1.シシリー王国にて
桜が神に連れて行かれてから、1週間が経った。
あの後のヴィルヘルムの荒れようといったら、大変なものだった。
無理もない。
手塩に掛けて育てた弟子が『穴』からきた魔王によって連れて行かれ、毎日大切に護ってきた桜を神によって奪われたのだから。
その上、聖女について勉強し直せと言われたも同様ときたら。
「そりゃ怒りもするよな」
ぺらりと1枚、提出された申請書をアーダルベルトに向けてひらひらと摘み上げる。
申請の内容は、休暇届。
ヴィルヘルムが、1週間程休暇を申請してきたのだ。
魔道士塔から上がってきた書類は全てレヴィアスが目を通して許可の判を押さなければならないから、必然的にヴィルヘルムの出勤状況はレヴィアスには筒抜けだ。
「むしろ、あれから1週間も良く休まずに出て来たものです」
城は、カイが破壊した廊下を含め、魔法による戦いの跡を修復中である。
ちなみに、カイはまだ帰って来ていない。
あの後、ヴィルヘルムはすぐにレヴィアスのもとへ事の真相を確かめに来た。
歴代聖女が5人もいた事にも驚いていたが、壁が六千年も前に出来上がっていた事には、言葉を失っていた。
ーーまあ、俺もサクラが来て、親父に初めて記憶を見せられた時には驚いたが。
神が来た事を受けて、やっと直近までの記憶映像を見せられた。
シシリー王家は、その昔、この世界で神々や魔物達と共に暮らしていた聖獣を祖としている。
人々を護りやすくする為に人型になったまま、人々に寄り添いつつ神の意を汲み、六千年の時を過ごしてきた。
ちなみに、隣国のセクドルも、聖獣が国主となっている。
聖獣は、本能的に聖女が好きだ。
だから、いつも傍にいたいと思うし、サクラが来てからはそうして来た。
人間側の『壁』の守護を司るのは、『壁』が聖女の力で護られているからだ。
聖女の気配を感じると、安心するのだ。
だから、今回神にサクラを連れて行かれるのは断腸の思いだった。
「『儀』までは、あと3月程です。1週間程休暇とは。ヴィルヘルム殿はその間に何をしようと思われているのでしょうか」
アーダルベルトの問いに、レヴィアスは申請書を自分の前に綺麗に置いて、姿勢を正した。
「さあな」
バンッと、四角い承諾印を押して、積み上げている書類の上へ置いた。
『壁』の真実を聞いて、ヴィルヘルムは顔の色を失った。
彼は、『壁』は必要だと思っている派だったが、最近宗旨替えをしつつあるようだった。
ーーそれだけ、サクラを大切に思うようになったという事だろう。
ちゃんと、帰してやりたいと思っていたようだしな。
ルイーズ・フォン・リュイがサクラを拉致しようとした件については、気分の悪くなった聖女を休ませる為に会場から連れ出しただけだの一点張りで、結局はお咎め無しになった。
何故か来訪予定になかった叔母のエリザもその場にはいたようだが、本人がいない事には、問い質しようもなかった。
まあ、サクラは昏倒していたようだから、リュイ侯爵家のエリザの顔も見てはいないだろうが。
何せ、前代未聞の神の来訪だ。
カイの力の解放もあって城も一部破壊されていたし、必要以上に追求してもし反撃してこられたら、色々と厄介だった。
「息子の方だったか」
セクドルのリーファが言ってた事を思い出して、レヴィアスが呟いた。
「何がです?」
脈絡のない呟きに、アーダルベルトが次の決済書類をレヴィアスの前に置きながら訊いた。
説明が面倒くさくて、レヴィアスは「別に」と小さく呟いた。
粛々と決済判を押して行き、最後の判子を押し終えた。
両腕を上に伸ばして「んーーー」と伸びをしながら、あの時の事を思い出す。
会場であの轟音を聞いた後、直ぐに部屋を飛び出して音のした方へ向かった。
が、原始の神の気配を感じ、押し止まった。
神がサクラを連れに来た事は、間違い無い。
引き止めたいが、圧倒的な力の差の前では無理な話だ。
それに、制約がある。
聖獣は神には逆らえない。
それが、本能的に分かった。
首筋の産毛がちりちりと逆立つ感覚。
怒りを孕んだ空気に、自然と萎縮する。
かくして、レヴィアスはのうのうと大好きな聖女を神に連れ去られて今に至るのである。
「どうせ『儀』には、帰ってくるだろうし」
呟きは、強がりだと自分にもわかりすぎて苛立つ。
「サクラ様がいないと、寂しいですしね」
アーダルベルトの相槌に、レヴィアスがその漆黒の瞳を見上げた。
「国王陛下にもお聞きしましたが、神は人間は傷付けないと。無事のお帰りを待つしかありませんね」
こちらからは迎えに行けない訳ですし。
それは、物理的な「傷」の話だ。
見えない「心」に、傷を負って帰って来るかも知れない。
レヴィアスは、心に決めている事がひとつだけある。
それは、サクラを絶対に悲しませない事だ。
この世界に来て初めて「帰れるのか」とサクラに訊かれて、当時はまだ記憶も見せて貰ってなかったから聖女については何も分からなかったが、「帰れる」と答えた。
今、サクラの状況がサクラよりも分かるようになっても、もし彼女が彼女の家族の事を知らずに元いた世界に帰りたいと言えば、レヴィアスは間違いなく「帰してやる」と言うだろう。
そうして、出来得る限りのことをして、彼女を護るだろう。
ーー何としても、『壁』には繋げないようにしなくては。
彼女に、彼女の母親を殺させる様な事をさせてはならない。
何か、方法を考えなくては。
「休憩にしましょう。そう言えば、先日飲むのが禁止になっていた茶葉ですが、また解禁になったそうですよ」
アーダルベルトが嬉しそうに茶葉の指示を侍女に出しながら言った。
王都で店を出している最近人気の店の茶葉が、魔物の国で流通している茶葉だった問題。
店主がそこそこ力のある魔物だった為に魔物の国と人間の世界を行き来していて、魔物の国の茶葉を人間の世界に持ち込んでいた訳なのだが、かなり前から既にシシリー以外の国にも持ち込み、流通していた事が分かったのだ。
飲み続けて来た人間達の健康に異常が無い事がわかり、販売の許可がおりた。
勿論、表向きは魔物云々は秘密だ。
基本、魔物は人間が好きだから、悪さはしない。
ただ、傍にいたいのだ。
ーーそれは、聖女の傍にいたいと思う俺と、きっと変わらない感情だろう。
レヴィアスは、父王から見せられた記憶の中で、一つ思う事…感じるところがあった。
それは、もしかしたら事の次第を考えた時に感じる『見えざる力』と、関係があるかも知れないと、思っている。
もしもそうなら、道はあるかも知れない。
「アーダルベルト。お前、陛下から粗方聖女と『壁』については聞いてるんだよな」
決済の済んだ書類をトントンと纏めて抱える側近に、レヴィアスは問い掛ける。
「陛下からお話を聞いた両親から、聞きました」
伝言ゲームみたいだなと、レヴィアスは苦笑した。
「お前は、『壁』についてはどう思っているんだ?」
協力を仰ぐなら、そこは重要だ。
「……そうですね。要るか要らないかは難しい判断ですが、単純に、私達人間が魔物との間に『壁』が必要だと言えばサクラ様という1人の女の子が『壁』の守護者として『壁』から離れられなくなってしまうと言うのなら」
ふっと、アーダルベルトの漆黒の瞳が鋭く光った。
「そんなモノは要らないですね」
言葉に、レヴィアスが「ふはっ」と笑う。
「『壁』をもし維持継続しなくなったら、魔物がもっと来る様になるだろうし、人間も食べられるかもしれないが?」
それでも良いのか?
問いに、アーダルベルトが笑った。
「それこそ、必要とあらば討伐に向かいますし、『壁』が無くなるならば、強い人型の魔物と共存する事になるんですよね? なら、獣型魔物の見張りは人型の魔物に任せたら良いのでは?」
6千年前。
『壁』が出来るまでは、魔物と人間は共存していたと聞いた。
人型の魔物は基本的には人間を襲わず、愛するモノを亡くした時にのみ、その亡骸を喰らうのであれば。
必要以上に、恐れる必要も無いだろう。
共に生きて行く道を模索するのみだ。
「……お前のそう言うあっさりさっぱりしてるトコロが気に入ってるよ」
微笑みながら言うレヴィアスに、アーダルベルトが少し笑った。
「あんまり褒めているようには聞こえませんが」
その言葉に、レヴィアスが破顔する。
「最上位の褒め言葉だ」