お嬢様と鬼の話〜狐の窓〜
「お嬢さん、狐の窓を知ってるかい?」
少し寂れた神社の横で、巫女装束に身を包んだ老婆は穏やかな表情で少女に問いかけた。
「知らないわ。お婆さん、それは何なの?」
不思議そうに首を傾げてみせる少女に老婆は小さく微笑みと、ゆっくりとした動作で指を折り曲げながら説明を始めた。
「狐の窓というのはね、こうやって両手で狐をまず作ってな」
「それなら知ってるわ!こうでしょ?」
「おお、うまいものよのう。それなら次は狐の耳同士をくっつけて、そのまま指を開くんじゃ」
「こうかしら……あ!」
言われるままに少女が指を開いてみると、そこには確かに少女の小さな手で作られた窓が出来上がっていた。
「どうじゃ?この中にはいったい何が見える?」
「えっと、何も見えないけど……」
老婆の言葉に困惑しながらも少女が答えれば、老婆は愉快そうにしゃがれた声を上げて笑った。
「困っているわたくしを見て笑うのは意地悪だわ」
頬をぷくっと膨らませて抗議する少女に、老婆は「すまんのう」と謝りながら優しくその頭を撫でた。
「この世には我々人が視てはいけないものがたくさんある。この窓は、そんな『視てはいけないもの』を見破る方法なんじゃよ」
「視てはいけないもの?お化けとか?」
「少し違うな。化け狐や鬼などの妖の類じゃ」
「まぁ!ステキ!やってみたいわ!」
キラキラと好奇心に目を輝かせる少女に、老婆は笑顔のまま、ただ声だけを真剣なものに変えて告げる。
「じゃが、これはそう易々としてはいかんぞ」
「あら、どうして?」
「妖達は見破られることを大層嫌う。誰しも隠し事を知られるのは嫌じゃろう?」
「なるほど、その通りだわ」
「いい子じゃ。くどいかもしれんが、くれぐれも気おつけるのじゃぞ。さもなければーーー」
神社からの帰り道、少女はずっと自身の両の手を見つめていた。手で作った窓から不思議なものが視えるというその手遊びは、幼い少女の心を惹きつけてやまなかったのだ。
(せっかく教えてもらえたのに試せないだなんて…。こっそりやればバレないかしら?でもお婆さんは気をつけなさいって言っていたし…)
少女は心の中で葛藤を繰り返しながら、ひたすら帰路へ向かって歩いていると、突然誰かが少女に声をかけた。
「おい、嬢ちゃん」
少し低めの男の声に、少女は一瞬肩を震わせてから恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのはがたいの良い青年だった。不思議な模様が入った切れ長の目は体格とも相まって少女に威圧的な印象を与えたが、少女が振り向いてすぐに青年は目線の高さを揃えるために長い足を折った。
「こんな所で何してるんだ?迷子か?」
「え?」
青年にそう言われて初めて、少女は周りの景色がいつものそれとは全く異なるものであることに気づいた。そこは見たことのない森の入口だった。その森はほとんど光が差しておらず、少し不気味な程に空気が冷たく薄暗い。
「まぁ、本当だわ。わたくし、迷子のようね」
「何で嬉しそうなんだ?」
「初めてのことにはわくわくしてしまうものよ」
「なんだそりゃ。面白い嬢ちゃんだな!ただ、ここは危ないから俺が家まで送ってやるよ」
「良いの?ありがとう、親切なお兄さん」
「どういたしまして。ほらこっちだ。ついて来い」
そう言うと、青年はさっと立ち上がって舗装されていない一本道を歩き出した。少女はそれを追って同様にしばらく歩いたが、景色は相変わらず森に沿った一本道が続いた。歩いても歩いても抜け出せない同一な景色にそろそろ飽きてきた頃、少女は自分の歩幅に合わせて前をゆっくりと歩く青年に問いかける。
「ねぇ、お兄さん。ここの森は随分と大きいのね。私、初めて見たのだけれどここはどこなのかしら?」
「うーん、どう言やぁいいんだろうな。この森、特に名前はねぇんだ」
「そうなの?それって呼ぶ時にとても不便じゃないかしら?」
「カハハ!心配不要だぜ、嬢ちゃん。ここはそう滅多に呼ばれる場所じゃねぇからよ。地図なんつう立派なもんにも載ってねぇしな」
「こんなに大きいのに?」
「普通じゃあ、たどり着けねぇからな」
「危ないから?」
少女が小首を傾げてそう聞くと、青年はピタリと立ち止まった。あまりにも急なことに危うくぶつかりそうになるところを既の所で立ち止まると、少女は顔を上げる。視線の先では青年が彼に似合わない難しい顔をして考え込んでいるかと思うと、次の瞬間、ニヤリと意地悪そうな笑顔になって少女の方を振り向いた。
「妖怪、とかいるからかもな」
やけに聞き覚えのある言葉に、少女は僅かに目を見開いた。それをどう受け取ったのか、青年は再び「カハハ!」と特徴的な笑い方で笑うと再び前を向いて歩き出した。
「なーんてな!気にするな、嬢ちゃん。ただの冗談だ」
「…そう、なのね」
少し残念だわ、という言葉を飲み込んで少女も歩き出した。
しばらくすると、一瞬視界に強い光が差してきて、思わず目を瞑った。閉じた瞼の奥でチカチカと点滅している光が治ってからゆっくりと目を開くと、目の前には見慣れた自分の家があった。キョロキョロと周りを見てみるものの、先程まで鬱蒼と立ち並んでいた木々は跡形もなく消えており、もし目の前の青年がいなければ、自分はさっきまで白昼夢でも見ていたのだろうと勘違いしていただろう。
「家はここであってるか?」
「ええ、あってるわ。ここまで送ってくれてありがとう、お兄さん」
「おう!もう迷うなよ、嬢ちゃん。じゃあな」
「……ええ」
青年はニカっと人懐っこい笑顔を浮かべて少女に向かって大きく手を振ると、先程歩いてきた道を辿るように戻っていった。一切振り返ることなく歩いていく後ろ姿見ていると、自然と先程までの不思議な体験が脳裏に浮かぶ。
見たことのない大きな森は何故だか少し怖かった。突然現れた青年はガッチリとした身体と威圧感のある顔に反してとても優しくて、あまり不安を覚えなかったのは彼の笑顔のおかげなのかもしれない。そして、青年の発した「妖怪」という単語。結局はぐらかされてしまい、深くは聞けなかったが、神社の老婆に教えてもらった手遊びの話もあってか、やけに頭に焼き付いている。
少女は考え込んだせいで下がっていた視線を上げると、青年の背中はもう随分と小さくなっていた。
(これくらい離れていたら、わからないわよね?)
そう思うと同時に、少女は小さな両手で狐の形を作って目の前までそれを掲げていた。
『ねぇ、お婆さん。もし妖怪の本当の姿を見てしまったらどうなるの?』
ふと、脳裏に忠告のようによぎったのは老婆との会話だった。
(そういえば、お婆さんはその時なんて答えてくれたのかしら?)
狐の耳をくっつけて、ゆっくりと中指と薬指を開いていく。
(そうだわ。確か…)
手で作った窓を顔に近づて、少女はその窓の向こうを覗いて先程の青年を視る。
『そりゃあ、もちろん』
窓の向こうにいたのはーー
『喰われるぞ』
こちらを見ている、血のように真っ赤な体をした「赤鬼」だった。
次の瞬間、小さな窓の端にしか映っていなかった紅は、いつの間にか窓一杯にその色を染めていた。少女は見開いたままの大きな目で上を見上げると、そこには遠くまで離れていたはずの青年が立っていた。もうその顔にはあの安心する笑顔は浮かんでいない。それどころか、何一つとして感情というものを読み取れなかった。青年は、いや、赤鬼はただ真っ直ぐに少女を見下ろしている。
「嬢ちゃん、見たな?」
「あ、その…ごめんなさ」
少女が謝罪の言葉を言い切る前に、赤鬼は大きな手を少女に向かって伸ばした。思わず反射的に少女は目を瞑る。
(わたくし、丸呑みされてしまうのかしら?それとも引き千切られてから食べられてしまうのかしら?)
少女は赤鬼の伸ばしてきた大きな手で自分が鷲掴みにされ、ヒョイっと口の中に放り込まれるイメージを脳裏に思い浮かべると、ますます体を縮こまらせた。
「ごめんな」
「え?」
しかし、伸ばされた手は掴むのでも危害を加えるでもなく、ただ優しく少女の頭を撫でた。優しく少女の髪を撫でる赤鬼の手は暖かく、まるでこちらを安心させるようなものである。それはあまりにも予想外。想定されなかった未来。少女は思わずポカンとした間抜け面で赤鬼を見上げると、そこには酷く申し訳なさそうに眉を下げた赤鬼がいた。
「どうして…お兄さんが謝るの?」
「嬢ちゃんに気分の悪いものを見せちまったからな。本当に、ごめんな」
赤鬼は少女の問いかけに当然のように、自分の非であると言ってもう一度謝る。勝手に視たのは少女のはずなのに、普通なら怒ってもいいはずなのに、本来なら喰われてもおかしくないのに…。彼はただ、申し訳なさそうに微笑むだけだった。
(お兄さんはきっと、どうしようもなく優しいんだわ。優しくて、暖かくて…人よりもよっぽど素敵な鬼さん。彼がこんな顔をするようになったのは一体誰のせいなのかしらね)
「お兄さん」
少女は自身の髪を撫でている手を両手でガシッと掴むと頭から下ろし、芯のある強い目線を赤鬼に向けた。少女の突然の行動がよくわからず、赤鬼は逆に困惑の色を滲ませている。
「わたくし、全然気分が悪くないわ!」
「お、おお」
「お兄さんの手は大きくて暖かくて、とても安心するのよ!」
「そ、そうなのか?」
「それに、わたくし、全然怖くなかったわ!」
「え…」
少女の怒涛の勢いで述べられた言葉に戸惑って動きまくっていた赤鬼の紅の目が、その時初めて止まった。
「確かに無表情で見下ろされた時は少し…いえ、ほんのちょっと怖かったけれど…。でも!鬼さんの姿を視た時は本当に全然怖くなかったわ!むしろ…」
少女はそこで一旦言葉を区切って深呼吸をすると、一段と赤鬼の手を強く握って叫んだ。
「むしろ、とっっても!かっこよかったわ!」
「っ!?」
赤鬼が小さく息を呑んだ。明確に驚きを露わにした赤鬼の表情は、まるで小さな子どものように幼いもののように思える。
「ハハ…ハハ、カハハハ‼︎」
しばらくフリーズしたように固まっていたかと思うと、急に彼は大声を上げて笑い出した。その笑い声は何かを吹っ切ったものとよく似ていてとても清々しそうである。
「きゃっ!?」
突然、浮遊感を感じたかと思うと、少女は赤鬼によって軽々と抱き上げられた。驚いて猫のように目を丸くしている少女をそのまま自身の逞しい腕に座らせると、赤鬼は大層嬉しそうな笑顔を浮かべて言う。
「嬢ちゃんは見る目があるな!」
パチクリと少女が瞬きを一つする。少女の目に映る赤鬼は本当に心底嬉しかったようで、まるで幼子のように無邪気に笑っている。その笑顔は今まで見たどんな彼の笑顔よりも輝いているように見えた。それにつられたのか、少女が浮かべた笑顔もそれとよく似た、嬉しそうなものである。
「そうなの!わたくしは見る目もあるのよ!」
「ああ、そうだな!嬢ちゃんは凄い奴だ!」
「ふふん!もっと褒めてくれても良いのよ?」
少女が自慢げに胸を張ると、赤鬼はまたカラリとした笑顔を見せる。そして、少女の頭を乱暴気味に撫で回してから、ゆっくりと地面に下ろしてやった。
「気に入ったぜ、嬢ちゃん。もしおまえが鬼だったら、俺の一派に入れてやったのになぁ」
「まぁ!あなたが頭なの?」
「おう!」
「なんだか楽しそうね!わたくしも入りたいわ!鬼しかダメなの?」
「いや、そういうわけじゃねぇんだけどよ。嬢ちゃんはまだまだちいせぇし、力も強くねぇしな」
苦笑混じりにそう言う赤鬼を見て、少女はわざとらしく手を顎において考えるそぶりをみせる。しばらく唸っていると思うと、少女は突然顔を上げて「そうだわ!」と目を輝かせて言った。
「わたくしが強くなればいいのね!そうすれば入れてくれるんでしょ?」
「いやぁ、そうとも言うような…言わないような」
「お兄さん、約束よ!」
輝かしい笑顔でそう言われて、赤鬼は少し迷った後に苦笑いを浮かべながらこくりとうなづいた。
(まぁ、どうせ小さな嬢ちゃんには無理だろうからな。大丈夫だろう)
赤鬼はまだ知らない。数年後、少女は世界が認める武闘家となり、果てには赤鬼に結婚を迫ることを。
「お兄さん、約束通りわたくしと結婚してくださいませ!」
「なんでそうなった!?」