常緑
プロローグ 風の街へと飛び出してみて
あの人にあったら何を話そうか——。あのときひたすらにそう思った。街じゅうをフラフラと歩けば時おり往来の中で通り過ぎたあの人を見つける。おどろいて振り向いてみると、しかし違う人だった。人違いと分かると何かしら失望感に襲われた。そんな気分は恋しさに似ている。けれど実際、直接顔を合わせたとき、その恋しい感情をどうしてか恐ろしいほど深い海底へ沈めて溺死させてしまう。陽気さはいつまでも陽の目を見ることがなさそうだ。部屋中、箪笥やら押入れを覗きこんで、どこかここかとそんな浮かれたような気持ちを探しだそうとしても、そんなもの、飾り気のない自分の部屋にある筈もない。そうしているうちに、どうしてそうなのかと痛まれなくなり、気が狂うのではないかと恐ろしくもなる。その場の照れくささと、そののちにくる羞恥のダブルパンチである。やがて、カーペットの上でゴロゴロ本を読んでいる間にそれらのことを全部忘れる。――そして今もあの人に誤解されたまま生きている――。
藍鼠みどりと会ったのはいつのことだったか、もうだいぶ前のことで覚えていない。煤竹あおは、絵葉書や年賀状の類を整理しながらそう思った。みどりの写真がその中から一枚テーブルに山になったそれらを落としてしまった瞬間ひょいと顔を出したのだ。確かはじめは刈安に名前を聞いて会って見ることにしたのだ。だいたい刈安も勝手なのだと、今となっては思う。それもしかしあおの怠慢だ。断ろうとすれば断れたのだ。どちらともつかない気持ちのために、あのとき〝ああ〟と応えてしまったがために、役目を負わされたのだ。
そのためか刈安が持ってきた案件はやけっぱちに進めることにしていた。しかし抜かりを見せるつもりはなかった。それにしても刈安はなんであおにあの案件を引き受けさせる気になったのか、正直なところあおにはわからなかったのだ。あお自身がしばし刈安相手に話をしていたためか、それとも周りが信用できなかったためか……。考えたところでよくわからない。あおはみどりの写っているその写真をひと思いに引き裂いて捨てた。
1.五月の木漏れ日の中で
話はおおよそ2年前に遡る。
あおが学位を取得して修士課程に入ったばかりの頃だ。大学の食堂は南側が全面ガラス張りでその窓際の一番奥にみどりはいた。見た目からすぐに彼はきれいな人だと思った。細身でもしっかりとした佇まいで丁寧に挨拶をする彼女を見ると、どこかよそよそしさを感じる。しかしそれは彼が持つ劣等感にさいなまれているからであった。あまり目的も持たずに大学院へ来てしまった彼は彼女を見た感じで身の丈に合わないような思いを抱いた。
「あおさん、刈安さんに会って話せって言われましたけど、何を話すんですかね」
みどりはその言葉の語尾をしっかりと止めて話す、それが彼女の人柄を表す特徴的ところだった。そして気のない時はあからさまに語尾がのびるのだ。そこが分かりやすくて面白い。
話は刈安が企画した文芸誌の企画の話だ。しかしあおも実際まだこれから長いのだと考えると大して話し合うこともなくとりあえずの一年間の運びを話し合った。
「みどりさんは三年生だから発表会があってその時期まで忙しいだろ?」
あおが突然切り出したので彼女は瞬きを数回繰り返しながら、どんな話をするのだろうかと少し尋ねるような口ぶりで話しだした。
「発表会はないんですけど、審査会があって、それまでは忙しいです」
「そうか――。で、いつになるのかな?」
「一月半ばです」
「じゃあそこから実動に入ろう。納期は三月なんだし」
「そうですね――」
彼女も要領を得たようだったので、あおも少し安心して張っていた肩を落として、姿勢を崩した。
文芸誌の企画など大学の成績とは全く関係ない蛇足のようなものだ。文学部で真面目に文章を書いているならそれなりに力が入るだろうが、それにしてもどこかの出版社の公募に出したほうが有意義の様な気もする。ただこれは大学にいる学部生にとっては記念品のようなものでもある。
これと言ってなにか話すことがあるわけでもなく、あおもみどりも企画の中身の内容が固まるまで準備期間ということにして、お互いその日は別れた。
彼女とあって、企画の大まかなスケジュールを決めた話を刈安に報告すると、わかったとだけメールが来た。
数日後、刈安からは図書館に集まるように言われた。みどりもその日図書館に来ていた。
高い金を払って入学しただけのことはある。空調のよく効く学内の図書館は、居心地が良かった。学部生のころ、よく図書館に引きこもって文献を読みあさった記憶が蘇る。高い本棚と購読のスペースが心地よかった。しかし彼にとってこの贅沢な感じはその身の丈と合わぬ気がして、時折ここに今いるということが怖くなることもあった。
「とりあえず、これ」
あおは刈安にもらったメンバーの連絡先をメーリングリストに登録して、招待メールを発信した。それから全体に制作の意図を送ってもらえるように願い出た。
「あお、返事が来たら、俺と藍鼠くんに転送して――」
あおはその返信を刈安に言われたとおり二人ヘ転送し、刈安は持ち込まれる文章と制作意図をひたすら照らし合わせて読み説く作業をした。
学芸員志望の刈安は文書とその文章のイメージする写真や画像を持ち寄り、コレは駄目だめだとか、こうしたらどうだとかそんなのを毎週一回、ゼミ内会議の上で話しているのだという。持ち込まれた制作物と文章、そして持ち込んだその人がその意見を聞きながら改編に改編を重ねて、持ち込まれた文章は段々と充実していく。無論むろん刈安の独善という訳ではない。作家もだいたいはじめは意気高揚いきこうようとした顔で自分の文章の解説に入る。そのまま刈安を説き伏せられたらそれでいい。しかし学部生時代、久しぶりの秀才と言われていた刈安にとって、惰性だせいでやってきた学部連中の意見などへでもないのかもしれないが……。
持ち込まれる制作品について刈安は同時に持ち寄られたイメージ画像をあおとみどり渡し、その大きさと掲載けいさい形態だけを伝える。それから後のことは任せたという。そのあとのことはあおとみどりも機械的システマチックに作業をすすめた。
その日、あおは研究室にいた。初夏の陽気だ。風が吹いていた。窓を叩たたくほどではないが、木々が揺れているのが窓越しにわかった。
バイブがなった。また刈安からだ。あおのデスクには文芸誌いしのための台割が置かれている。彼はそれを取って見ながら携帯を手に取った。
文芸誌掲載に関係している構成メンバーと、記載文章タイトル、挿絵などの掲載画像数とその大きさ、中身の要約はあらかじめ刈安からあおとみどりに伝えられている。
実質この時期一番大変なのは刈安だった
刈安からのメールはこうだ。
「とりあえず、メンバーの確定と作品の方向性、企画は出揃った。あとは藍鼠あいねずくんにその要点を送っておくから、この間、彼女が作ってくれた台割の第一案の中にさしこんでおいてくれ」
あおは刈安から話を聞きながら、文芸誌のレイアウトについて考えていた。みどりが台割でこうしたいと提案をし、フォーマットを作成してきたので、中身の構成に関してはすんなり通りそうだった。あおは別段文芸誌づくりをしたこともなかったから、デザインの経験のあるみどりの方がそれに関してはずっと了解を得えているだろうと思った。この文芸誌学部生が制作した文学、それからエッセイや論文なども含ふくめて公表してる文学部の目玉のイベントともなっている代物しろものである。
そして、また別のタイミング刈安からのメールが届いた。
「それから――」と続いて、表紙のデザインについていくつか述のべてあった。
はじめは順調であった。しかしこの時に刈安が誘った杜若潤が本の表紙とその雑誌コンセプトの考案の段階で「やってもいいですよ」などと言うからややこしいことになったのだ。
あおは同じ科にいる杜若かきつばたにも会うことにした。
表紙とコンセプトをやるということはすべて杜若が文芸誌全体のレイアウトを練ねらなければならず、やがて中身のビジュアルまで全部を担になわなければならなくなる。そのことが本当のところ彼女に分かっているのだろうか疑問だったからだ。
すべて自分でやらないにしても、デザイン案を担になうということは全体を形作っていかなければいけない。ことによってはさらなる改編を重ねなければならない訳であるから、誰よりこの文芸誌に密着して作業を重ねなければならない。杜若にそれが分かるのだろうか?
「やってもいい」
一番信用できない言葉だ。こんな口約束なら、じゃあやらなくてもいいと放棄ほうきできる訳だ。はっきりしない嫌な答えをそのまま受け入れられるだろうか――。あおは考えた。しかしいくら考えてもやってもいいということは途中で逃げますと宣言せんげんされている気がする。そう思うと非常に不愉快になった。そんな人間は要いらない。しかしながらみんなもう大学生だ。責任の取り方も見てみたい気がする。彼女はどうするだろう? 自分が責任を負わなければならないことに関して「やってもいい」それは、責任は負えませんと言いたげだ。「やります」ではないのだ。あおは確信をもって彼女は逃げるだろうと思った。
もう夜遅かった。色々考えているうちにあっという間に日が落ちたのだ。あおはみどりのメールを見ながらさっきのことを考えていた。
刈安も信用して彼女を使ってみることにしたはずだ、あおはしばらく杜若かきつばたの出かたを待つことにした。
デザイン科の研究室に顔を出したところで、顔をそろえているのは大学院生と研究生のみだ。そこに昔を思い起こさせるものはなにもない。
刈安が久しぶりにゼミに顔を出していた。
彼は先生と二人して、たったまま会話をしていた。双方ともコーヒーを入れたマグを手にしながら少し腰をしならせて立ち話をしている。
しかし刈安がゼミに顔を出すのは珍しい、最優秀生である刈安は自身の研究が認められているため、出席を免除され、活動とレポート、論文の提出だけあれば修了できた。
「よぉ、あお――、」
刈安はあおに用があるようだった。メールを送ったが見たのかという。内容は今日研究室に来るのかという質問だったが、寝坊をして急いでジャケットをつかんで飛び出たころには、メールが来たことも忘れて自転車に乗り、通学の道を走ってきた。
「今朝見たが、時間ギリギリで返す余裕がなかった。何か用か?」
「藍鼠くんはどうかなと思って――、」
刈安が彼女のことを聞く意味があおにはよくわらなかったが、利発そうであったということを思い出して、そのことを話した。――そして頭の片隅であの色白の肌と口元、顔の輪郭を少し思い出した。
――綺麗な顔だったと思った。
「――だろう。文芸のゼミで見つけた3回生の子だ。よく本を読んでいるし、エディターとして、かなりいい働きをしてくれそうだ。」
刈安はなぜみどりのことをあおに引き合わせたのか彼自身にはよくわかっていなかった。ただ企画はあおとみどりで進行して、進めていかなければならないことを考えていた。
「潤は――、どうするつもりなんだ?」
「彼女は感性はとてもいいよ。少し気移りが多いのが玉に瑕だけれど、うまく使ってやってくれ、お前次第ではいいものになる。今度の文集は学内でも評判だ。お前の力が試されている。よくやればそれがそのまま修士論文にも使えると思うぞ――」
刈安はあおの様子をうかがって、今度の企画のやりようを見ていた。彼のゼミの訪問は、あおには一抹の不安と、みどりに対する少しばかりの好意を感じる事象でもあった。
「今日は出ていくのか?」
あおはなんとなしに尋ねた。
「いや、先生とも話せたし、お前とも話せたからこのまま図書館で文献を借りて帰る」
刈安はそう言いながらすでに研究室をあとにしていた。
煤竹あおは大学卒業後すぐ研究室に入った。だからといってけしてエリートとは言えない。たんに就職ができず親の脛かじりをしているだけに過ぎなかった。文系大学の研究室なんかに入ってしまっては、この先仕事にありつけることもないだろう。あおにとってそれは一つの決断だった。昔から学校というものが嫌いで、生徒というのも嫌いで、同級生も嫌いで、先輩なんか相手にも出来なかった。しかしいざ就職となると学校は心地が良く、融通がきいて、案外楽な時間を過ごせる。
あれは院生になったばかりの春だった。あの人は僕を忘れただろうとしたころ、あおはあの人のことを忘れずにいた。しかしもう彼女には会えないことも知っていた。昔の彼女への思いが彼を臥せらせることもあった。そんな春だった。辛気臭い雰囲気を彼は醸していた。どことなく湿っぽいそのなりは、人が寄り付かなそうな様相をしていた。別段根暗というわけでもないが、気が沈んでいるせいで、どことなく何に関しても上の空だった。
キャンパスの門をくぐって、道を過ぎ左に折れて、しばらくすると行く道を間違えたことに気が付いて、事務所棟へ入って階段を上り屋上の通用口から研究等へつながる小道を行くようにして遠回りを避けた。なぜそうしたかあおにはわからないが、しかし彼自身がそうしたことである。彼はまだ彼女のことで錯乱したこころが癒えずにいたということだろう。つまり彼女のことを思い出すと――、考えていると、あおは自分が何をしているのか突然わからなくなった。そして季節が彼の心をいつも揺さぶっていたのだ。
杜若潤は朝からヴィジュアル研究室にいた。グラフィック研究棟の一角にある主要研究室の一つだ。
初対面で挨拶すると
「よろ〜」という返事で、かなり驚かされた。
身なりは落ち着いているが厚顔であまり人のことを見たりしないタイプに見える。
「文学ゼミには友達がいてさ〜、時々顔だしてんだよねえ〜」
と、大分ゆるい会話をした。あおはその言葉遣いからぼっけとした気分を逆に緊張させられた。つまりあまりにも驚いたからである。
あおは取り急ぎ文芸誌の方向性を決めるために、教授と掛け合っておいてほしいと杜若に話した。
彼女は、
「ん、おけー」とだけ言ってそのまま別のことに気を取られ始めた。
取り付くしまがなくあおはすぐにヴィジュアル研究室を出た。
デザイン科の研究室に顔を出したところで、顔をそろえているのは大学院生と研究生のみだ。そこに昔を思い起こさせるものはなにもない。
刈安が久しぶりにゼミに顔を出していた。
彼は先生と二人して、たったまま会話をしていた。双方ともコーヒーを入れたマグを手にしながら少し腰をしならせて立ち話をしている。
しかし刈安がゼミに顔を出すのは珍しい、最優秀生である刈安は自身の研究が認められているため、出席を免除され、活動とレポート、論文の提出だけあれば修了できた。
「よぉ、あお――、」
刈安はあおに用があるようだった。メールを送ったが見たのかという。内容は今日研究室に来るのかという質問だったが、寝坊をして急いでジャケットをつかんで飛び出たころには、メールが来たことも忘れて自転車に乗り、通学の道を走ってきた。
「今朝見たが、時間ギリギリで返す余裕がなかった。何か用か?」
「藍鼠くんはどうかなと思って――、」
刈安が彼女のことを聞く意味があおにはよくわらなかったが、利発そうであったということを思い出して、そのことを話した。――そして頭の片隅であの色白の肌と口元、顔の輪郭を少し思い出した。
――綺麗な顔だったと思った。
「――だろう。文芸のゼミで見つけた3回生の子だ。よく本を読んでいるし、エディターとして、かなりいい働きをしてくれそうだ。」
刈安はなぜみどりのことをあおに引き合わせたのか彼自身にはよくわかっていなかった。ただ企画はあおとみどりで進行して、進めていかなければならないことを考えていた。
「潤は――、どうするつもりなんだ?」
「彼女は感性はとてもいいよ。少し気移りが多いのが玉に瑕だけれど、うまく使ってやってくれ、お前次第ではいいものになる。今度の文集は学内でも評判だ。お前の力が試されている。よくやればそれがそのまま修士論文にも使えると思うぞ――」
刈安はあおの様子をうかがって、今度の企画のやりようを見ていた。彼のゼミの訪問は、あおには一抹の不安と、みどりに対する少しばかりの好意を感じる事象でもあった。
「今日は出ていくのか?」
あおはなんとなしに尋ねた。
「いや、先生とも話せたし、お前とも話せたからこのまま図書館で文献を借りて帰る」
刈安はそう言いながらすでに研究室をあとにしていた。
その日あおは朝から研究室で装丁デザインの本を読んでいた。彼の研究はアナログ意匠全般を扱うものである。紙、木、石、プラスチック、アルミ、鉄、銅、鉛、あらゆる素材の物体を媒体として訴える作品を作ることで、中でも装丁の仕事は印刷技術の多様化からあらゆる質感を扱うことが楽しめた。彼は学部4回生の時に鉛の本の彫刻と上製本の装丁のデザインに中身は自身の論文を製作品として卒業論文と合わせて提出し、教授陣の話題を呼んだ。刈安と知り合ったのもこの卒業論文の発表会の時だった。彼はあおのプレゼンはともかくとして、彼の制作品に大変な感銘を抱いた。
「――今度、私の文芸誌の企画の装丁をお願いできないか!」
彼のその時の顔はあおにとって忘れられない。どの人よりも好奇心を持った、きれいな目と喜びにあふれた表情だった。
そして紹介されたのがみどりだった。
あおは時間まで新しい質感の紙、あるいは布、木材、それらの選定を考えた。研究費を費やすわけにはいかなかったが、刈安もこの文集に研究費を使う予定であると話を聞いていたため、並製本から上製本に意匠を変更し、さらには様々な素材を使って装丁を考える余裕ができた。あおはスケッチをしながら、雨の表情を気にしていた。
――変な天気だ。
台風が来ているわけでもないのに、雨音が窓を叩いたり、静けさを取り戻したり、時折風が唸りを上げていた。
この日は久しぶりの編集会議を予定していた。研究室を先生から借りてみどりと杜若を呼んだのだ。やまない雨の日が続く季節があおには不安を誘っていた。
みどりは予定の時間より早くにやってきた。
「先輩お疲れ様ですね」
「ごめんね。多分就職活動とか始まっている時期で、忙しくなっているのに」
「――いえ、だいじょうぶです。」
みどりは少し怒っているような表情を浮かべて、やはり語尾を強調気味に話した。あおはクスリと笑って彼女を出迎えた。
彼女は研究室へ入ると少し落ち着かなかったが、あおが大机に並んでいるところの席へと促すと素直に近くの椅子へちょこんとその華奢な身を下した。
あおは自席から見ていた参考文献のいくつかを抱えて、みどりの座る席のそばに置いた。――そしてしばらく、ふたりで今回の企画について話しながら杜若が来るのを待った。
「みどりさん。この装丁だけれど、今回はこんな感じにしようと思うんだよね。」
「え、こんなにいい本にしていただけるんですか?――」
「まあ、あとはこの間杜若にあって話しておいたんだが、彼女がどうコンセプトを持ってくるかなんだよなあ――」
「杜若さん、文芸ゼミの研究生なんですけど、先生も手を焼いているみたいですね」
みどりの反応はすこし、気をなくした。語尾が伸び気味になった。
――あおも“やはり”と思っていた。
「僕の研究のためでもあるんだけど、今回は表紙に木の板を使ってみたいんだけどな。ほら君のゼミの文芸誌の発行は今回年度末だろう?――ちょっと枯れ気味の木の感じを出して、季節感があると思わない? まあ、これは提案なんだけどね」
「面白いです。先輩装丁の研究されているんですか?」
――再びみどりは語尾を強めに言った。その好奇心と目の輝きは、あおが4回生の時の研究発表会に見た刈安のその目と似ていた。そしてなぜかあおは心躍る感慨に襲われて照れ臭くなった。あおは携帯のフォルダーを開いてみどりにみせた。
「これ、卒論の時に製作品として提出したものなんだ」
「あ、刈安さんと一緒に写ってる――。ってすごいですねこれ、彫刻ですか?」
みどりはまだ思わず口に手を当てて驚いていた。
「いや、あ、まあそうなんだけど、彫刻研究室に知り合いがいて、鋳物なんだけど、制作してくれたんだ。デザインのスケッチは僕で作ってね、――それよりこっちの装丁がメインで、中身は装丁デザインの多様性について論を展開したんだけどね――。」
みどりの驚きを見ながらあおも驚いていた。あおは刈安に言われてみどりとは一度話したきりで自分がどんなことをしているか話したことなかったことを思い出していた。
「へえ――」
みどりはさらに興味を持ったので、携帯の画像を数枚スライドさせて目を見開いたりしてから、装丁デザインについてあおが持っていた文献に目を通しはじめた。
杜若が来たのは予定した時間を1時間以上も過ぎた。夕暮れ近くの頃だった。
「おつー、ごめ。まった?」
あおは少し肩を落として杜若を見た。杜若は言ってしまえばギャルである。相変わらず派手な見た目をしている。しかしその性格に反して彼女は子供っぽさの見受けられない格好をしている。知らない教授はその見た目に少し騙されるが、少なからず文学ゼミの教授は彼女の粗暴な《《なり》》に困っているようだった。
「杜若さん、お疲れ様です」
みどりも少し気のない返事をする。杜若はすぐに大机のそばの椅子に座って荷物を下した。あおはそれを一瞥してから、さっそく議題にうつることにした。
「杜若さん、いま藍鼠さんに見せてたんだけど、これ装丁のデザインの見本、一応この本参考にしてるんだけどどうかな?」
「いいんじゃない?――。一応これコンセプトあげる前にいくつかワードまとめてきたよ? どうかな?」
文献をさらっと見たあと杜若はノートを広げてあおとみどりの前に置いた。ノートには本という字を中心にこう書かれている。
(白、しろ、空、蒼、家庭、キッチン、廊下、夢、抽象的、冷たい、ひややか、親)
「――これは、どういうイメージのワード?」あおは杜若に訊いた。
「多分、みどりっちはわかると思うけど、文学ゼミの今回持ち寄った小説のイメージって、家族とか家庭的なものが多いんだよねー。で、結構冷めてるっていうか、冷たい家庭を連想するおはなしが多いというかね。家族の煩わしさみたいな?」
「そうです、だいたいこんな感じです」
みどりも頷きながら、杜若のイメージを肯定したが、あおはこれからどう制作を動かすかを考え始めていた。
杜若潤の最近の噂はあまりよくないものがある。彼女はあおとおなじグラフィック科の研究生であり、科の業務中にもかかわらず、文学部の研究室に入り浸って、友人の研究生らとともに菓子を食い散らかして雑談にばかり耽っているというのである。そして業務後は研究室で酎ハイの缶を空け、注意した教授に横柄に対応し研究態度も余りよくないというのが専らなもので、文学部からの杜若のその苦情に際して、グラフィック科の教授陣も手を焼いているようだった。そうした噂というのは研究生という狭くて小さき門の中の門人たちからすると、あっという間に噂となり、杜若は悪い意味で学内の有名人になっていた。
あおは二人にコーヒーを入れた。
「インスタントだけどいい?」
「ありがとうございます」というみどりのことばに相反して、
「おう――」と言うのが杜若の反応であった。
さすがにみどりもいい顔をしていなかった。あおも少し、不愉快になりながらも、表現にはしないようにどうにか自身を落ち着かせた。
少々の休憩ののち、あおは会議をまた進行させた。
「そうしたら杜若のこのワードからコンセプトをつめていこうか――?」
「そうですね。」みどりは少し気を取り直してあおに返事をした。
杜若は装丁デザインの参考文献に目を通していて無言だった。
「いい?――」
あおは少し間をおいて返事を催促すると杜若は
「あ、ごめ」
といった。
あおは少しまた不愉快になったが、しようもないという感慨も浮かんでいるのだった。
刈安はこの頃、別の企画にも手を出して忙しそうだった。そもそもそのつもりだったのかもしれないが、刈安はこの間ゼミに訪れた後、彼の状況のことの仔細をあお宛にメールしていた。内容は簡単に言えば、この文芸誌の企画はあおに任せたからとのことだった。
今日、あおが杜若とみどりを呼んだのは、一度作業の状況を報告しあって情報共有のほか、刈安が実質抜けた話と、今後の方針を決めて仕切りなおすためにもあった。
「そうしたら、みどりさんは引き続き台割の更新とフォントの選定をお願いします。多分文学ゼミの成果によって台割は変わるだろうし……。杜若は僕の持ってきた文献をある程度参考にして表紙を作ってきてください。僕は校正と作家の対応をするので、取り急ぎメーリングリストは前に刈安から受け取っているから、あとはみどりさんからもらったこの作品をそれぞれ読んで校正をするのと、掲載希望の学生からまだあがっていない原稿を拾っていってみることにします」
「わかりました」みどりは普通に返し、
「りょ」と杜若は言った。
あおはペースを乱されて、少し咳ばらいをしながら、一回目の会議を終わりにした。
杜若はそそくさと研究室をあとにして、あおが廊下に出て文献を資料室へ帰そうとしたときにはもう姿も見えなくなっていた。みどりはまだ研究室に残っていた。というのも会議の前に見せたあおの卒業論文を見たいという話になったからであった。卒業論文とヴィジュアル化した本の鉛の彫刻は5セット存在していた。あおからしてみると記念すべき作品であったからである。確かに論文の内容が評価の中心になることはわかっていたが、彼としてはデザインをする=物を作るという考えのもとでモチベーションを維持してきたため、論を展開するためにモノへ起こしてみるという行為を必要とした。そして試作品、提出用、個人用、予備品、そして友達の彫刻科生にと制作をしたのであった。そして5つのうち2つは先生の研究室のおいてあった。あおは既に大学業務の時間外となった研究室棟の薄暗い廊下を歩いていた。先生の研究室からは灯りが漏れている。
「やあ煤竹君、こんな時間まで居残っているなんて君も熱心だねぇ」
彼が研究室のノックして入るや否や教授はそう話しかけた。
「今日はちょっと刈安に頼まれている文集の編集会議をしていまして、」
「なるほど、そういえば刈安君の研究に君も加担していると彼自身から聞いていたけど、私も非常に楽しみにしているから頑張り給え」
「はあ」
あおは少しばかり気重に感じてくることがわかった。やはり刈安は学内で注目されているだけある。この企画に関してはまだ教授にははっきりとは話していなかったのだが、刈安の企画というだけで、グラフィック科には噂が広まっているらしい。実際には彼自身は何も動いていないのであるが――。
「ところで、今日はこんな時間に何をしに来たのかな?」
教授は少し愛嬌を見せるようにして話題をそらした。
「あ。あの、私の卒論と制作物をお借りしようと思いまして、」
「おお、あれは君、評判良かったぞ。彫刻科の学生の卒制にもなっているからな。学内これだけコミュニティを活用した作品はないという評判なんだ。グラフィックと立体が組み合わさって活動が進行することなんていうのは、学生時分ではあまり考えられないことだからな――」
「そんなことはありませんよ」
「謙遜しなくてもいいと思うけどな。――ものは隣の資材室においてあるからとってくることにしよう」
「あ、では少し待っていてもらえますか」
「ん?」
「いや僕の作品を見たいという子がいるので、ちょっと呼んできます」
あおはまた研究生用の研究室へ戻り、みどりを呼び出した。彼女はその華奢な身体をひらりと椅子から起こして教授の研究室へと歩みを進めた。
「お疲れ様です」
「ほお、藍鼠君も煤竹君と知り合いだったか――」
「先生、藍鼠さん、ご存知でしたか」
「私の講義に出てる子だよな、たしか」
「はい」
「欠席も一度もないのと、文学部からの評判を聞いてますよ。君も学芸員志望であることもね――」
2.萌黄色の季節が来るまで
7月、文学部の教授のゼミへあおは赴くことにした。文学部棟は一山分あるキャンパスの一番上にあった。普通の舗装された道から外れて丸太階段へと道をそれると20mくらい登れば文学部棟である。棟は老朽化のため工事で立ち入れない場所もあったが、年々の学生数の減少でほとんどの講義室は空いていた。落下防止網がグレイの建物へと変えているが、もとはベージュ色の窓の少ない建物で、遠めに見るともともとはとても明るい印象を持っている。あおは汗をあごの下に滴らせながら、一歩一歩歩みを進める。どうしてこう文学部棟は高く遠いところにあるのか恨む気持ちがあったが、それはしようもないこととして納得させながら、弱音の出てくる前に坂を登り切ってしまおうとした。
木曜の4限目まではあと30分あるが、この最後の20mはつらかったため、あおは少し早めに講義室へ向かうことにしていた。
昨晩メールでみどりは
「あお先輩、会えるのを楽しみにしています。この間見せていただいた卒業論文と制作品が素晴らしくて、私もあお先輩みたく、いいモノを作って卒業しようといろいろ勇気が湧きました。明日、ゼミよろしくお願いします。先生には話を通しておきました」
と、送ってきていた。
しかし例によって時間ギリギリに起きたあおはメールを返し損ねていた。大学の演習講義の手伝いをするのが研究費算出の口実となっているため、あおは研究として教授の助手をし、学部生に制作論の講義をすることもしていたため、この日は朝早くから大講義堂の音響段取りから資料配布、プロジェクターのセッティングと自身の研究に気を配る余裕がなかった。
あおはどうにか時間を見つけて、みどりへ一つ謝罪を入れて、今日は学部生の前期リレー講義で今月はグラフィック科だったから忙しくてあまり連絡できないとの旨のメールを入れておいた。するとバイブがすぐに響いて、
「わかりました。ご連絡ありがとうございます。大変ですね」と返ってきた。
あおはまた瞬間、みどりの顔の輪郭をあたまに描いていた。
そして、
――何故だろうか。
と少し違和感のある感情を彼は思わずにはいられなかったのであった。
短尺椛というのは教授のペンネームだが、椛氏は文学賞をいくつか受賞している。文壇ではもうだいぶんフル物であるが、英文を和訳したものも多く、あおもパンクのロッカーのエッセイ集を椛教授訳のもので読んだことがあった。老齢という割に体の動きがいい見た目も軽く、体はそんなに大きくはないが健康そうな容姿をした教授であった。
「藍鼠さんから聞いてるよ」と教授はすぐにあおをゼミ内の学生へ紹介した。
「君が来たからね、今日から私の研究室へ学生を集めようと思うんだ」
椛氏は快かった。メーリングリストにあった十数名の学生もこの日は全員ゼミへ来てくれていて、この日文芸誌作成のためのヒアリングをしっかり行うことができた。
小説は15作であとは絵本が1作、評論が3作、会談の記録が2つとそのようなくらいである。
椛氏はあおに特になにか言うこともなかったらしいが、自身が企画するゼミの文芸誌が無事に発行できそうなところを見ると、どこかしらホッとする感慨を持ったらしかった。
文学ゼミの終わり、教授に挨拶して研究室をあとにすると、そのまま棟をおりて丸太階段の小道に出た。周りが高い木々に覆われているため風が吹く日はこの道は涼しい。
――そういえば杜若いなかったな。
全く忘れていたことを思い出して、少しマズかったように思った。頭を掻きながら砂利が敷かれた丸太階段の道を一歩一歩ゆっくり降りていると後方から声が聞こえた。
「先輩――、一緒に帰りませんか?」
みどりが後ろから追ってくるみたいだった。
白い光がチラチラ落ちている木漏れ日の中を友達たちと離れてこちらに来るみどりを見ながら――
――そうか、彼女に似てるんだ。
記憶に残るあおが3回生のときの彼女に似ている。
みどりは青色のジャケットに膝丈ほどの白いスカートをひらひらと揺らしてくる。
束の間、あおには幸福な感じがあったが、すぐに押し沈めてしまった。
最後は良くない別れ方をした。お互いの悪いところばかりが目についた。ベンチに座っているときの足の放り出し方が恥ずかしい、座り方がダサい、フラフラ歩くのやめてくれない? 食べ方汚いよ、顔疲れてない? 髭剃りなよ、あんまりくっつかないでくれる? 一緒にいるのも恥ずかしいよ。……
彼女は同期生であった。ちゃんと就職していまは会社員をしているだろう。彼女もみどりと同じく肌の白いきれいな顔立ちをしていた。
早秋、みどりからのメールには、みどり自身の文学ゼミでの作品について送られてきていた。
「あまり自信はないのですが、今回、椛先生が私のを選んでくださいましたので――」
と、さきにことわりがあった。
確か文芸誌の掲載は4回生が中心のはずだった。3回生の彼女が選ばれているのは彼女自身が優秀な証だろう。刈安が目をつけるくらいであるから、頭の良さは本当のことだろうと思う。
「まず中身を確認してみますね」と返すと、
「恥ずかしいですけれど、よろしくお願いします」
と、すぐに返事が来た。あおは彼自身が気づかない間にどことなく彼女に対しする好意のほか、少なからずの嫌悪感の両方を抱いていた。それは本当に不思議といった感情である。
返事をしないままにしておくと、更にメールが送られてきた。
「院生からしたら全然大したことないと思います――」
あおは彼女が恥ずかしさをいかに隠そうとしているかを読み取っていた。彼女自身もどことなく落ち着かないのだろう。彼女の小説は菫ひわと言う毒々しい官能小説家のそれを思わせる文体と内容だった。あおの抱く彼女のイメージからはかなりのギャップを持って現れたこの作品に、あお自身も羞恥心を抱かずにはいられなかった。
しかしそのギャップからかあおはこう返していた。
「好きです、この作品。一見怖いけど、引き込まれる魅力があって――」
そしてしばらくみどりからは返事はなかった。
あおは彼女の小説があまりにも官能的であったことに驚いた。女性の欲情が赤裸々《せきらら》なままに描かれてしまっている。読んでいるこちらが恥ずかしくなるくらいだ。原稿をおいて、あおは落ち着こうとした。身体の隅々から、血の流れが通ってくることがわかった。そしていつの間にかみどりからメールが来ていることに気がついた。
「でもやっぱりあおさんに見られるのは恥ずかしいですよ――」
みどりとのメールのやり取りは夜遅くまで続いた。刈安が彼女の小説のイメージに春画を持ちよったことを考察ファイルから取り出した。挿絵のイメージが大正風情の春画であることにセンスを感じた。
あおはみどりのメールのひとこと一言に彼女の恥部が少しずつあらわになっていくような感覚を見出していた。そのためかはわからないまでも、彼は明らかにそわそわしていた。メールの文体に彼女の桃色の恥部があらわになり、迫りくる香りと肉感を感じながらも、3回生のときに経験した女性の棘のことばの数々を同時に胸の中で感じ取っていた。
双方の感覚がどうにもならにいとき、あおは自涜した。明らかにあおはみどりに想いを寄せ始めていた。
そして、みどりもあおとおなじ感情を抱いていた。みどり自身もメールのやり取りの中で、憧れ始めた先輩との接近のために心が抑えきれず、悦びの中で自慰行為に走っていた。
こんなに人を好きになったのは久しぶりだった。それは彼の正直な気持ちである。はじめあおにはこの気の持ちようが何だったのかわからなかった。落ち着きが持てないまま部屋の中を右に左に歩き回った。〝なんだろう?〟と思ううちに、しかしすぐにもみどりのことを考えているということに気がついた。だがそうしているうちに、あおは不安になった、みどりはいったいどういうつもりなのだろう? 不思議だ。あれほど毎日やり取りを繰り返していて、ひとつも疑うことはなかったのに、こういう思いに駆られると何一つとして今までのことが嘘のようにも思える。いまは言葉ひとつとってみてもどういうことなのかわからない。大丈夫と言葉が浮かんで、しかし裏切られることを考えてしまう。わかっているような素振りで何か言うのも、非常におかしなことになりそうだ。
あおは歩いていた。風景には風だけがそこを通るのが分かった。確かにビル群や森があることが見える。そして確かにそうしたものたちが立ち誇っている地べたの上を快活に歩いているのだ。けれども、何にしてもそういったものは彼の眼には入らなかった。眼に映っているのは空だけで、その他に感じたのは、風が彼の身体を吹き抜けていくということだけであった。その日の空は素晴らしかった、風がうまいぐあいに彼の身体を運んでいるからに他ならなかった。しかしそれよりもあおはみどりと逢えて、そうした周りの空気のことを感じられる気持ちになったことがその日のすべてだった。
あおは嬉しかった。ただ単に愉快なだけではない。あおが愉快なことにみどりも愉快になっていたことが彼をそうさせていたのだ。
「好きです、この作品――」
そしてまた一方でみどりは少し浮かれていた。みどりは自分の容姿の美しさの陰で自らが汚い人間であることをどことなく感じることがあった。しかしながら彼女か思う男性はいつもクールな感じを思わせた。そのためかはいつも自身の下心を隠して生きたいと心で感じていた。その汚さを文学ゼミで椛先生が吐き出すようにと言うから、彼女はこのころ気になっていた作家の文体を真似て、小説を書いた。
そして彼女は文芸誌の掲載のはなしから、刈安と知り合い、沸騰しそうな羞恥心を持ちながらも、椛教授と刈安がこの小説を絶賛するがために、仕方なく掲載を了承したのである。しかしながら、刈安があおとみどりを引き合わせと事で、彼女は、また辱めを受けたような気持ちになっていた。やはり知らない大勢の人にあの作品を見せるのはどうにも耐えられなかった。けれどもあおからもあの小説を高評価として受け入れられてしまった。みどりはあおの言葉を意識しすぎたためか、メールのやりとりたび、自分の身体をイジられる快感に無意識のうち憧れ始めていた。俄然胸のあたりが翼動するとともに、すぐにまた不安で気持ちが沈みだした。そして、あおからメールが来るたびに悦びがおこった。その繰り返しがたまらなかった。たまらなくなって、自分の身体で遊ぶことがやめられなくなっていった――。
そして時に夢を見た。恥ずかしさと憧れが彼女を昂揚させていた。胸の高鳴りが抑えられなくなって、やり場のなさから寂しくなってしまうこともあった。そんなとき、みどりは床で彼と逢えたときのことや、メールの文面などを思い出し、乳房を触りながら吐息を荒らげた。身体が自然と揺らめくのを止められなくなっていた。快楽だけではなかった。陰部が勃起し濡れてしまっていることもわかっていた。彼と触れ合いたいその気持ちだけで彼女は盛り上がっているのだ。
そしてときが来れば彼女は絶頂ののち、力尽きて眠りに沈むのであった。
3.秋の頃に咲く花
改札付近では杜若と挿絵の原画を描いた東雲あかねがいた。みどりはまだいなかった。
「時間はまだですね」
二人は静かに頷いた。あおには二人とする会話がなかった。
あおはみどりとかなり長い間連絡を取り合っていた。しかしあおにとって結局のところみどりにそのような感情が芽生えることはなかった。それはみどりにとって残酷なことだ。学部生の頃の記憶が彼の中で女性を遠ざけようとしている。
彼女の愉快さは、あおにとっても愉快なことであった。それは間違いのないことだ。その愉快さを共有しているときは昔の記憶を忘れることができた。しかし、いざ平静を取り戻してみるとその感情はどこか深いところへ押し沈められた。
――あの白い顔。
いくら印象深く良い思い出とともに記憶に残ろうとも、あの言葉の数々が全てを萎えさせた。とうぶん、女の人とは付き合えなさそうだと言う感情さえも彼は抱かざるを得なかった。しかしみどりはそんなこと知る由もなかった。
みどりが来たので、あおはなるべく顔を合わせないようにそそくさと歩みだした。
実際時間がなかったのも確かである。あおは早いうちにファミレスでも喫茶店でも見つけて挿絵の案を見たかった。
あおは先頭を歩いていると、みどりが前にはっと出て、
「あおさん、こんにちは」と言った。
その顔は普段見せる顔とはずっと違う表情であった。何にも疑いを見せない表情である。
あおはドキリとした。みどりはよく見るといつもとは違った格好をしている。大学とプライベートではやはり服装を変えるものなのだろうか――。いや、違う。明らかにみどりは意識的に服装を変えてみたのだ。
服装だけではない。彼女は身のこなしから身なり全般、髪型らか化粧までわかりやすいくらいに変わって見えた。いつもの爽やかさというよりは
艶やかなる様相を呈していた。
あおはどこかで谷崎潤一郎の刺青を思い出した。
彫り師が肌のきれいな女に入れ墨をいれる快感と、入れ墨をいれて変わって行く女の態度に征服される男の快感を描いた小説である。
彼はゾクッとし、地下街から表へでた。
――何が彼女をそうさせているのだろうか。
一抹の不安をビル風は知らせていた。
あおはどうしたものかと思っていた。
文芸誌の編集会議をするために今日は集まったのだ。それに集中するべきと思った。どことなく甘い誘惑が彼の脳裏に浮かんでいる。彼女の服装を見るとこのまま手を握って連れ去っていってしまいそうになる。
特徴的だったのは花や蝶の柄の刺繍がレギンスにあったことだ。この子の姿が現れたとき、杜若も東雲もあおを見て、頑張れと言った。誰から見てもわかりやすく彼女は変わっていたし、あおに対して好意的だった。
4人はしばらく歩いてどこ入ろうか、などと話しているが一向に決まる気配がない。あおもこの街は初めてだった。
挿絵の案が出来上がったと杜若がメールをよこしてきたので、挿絵の作家を呼んで話し合いをすることになっていた。
この街にしようといったのはみどりである。3回生の秋はあおも覚えている。必修とゼミ以外はたいてい単位を取ってしまっているから、研究生と違って大学に来る様は殆どない。大学からも遠いみどりは近いうちにこっちに来ることもないのだという。
とするならばみどりが一番近い都心の街が一番全員が会いやすいだろうと踏んであおはみどりに任せるといったのである。
つまり、この街はみどりが一番良く知った街ということだ。
「あの店にしませんか?」
突然みどりがいった店はあきらかにデートスポットともいうべき店だった。
杜若も東雲も少し呆れた顔をしたので、あおは少し背筋を凍らせた。
――なにかの間違いならいいけど……。
「そこはダメだな」
彼の口から言うことで他の二人をフォローするしかなかった。これではみどりがデート気分であおとこの街にいるような感覚になってしまう。
あおは横目でみどりを見たが、どこかしら萎えた表情をしていた。
あおは仕方なしに目の前にある椿屋の看板を見つけて、そこだなと思って3人に声をかけた。老舗の喫茶店だ。落ち着いて話すならちょうどいい店だ。
女性たちは皆アイスティを頼んだ。あおだけエスプレッソを注文したので、不思議な注目を浴びた。
「コーヒー飲めるんですね?」
一言発したのは東雲だった。この中でいま話を切り出しやすいのはこの人であっただろう。
「あたしも飲めねー、煤竹よく飲めんな」
杜若もこの時期になるとだいぶん慣れてきていた。話し方や態度はどうにか気にせずにいられるようになったというべきか。
「普通に飲んでる人は飲んでるから普通じゃないか?」
と、彼はありきたりな反応をした。
あおはその会話の中でもみどりに対して意識的だった。彼女は確かに魅力的になっていた。明らかに他の二人を抑えて特別な格好をしていた。漆黒の飲み物を手にして眺めながら、あおはみどりを意識せざるを得なかった。しかしあおはそれを意識していることを忘れるかのように東雲に挿絵を見せるように促した。
水性インクの多少にじみの出る筆致の挿絵である。エッシャー的なエッチング|《銅版画》だろうか、しかしそれほど硬質でもない質感である。どちらかといえば湿り気のある日本人的なタッチであった。
本格的なエッチングではないが、学生の出版物であるならこのくらいでもいいような気もする。
しかし、彼はエスプレッソを原画へこぼしてしまいそうで、最後はそちらに一番気を取られていた。
話が一通り済むと、あおは東雲に原画のスキャニングの承諾を貰って、みどりにそのデータを送るように願い出た。台割どおりに挿絵の箇所を伝え、原稿データを渡して一通り中身を読んだ上で挿絵を描いてほしいことを伝えた。
2時間ほどだろうか、かなりの時間話しているようだった。昼過ぎくらいに待ち合わせたが、もう空は暮れ始めている。
「煤竹くんはこのあとどうするの?」
東雲が聞くので、友達の展示会で5時過ぎから打ち上げするというのでそちらへ合流すると話した。
あおはみどりに「くる?」とだけ訪ねてみたが、もう帰りますというので、それ以上は何も聞かなかった。
みどりのこれらの態度を見てあおは思った。
ーーうぶなんだ、と。
椿屋から出て、「じゃあ行くから――」とみどりへいうと、みどりは脇の下あたりで手を振っていた。そしてすぐに分かれた。あおはまた街中を歩くと、周りのものには目もくれず、ひたすら淀んだ曇り空を見上げて、駅の方の道へと歩みを進めた。
みどりはそのあとどうしていただろうか。
原稿の仕上がりは師走に入る頃としている。これから校正作業に入る。一番忙しい時期になる。
4.モノクローム
師走に入った。次々と原稿が仕上がった。間に合いそうにないものが数点あったが、再度期日を決めて内々に最終締切を決めた。
あおは校正を始めていた。掲載ルールを決めて、全て形式を統一させることにした。句読点や括弧の扱い、記号になどついて。
それから毎週の文学ゼミへあおは顔を出した。制作品の掲載順や作風、それから人となりを見ながら、文章に読み耽った。わからない表現や、てにをはの繋がらないところや重複、言い回しなど、作者に変更が必要であれば伝えて、文章や言い回しを換えてもらうこともあった。ひと作品に手をかけながら読み切るのに3日位かかり、同じ作業を3回繰り返すつもりだった。そうこうしているうちに、間に合わなかったぶんの作品や、挿絵、表紙、あとがきや奥付、文芸誌のタイトルなどがあがってくるはずであった。
文学部棟を出ると相模原と武蔵野の大地が一望できた。都心から離れた山奥のキャンパスである。冬にさしかかるこの頃の景色は陽光をあまり浴びないためかモノクロの世界だった。色は殆ど失われ、山水絵巻のようなパノラマがあおの目の前にある。それはいまの彼にとって安らかな場所だっただろう。雑念も何も引き起こさない無の世界に親しいところであった。
文芸誌の校正をしながら、挿絵、目次や奥付、各見出やあとがきなどのデータは年末までにすべて揃えることができた。校正は改行、てにをは、誤字脱字、重複、変な言い回し、句読点など細部まで直しを加え、最終段階にあった。
頁数の問題で二段読みになってしまうのは仕方ないにしても、中身はほぼ決まってきていた。
あとは杜若の仕事のみ残っていた。
表紙と文芸誌のタイトルがいつまでたっても置き去りにされていた。様々な人材から拾われた作品が掲載される文芸誌であるから、これといったこだわりを出すのは難しいことではある。しかしながら8月に会議を開いて以来、杜若のこの文芸誌に対するアプローチは自発的なものを欠いているように思える。それはまだ中身の挿絵画家を紹介してもらったことしか彼女なりのアプローチが感じられなかったところにあるだろう。
「杜若さん、表紙を考えるって夏ごろに一度話してましたよね――?」
みどりは少し怒気をあらわにしていた。
――みどりの案でもいいんだけれど。
あおはそうも思っていた。
あおはあの雨の季節の不安感を年を越しても抱かざるを得なかった。
その年、東京は3日連続で雪が降り、2日目からは積雪が二桁になるほどの大雪となった。年始はじめの試験の時期に雪は降っていた。試験は大学院生にはあまり関係のないことであるが、あおはその日夜遅くまで研究室にこもって、文献を読みあさっていた。
つまりは、雪がやむのを待っていたのである。
全棟施錠の時間が近づいたので、あおは仕方なしに警備室へグラフィック研究棟の鍵を返し、裏門に近い北側の出口から外へ出た。
白銀の世界とはこういうのだろうか。誰かが歩いた跡も全く見当たらない。綿の塊のような積もった雪が目の前を覆っている。今朝からすっと降り続いていたため、長靴ははいているのだが踏み込むとそのまま足が抜けなくなりそうである。足踏みするよりも滑らすように歩みを進める。キャンパスには誰もいない。バスの最終は30分後といったところだ。星も出ない暗闇が空を覆っていた。しんしんと冷え込む外気をあまり吸わないように歩いた。
ーーみどりは今日、何をしているだろう。
ふと、そんな言葉が頭の中をよぎった。
あおのはこの大雪が非常なまでに寂しさを呼んでいることに気がついていた。なんとなく誰かに会いたい。そんなふうに思うのだ。
ーー早く家へ帰ろう。
バス停まではあと数メートルのところに来ていた。
年始は原稿がすべてしあがり、残すは本を仕上げることであった。年のはじめの文化ゼミで杜若はしょうもないデザインの表紙をいくつか持ち込んできた。
「こんな感じー」
と、コメントはそれだけであった。
木炭の適当なデッサンが数点あった。木炭紙に定着剤もつけずに木炭の粉が揺れ動くような曖昧で抽象的な表紙であった。木炭紙の素材を表紙に持ってくるのは肌ざわりが悪すぎるだろう。質感をどう出そうかとも思った、が。
ーー没。
という言葉だけが頭の中から湧き出てくるだけであった。学生たちにこの第一案を回すとざわついた。
表紙がこれではいかに中身が充実していても誰も手にとってはくれないだろうという代物だ。学生たちが不安になる気もわからなくはない。それに一種の不信感や怒りも感じられる。
みどりは気が抜けたような感じで
「そうですねー」というだけでなんとも言えないようだった。
杜若は素知らぬ顔をしているが、少しまずかったと思っているかもしれない。しばらくの間、ゼミは沈黙していたが、椛教授がこう言い出した。
「とりあえず第一案なんだろう。コレがどうなるのか知りたいね」
その一言でこの日のゼミは一旦収まったが、あおは杜若に抱いていた一抹の不安がそのままこの時期に来て浮き彫りになって来たことに少しばかり怒りを感じるのであった。
ゼミが解散した後、椛教授とみどりが研究室に居残っていた。あおも当然その場に残ってはなしをするつもりでいた。
「あんな感じもいいんじゃないですか」
みどりが最初に言い出した。表紙のことをっているのはあきらかだった。あおは何でもないというふうに装った。というより、どうにでもなると踏んでいるというのが正解だった。
杜若に見切りをつけてこちらでデザインを考えるしかないと思っていた。
立ち枯れの木が連立している池を横目に歩いていた。あおは公園の小道で考え事をしている。立ち枯れのある池の向こうは黒々と覆い茂る森で、虚空はどんよりとした薄曇りであった。こころは平静としていた。杜若がやはり問題だった。
年始初日の文学ゼミのあの出来事は問題があったと言わざるを得ない。あおは刈安へ連絡を取った。刈安の返答はこうだった。
――任せる。
あおは彼が優秀なことは知っているが、この対応はどうかと思っていた。
――潤についてはどう謝ってもどうしようもない。けれどみどりもあおも表紙のデザインくらいは大したことないだろう。
彼にとっては、まだ駒はあるだろうといったところだろうか――。あおもしかしそのことは承知の上だった。刈安に連絡したのは単に近況報告に過ぎない。実際のところ挿絵作家を連れてきたところは杜若の実績である。銅板画のようなタッチのペン画は挿絵にしうるのにちょうどいいものであった。そのことは杜若のセンスといえよう。悪くないものだ。
立ち枯れのある池を過ぎればもうすぐ古い街並みに来る。相模原の古い街並みである。駅まではこの池のある公園を抜けて、旧市街に出れば10分くらいのところだ。しばらく考え事があると思い、キャンパスから歩いて駅まで向かうことにしたあおだったが、公園を抜けたころには考えていたことはどうでもよくなっていた。
あおは去年の文化祭で展示を見たときの作品を一つ思い出していた。
2月、たまに雨が降る季節になった。
あおはまた文学ゼミに顔を出していた。椛教授の研究室から灰色の雨の景色を見ながら、暖房のきいた室内で珈琲をいただくのは格別だった。
刈安からは1月に連絡を取って以降、全く連絡はなかった。
ゼミ生からは時折文章の改編や追加をもらうことがあった。確かに4回生からしてみれば、これが最後の催しになるわけだ。締切が来たとしてもまだ時間がある。あおは時折そうした要望を内々に受け入れつつ、文芸誌の中身をほとんど完成させていた。
今日に限ってはまだ、原案もない誌の顔となる表紙のデザイナーを文学部に招いたのである。
山吹あやめは絵画科の院生である。彼女の作品はコラージュがメインで、絵画技法から具象を抽出する手法を研究していた。
彼女とは年始以来音沙汰なくなった杜若の代わりに表紙案となる画を描いてもらうことにした。
杜若にはこうメールしていた。
「表紙デザインはもういいよ。挿絵作家を教えてくれてありがとう」と。
あおは山吹に持ってきてもらった数点の習作を見ていた。
デカルコマニーやフロッタージュ、ドリッピング、ポーリングなどの技術から写実へと変換されるのは思い切りの良さと細かさが同時に介在する。あおはその絶妙なバランスと質感が好きで彼女を起用した。
表紙の原案の評価は悪くなかった。文学ゼミの学生たちからの評判は様子を見る限りまずまずといったところだ。年始の杜若の持ち寄ったときのことを考えても安心感があっただろう。
椛教授は「――こういうことはたいていどうにでもなることだよ」といっていた。
あとは山吹の原案から今回の文集のコンセプトにあう表紙をデザインしてもらうことと、文集のタイトルを決めるだけになった。
翌週、山吹は早速表紙案を作ってきてくれた。コントラストの強いけばけばしい絵柄だったが、テクスチャーがそれをカバーして、若干渋めの表紙となっていた。絵の中心に「空 蝉」と少し大きめに載っている。
「私はあまり皆さんの文章を読めてないんだけど、タイトルはこれで行こうと思って――、」
絵柄も白、緑青、朱色、赤黒のフロッタージュとポーリングで抽象的に済ませてスキャンしたもので、中心で白抜きに「空 蝉」のタイトルは悪くないと思えた。――学部生も割と納得しているようである。
みどりは最後に表紙案を手にして、
「いいですね、あまり意味にとらわれずに目に入る感じで――」
山吹の説明によれば、リアリティを求める作風が多くあるような気がしているというのが今回の文芸集のテーマらしく感じたことが、「空 蝉」とする理由となったらしく、混とんとしている絵柄なのは、文芸誌に作品を持ち寄って一つにするため、各章はそれぞれであるからということであった。
「原画は油画だね?」
「ええ――、私の専門だからね――」
「そしたら、テクスチャーは印刷で表現できるし、文字が白抜きだから文字の質も何か画用紙っぽいものか、布地の粗目のものに変えてみることにしようか」
「ただこの絵柄だとスキャンしたときにこの絵そのものの色味や質感は感じられなくなってしまいそうなので、私が一度持ち帰りますね」
みどりは後日スキャニングされたデータを送ってもらえるように山吹に頼んだ。
あおはその日、山吹のお陰で文芸誌の完成もめども出たような気がした。
みどりに呼び出されたのは、2月半ばのことだった。審査会ののち、展示会があるといっていた。その年みどりは文学部から製作品としてグラフィック科で展示に参加することを許されていた。それは刈安やあおの伝手をもってのことであることは言うまでもないが、椛教授の力と、大学の多学科交流授業や、学内の方針として、理念にかなったことであるのも事実だった。
「校了まではもう大学に行ける余裕がないので、展示会へ来てもらえませんか?」
みどりからのメールにはそう綴ってあった。
あおはみどりからもらった色校データをもとに図案の最終チェックをしていた。問題はテクスチャーであった。あおはみどりに青文印刷という会社を紹介し、表紙のゲラ刷りを依頼した。また樹脂を基調とした立体感のある印刷ができないかどうかを尋ねていた。
返答としては
「油絵のような高価な材料の質までは出せないが、それなりの艶や凹凸は出せる」というものだった。
みどりは色校の結果を気にしていたので、ゲラを見たいとのことだった。あおはゲラを自分のところにしか届けるように依頼していなかったので、あおは都心に出向かなければならなかった。
相模原から恵比寿までは電車を数本乗り換えなければならない。ゲラをクリアファイルに入れてさらに書類用のケースに仕舞い、リュックに詰めて運ぶことにした。二月も半ば、真冬ほど寒さは感じられなくなっていた。
駅から北側の出口へ出て、少し西へ向かうと、公園のような広場に出る。周りには大きめのビルがある。ビルの周りにはいくつものカフェテリアがあって、まだお昼前だが、椅子やパラソルを店員が外に並べ始めていた。朝は雨が降ったのか、地面は湿っている。ただ雨量はさほどでもなかったのか水たまりができるほどではなかったみたいだ。公園の中央の植え込みの近くにあるベンチあたりで待ち合わせとみどりはメールをよこしたが、時間になってもみどりは現れなかった。
メールを送ると
「すみません。もうしばらく待て居てください。イベントの最中なのと、先生とまだ話が合って――」
と返ってきた。
彼は適当な返事をしたところで暇になったので、電車の中でも読んでいたモホリ・ナジのデザイン書を持ち出した。あおの最近の関心事は平面構成だった。文芸誌の編集をしているからというわけではないが、バウハウスは彼にとって未知の世界だったため、興味があったことは事実だった。
天気は昼にかけて好転する予報であったため、彼は長そでの薄着で出歩いていた。しかし風が若干あるのと、まだ2月のためかやはり肌寒さを感じた。
そのうち少しパラパラとまた雨が降ってきた。慌ててあおは本を仕舞い、仕方なしにビルの中へ行き、ホール内のカフェテリアでカフェ・オレとサンドイッチを一つ注文した。雨は一過性だったらしくすぐにやんだ。それを見ると彼は注文を持ち帰りにした。
待ち合わせのベンチへ向かうとみどりがいた。
「すみません。やっとぬけだせたので――」
「いいよ、だいじょうぶ。そんなに待ってはいないから」
風が彼女の髪を揺らしていた。あおはそれに少しドキリとした。
「久しぶりですね」
みどりは明るかった。服装は大学にいる時と同じである。あおは少しホッとしたような、期待を外されたような何とも言えない気持ちになった。
――何を期待していたんだろうか。
と、思っていると、
「どうかしましたか?」
みどりがすかさず声をかけてきた。
「いや、――今日はこの後も展示会?」
「そうなんです」
「たいへんだね」
みどりは寒そうに足をばたばたさせていった。
「多分この後、教授たちも含めて打ち上げです」
「そっか――」
あおはやはり少しこの後みどりとどこかへ行けるのではないかと期待していた。みどりも少し残念そうな顔をしている。
二人はベンチへ並んで座った。風が少し強めに吹き始めていた。
「寒くない?」
「だいじょうぶです。――あおさんはだいじょうぶですか?」
「少し肌寒いけど、だいじょうぶ」
「何か食べなくていいの?」
「たぶん、打ち上げでたくさん食べられると思うので――」
「あ、そうだね」
「あ、たべていいですよ? せっかく買ったんだし――」
「そう? ――ごめん。すぐには来れないかと思って自分の分しか買ってなかった」
「だいじょうぶです」
みどりの会話には覇気があって、それだけであおは安心ができた。
「それじゃあこれ、ゲラ」
「ありがとうございます」
横に座っているみどりに、リュックから取り出した数枚のゲラを渡すと、みどりはそれらを見比べ始めた。相変わらず風は強く吹いている。
「――カフェいかない? 風強いし、お茶おごるよ?」
「すみません。そうですね――。気を遣っていただいてありがとうございます」
みどりは寒い日なのにカフェテリアでアイスティを頼んだ。
「さむくない?」
「だいじょうぶなんです。暑いんですよ室内」
みどりの服装をみると、それ以上は薄着にはできないだろうと彼は思った。
テーブルにはグラスとカップが置かれてその間にゲラを、比べて見えるように広げた。
「どれがいいかな?」
あおも少し困っていた。ゲラの数枚のイメージがあまり変わり映えしないけれど、どれといっていいほどのものが選びずらい。解像度や色調、画面構成のリズムの問題でもない。
みどりは数枚見て、
「うーん、やっぱりどれも変わらないんですよね――」
と、あおと同じ感想を持っていた。
「明るいのは印象が薄いから没、コントラストの強いのは、印象が暗くなって、色味が悪くなるので没――」
みどりは重ねていった。
「じゃあ、これどうだろう?」
あおは、代り映えのない色校のためのゲラのほかに、別のゲラを用意していた。別のゲラは7種類あって、色合いをどれも変えてみせた。
「原画とだいぶん変わってきましたね」
「これで山吹が許してくれたらいいけどな。――これはどう?」
あおは数枚のうちの青と緑の映える一枚を取り出して、みどりに見せた。
「これ……――」と言って、みどりも少し目にとめて考えるような姿勢になった。
「じゃあそれでいこうか、みどりさんも気を引いてくれたみたいだし」
「そうですね――、そうしたら、青文印刷の担当の方に連絡してみます」
「――ありがとう」
話が付くと、みどりは展示会へ戻っていった。
あおは家へ帰り、色調を変えたデータをみどりへ送った。
2月末まで、あおはまた頻繁にみどりとやり取りをした。校了の時期をその日に決めていたからである。校正については完全に仕上がっていたため、原稿など文芸誌の中身はもうそろっていた。表紙はみどりが少し手を加えるといっていた。あとは台割の通りに本の中身のデータを決め、印刷会社に提出し、本にするだけであった。
台割について、みどりから確認のメールがあった。
「台割通り構成を決めました。これで文芸誌の中身は完成になると思います。直しはありますか?――」
あおは読み手の目線で見て、見た目がごちゃごちゃするが気になったので、白紙の頁を増やしたり、挿絵の余白について変えるように指示をした。また目次のページに表紙と同じようなテクスチャーを感じる柄を入れるなど少しでも紙面の見ごたえを上げるように心がけた。
何日かのやり取りの後、あおはもう言うことのないところまで手を加えたので、みどりにあとは任せるといった。みどりはこう返してきた。
「それではこれで校了ですね。あおさん、お疲れさまでした。――空蝉が出来上がって研究室に届いたら文学ゼミで打ち上げをするそうなんです。あおさんもいらしてください」
織部くるみという人からあおはメールを受け取った。
「煤竹さんこんにちは、
文学ゼミではお世話になっています。
ゼミ長をしています織部です。
この度は校了おめでとうございます。それから文芸誌の編集ありがとうございました。
誌の発行がいよいよ現実となって私も嬉しく思います。
3月20日に文学ゼミの打ち上げがあります。
煤竹さんもぜひと思いお誘いいたしました。
参加の旨、よろしければご返信ください。
かしこ」
続いてみどりからもメールがきた。
「あおさんおつかれさまです。
文学部打ち上げ、ぜひとも来てくださいね。私楽しみにしています。
色々とありましたが、やっと一息できて、空蝉も出来て私は幸せです。
絶対来てくださいよ
みどり」
あおは文学ゼミのゼミ長にまず返事をした。
「織部さん
ありがとうございます。
椛先生はお元気でしょうか。
文芸誌の編集はしていましたが、3月に入ってからは一度もお会いできていません。
打ち上げのお誘いは快く受け取っています。
参加しますので、その旨先生にもお伝え下さい。
よろしくお願いします。
煤竹」
そしてみどりにはこう返した。
「みどりさんおつかれさま。
打ち上げ、行かせていただきます。
誘ってくれてありがとう。みどりさんに会えるのを楽しみにしてます。織部さんからメールが来ていて、そちらにも返事しました。
早く文芸誌、届くといいね。
あお」
O線の東口改札を地下へ降りると織部さんがいた。
「お迎えに来ました」
織部さんは細身の体でしかし力強く言った。
「徒歩3分ほどなのですぐです」
織部さんはあおの次の言葉を待たずにまた行った。
「ありがとう」
まさか迎えが来るとは思っていなかったあおは少し感嘆としてしまった。
誘われて店につくと席には椛教授しかおらず、あとはあおと織部さんだけだった。
「君、いい店だねここは」
織部さんは鼻息を少し荒立たせて、探しましたからねと言った。
あおはその時の織部さんの言い方がみどりに似ていたので少し笑ってしまった。
「先に飲みましょうか」
席は盛大になった。山吹あやめや東雲あかねも現れて、20人くらいはガヤガヤしていた。
みどりは最後にやってきた。
「すみません」
それを見るやいなや椛教授がみどりを呼んだ。
「やや、みどりさん。ほら、みどりさん、こっちへ来なさい」
「はい」とみどりは元気よく答えて、あおのとなりの席までやってきた。
「おつかれさまです」
「おつかれさま、色々ありがとうね」
「ホントです。いえあおさんには助けられっぱなしで」
「そんなことないけど……」
「いえいえ」
文芸誌の話を酒の肴にしてその夜は盛り上がった。
終電はいつなの? とあおはみどりに聞いた。
「私、遠いので早いんですよ」
みどりが来たのは8時を過ぎていた。
ふと、その時、あおはみどりから女性の血の匂いを嗅いだ。瞬間また桃色の恥部があらわになるイメージがあおの頭を駆け巡った。
となりにいるみどりはすごく近く感じた。
そしてまた
ーーどうしたものだろう。
と、そういう気持ちになってしまうのだった。
時間になるとみどりはこういった。
「あおさん、私もう、帰ります」
それはあおを誘うような言い草だった。まるで一緒に帰りませんかというような。
ーー連れ去ってくださいと言いたげな。
しかしもう夜も遅かった。ホテルへ行けば彼女は喜ぶのだろうか?
それも違うような気がした。
あおは
「ごめん、また」と言う事しかできなかった。
エピローグ 気まぐれな風に吹かれて
三月の終わり、都心で桜の開花が各地で告げられると、そろそろあおのいるキャンパスでも桜の芽が少し赤く見えはじめる。
あの日、最後のゲラ刷りを見た日である。みどりはきまり悪そうにあおを罵った。出来上がった文芸誌が届いて、刈安のいいつけで地元の駅付近の数件の本屋に、おいてもらうことになった。あおはみどりが悔やんでいたヴィジュアルの一件を気にかけていた。刈安にしてみれば中身の確保が充分だったためにそれだけで満足していたが、みどりは装丁が最後まで気に入らなかったし、色校の段階で表紙の図案が変色していたことに彼女は悲観的になっていた。それはPDFで入稿せず、インデザインで入稿すると仕上がりが変わる場合があるためだった。仕上げまでみどりは印刷会社と交渉を進めた。杜若はひととおり編集作業が済んだ頃にまた、文学ゼミを訪れてみどりのそのありさまを見て、呆れたという感じで、口だけ出すことばかりをした。というのも、既に杜若のなかでこの文芸誌の制作に関しては放棄した感があったためにあった。刈安は杜若についてのイッサイに触れることを拒んだ。あおもそれと同じだった。しかしみどりからしてみればそんな杜若の態度は到底許せるものではなかった。みどりの研究した分野について、ことごとくないがしろに扱っただけではなく、半端な介入に関しては、謝りのメールを一通よこしただけで、あとはことなかれに事態を終わらせてしまおうとしたためだった。あおは二度と彼女とは話したくないと考えた。そのうちあおにとって彼女は、生きていることさえどうでもいいように思えたのだ。そしてしかしみどりについても同情があるものの、いささか疑念を抱いていた。
大学後期最終日にあおはみどりと会った。
「先輩たち卒業するんですね」
「僕はまだあと一年あるけどね。――みどりさんもでしょう?」
「――はい」
みどりは何かをいつも言いたげにしていた。でも彼女の口からは何も出てこないだろう。
あおはそのじれったさがどうにも我慢できなくなっていた。
「みどりさん」
「――はい」
「もしよかったら僕とお付き合いしてみませんか」
「……」
みどりはしばらく考え込むようにして沈黙した。
「少し考える時間をください――……」
彼はひとつなにかにおいていかれる感覚に襲われた。彼女にその気があったのかはわからないが、答えをはぐらかされたように感じたのだ。それはある意味わかりきった答えでもあった。そして、彼女は話をワザと逸した。
「卒業式にはさくらは咲きますかね?」
みどりのそんな言葉はあお自身が普段の生活を淡々《たんたん》と過ぎていればどうとも思わないことのように思われた。そのためか彼は余計にきまりが悪かった。
「さあ? ごめん、あんまり気にしたことないや」
「毎年卒業式の日には咲かないんですよ。咲くとしたら入学式のとき」
「そうなんだ」
「キャンパスが森の中にありますから」
あおはこういう時に、みどりのような女の人に憧れた。それは何故だかわからない。ただ、心豊かな気分になるのだ。花の咲く時期に去りたく思うのは、どこかしら詩的な感慨の上にある。そんな彼女がいるとき、あおは手の触れられぬものを目にしたような感動を覚えた。そしてこうした些細なことに気がつくのはみどりの感性によるところがあることもあおには分かった。だから彼は彼女のことを好きになったのだ。
しばらくあおはぼんやり過ごしていた。あの日別れてからなんにもなくなってしまったように思えた。体には痛みだけが残った。どのような感情が湧きあがっても、みんなみどりが持ち去ってしまったのだから――。しばらくはヌケガラだけだった。生きているものなのか何だろうか、地に足もつかずに過ごし、どれだけ多感になるにしてもすぐに奪い去られてしまう。しかしそれは長い間あおが避けてきたことだった。あおは何かしらみどりに望み過ぎたのかもしれない。
数日の後、みどりからはこんなメールが届いていた。
あおさん、こんにちは。
この間のお話、ありがとうございました。
けど、今回はやっぱりお付き合いまではできません。
私があまり上手く話せないし、口下手だからなんと言ったらいいか分からなくて、こんなことになってしまってすみません
みどり
花はどうせ咲かないのだ。あの時、あおはみどりに夢を返そうと考えていた。それはもう要らなくなったから――。そのうち考えることばかりになった。何を考えていたかと言えばそれはみどりのことだけれど、みどりのことをどう言ったらいいのかということだった。言葉を探してもそれはなかった。どうして見つけられないのかとも考えた。あおは思った。本当は自分はみどりのことを何も知らない。あおにはみどりについて何か言うべきことも見あたらない。しかしもう時間もない。だからあおは夢を返すことであの日みどりに会うことにしたのである。
春は近い、桜の開花より先に周辺の木々の色がくすんだ黄褐色から若い緑色を少しずつ表していく。
ちょうど一年、みどりと別れて、会わなくなってから、彼は孤独な大学生活を過ごした。就職活動で誰とも顔も合わさず、一人これからの人生を考えた。
そして、部屋を片付けていた。そういえば確か一年前のあの日、みどりと最後に話したとき、みどりと一緒に織部さんと卒業の挨拶をしたときだ。織部さんは彼とみどりをふたり並んでと頼まれ、織部さんが撮ってくれたのだ。この写真はその時のもの。
彼はゴミ袋に放おった千切れてバラバラになった写真を見ながらそのことを思い出した。もう未練もない。彼はいたずらにもどかしい関係を続けることが苦痛だっただけである。
そして、引っ越し屋にあおは挨拶をした。この街を誰にも告げず出ていこうと思ったのだ。
あの日、あおはみどりとの別れ際――、
「みどりさんも今年で終わりだね」
「そうですねえ、あ、あのあおさん、文芸誌のデザインもう一度やり直して卒制にしたいと思います」
――やっぱり。
最初からデザインはみどりがするものと思っていたのに……。
最後にあおはそうおもいながら頷いてこう言った。
「それじゃあ、さよなら」
みどりは「え?」と返した。みどりはまだあおにたいして何かしらの期待をしていたのかもしれない。けれど、そうした未練はあおにとって厄介なことだった。本当ならたしかに彼女と付き合えたら、あおは幸せにしたいと思えただろう。けれども曖昧な条件の中で彼女のことは好きにはなれなかった。彼女がどう思っていたのか、それが聞きたかっただけのことである。あおはすでにこの先でみどりとはもう逢えないだろうと思っていた。
そして、確かにそれがふたりの最後だった。