無人の一言
ベージュの紙の箱が規則正しく等しい間隔を空けてたくさん並んでくる。彼は始まったと思った。デカいコンクリート造の建屋の中に、広々とした空間がある。壁と天井は真っ白に塗装されているが、床はまるで作られたような緑だ。光沢があるせいで床の歪みが水の流れのようにして光っている。その中にブリキ色の骨組みで15のレーンが作られ、その先は一つのコンベアに集約されている。コンベアが沿わされている後ろの壁のど真ん中に丸い大きな時計がぶら下がっている。そして、その時計の真ん中にある温度計は5℃を指している。
「はい、小野さんは冷食の仕分けね」
面接を受けて、すぐに所長が彼を冷食の仕分け作業に配属させたのは、別段その仕事に学や素養が必要ないためにある。
倉庫な西側にあるその食堂は食堂と呼ばれているが、厨房はなく、あるのは自販機と長机と椅子である。その事務的なデザインに似合わずにあるのは食品系の自販機くらいで、中身は菓子パンやらスナック菓子程度である。
倉庫には複数の企業が利用しているが、彼とは別のパートで雇われているのは女性ばかりだった。人妻ばかりなのであろうが、熟女ばかりというわけではなく、中にはその群れから外れた若い女の人がいる。彼はその人に気づかれない程度にしかしはっきり彼女を見ていた。
まず彼は彼女の裸を想像した。身長は高めで細身なので足や手も棒のようなイメージであった。しかしその所々に少しばかり女性的な膨らみを感じられるような柔らかさをイメージし、陰部を触ると体はどのように波打つのだろうかと想像した。胸は平均的だ。股匂いを想像する。イジるとなにか感じ取るだろうか、それともマグロだろうか。髪は赤茶けている乾燥して不摂生な感じを思わせる。しかしながらその見た目から少しばかり不幸を感じ取ることのできる場合、彼の妄想にはとても都合が良かった。匂いは乳臭さを感じられない夏の干し草のような匂いがその女の人のイメージとともに湧いて出た。
電気の音がごく小さくさり気なくビーっと鳴って、カラカラと何かが空回りするような音も聞こえる。それは空回りというよりは程よい加減で遊びが効いているという方が正しい。動力を伝えるベルトに負荷がかかっていない証拠だ。流れてくる箱はバーコードで区分されており、オートマチックに仕分けられるため、上三桁が行き先を表示し、後ろ六桁が品名と日付と小口番号を表している。特に上の三桁は見間違えて仕分けると後で大変なことになるため、数字には敏感にならなければならない。
流れる時間が少しずつ経過するに連れて、ジリジリとまた違った小さく些細なさり気ない音が付加されていく。コンベアはやがて、分岐に箱を運ぶ。上の三桁を読み込み、読み込まれなかったものはすべて通り過ぎるが、反応があればガコンと何かを折り曲げて叩いたような耳に響く音を立ててその箱をローラーコンベアへ押し流すのだ。
そして彼はまた別の意味で興奮していた。もう3ヶ月この仕事をしている。仕分けのレールは最大で4箇所面倒を見ることができる。今日はその4箇所を見る日であるし、この仕分け作業に不思議なやりがいを感じ始めたからだ。仕分けられた箱は人力でさらにコードごとの札をつけられた鉄格子のキャリーへ投げ込まれる。テトリスのようにそれらの箱は鉄格子の中へ整理されていく。こうして仕事が始まると、小野は様々な不埒な思いを忘れて自らの仕事に対して熱を上げ、夢中になることができた。
一番厄介なのは餃子だ。餃子がたくさん流れてくると、箱の採寸からして格子の奥へ縦に積むしかなくなる。そうすると次に大きな箱が来た場合、キャリーに枝番をつけて別途用意しなければならなくなる。すると、その用意しているロスで、ローラーコンベア内に箱がどんどん投入されて、レーンが渋滞してしまうのである。という具合に——。
丘陵地帯のこの地域は、大昔は稲作農耕が盛んで、今でも田畑が大きく見える場所もある。今はバブル期の開発のお陰か、タワーマンションやら公団の集合住宅や、簡易に組み立てられるシステムハウスなどの戸建てが連なっている。都心より電車を使えば1時間かからない位置にあるこの街は、景色こそ変わってしまったが山の中だ。
先日路上でたぬきが死んでいた。車にひかれたことはすぐに分かるが、たぬきなどひかれた姿でなくても親子連れのものが市街地に頻繁に見られる。
最近都心は再開発だの、オリンピックだので大勢に街を作り直しているようだが、このへんはやっとのところ公団が土地を手放して、商業用の建築物が立ち並び、緑の腐ったネットフェンスが外され、生け垣やら縁石が丁寧に配置され、しっかりと乗り入れや駐車場が舗装された。日曜祝日はそんな商業施設の密集のために、道路に車が並びまくっている。そのため丘陵の縁を走る幹線が渋滞するにも関わらず、車線整備が行われないのは、このH市に資金がないためである。ニュータウンは開発後整備費がかかりすぎて、費用削減のためすぐさま街は雑草だらけになったし、舗装という舗装はすり減りが激しく補修されないままザラザラした砂埃を巻き上げた。
丘陵の縁を沿って通るその幹線の際、先は大河がこうこうと流れる平野になる。その手前には小山という土地がある。その一角の谷戸は大沢字とあり、高低差のある土地が延々と続いていた。大沢字の大沢はその大河へ下る源流で、果ては大池となる湧き水のある池である。そのあたりに、高架がかけられたのはついに3年前のことであった。
ここは確かに大沢という地名だ。谷戸は確かに大池から水をたたえて平野の川へと流れ、やがて海へとたどり着くだろう。高架の下、谷戸となるところから別で人工的に造成された小高い丘の上にその倉庫はあった。ざっと見て1萬平米はあるその土地はⅯ社がこの辺一帯を拠点とするために建てた倉庫のひとつである。明け方4時頃になればたくさんのトラックがそこにやってきて、この人口の一挙集中の都内へ氷点下の中で固めた食品を運び出すわけだ。
窓は西側にあり、どうしてこんな作りをしているのだろうかと彼は思わなければならなかった。それというのも、遠くに見える大山系へ沈む夕日が部屋の全てをギラギラと照らすからに他ならない。倉庫の仕事は朝4時までに、その日注文があった冷凍食品の仕分け作業であるのだが、配送されるトラック最終便が午後4時であるがために、出勤はその頃からとなり、22時までの準夜勤の体制が布かれている。
出勤すると更衣室で作業着に着替え、食堂で夕食を取るのだが、この夕陽がとても厄介である。眩しい目をしながら、コンビニのちょっとしたパンやらサンドウィッチを頬張らなければならない。
彼は西陽の強烈にやってくるその窓から厳しい顔を出して、敷地の沿道の向こうにある墓地を眺めた。
墓地の景色を見たとして何も思うことはなかった。雑木林が背面を覆って、辛気臭さを余計に漂わせている。しかし、そんなことより小野は暮れていくそれらの景色を見ながら進歩のないこの時間を憂いた。
——私は何者だろうか。
彼の中では常にその問答を繰り返した。将来という問題に関してなんのイメージも沸かず、今という時間を味わうことが唯一の彼の楽しみだった。私は何者にもならないけれど、今の彼は仕事をしながら生きている。
と、それだけでどうにか自分の精神を維持していた。
ビーと小さくて高い電子音がなり始め、フォークリフトがパレットをどんどん運んでくる。薮内がコンベアにベージュの紙の箱を投入していく。それはある機械を通って、バーコードで読み取られ、9桁の仕分け番号のステッカーが貼られていく。やがて上りのコンベアの途中からホールへ呑み込まれ、架台上を流れ、折り返してくる。折り返してきたレーンが仕分けレーンであり、センサーがバーコードを読み取ることで、分岐のレールが反応し、各レーンのローラーコンベアへと流れ落とすのである。1レーンは佐野氏が当たっていたが、たいてい一番最初のパレットはアイスロックであるため、突然二桁以上の個数がひとレーンに流れてくることがある。それが落ち着くと各レーン餃子やらピラフやら今川焼きやら生パスタやら様々な冷食がベージュの紙の箱に入れられたまま流れてくる。
しかしこの日流れてくるものはいつもと違うものがいくつかあったのである。
朝礼のときに総数が言い渡される。我々が仕分けているのはBチェーンとSRチェーンの冷食でBチェーンに至っては2バッチ、SRチェーンは1バッチで、6千個のベージュの紙箱を処理するのだが、年末はそうは行かない。大抵Bチェーンは3バッチ、SRチェーンは2バッチ、箱の総数は1万6千個に膨れ上がる。定時は22時であるが普段でも24時くらいにはなる。しかし年末と来たら1万6千個である。全てさばく頃には配送のトラックが入荷口のシャッターを開けているくらいだ。時計の針が4時を指すころである。
はじめ1万6千個と聞いて、食堂では感極まった。青山さんがまずもうやってらんないよなあというと、周りは静まり返る。この人は仕事をしたくない質だから、必ずやらない方法を探す訳だ。
「こうなったらみんなで一緒にやめようぜ」
というのが彼の答えだった。
佐伯氏が高笑いをして答えたが、冗談であることはみんな承知であった。
「それはやばいですね」小野が言うと、
「面白い」と佐伯がなんとも言えない笑い方で答えた。
小野は佐野さんがにこやかにしているのを見ながら少し談笑にふけると時間が来た。
「行くか」だとか気合を入れるかのように押忍と叫ぶような輩もいる。倉庫内の構内職員はほとんどがアルバイトで、手に職のない、知識もない人ばかりだ。ベージュの紙箱をただ仕分ける、ただ運ぶ、それだけの仕事になんの危険もないし、なんの技術もいらない。ましてや難しく考えることもない決まりきった作業が延々続いていくだけだ。一生がここにあるだろうか? それは考えるだけ無駄なことだが、仕事と割り切ってしまえば金を得る手段としてはひどく楽な世界であることは間違いなかった。
朝焼けが東京都心からやってくる。H駅3番線ホーム7時29分発特急〇〇号に乗るために、息も白く現れる早朝、小野は東京の西にして割とこの大きな駅でプラットホームをゴムグリップのよく効いたトレッキング用の簡易な靴で足音をなにか小さな鳥の鳴き声のような音をキュッキュッと言わせながら歩いている。
Ⅽ線は幾度となくT行が3番ホームを通過したけれど、あんな関東平野の隅っこまで平日の朝から出向くような人がこんなにいるのだろうかと、思わされるほど人通りが多い。乗る人がいれば降りる人もいる。特に意識して考えたこともないから、それは水の流れのような出来事である。残像が幾度となく通り過ぎて、小野はまた時間の中に取り残された。
プラットホームとは不思議なもので、このとき特急券を買いに早めにH駅まで訪れた彼は、たしかに券を購入してから半時ほど何をするでもなく待つことしていたわけだ。別段隣の人が何者であるだとか、目の前の歩く人たちが知り合いというわけでもない。彼はその駅で何者でもない人間たちを見ていたわけだが、そんな彼もやはり傍から見れば何者でもない人間だった。待つという行為の中に、なにとも関係しない空白の時間がそこにはあった。逆に言えば私はその時、時を止められていたのである。
券を見ると8号車5番とある。やがて壱号が入線してくると彼はプラットホームの端にある停車位置を探して歩き始めた。
いつまでも絶望している。
どうせ私は世の中には役に立たない。そんなことはよく知っている。生きていても意味などない。だから私は何もしないことにした。そうすることで、彼自身本当に必要とされないことが証明できると思っていた。実際小野にとってそう思っている方が楽だったからだ。大抵の人間は出来るやつに対して、できるからと面倒をぶん投げてくる。そんな輩が小野は嫌いだった。自分ができるだとか、できないだとか、他人のイメージなどどうでもいい。それよりも他人がどうこう考える人間は人間という個体として精神的に貧相だ。他人を気にすることで自分を比べてかかっている。問題は自分を自分と比べることだ。今の自分はどうだ? というぐあいだ。今の自分はどうだから、これからこうしよう。と言う思いがなければ反省は生まれない。二項対立の世界であればそれは死にあたるが、多様性の時代では積み重ねて、置き換えるとか、やり直すよりやり替えるとか、柔軟な考え方ができるはずである。
だから小野の絶望も役に立たないことも、言い換えれば他人に役目を譲っているわけだ。前向きに考えるのであれば、役目を譲ってやれるようにすることが彼の仕事とも言える。
ときに他人立てるのも必要なことであるから——。
大都会の一駅で、小野はいらだっていた。
疲れていた。今の仕事始めてから半年になっていた。最近はいいことなど一つもない。結局のところ金が欲しいからするだけである。あとは単調な毎日が続いている。
しかし今日の目的もそれと同じである。彼は楽になりたかった。彼女は金が欲しいから頑張るのである。金が欲しいのは小野ではない。彼女である。
スマートフォンを開けば彼女の言葉が連なっている。
「まずは2~3万円が欲しいのですが。よろしければメールします」
何分犯罪めいた言葉だ。世の中そうクリーンではない。
結局のところ、ばれなければなんでもありを合言葉に、有象無象がこの大都会にはびこっている。金の流れにはびこる蠅か蛆か――。小野もそのひとりである。
数週間前、小野は某サイトに彼自身のことを書き込んでいた。少し脚色を加えて――。
HNを蛭とした。彼の小さい時の渾名である。
年齢と性別はうそをつかないことにする。――出身もだ。
職業は会社員――。
煙草は吸う質である。しかしプライベートでは吸わない――。
飲酒はたしなむ程度とする。たしなみ方は人それぞれだが――。
暇な時間? 深夜、いつも退屈で仕方ない。
出会うまでのプロセス? 不思議と思うがこのサイトはそういうサイトである。いずれにしても連絡がとりあえればそこでうまく話をつければいい話である。
利用目的はもちろん――、恋人探しである。
小野には3歳と1歳の子供がいる。男の子と女の子である。どちらも玉のように生まれて健やかに育っている。小さなころ外に出ることのできなかった私に比べればずっと丈夫に育ってくれている。休みがあれば子供と遊び、家族と買い物に出かけ、こどもに食事をさせたり、お風呂に入れたり、寝かせたりすることもする。
嫁とはここのところ揉めるようになった。下の娘が生まれた時からぶくぶく太り厚かましくなった。子育ては大変なのだろうが、適当な仕事で保育園に預けて定時で帰ることができるのだから、どこがつらいのだろうか――。平日は小野一人で子供の世話を全部見ている。などと言われて、彼が何もしていないことを強調したがるが、休日に子供と遊び、買い物に行き、食事もさせて、お風呂にも入れ、寝るまでの世話をすることもある。それだけでは不十分であるというのだろうか、それではまるで一人ですべてこの家を切り盛りしなければいけないということだろうか? 子育てと仕事を両立して世の中まともに人世帯を運用できるのだろうか? 私に死ねということなのだろうか?
そういった怒りで彼が我を忘れたというのは本当のことだ。けれどもそこに自覚症状があるように、怒りで我を忘れたと自分に言い訳をして、彼女らに答えるつもりになったというほうが正しい。
けれども――。
「ご連絡ありがとうございます。わたしとこれから大人の関係を続けていただける方を探していました☆」
などという誘いに乗って、駅前のカラオケ店の前で小一時間待っている。真夏のムッとする風を浴びながら、胸あたりにジワリとにじむ嫌な汗が服に浸み込んでペタリと肌に張り付く感覚が、いらだちとは逆に表に現れているどうでもいいといった感情を余計に嫌なものにしていた。
「11時にG駅北口の○○カラオケ店の前で待ち合わせましょう」
ここまでの約束にこぎつけるのにいくらか払っている。一つのメッセージを送るのに数百円も払わなければならないうえに、行為に数万払わなければならない。こんな悪徳な商売が成り立つのだろうか? しかも当の本人は来ない。
私は不思議な面持ちのままメールすることにした。
「もう1時間待ちました。帰ります」
数分もしないうちに返事が来た。
「仕事で急に打ち合わせが入ってしまいました。終わったらすぐに向かいます。もう少し待っていてください」
小野は夜勤明けのけだるさとともに、商売女というのはこんなものかと思った。
メールの返事も見終わらないうちに、山手線に乗り込んだ私は、新宿へと引き返していた。何の感慨も浮かばなかった。混雑する電車の中で吊革につかまる私に脇に女の髪がこそこそと触れてくることが何かしらの背徳感を思わせた。
初めから私は知っているのだ。あと二件ある。あと二件の約束のうちどこで捕まえることができるだろうか――。それとも今日は何も得られずに終わるのだろうか。
絶望の中で少しの期待を持ちながら、私は電車に揺られているのだった。
電車の中でも数通メールのやり取りをする。ドレスを着た写真がプロフィールに載っているが鼻を熊のスタンプで覆っているので見た目美人に見えるが、判別はつかない。――というかこれが実際会うとサイトに掲載されている写真とは全く違っていてととんでもない顔をしていることが多い。詐欺であるが、そこを突っ込むわけにもいかない。
「突然すみません14時からの約束ですが、これから会うことはできますか?」
するとこちらも数分もたたずにメールが来た。
「私もこれからM駅に向かうところです。何時ごろにつきますか?」
「12時半にはM駅に着きます」
小野はここで少しの期待感が報われる気がしたのとともに、何かの喪失感を覚えた。それは報われたにしても騙されていることを知っているからである。
――容姿は、別段私の好みではなかった。キレイといえばキレイであるが、体の部位がそれぞれ大きく見える。顔が小さいのだろうか? 身長があるのだろうか?――
そんなことを思いつつ、メールのやり取りを続ける。
「12時半よりは少し遅くなりますが、待っていてください」
「わかりました。待ち合わせはどこにしましょうか? それから、服装だけお伝えしておきます。青いシャツにベージュのパンツ、グレーの革靴を履いています」
「M駅の北口にK屋があるので、その前にいてください」
私は期待をしつつ、その期待をすぐに失望にかえて、呆然とK屋の前に立った。
小野の期待はすでに失望へと変換されていたのであるから、その時のことを彼は冷静によく覚えていた。
「あの、みかん(彼女のことである)さんの服装も教えていただけますか?」
「黒のワンピースで向かいます。まだ時間かかるのでK屋の前で待っていてくださいね」
その時失望が全くの見当違いな気がするのを感じ、しかしまた失望が訪れた。このような起伏の激しい感情にも慣れてしまえば冷淡に対処できるといったものだろう。「待っていてくださいね」と言いつつ、遠目から小野自身を見て、彼女のタイプでなければ「もう少し時間がかかります」だとか言って、そのまま約束すらもすっぽかして連絡も途絶えてしまうのが落ちである。その場合、このサイトに訴えても何の効力もないことは考える必要もなくわかりきったことだろう。それはこのサイトにいるサクラの仕業なのであるから——。
小野は眠たい体を奮いたたせて、また少し意識を取り持つような恰好をとっていた。目を見張って、目の前の風景を凝視しながら、どうにか眠気を抑えて、次の連絡がくるのを待っていた。
しかし、もうすぐ来る、もうすぐ来ると繰り返し思って、毎度のこと「待っていてください」と言われながら、延々待ちぼうけを受けてきた経験から、そこにいる男に集中力も何もなかったといえる。ぼうと正面の花屋を見て、通りにいる女性にこのみかんという彼女ではないかという不思議な意識が彼を端から見ては変な人間に仕立てていることは言うまでもなかった。
——どのくらいたっただろうか。小野にはもはや時間がたつことなどどうでもよくなっていた。もう来るのか来ないのか。はっきりさせる必要があると思い、意気込んで携帯を覗くと、気づかないうちににメールが受信されていることに気づいた。
「あの、K屋のまえにいますか?」
内容を見るなり小野は顔を上げて周りを少し伺った。駅前の往来だけが小野の目には映っていて、そこには何もない風景がただあるだけだった。小野は失望したその心持がそのまま維持されることになぜか安堵した。彼は待ち続けることに充足感を覚えていた。それは一つの美徳であったかもしれない。けれども次の瞬間その美徳はことごとく壊されていくことになった。
小野は少し横に目をやると、身長の低い少し太めの女性がこちらをチラチラとみていることに気が付いた。明らかにあのサイトの写真の人物とは違っている。しかし黒のワンピースを着て、小野を認めて何か言いたげに近づいてくるが、なんとも声をかけづらそうにしているのが分かった。小野は目をそらした。そして彼女も同じようにしたが、意を決したのか彼女から切り出してきた。
「あの、蛭さんでしょうか?」
「ええ」
小野はなるほどと思っていた——。
実際にこのサイトで出会えるとは思っていなかった小野は、本当に出会えた点と、以前に別のサイトで会った醜悪な商売女を思い出していた。別段出会えるまでのやり取りはほとんど関係ない。男は行為まで至るスリルが面白くてやっているだけだ。あるいは行為しか興味ない輩も多いはずである。または、小野みたいにただ騙されていることを知りながらも、何かしらに意欲的になっている自分を見出して、若さを誇っていたいという自己欺瞞のための行動をとっている者もいる。しかし彼女らは自らの小遣い、あるいは生活のために体を張っている。男の欲を利用して。――。そして、それだけである男は客ではない。どちらかといえば金蔓でしかない。
そしてこのみかんとかいう女性も例外ではなかった。
「わたし、この辺は土地勘がないんですが、どこかあてがあるんですか?」
「???——え? ホテル?」
「はい、そうですが――。」
「ああ、少し離れたところですから——」
行き先が決まっているとなると小野からはもう話すことは何もなかった。しかし彼女の方は何か話をつなげなければいけないような気を持っているらしく、つまらない話を続けようとしていた。
オリンピックを過ぎてから、真新しい事業が出てこないというのも、世の中の実情だったと思われる。加えてこの感染症の蔓延で、外出制限やら、自粛を言い渡されている巷の人々からすると、この国の都心部には浮浪者も溢れているという。ことに最近はネットカフェ難民が多く、女性も例外ではなかった。このご時世、出会い系も副業の一環なのだろうか? このみかんという女性の会話に見れるのは営業精神に他ならなかった。
「今日は暑いですね?」
「そうですねえ」
小野はこの話の端に何の感慨もなく人の機嫌をうかがうようなそぶりがあることを知っていた。数か月前にはこんな営業をする商売女はいなかったからである。少なからず、行くところに行って、金銭の交渉をして、行為に至るだけである。それだけでよいはずであるが、陽気の話をされるとは全く彼も思ってもみなかったので、少し拍子抜けしながらもなぜか真面目に答えてしまっていた。
「でも私は夜勤でして、昼間は暑い方が凝り固まった体にはちょうどいいです」
そして心の中で小野は何を私はしているのだろうか——、と不意に感じさせられるのであった。
小野は彼女の話がだんだんどうでもよくなるのを感じながら、また駅から随分と歩かされていることに気が付いていた。
「どうでもいいけど、帰り道がわかんなくなりそうだな——」
そう呟いてみると、このみかんという女はそうですか? と笑いこけた。——おそらくは小野のデリカシーのないどうでもいいけどという言葉が癪に障ったのだろう。あからさまに話の腰を折られたことに顔をゆがませた。しかしまた、小野もこの娘の返答に少しばかり癇癪を起していた。——そうですか? などとからとぼけた反応がいつまでも耳に残っていらだたしかった。そのため小野はこの娘のその返事に関しては何も反応を見せなかった。帰路が分からなくなるほど面倒なことはない。そこを——そうですか? などといわれて、話を終わりにされてしまうのはどことなく自らの真意を蔑ろにされているような気がしていた。——そしてまた小野は内心失望を感じているのだった。
——この人と行為にまで至れるのだろうか?
「——ここです」
苛立たしい感情をそのまま、黙りこくっていると、彼女の方から目的地に到着したことを言われ、小野は茫然としていた。とり急ぎは「3000~5000」の看板が目に入った。そして――なんだそんなものか。と内心思っていた。雑居ビルの間に狭苦しい隙間があった。そこがこのホテルの入り口であるが、立て看板以外は店の名前だけが表にあって、そのほかに何も表示されていないところを見ると、ここが一見ホテルかどうか、始めてくる人間にはわかりにくい感じがあった。しかしそれは知らない人間には必要もないという表れでもあるようにも見えて、小野にとってはいい印象を持たせる佇まいであった。
「1時間でおねがいします」とこの娘はマスク越しに笑顔を見せたが、なんとなしにその表情にはいやったらしさが見えてしまっていた。
「3000円です」
受付にいたのはおやじだったが、表情も感情もないおやじをみて、言われた数字の金を出すと、鍵をすっと受付から出す感じがどことなく小野を小心者にさせる。
そして彼女は小野がそのひるんでいる合間に、スッと受付から押し出されていた部屋のカギを受け取って顔を合わせもせず、スタスタと建物の奥にあるエレベータの方へと歩いて行った。小野は少しの間あっけにとられていたが、行為にありつけるのだというイメージが頭の中によぎると、すぐさま気を取り直して、彼女の後に続いたのであった。
鍵を開けてドアを開けると、すぐにスリッパが目についた。狭い入口だと小野は思った。娘は構わず部屋に入りタバコを吸い始めた。小野はそこで初めて彼女の素顔を見たが、やはりサイトに載っている顔写真の彼女とは似せようとしても似つかない顔であった。そしてそれは身体のスタイルにおいても同様のことである。
彼はこの作りこまれた状況に表と裏を感じてやまなかった。当然のことながら、彼女が業者から派遣されてここまで来ていることは明らかだった。
小野は部屋の状況を確認しながら荷物を籐の椅子の上に置いた。そしてその荷物の中から貴重品だけ抜いてはなした。
「先にシャワー浴びるけど、いい?」
「どうぞ——」
「みかんさんは?」
「あたしは遠慮しておきます。——浴びてきたから」
小野はシャワーを浴びる前に携帯の画像を確認してみた。髪の色も目つきも体つきも肌の色も、何もかもが写真と違っている。
コックをひねると冷たい水がまず噴出され、小野の足元を濡らした。
「やっぱり全然違うな——」
ひたひたと水がしたたり落ちて床の上を跳ねては排水溝へと収束されていった。そして勝手に言葉が漏れているのに気が付いた。小野は俄然笑いが込み上げた。初めから期待はしていなかったためか、それ以上何の感情もわかなかった。普通であるなら金銭の問題もあるわけだ。ここで憤懣を漏らして罰は当たらないようにも思えるが、初めから失望していた彼にはこの先どうなるのか、ということがむしろ気にかかった。
「ずいぶん長いですね——? 髪まで洗ったんですか?」
「ああ、仕事上がりで全身汚いからな——」
「そんな人初めて見ました——」
小野は——そうだろうか? と思った。彼の性分からして、間借りの部屋に何の準備もない二人がするのに、身体を流しておくのは当たり前ではないだろうかと思った。しかしながら、たがいに何の関係もなかった二人があと腐れもなくその後を終わらせるのに関して、確かにひとつひとつを丁寧に仕上げるより、そこだけを目的とするのはとても理にかなったことなのだろうと思った。しかしそれでも自分の汚い身体がこの娘の身体にぶつかること自体、小野は嫌だった。そしてこの娘のくさそうな汗が触れることも同様のことである。
シャワーを浴び終わると、部屋で彼女はすでにバスタオルを巻いて裸になっていた。
「そこ、寝てください」
小野は言われるがままベッドに横になった。腰に巻いたバスタオルをとって、娘に陰部を露にすると、娘はそれを握った。
小野は目をつむった。けれどもすぐにその気を失くした。——自分は何をしているのだろうと思っていた。
「蛭さん、大きくなりませんか?」
しばらくしてから彼女がそう言った。小野はどうだろう? と返し、彼女は一生懸命手を動かすが、あまりにも下手だったので、小野は仕様もなくなった。
「ごめん。今日は気分がノラなかったかも」
すると突然彼女は緊張を切らしたのか、気安い感じにこう言い放った。
「——えー、今日したかったのに」と。
小野はそういうこともあるのだろうかと思いながら、ちょっとした疑問を聞いてみた。
「もういろんな人としてきているの?」
彼女はしばらく黙った。小野は何か不可思議なことを訊いてしまったような気がしたが、あまり構わずに彼女を見るでもなく、何をするでもなく、ホテルの悪趣味な柄の壁を眺めながら、返事を待った。
「蛭さんはどうなんですか?——」
「僕は時々かな?」
「なんですかそれ——」
「いまなにしてるんだっけ?」
「何してるとは?」
「仕事」
「ああ、化粧品関係です」
「売ったりしてるんだ?」
「そういうこともしますし、試作品を試して意見したり?——」
「へぇ」
そしてまた沈黙が訪れた。彼女はつまらなそうに俯きながらシーツのしわを伸ばしたり指でなぞったりして出来上がる痕跡を確かめていた。そして不意にまたこう言い放った。
「蛭さん本当にできないですか?——」
「んー、もう今日はお話ししよう。アナタはなんだかこう、お話がすきそうだし」
彼女は本当に残念に思ったのか、生まれたてからこういう性分なのか、肩を落とすとはこういうことなのだといわんばかりに本当に肩を落として残念な感情をリアクションで見せた。
小野は今どきこういうわかりやすくて、表現的な人物がいることに少しの珍しさと、彼女の良さを見出していた。
「話なんて何の話するんですか? わたしみたいにオカシナ人間の話をすればいいんですか?」
小野は自らを何も知らない人に対してオカシイ人間と紹介する人を初めて目の当たりにしていた。
小野は特段彼女自身に関してのことは興味なかった。けれども、こういうサイトからやってくる人はどんなことを考えているのか、興味があった。殊に自らのことを一も二もなくオカシナ人間だと評するからには、そこを訊いて欲しいと言わんばかりではないだろうか? 疑問をずるずると引っ張ておく必要もない。どうせこれきりだ。——そう思うと小野は彼女のことをずけずけと聞いてみても損はないだろうと思って、不思議と考えもせずに物を尋ねた。
「あなたの何がおかしいのよ?」
「わたし? 私よりも私の周りの人の方がもっとおかしいけど——」
「君の周りの人は僕は知らないよ。——とりあえずアナタの話を教えてよ」
「んー、簡単に話せば、わたしのお父さん。暴力すごくて、お母さんそれで病んじゃって、家に引きこもって何にもしないで薬漬けなんだ。あたしも薬してるけど——。もう薬してないとやってらんなくて——」
「それってあれか、白い粉とかの話?」
「違う違う。薬って言っても合法なやつね。覚せい剤なんかやったら、もうやばいって」
小野は別段、普通にしていてもこの娘はやばいと思った。
「で、——お父さんは捕まっちゃって刑務所にいる。あたしのうちやばいでしょう?」
小野はどうでもよかった。——どうでもよいことにどう反応すればいいのか困っていた。そして結局「ふうん」としか言いようがなかった。それでも彼女は自分の身の上話をしたいらしかった。しかし、それを訊いたのも小野であったから彼から彼女の話を止める余地もなかった。
「——でもねぇ。あたしもそうだけど、友達もやばいかな、いやでも、あたしが一番やばい」
話が的を得ないのはこの女性の出所を感じさせるところだろう。
「それで、なにがやばいの?」
取り繕いの質問を彼は投げつけた。この話に見えてくるものがないせいか、適当の言葉を投げておかなければ終わりが見えそうになかった。彼はしかし、続きの話にもほとんど耳を貸すことができなかった。とりあえず彼女は「やばい」を連呼していたし、小野には何が「やばい」のかほとんど理解できなかった。ただ、この娘の両親に不幸があって、混む娘も不幸だということだけが彼の中で印象的に残っただけであった。
ほとんど話をうわの空で聞いていると、彼女のバスタオルがはだけ、そして小野は不意に彼女の身体をまじまじと見ることになった。それはブヨブヨになった腹回りの贅肉とその形に刻印されている無様な皴の数々を目に焼きつけさせた。この女の顔に関してはあまり文句を言うべきではないと思っていたが、この醜悪な体躯に魅せられるものが何もないことは小野の目にも明らかであった。彼は目を背けたが、腹に残る醜悪な皴の数々は頭から離れずにいつまでもその女のイメージとして焼き付いてしまい、もうどうにもできない思いで、服を着ることにした。
話が終わると、彼女はため息をひとつついて服を着る小野にこう言った。
「えー、ほんとにもうしないの?」
こういう女性もいるのだろうかと小野は少し不思議に思った。今までここまで性にすがってくる女性を見たことがなかった。彼女は口寂しくなったのか煙草を吸い始めた。呑んでいる煙が少しずつ立ち上って部屋に充満していくのが、窓から差し込む光の加減でよく見えた。
「アナタは家族もやばいし、友達のこともやばいと言っている。多分刺激が欲しいだけなんだよ」
「それはそうかもしれないです」
「とりあえずこれ」
小野は着替え終わると財布から2出して彼女に握らせた。
「あの? 交通費もくれませんか?」
「その金あれば充分帰れるだろ」
「そうこうしているうちにすぐなくなっちゃうんです」
小野はため息をついて、0.5を追加で渡した。
「君は少しいろんなものを見て、考え方を広めてみるといいと思う」
彼女はお金を受け取りながら小野の話に答えた。
「見るって何を見るんですか?」
「手っ取り早いのは映画とかかな? どんな映画が好き?」
「洋画ばかりです。昔はリングとか見たりしたんですけど、あれって嘘じゃないですか? なんか笑えてきちゃうんですよね?」
「でも洋画もホラー系はうそが多いでしょ?」
「でも洋画の方が文化が違うから、何か特異な感じがするんです」
「ふうん」
「邦画だとなんかダサく感じるっていうのもあるんですけど」
「そしたら冷たい熱帯魚とか見てみるといいかもね?」
「どんな話なんですか?」
「邦画の猟奇殺人事件の話かな?」
「そんなのどこにでもありません? 今どきは」
「でも冷たい熱帯魚は実話を基にしているんだよ」
「実話? それ観たいかも——」
外に出るとき、彼はこの娘に気づかれないように、メールを一通また別の女性に送っていた。時間は午後4時に近付いていた。
「ゆうあさん、突然ですが今から会えますか?」
小野はどうしても今日めぼしのつけてある人物に会っておきたかった。すぐ横でまた彼女は話し出した。
「きょうは暑いですねぇ」
彼女は何かしら話をしていないと気が済まないようだった。
「——誰にメールしているんですか?」
「嫁——」
「結婚していたんですか?」
「ああしているよ? 悪い?」
小野は平然と言っているが、自分自身も彼女と同じようにオカシナ人間であるような気もしてならなかった。結婚しているのにもかかわらず、よくわからない女性と肩を並べて歩いている。しかもさっきまで行為をするつもりでいたのである。それは状況として不逞行為なのは確かであるし、無実を言えることのできない状況にあることも確かだった。
「また会えますか?」
「そう思ったときにメールすれば?」
小野にはもう彼女と会う気はなかった。あの体躯を目に焼きつけて、どう好きでもない彼女と向き合えるだろうかと思っていた。しかし、その回答は小野が出さずとも彼女の方から自然と言葉に出してはっきりとさせることになった。
「いや、もう会ってくれないんだろうな」
小野は連絡をすればといったのにと思った。けれども彼女の方から沿う言葉にしてくれたお陰で、小野もどこか今回のことを何ともなかったように思えたことも確かだった。
帰りの電車の中は蒸し暑さの消えない異様な空間だった。小野は自分の身体か火照っていることに今更ながら気が付いた。そしてそれを不思議に思っていた。別段先ほどのみかんとかいう彼女とは何もなかったのであるから、そう身体を熱くすることもないように思えた。
ゆうあという女性は、小野が今回目星をつけた女性の中で一番可能性のある女性だった。それは小野のする連絡に関して、最も反応が良かったからである。簡単に言えば、業者らしさのない女性である。
M駅から地元までのルートをさらに行くとゆうあとか言う女性の会えるべき場所に行ける。小野は帰りながら彼女が返事をよこしてくるか試すことにした。彼の地元の最寄り駅までに連絡がなければ諦めるほかないと思ったのである。
車窓には都心のビル群が所狭しと並んでいる。同じような景色が繰り返される中で、彼はまた眠気に襲われていた。
——どうせ連絡など来ない。いっても待たされるだけ。
小野はかすかな意識の中で、自分にそう言い聞かせていた。座席に腰を掛けていると、俄然眠気だけが彼に襲ってくる。もはや24時間以上眠っていない。いつ意識がなくなってもおかしくはなかった。単調な電車の揺れと単調な都会の景色に何の感慨もない。どちらかと言えば、いつ新宿につくだろうか、そればかりが気がかりであった。
新宿に着くとすぐに地下街へ赴き、そこを通り抜けて乗り換えをした。乗り換えの際にメールを確認すると、ゆうあという女性からしっかりとメールの返事が返ってきていた。
「今日会えますよ。何時ですか?」
「8時、田M駅」
「わかりました。条件はありますか?」
小野はあまり理解のできないメールだと思った。条件? とはいったい何を訊きたいのか図りかねた。とりあえずそれらしいことを返事しておけばいいだろうと思った。
「条件? ものによっては要求する金額よりも出していいよ」
小野はその文面だけメールで送ると、スッと眠りに落ちた。これから田M駅まで行くとなると2時間近くかかる。新宿を出たのは5時ちょうどであった。田M駅で夕食でも摂って時間はいくらでもつぶせる。そう思うと小野は安堵したような気持になったのである。
「わかりました。——あの、9時でもいいですか? 待ち合わせ」
目が覚めると最後に送ったメールに返信が来ていた。
彼女は初見、チンピラの連れのような恰好だった。見た目はどうかはわからなかった。小野が好んで付き合う相手でもないが、嫌いなタイプでもなかった。
髪は赤茶色に染めているようだった。ライトブラウンといったところだろうか? キャップの下から傷んだ髪が彼女の顎の輪郭あたりでふわっと広がっているのが、夜の闇に映えてよく見えた。上にスカジャンをまとって、下はダメージジーンズで両足とも太もものあたりがよく見えた。
「早速行きます?」
と、丁寧な言葉を話すのを見ると、見た目とはかなりのギャップを感じてしまうが、声は酒焼けしているのか、しゃがれたかすれた声をしていて、耳障りな感じがした。けれどもスタイルに関しては、今までにあったどの女性よりもキレイなラインを浮かばせていた。
小野はここまでくると極限の状態に達していた。眠気が彼を容赦なく襲っていた。ゆうあさんどころではない。ここにいる女性がどんな人間であっても、彼にはその娘に対して何ら気遣いをできるような状況になかった。
「どこでも。——ついていきますよ」
「なにそれ——」
ゆうあとか言う女性は笑いを浮かべて小野の適当な反応に返した。
「え、今日はお仕事帰りなんですか?」
「まあそんなところです。——でも夜勤明けで、眠くて仕方ないですね」
「そんな状態で大丈夫なんですか?」
「わかりません」
小野がそう言うと、彼女はまた顔を緩くして笑った。嫌味な感じはしなかった。
「そしたらそこ左です」
「——はい、わかりました」
小野はまるで新入社員の異様な硬さを態と出して彼女に話すと、彼女もその冗談を理解したのか手をたたきながら笑って冗談を促した。
「いいから——、あまり大きな声出さないで」
小野には珍しく愉快な心持になっていた。
そして二人は夜の街に消えていった。
ゆうあと小野はホテルのロビーで呼び出しを待っていた。
「あの、訊きたいんですけど?」
「はあ?」
小野はもう眠さで特に何も考えるということをしなかった。返事もおざなりである。
「ものによっては要求金額よりも多く出してって、どういうことですか?」
「ああ? 条件はありますかとかいうから、何か特別なことでもしてくれるのかと思って」
「ものってなんですかねぇ?」
「別段わたしは普通でいいですよ? ただ最後まで普通にしてくれれば、条件とか言われるので、何かあるのかと思っただけなので——」
「いや、わたしよくお客さんで洋服の指定とか、変なことしてほしいだとか要求されることあるので——」
小野には想像できなくはなかったが、彼には自分自身がそうなることを想像できなかった。
「いや別に普通でいいです。そんないろいろ条件つけても面倒なだけでしょう? どうせ長くて2時間くらいの短い時間で、何をどういろいろしようっていうんですか——」
彼女は仕事という意識があるのか、接客をするために小野のいうものによってはという言葉に営業精神みたいなものを働かせているらしかった。
ゆったりとした時間の中でそんな話をしていると、部屋番号でゆうあと小野は呼ばれ、キーを受け取るとそのままエレベーターに乗り込んだ。その中でまたゆうあは小野に話した。
「この間うちの客で、なんか違ったとか言われたんですよ、わたし」
「はあ——?」
「なんか違うってどういうことなんですかね、こういうサイトつかって、出会うまでに男の人は数千円課金しているわけでしょう?」
「まあそうですね——」
「それなのにいざ直接会うところまで行って、なんか違ったって、どういうこと? ってこっちとしてはなるんですよ」
「いや別段その気持ちはわからなくはないけどね——、多分その人は、写真で想像していたイメージとゆうあさんの実際の雰囲気が合わなかったっていうだけだと思いますよ。それからその時の精神的な状況とかにもよるし——。緊張して気持ちが萎えちゃっただけかもしれませんし——。本当のところはその人にしかわからないですけど——」
「そうなんですかねえ?」
実際小野も今日これからはどんな感じにできるか、疲労のために自分自身でも検討が付かなかった。
「ここ田M町付近で一番サービスいいんですよ」
ゆうあが言うには休憩一回で各各に一つずつドリンクが付くのと、アメニティに関して見てもここまで揃っているところはなかなかないのだという。
小野からしてみれば別段何の変哲のないホテルの一室のように見えたが、これよりもひどい場所はいくらでもあることも何となくは想像ができた。
小野はカバーのかかった張りのあるソファに腰かけた。
「そしたらワンドリンク頼みますか」
小野はオーバーアックになってそう頼んだ。もう身振り手振りが劇団の指揮者のように激しくなっていた。小野にはゆうあが少し可笑しくなっているのが見える。変な人を見ているというよりは、面白い人だと思っているのだろう。眠気も限界が来れば酔っ払いみたいなものかもしれない。
「ジントニックで」
「あ、飲む感じですね」
「そういうのじゃないんだ?」
「わたしミルクティで——」
「なんかこどもっぽいなぁ」
「なんでよ」
運ばれた飲み物を二人で飲みながら小野は彼女に少し訪ねた。
「こういうサイトでくる女の人って業者まがいの人が多いじゃない? 実際そういう業者っているの?」
「わたしは個人でやってるからわからないけど、そんな業者があるんですかね?」
「連絡よこすのに来ないとかよくあるよ」
「こない?」
「メッセージのために課金させるためのサクラだと思うけど」
「ふうん」
優亜自身はもともと接客をしていたようで、こういったウェブを使うようになったのは接客の仕事を辞めてからなのだという。
「今仕事は何してるんですか?」
「わたし、マッサージしてますよ。——今度きます?」
「遠慮しておくよ――。こういうところだけにしたいし」
小野はなるほどと思っていた。個人でやる気になったのはどういういきさつかはわからないが、2で即決するくらいなのだから、身体が使えるうちに何でもやっておこうという感じだろう。
飲み物を飲み終えたところで小野はシャワーを浴びることにした。
「あ、わたしも入ります」
「一緒に入る?」
「もちろんです。——え? ふつう入りません?」
確かにそうである。普通のお店なら衛生上シャワーで流すのも仕事の一つといえる。けれどもこのサイトで会う女性は、まるで汗をかいたまま身体を合わせようとする。いや、むしろ抱き合うというより生殖器の接触だけで、人肌を感じられるようなものはなく非常にたんぱくである。
「最近会う人はほとんどシャワーも浴びずにしようとするけど?」
「そうなの? それって汚くないですか?」
小野もゆうあのいう通りだと思った。しかしそれにしてもホテルの浴室に立つ彼女はどことなく婆臭く見えた。それは顔や年齢とか、話し方や性格ではなく、首から下の背中のところを少し猫背気味に曲げてシャンプーやら石鹸を見て確認している姿に若さを感じられなかっただけである。
けれども、小野はそういうところに彼女の良さをまた感じていた。それは若若しさを主張しているのは服装だけのような気がしたからであり、むしろ今までの会話からして彼女は若さなど主張したいわけでもないだろうと思ったのである。
シャワーを終えると小野はゆうあとともにベッドへ入り込んだ。
「腕貸してもらってもいい?」
ゆうあのその言葉に小野がうなずくと、ゆうあは喜んで腕の中に入り込んできた。
「わたしはこういう方が好き」……
小野とゆうあはホテルを出た時に後ろから突然声をかけられた。
「ちょっとすみません」
小野は突然声をかけられたので少し驚いていたが、紺のジャケットと水色のシャツを見て警官であることに気が付いた。初な若いチンピラならビビるか突っかかるか、無駄なことをするだろうが、別段小野には悪びれるところもなかった。同じ歳の彼女に関して親密な深い関係があったとしてもそこに何の問題もない。身分証を見せると、男と女性の二人の警官はありがとうございましたと言って去っていった。そして小野は彼女ともその場で別れた。
ベージュの紙の箱が規則正しく等しい間隔を空けてたくさん並んでくる。
ブブッと彼の携帯が鳴る。小野のメールにはいくつかの受信メールがある。
「わたしゆみと言います。このサイトでは、恋人とか面倒な関係ではなくて気軽に会えて、大人な関係を……——」
「こんばんは、あゆみです。2とホテル代込みでどうですか?……」
「ゆなです。会う場所なんですけど、M駅かG駅でお願いします……」
とりとめのない勧誘の知らせが小野に寄せてくるが、彼は携帯の画面を見たままおそらくまた何かを失くしたような感覚を覚えているに違いなかった。そうだ、そこには何もない。実体のない何かしかない。それは人のはずなのに、人のようではない。言葉だけが独り歩きして、わたしに投げかけてくる。
「あいりです。早く会えるのを楽しみにしています。会ったら後ろから抱きしめてほしいです——」
しかし彼は無表情のまま、また仕事に戻っていくほかなかった。