5.『壁』
『儀』のはじまりに際して、ヴィルヘルムが収納魔法で運んで来た円卓や椅子を、『はじまりの地』に用意された真っ白な空間の中に並べた。
真っ白な空間は、神々が用意したらしい。
魔物が人間の世界と行き来する時に使う『穴』のような空間の、神様版だ。
本来なら『はじまりの地』の、かつてシシリー王家が城を建てていた跡地の吹きっさらしの地で『儀』は行われるのだが、今回、聖女が純粋な人間では無く、神の作り出す空間にも耐えうるとの判断の上で、この真っ白な空間が用意される事になった。
勿論、部外者を排除する為という事情もあった。
暑くも寒くも無く、風も無い真っ白な空間に用意された円卓に、槐と桜とユリシズがつく。
桜の座る席の後ろには、レヴィアスが控える。
結局どうしてもと言って神殿の神官達と神兵が付いてきた。白い空間には入れないので、はじまりの地で待っている。
ウォルディアスが紫苑を連れてきたのは、『壁』についての話し合いの後、直ぐに『壁』から引き剥がす等する為だ。
円卓から少し離れた場所に、大きなカウチを用意して紫苑と控えている。
「初代の魔王は来ていないのか」
ユリシズの疑問に、桜が微笑み首を傾げた。
「多分、近くで見てるんだと思います。レトビア様はいらっしゃってるのですか?」
逆に質問を返されて、ユリシズは桜の朱金の瞳を見た。
「ああ。如何しても来たいと言ったので連れて来た。はじまりの地のあたりを散歩すると言っていた」
「じゃあ、祖父と会うかもしれませんね」
はたと、桜を見る。
「そう言えば、桜の祖父殿は、初代の魔王なのか?」
確認すると。
「……そうだったみたいです。私も魔物の国に来て初めて知って驚きました。あの絵本の魔物は、祖父だそうです」
苦笑して、素直に答えた。
ならば。
「祖父殿の名前は、何というか教えてもらえるか?」
質問に、桜の朱金の瞳に今度はなんとも言えない光が浮かんだ。
「名前は無いそうです」
答えに驚き、そして納得する。
「そうか。親を持たぬ純血の魔王だからか」
名は、親から貰う。
親がいなければ、当然、『名』も無い。
この世界のはじまりからいた者は、皆名前が無かった。
神々にも、昔は名の無い神がいた。
ユリシズの親も、名が無かった。
神々の国では名の無い神がいなくなって久しく、すっかりその概念を忘れていたのだ。
「そのようです」
「……金の女神の娘の名は、桜は聞いているか?」
その質問には、桜は無言で首を横に振った。
外の空間にいれば陽の光の当たる角度で時刻がわかるのだが、白い空間の中ではそれもわからない。
はじまりの地を散策するレトビアから、そろそろ正午ですよと連絡の念が送られてくる。
ユリシズが黙って居住まいを正したので、桜と槐もそれに倣う。
「『儀』を始めよう。まず、『壁』について。神の国からは『再生維持は必要ではない』旨を伝える。魔物の国からは如何か」
「え?」
「⁈」
思わず出てしまった声に、槐が口に手をあてる。
あっさりと『壁』を維持しなくて良いと言われ、少し拍子抜けする。
神からは再生維持を勧められる前提で、維持しない旨の説得のネタを少なくとも7つは考えて来ていたからだ。
槐は少し表情を緩めて頷いた。
「魔物の国からも、『再生維持は必要無い』と考える。聖女はどう思われる?」
最終的に、結論を出すのは……決定権を持つのは、聖女だ。
「神の国、魔物の国、双方の意見を鑑み、『壁』は『再生維持しない』旨、決定したいと思います」
終わった瞬間、桜と槐は席から立ち上がり、桜の席の後ろに控えていたレヴィアス共々ウォルディアスと紫苑のいるカウチへと走った。
驚き見つめるユリシズの視線の先で、桜が母紫苑の手を取り、レヴィアスが2人のその手を掴んだ。
桜が目を閉じ力を込め、ほんのりと3人が光に包まれ始めた瞬間。
真っ白な空間に漆黒の切れ間が生まれ、そこから初代魔王が姿を現した。
「話し合いは終わったようだな。『壁』は、私が引き受けよう」
驚く桜、槐、レヴィアスを尻目に、魔王は真っ白な空間を切り裂いた。
はじまりの地を散策していたレトビアや神官達は、突然現れた桜以下神や魔王に驚いた。
「お爺様⁈」
今、桜、紫苑、レヴィアスの3人は繋がっている。
「あの娘と私が作った『壁』だ。後始末は、私がしよう」
初代魔王は、自らが今出てきた亀裂に手を掛けた。星の輝きの様な煌めきを散りばめた闇色の亀裂がひび割れのようにビシビシと空間を切り裂く轟音を立てながら広がってゆく。
「反抗せず、私と繋がれ」
空全体を包み込む様に広がった闇色の亀裂は、徐々にその亀裂を薄くし、消えた。
『壁』は、神官や桜達の目の前で、初代魔王と繋がり、紫苑は無事『壁』から生きたまま分離された。
何故か桜と紫苑はレヴィアスを通して繋がったようで、3人は魔力も生命も未だ繋がったままだ。
「……お爺様…」
「私1人が悪者になるカタチでは無いのだから、お前の意向には沿っている」
既に、人間の世界の『はじまりの地』は、何事も無かったかのように鎮まり返っている。
つい先程、空間が大地を切り裂くような音をたてて亀裂が入っていたとは思えない。
「でもっ」
「お前達が要らないと言ったから返して貰っただけだ。先程言ったとおり、私があの娘と作った『壁』だからな」
周囲を取り囲む神官や神兵達が、何が起こったのかとざわめいている。
「ユリシズとやら。神官達には、お前から説明してやった方が手間が掛からないのでは?」
レトビアがユリシズに駆け寄り、事の次第を確認している。
「紫苑はどうだ」
祖父の声掛けに、いまだ眠り続ける母を見つめる。
規則正しい吐息が不意に揺らぎ、閉じられた瞳がうっすらと開かれ……桜を見た。
「あっ……」
紫がかった紫紺の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「紫苑」
ウォルディアスが、久々に開かれた紫紺の瞳を覗き込み、薄く紫がかった涙を朱金の瞳に浮かべた。
がっちりと繋がったらしく、桜の生命はレヴィアスと紫苑から離れる気配は無い。
魔力の糸が繭を作るように母を包み、その糸が、目には見えないがレヴィアスと桜を繋いでいるのが解る。
「あっと……」
実に言い難そうに、桜が傍に寄り添うレヴィアスを見上げて口を開く。
「このままずっと繋がることになっても、良い?」
レヴィアスだけを切り離す方法が分からないし、間違って母親を切り離したらそもそも寿命が終わってそうな母親がどうなるか分からないし、まさかこんな結果になるとは思わなかった。
桜の申し出に、レヴィアスは極上の笑みを浮かべて桜を抱きしめた。
「じゃあ、サクラに責任を取って貰おうかな」