身を削るような気分だった。それは人付き合い以上の会話になってしまうからだった。私自身の生の言葉であるからだ。その言葉で場合によっては人の心を駄目にしかねないと思いながら言うしかなかった。

 そして、

「私は、貴方の話し方が好きだったの。」

 言葉を探りながら、けれども堂々と話す花梨ちゃんが怖かった。

 ――そうですか。

 身体がうずいた。私は何をしているのだろうとか思ってしまっていた。これだけ親切にしておきながら、この面倒を招いたのは自分だと知っていた。けれどもこの面倒がなければさらに面倒なのだとも思った。なんだか難しいのだ、思考の表出が単純な人の言葉を汲みとるのは。今度は私が言葉を失くしてしまう。

「それだけの、理由、なの?」

「私は好きにすればいいと思うの。」

 放り投げたられた。――相撲で言うなら引き落とし。

「どうしたいかは自由じゃない?」

 私が悪かったのか、――ずるい人だ。

「だから嫌なら来なければいいと思うの。」

「誘われて、断る理由がなかったら行くでしょう。」

「それも自由じゃない?」

 私はがっかりした。笑う事も出来なかった。

「花梨ちゃんは亜子さんじゃないからなあ。」

 ――亜子さんも演研だった。私はもともと亜子さんとの伝手で演研に出入りしていたのである。

「悪かったね、亜子さんじゃなくて。」

「悪いね。亜子さん、人の事、よく分かる人だから。」

 花梨ちゃんはあからさまに嫌な顔をしていた。私の言葉で嫌な気にしてしまったようだったからである。その顔、そして反省しない人柄、けれども、

 ――彼女は彼女なりに。

 と、私は前向きだった。


 悩まないのは能力である。自分の莫迦さに気付く事、自分の莫迦さを認める事は、仕方ないのである。

 そして根岸高男を思い出した。

〝俺にはプライドがある〟

 我然、笑えた。

「良かった。もう私と話してくれなくなるのかと思った。」

「話したければ、研究室に来ればいいよ。大抵ここにいるから。」

 私は、よく分からないままに、言っていた。

 そして、

 ――もうこれきりだろうな。

 と思った。

 時間はあっという間に過ぎて、いつごろ就寝したのかは記憶になかった。


 夏期休み前、卒論の中間報告を終えると試験期間に入った。ヒゲは私の中間報告を見て、

「まあ、良いだろう。」

 と曖昧な表現をした。然し、とすれば、私は順当にいけば卒業は出来ると言う事だと思った。ただ私の気分は重かった。四年目になると学業には大分慣れたし、肩の力もそんなに要らなかった。殆ど資料室の快適な椅子にどっぷりと座りこんで、自分のパソコンの前で論を展開している他は何にも苦にはならなかった。それよりも私が気にしていたのは先の事だった。私は何にもならないでいた。

 その翌日、私は朝早くに駅前にいた。今日は講演会の手伝いがあって、いつもより早い時間に大学に行かなければならなかった。

 私は駅前でクマに会った。

 クマは私を見るや否や近付いて来て、両肩をズドンと叩いて言った。

「君! 今から新宿に行かないか。」

 クマと私も一応知り合いだった。

「何を言うんですか、今から僕は大学に行かなきゃいけない。」

「そんなもん。もう出なくったって大丈夫でしょう。」

「m先生のお手伝いですよ。」

「そうか。」

 クマはそう言ってそのまま駅に向かおうとした。

 ――強引な奴。

 と思ってから、私は振り返って、それを見ながら亜子さんの事を訊いてみたくなった。

「久保さん!」

「ん?」

 クマは振り返った。

「今、何回目ですか?」

 クマはニヤリと下司な笑いを浮かべた。

 ――きたねえ顔だ。

 そう思った。

「――七回目。」

 私はクマに手を振って、大学に向かった。

 ――二週で七回。

 私はそんなに出来る時間と場所があるだろうかと思って、そういう考えはすぐに捨て去った。

 三途の河を渡りながら私は空を見ていた。地獄みたいだと思った。

 風が強く吹いていた。背中を押す強い風だった。私は変な天気だと思った。土埃が酷く舞って、空が赤茶けて、黒く雲が光っていた。その黒い雲は私が行こうとしている方向の一点に向けて流れて行った。私は血の匂いを感じた。唇がさけて、パックリと赤い血をのぞかせているのだった。

 大学に着いて、資料室で、講演に読んだ先生の資料と、レジュメを印刷した。まだ朝も早く、誰も資料室にはいなかった。私は明かりも点けず、薄暗い中でコピー機の黄緑の画面に向かいながら心を落ち着かせた。

 講演が終わると私は試験に出た。この日私は最後まで大学にいた。忙しい日だった。然しパスすれば学位に足りるのだった。私はこの月殆ど寝ていなかった。寝る暇がないのではなくて、眠れなかったのだった。

 試験は呆然とする中であっという間に過ぎた。出来なかった訳ではなかった。ただ、緊張も動揺もせずに、ゆらりと答案に回答したまでだった。

 最後の試験の答案を書き終わると

 ――終わった。

 と思った。これで終わると思ったのだった。

 無性に臓腑の焼けるような感覚が襲った。目まいがして、けれども堪えながら、私は再び資料室に向かった。

 資料室にはm先生がいて、酒を浴びていた。

「遅いね。」

「ええ、試験だったので。先生も御苦労さまです。」

 私がそれを言うと先生は両手で顔を覆って伏せった。

 私はそれを見てから本を探した。

 先生は言った。

「いや、女の人の話を聞くのは疲れたよ。」

「へえ。」

 先生は何を言っているのかと思った。先生はそれだけ言うと黙ってしまったので、そう言えば講演の先生が女の人だった事を思い出して、なるほどと思った。私はそれで、調子を合わせる様にして言った。

「私もです。」

 先生はニヤリと笑った。

「貴方の歳でそれは不味いんじゃない?」

 私は本棚の本を追いかけながら先生と同じようにニヤリとした。

「そうでなくても、――ここにきて、私と合う人はいませんでしたよ。なんて言うか、連れ合える奴と言うか。」

「俺も大学では友達なんかいなかったけどな。」

「先生は友達多いじゃないですか。――仕事仲間。」

「仕事仲間は仕事仲間だよ。仕事終わったら俺には何にもねえよ。」

 先生は仕事人間だった。大学の業務以外でも五から十は仕事を受けていた。殆どが評論だったり、誌面の添削だった。

「そんなもんですか。私もこの大学で行事やイベントを幾つか加わって、いろいろ立ちまわったりしましたけど、それでも話が合う人はいませんでしたよ。」

「貴方みたいな人と合う人、いないんじゃないの。」

 私は笑うだけしてそれに応えた。

 ――確かにそうだ。

 と思って、もう諦めがついているのだと私には分かっていた。私は本棚から一数冊、本を手にとって資料室を出た。

 廊下に出るとそこには亜子さんがいた。

「おおお、遅いね。今日はどうしたの?」

「テストがあって。」

「そうか。」

「そう言えば今日、次郎ちゃんに会いましたよ。何かお仲がよろしいようで。」

「何?」

「仲良くやってるみたいで良かったな、と思って。」

 亜子さんは一瞬止まってから不審な表情になった。

「もうそういうのじゃないよ。」

 私はそのまま返す言葉も分からないで唖然とした。

 亜子さんはそのまま行こうとしたので、私は咄嗟にこう言い放った。

「それ又、どうして。」

 亜子さんはそのままそれには応えずに行ってしまった。

 研究室に行くとfがいた。

「ようようよう。」

 私は阿呆みたいな挨拶だと思った。

「五年生が、今日は論文ですか? 大学にはもう殆ど用はないでしょう?」

「嫌味だなあ。――いやあ、外国語が二つ足りなくてねえ。試験受けてきましたよ。」

 私はがっかりした。

「未だ単位、取り切れてないんですか?」

「本当にねえ、参っちゃうよね。」

 私の方が参りそうだった。

「そう言えば、亜子さんクマと終わったって聞いたけど。」

 私は話を逸らした。と言うよりfにこの話をしてみたかったのである。

「ああ、聞いた? クマも莫迦だわな。」

「莫迦? 又何かした訳?」

「あれえ? 知らなかったの。じゃあ終わった事だけ聞いたんだ。」

「ええ、さっき。亜子さん本人から。」

「クマあれだぜ――。」

 それからfは顔を乗り出してきて、秘めたような口づかいで言った。

「亜子さんのアルバイト先に乗り込んで一悶着やったらしいぜ。」

「また何かぶっ壊したの?」

「いやあ、そこまでは――。」

 ――だいたい想像の付く話だった。

 その後、夏期休みはすぐにやって来て、私は亜子さんともfとも暫く会わなかった。

 それから私は、家でのんびりと過ごした。傍ら、卒論に手を駆けながら、もう一方で仕事を探す事を考えていた。けれども私にも仕事に就くという動機が今ひとつ分からないのであった。

 それを考えるといつの間にかt君の事を思い出していた。あれも親に、なんて説明しているのか知れなかった。あの家のあの部屋で、いつも何が出来上がっているのだろうとか考えていた。t君は猫好きで、携帯の待ち受け画面もパソコンのデスクトップも猫の画像だった。けれども彼にとって猫が何であるのかは私には分からなかった。ただ、この時なんとなく不思議だと感じただけの事だった。それでもその感覚は印象に深く、あの時、彼の家にいた猫が私に何かを思わせるのだった。

 ――私も猫を飼っているではないか。

 この頃は毎晩家出娘の相手をしていた。夜這いも逆は何と言うのだろうとか、家出娘の髪を撫でながら思うのだった。この時の彼女は盛りの猫みたいだった。その生活空間は自由だろうと思った。好きな時に好きな場所で好きな事が出来るのだから。

 父がその事に気付いているのか、知らないのかは分からなかった。でも私には父の事はどうでもよかった。

 そしてこうした時間を延々続けて行くと、段々感覚も鈍って来て淡白な営みになって行った。そのうち退屈した。毎晩の事で疲れがピークに来ていた。私は日中いつも目をこすっていた。

 ある晩、いつものように庭に彼女がいた。私は窓を開けて言った。

「今日は駄目だ。」

「え、なんで?」

 怖いものだった。慣れてしまうとそれが当然と言うぐらい図々しくなるのだから。

「暫くこう言うのはやめよう。」

 小声の後、虫だけが返事をしていた。

 彼女は黙っていた。

 だいたい、私が悪かったのだ。花見の日の事があってから、私が彼女を許してしまったのだから、今度はそれを咎めなければいけない程、私の方に余裕がなくなってしまったのだから。

「そろそろ家に帰りなさい。」

 彼女も私と同じで片親だった。彼女は母子家庭だった。彼女の母は幼いころから子供を居酒屋に連れ出して、酒を飲んでは、そのまま夕飯をそこで食べさせていたと彼女は話した。毎日そんな生活だったと言っていた。彼女の父は、レストランの経営をしていた。家にいる事はほとんどなかったと言う話だった。それで両親が分かれたと言うのだが、彼女の母はその前から、居酒屋で知り合った男を家に出入りさせて、泊らせたりする事もあったと言うのだった。

 私は想像を絶していた。私の中でそういう家があるのかと思った。母は母で、気付けば唯の獣になるらしいのだ。そんな獣の娘がここに居た。まだ小さな猫の様であるけれども、いつかは大きな獣に育ってしまう事もある。そうした妄想は私を裏切らずに続いた。この家出娘が私の他に誰かと繋がっていてもおかしくはなかったからである。

 私は言った。

「でなければ、しばらく距離を置こう。」

 私はどうせ他に行くところがあるだろうと思っていた。

 家出娘は虚ろな顔をしていた。

「そんな事言うなんて、酷いと思わない?」

 私のは考えている事は外れていたのかとも思った。だとすれば私はこの時の彼女にとっては冷酷に見えたのかも知れなかった。唯それは私のためでもあれば、彼女のためでもあるのだと私は思っていた。私はこの人の事を考えているよりも、自分の事を考えなければいけなかったのだ。

 そしてそんな事に気を取られているうちに、夏がやって来て、父が今年も山へ行こうと言うのだった。私は返事をしなかったが、勝手に行く事になっていた。

 目が覚めた時、朝の光を一身に受けて、私は起きずには居られなかった。そこは大自然の中なのだ。

 ――ああ、朝か。

 と思った。その時はその他に、何も思わずに部屋の窓から山の景色を眺めた。あの岩肌をこれから行くのである。私は気分が良かった。父は先に起きて、俺は風呂に行くと言って、部屋には私一人だった。

 遠い遠い景色まで見渡せる朝だった。あの嵐がすべての霧とすべての雲を連れ出してしまって、空には何もない青が広がっていた。岩肌の山道の向こうには沢山の森と、沢が見えた。それからさらに向こうは山が続いていた。更に遠くを眺めていると山が連なって、段々遠く、薄く重なって、青くなって、そのうちに空と一緒になって、ああ、あれが穂高で、槍ヶ岳とか、目で見た事を思い巡らせながら、一瞬ありきたりな事を思った。

 ――自由だな。

 と。

 私が私で何であるのだと思うのだった。人の言葉も人の眼もあったものではなかった。誰に何が分かるから何なのだろうと言いたかった。日射しの強い日だった。私の身の周りは、無駄な事ばかりがあった。私は全部捨てしまえば良い。全部捨ててしまうのだ

 そう思って私はまた父と山を降りるのであった。


 岩場の道を行くのは楽である。岩のその外に何もないから。

 砂埃が舞わない様に滑る様に下りる。一々足を踏みしめていると日が暮れる。歩調は作るのではなくて合わせるのである。その道の形に。

 岩場を暫く行くと又森へ入った。地獄谷はガスを噴出していて、その区画だけ樹木が育たない。

 昨晩泊まった山小屋の周りだけ禿山である。

 濃霧で迷って死んだりするのは、谷に下りてしまうからである。父に言わせると素人のする事だと言う。

 岩場は本当に少しばかり歩いただけで、山道は森へと深く続く。森の中を行くのは、道が安定しないので岩場を行くのとは反対に面倒である。木の根が張っていて躓かないかを考えなければいけない。それから苔蒸していたり、道が湿気っぽいので、強く踏ん張ると滑る事がある。殊に昨日の雨で水溜りやぬかるんでいる所が多く、歩調を考えるのは難しい。そのため山道を歩く時は、足の踏み場を探すために下ばかり見ている。

 時に山道を蛙が横切った。

――小さな青蛙!

 私は踏みそうになり、足を踏み下ろす寸前で体勢を捻って避けた。蛙は潰れずに飛んでいった。それを見届けて又歩き出す。それ位に足元に注意を払って道を行くのである。

 もう半分は下りていた。木は大分高い所まで伸びて、空の様子は殆ど伺えない。

「あれは――、」

 父が急にぼやく。

「――どれぐらいで手紙をよこす?」

 私は知らないふうでいて、けれども応えた。

「どれぐらい?」

「月一回ぐらいか?」

「ああ、年二回。」

 それから又黙った。

 昨日の雨で、そこらじゅうが湿っていた。木や岩に手をつくと泥や木屑がついてきて、汚らしく感じる。なるべくならば、手は使わずに歩く事が良いのである。その方が無理な姿勢にならず怪我をしない。手を使えば重心が足から手に移るので危険な事があるのである。

 けれどもそんな事はもうどうでも良い事だった。もう既に大した道ではなかった。鞄の重みだけが煩わしくて、鎖骨の辺りに親指を入れたりして時々痛みを和らげた。ザック擦れにでもなったらしかった。

「そんなに重いなら、水を少し捨てろ」

 私はそれにはあまり反応せずに歩いた。

 銀蠅が地を這うように先を飛び、カナブンが転がっていた。虻が人の気に魅かれて体にバチリと当たった。


 

 卒業まであと半年と言う研究室には、後先ないような人たちばかり揃っていた。私はこうなるだろうと思っていたから、彼らに、昔の自分の話はしなかった。

 その日最初によった場所は演研の裏方部屋だった。山ちゃんが久しぶりに顔を出していた。

「よおぉ」

「ユメいる?」

「ああぁ、広場だな」

 山ちゃんは私の目を見てにかりと笑った。彼はいつも怪しげだから何も気にもしなかった。

 花梨ちゃんはいなかったから私はホッとしていた。ユメは私に珍しくメールをよこしてきたので、メールの通り私は部室棟へ寄ることにしたのだが、とうのユメちゃんは不在だった。広場だと少し学部棟へ戻らねばならない。

 私はひとりでにため息をした。



「燃やせ燃やせ!」

 広場にはユメちゃんがちゃんといた。

 やっぱり爆弾野郎、恒例の炊き出しである。部活の備品で要らなくなったやつを何でも燃やす行事だ。

 ――マズい。

 構内は火気厳禁だが、昔リベラル派の学生が占拠した部室棟は何をやってても誰にも咎められない。

 ユメちゃんは炎の前で演研で使っていた台座やら小道具を燃やしまくっている。煙が柱のように立っている。そんな光景を見ると呼び出された事に少しばかり嫌な予感がつきまとってきた。

 ユメちゃんは私を見つけるやいなや――

「よお! 久しぶりだな、悪いけど演研行って山ちゃんから演研のゴミ教えてもらって、ここ持ってきてくんないかな」

 ――やっぱりそうきたか。

 山ちゃんの怪しげな笑いに気づくべきだったが、もう、遅かった。

 私は最後まで演研に雑務をやらされることになってしまった。



 そして夕方、私が資料室に行こうとして裏方組の部屋から出ると亜子さんが丁度私たちの裏方組の前を通り過ぎて行く所だった。

「こんにちは。」

 私が挨拶すると、亜子さんは不審そうな顔をして近づいてきた。

 私の顔色が悪かったのか、亜子さんは立ち止まって私を見ていた。私は歩いて亜子さんの傍を通り過ぎながら然し亜子さんの事を見ていた。

「元気?」

「いや、疲れてます。」

 私は家から離れる時はいつも疲れていた。この倦怠感は何だろうかといつも思っていた。

「どうして?」

 私はその言葉を聞いて立ち止まってこう言った。

「求めてしまうのは悲しい事です。」

 この時確かに時間が止まった気がした。〝ハッとした〟私ははぐらかさずにこの人に話すのだと思った。私の事を、私が腹に抱えている言いようのない言葉を、口にするのだと思った。

「何かあったの?」

 女の人は時たま本当に驚くほど潔白な言葉を言うのだ。私は羨ましかった。有無を言わないそういう純粋さが欲しかった。

「何が何で、どうもこうもありませんよ。」

 亜子さんは少しばかり驚いたそぶりを見せて、だけどもそれは演技のようにも見えた。

「疲れているのはいつもの事です。」

「どうして?」

「兄が死んだのです。去年の春の頃に。」

 亜子さんは黙った。あの家が崩れて行く様を見た時と同じように、黙って私の言葉を待っている様だった。今度は真っ直ぐ、私の眼を見ていた。私は恐くて窓から射す夕陽を見ていた。

「母が、殺したのです。」

 亜子さんのその強い目がずっと私を見ている様だった。パチパチと瞬いて、でも明らかに驚いていた。唯、けれども真剣に私の言葉を待つだけしかないのだと思ったらしかった。

「それから大学と、家の事と、両立して、やっと何とか。」

「お母さんはどうしてるの?」

「刑務所に居ます。たまに手紙がくる。いつも最初の所だけを何となく読むけど、一度も読み切った事はありません。」

「どうして?」

 母が犯罪者になったからだろうか、それとも前々からそうだったろうか、私は何にしてもやる気を削がれてしまったのだった。と、その事まで話してしまったら、私はどうなっていただろうかと思うのである。あの快活の良い亜子さんが、すれてしまった冷たい私に興味を持ってくれている事は有難かったが、私にはそれに応える誠意はなかった。けれども亜子さんのその明るさを見ていると、裏切る事も出来ないのだった。

「求めてしまうのは悲しい事です。」

 私は二ヤリと笑った。

 ――私は酷い人間だ。

 亜子さんはため息をついて、けれども思い出したように言った。

「どうして話してくれたの?」

「貴女、いつもそうやって〝どうして〟って訊きたがるでしょう? だからですよ。」

 今こうして思うと、みんな嘘だったと分かった。すべて演技だった。私は家出娘を別段、好いてはいなかったと分かった。ただ、恐らく意地だったのだ。根岸高男が自分の世界に私を引き込もうとする事とか、クマと亜子さんの事とか、ノンの男癖の悪さとか、花梨ちゃんの芝居じみた誘いだとか、fの冗談みたいな人生だとか、私が亜子さんに本当の事をお話してしまった事とか、もう何が本当の事なのか分からなくなっている事とか……。

 ある日、私が目覚めて朝食にしようとリビングに向かうと、食器棚に金属バットが突き刺さっていた。恐らく振り下ろしてそのままそこに放置されたのである。ガラスや食器の破片が床や壊れた棚に散りばめられていて、テーブルには朝食の代わりに預金通帳があった。

 母とはそれ以来会っていない。いや、私にはもともと母などいなかった。母がいた事は結果、嘘だった。

 あの日、食器棚のすぐ下にはガラスの破片と一緒に兄の身体が横たわっていた。キッチンの隅には、泣き疲れて死んだような顔の母が血塗れになって蹲っていた。


 山を降りて、荷物を片づけながら私は思う事があった。父が私をどうしようもないと言うのだから、父にとって私は今のままでは駄目なのだろう。だからと言って私はこれ以上どうすれば良いのか分からなかった。やる事はやってきたつもりだった、けれども私にはこれ以上どうすればいいのか本当に分からなかった。

 兄が死んでから父も変わってしまった。

 ――そうかこれが息子って言うことか。

 そういうふうに思ったのだった。

 兄が死んでから父は私に強く言うようになった。早く自立しろだとか、お前のやっている事は何の役にも立たないだとか、お前は間違って生まれてきただとか。

 そこで私は母に意味の分からない手紙を書いた。何となく誰にも何も言えない事が私の腹の中で蠢くのだから、私はそれを吐き出したかったのである。



 拝啓、お母様

 貴女が死んでからもう二年になります。お元気でしょうかとは言いません。死んだ貴女に機嫌など関係ありませんから。ただあの時貴女が死んだのは、貴女の所為なのだと言う事だけは分かっているのでしょうかと聞きたいのです。答えはないでしょう。死んでいるのだから――。

 二年前、貴女は死にました。それは段々私の眼には貴女が死んで行くのが分かっていて、二年前のあの日が丁度その時だったと言う事です。兄にベッタリとくっ付いて離れようとしない貴女と、大人になれない兄が衝突して、けれども兄に家を出て行く度胸はなかったのでしょう。そうした親子喧嘩を見ていて、同じ事で何度も繰り返し喧嘩をして、段々貴女と兄は私の中で死んで行きました。

 それでも私はこの無意味な質問を繰り返さなければならないのです。貴女は悪い事をしたと言う事が分かるでしょうか? 私が人間であるのと同じように、その背負わされた責任に対して応えるのも貴女の義務です。然し貴女はそれを蔑ろにしてしまった訳ですから、私は貴女に関する物事に触れる度にこの質問を繰り返さなければならないのです。そのため、貴女の写真はアルバムからも、家の中の写真たてからも抹消致しました。時折貴女からの手紙が届きますが、もうお止め下さい。死んだ人から神の声がどうとか、言葉を貰っても、私の神は私自身だけです。貴女の神とは違うのです。

 貴女が狂っていると言う事は知っています。本当にマザーコンプレックスでおかしくなっていた兄に、云百万の手切れ金を渡して、これで終わりにしてくれと言うふうに言っていたと言う事は、私も父から聞いていて知っています。それでも納得していない、家から出られない彼を撲殺したことに関して、私に残った感慨は、それでも私はこうして貴女の所為で産み落とされてしまった塊なのですから、何が何だかも分からずにこうして穀潰しを演じていなくてはいけないと言う事だけなのです。私は貴女や家族の事で世間に対して、恨みをぶつけようなどとは思いません。もしそうなる事が予期されたら、そうなる前に私は死にます。

 兄を貴女が殺した日、貴女と兄の間に何があったなどと言う事は、もうどうでも良い事でした。貴女はいつも通り美味しくもない手料理を作っている所に兄が文句をたらたら垂れて、非常にうっとおしい気分になった挙句に、納戸の箪笥の中にある金庫から預金通帳を持ってきて、それを兄に投げつけて、「出て行け」とでも言ったのでしょう。あれは貴女の金ではないのに、そうやってやりたい放題に勝手に使って。もうあの時は貴女も兄も人間ではありませんでした。貴女たちはそうやって、毎晩私が眠りたいと思っている頃に狼の如く吠えまくっていたのですから、私には人間だとも思えませんでした。毎晩「死んでください」と願っていました。

 思えば貴女は、料理は下手だし、洗濯も風呂掃除も週に一度しかやらなかったし、食器も三日にいっぺん洗うだけ、掃除は埃なんかあっても死にはしないとか莫迦な事言って、母親失格と言うよりもヒトデナシでした。兄もそういうふうに貴女を言っていました。私もそれは分かる気がします。今になれば私がこうして家の事をやるようになってから、この家は貴女がいた頃以上に家らしい機能を果たしている事と思います。けれども、そんな貴女と結婚した父も父です。両親揃って大莫迦者だと私は思っています。

 然し、貴女だけでなくても、人間とは莫迦な生き物だと思います。貴女たちと同じように。どんな事だって許される世界に居るはずなのに常識とか言う言葉が息苦しくて、貴女たちみたいな人を生み出して、許すという言葉をみんな忘れてしまっているのですから、それはそれで仕方ないでしょう。まともな人間などありません。立派に働く父でさえ、私を間違って生んだと言い捨てました。もう死んでいいという意味だと私は思っています。私に生きる意味があるでしょうか――。でもそんなこと、誰も決められませんよ。

 親近間のお話はもう止めましょう。貴女からしてみれば私の言い分は言い分、貴女の言葉の方がすべてなのですから。それよりも貴女には私に起こった最近の事件についてお話します。

 先日、中島と言う人から連絡がありました。それは私がある事故を起こしてしまった時の被害者の方の名前です。私は、その中島と言う男の停車している車に資材を誤ってぶつけてしまったのです。事故を起こした責任は私に在りますが、けれども私は、大学の行事であやまって事故を起こしてしまった事なので、破損などの賠償は学生保険でまかなえました。被害者の方も保険の方で賠償してくれると良いと言うふうに言っていたので、その方で話を進めていたのです。私にあと出来る事があるとすれば菓子折り物を持って謝罪に伺う事だけでした。が、被害者の方は態度を一転して、私の謝罪の訪問に関しての連絡を一切受け取らなかったのです。仕方がないので私は〝お忙しい事と思います〟と先ず申し上げた上でのその謝罪文と共に、菓子折り物をお送りしました。今回の事に関してそれで始末をつけようかと思っていたのです。然し、被害者の方はそれも受け取らずに付き返してきて、車の売値が下がったからという事で保険会社の交渉を蹴って私の方に直接電話で連絡してきました。先生を出せと言うのです。しかもその時、私のした謝罪のための連絡にもわざと出ないようにしていたとか、それから判例とかも調べて、もっとお金が出るだろうとかぬかしたのです。これはもう半狂乱でした。まともに相手に出来た事ではありません。私はチンピラみたいな人を相手に論破しようなどとは思いません。法に任せるだけの事です。私は仲介人なしで余計な交渉が出来る訳もありませんから、すべて保険会社に任せていますと言う事だけ申し上げて置きました。然し、それでも被害者の方は事故の事で私に金を払えと脅してくるのです。事故費用と、車の価値が下がった分と、合わせて六〇万ほど。極端ことを言えば、怪我もしていないのだから大した話ではなかったのです。けれども被害者の方はしつこく私に迫って来て、電話もありましたが、私の家に直接押し掛けてきて請求書を私に押しつけたのです。私は同じく保険会社にお任せしていますと言うふうに言って、請求書をつき返しました。

 ――気持ち悪い。その時、男はにかにか笑いながら私にお前が事故を起こしたのだからお前が悪いと言いました。請求書が送られてくるまでこうして愚図愚図引き延ばしていたのは被害者の方が悪い訳で、私はちゃんと謝罪のために連絡もした訳ですし、菓子折り物も用意していた訳です。それを拒否したのは被害者の方が悪いのですから、私はこれ以上どうしようもないじゃありませんか。それを分かっているのか、この被害者はずっとにかにか笑って私に必要以上の責任を負わせようとするのです。私は結局保険会社に電話して、弁護士先生をつけて、交渉と訴訟のための準備をお任せする事になりました。

 どうしてこんな人が出来たのでしょう。私には分かりません。何がそうさせるのでしょう。国を騒がす事故ならまだしも、一般で起こる事故に法が必要以上の金を出すはずがないではないですか。私は謝りたいと言っているのに、どうしても許さないと言うのですから、もうどうしようもありません、

 けれども貴女もこんな人と変わりありません。家を捨てるような形で、兄を殺して、家もそのままにして、その始末を私たちがしなくてはいけないと言う事が分かっていたのでしょうか? 私には考えられません。貴女には何があるのですか。貴女には何が残っているのですか。貴女の大切なものはいったい何だったのですか。私には貴女の生きると言う意味が分かりません。だから私は、貴女は死んだものと思っているのです。貴女は人間ではありません。死人です。

 後は私を許してくれる人を探して生きて行きたいと思います。貴女も家族も友も他人も、私の死を願っています。私に生きると言う術を奪って雁字搦めにして人間からそうでないものに滑り落そうと、毎日貴女と同じように目論んで居るのです。然し、それでも私は生きなければいけないのです。笑ってしまいます。

 では、さようなら。


敬具



 そして私はこの手紙を、宛先も書かずにくしゃくしゃに丸めて、ポストに捨てた。



「俺は駄目だ。」

 この年の冬のfの口癖であった。

 彼はもうあぶれ者だった。又卒業できないのである。

 彼だけではない。その他、一人ひとりの一言ひとことを切に感じる度に私は失望する他なかった。どんなに勝ち気になって偉そうにしていても、出来なかったらどうしようもない。

 根岸は進学を考えていて、書類提出の期日を守れずにあぶれた。

 亜子さんもその他の人たちも、私の知っているみんな、ちゃんとした仕事にも付けずにフリーターをしている。

 ――もう嫌になった。

 時たま飲み屋で私は、この人たちと飲んだりするのである。けれども私はゼミの同窓会と称して、幸せそうに宴会を楽しむのとは裏腹に、私と関わった人たちは何だったのだろうと考えざるを得ないのである。

 揺り籠から墓場まで、大莫迦者たちの相手をし続けるなければいけないのだとしたら、私の取り巻く人物の前から死んでしまいたかったのである。

 人の話の聞き手にまわれば回るほど、具体性の帯びない漠然とした悩みに私自身でも気負いして何処までも失望の色を隠せなかった。

 そうした中で呆然と、人間なんぞ下らないと私は思っていたのかも知れなかった。

 何をするのにも気持ち半分適当に済ませた。

 真剣になるだけ腐るしかなかった。

 ――誰も本気にさせてはくれない。

 そんな風な妙な甘えが常に心に蔓延っていた。

 しかし誰をどうしよう、そういう野心が人間に在ると言う事もまた、私にとって気持ちの悪いことだった。

 良い奴、惹かれて、惹きつけて。

 或いは、あいつは嫌だ。撥ねつけ、罵る。

 などなど。

 それで、あとは、何が残るというのだろう。

 私は相変わらず、何も分からないのである。 

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