3.あの日のアーダルベルトのその後
「まだ結婚はしません。婚約者も、いりません」
まずはそこを言っておかなければ。
アーダルベルトは腕を組んで、凝視する母の大きな黒い瞳から逃れる様に、目を閉じて顔を横に背けた。
とにかく、眼力が強い女性なのだ。
「今は聖女や『壁』や『穴』の件も落ち着いてないのに、そんな事言わないわよ」
かちゃりとカップをソーサーに置いて、母…パメラ・フォン・フリードリヒが呆れた様に溜息を吐いた。
「それよりたまには家に帰って来なさい。最近滅多に帰って来ないじゃない」
「仕事が落ち着くまでもう暫くは帰れないと思います」
言葉に、「はっ」と鼻で笑われる。
お母さん、そう言うトコですよ。
公爵夫人らしくない、そういう所が息子に怖がられてるんですよ。
「まあ‼︎ 貴方がそんなに無能だったとは‼︎ 貴方のお父様はどんなに沢山の仕事も、国王の無茶振りにも華麗に応えて必ずその日のうちに家に帰って来たわよ」
まあ、父は今も昔も『母命』ですからね。
「まあまあ。パメラ。私と息子では、出来が違うのだよ。そんなに比べてやるものでは無い」
地味に痛いですね?
「所で、今日は何用でこちらに? ただ、私の顔を見に来ただけではないでしょう?」
明らかに謁見用の正装をしている2人。
なかなか帰って来ない息子の顔を見に来ただけでは無さそうだ。
「顔を見て、文句を言いに来たのよ」
「…顔を見て、文句を言いに来ただけですか?」
母が、徐ろに扇を出して顔を隠し、横を向いた。
小さく『ちっ』って、聞こえてますからね?
「お前は、この国の建国が正確には何年前だったのかを、知らないね?」
来客用のソファの母が座るその横に腰を下ろして、父が腕を組んだ。
「記録は約千年前から有りますが、正確にはもっと以前からだと聞いています。ただ、書物としての記録が無いので、神殿に残る、人々の口伝を書き写した物などを読み、どのような歴史があったかを想像するに留まりますが」
多くの神々と共に暮らしたと、数多くの神と関わる神話が残されている。
部屋に、少しの間沈黙が流れる。
「あー…。ヒュー君」
「はっ」
「ちょっと席を外して貰いたいのだが、良いかな?」
「畏まりました」
ヒューが、少し心配そうに私を見てくる。
彼の心配症な所は、ある意味愛しさをも感じさせる。
『ありがとう。大丈夫だから。』
口の形だけで知らせて、扉へと目配せをする。
「では。失礼します」
と、キビキビとした動きで退室するヒューを見送っていると、心持ち、ザラザラという音が小さく感じた。
ー今日既に薬を大分飲んでるな?
薬をあまり濫用してはいけないと、後で言って聞かせないと。
その内、父と母が軽く目を合わせて、父が私の方を見た。
「記録は、あるのだよ」
「は?」
また、沈黙が部屋を支配する。
「記録があるとは…? 王族のみ見る事ができる書物等が存在するという事でしょうか?」
ありうる話だ。
魔法騎士団団長に就任して、城内の図書室にある書物はある程度は禁書まで読めるようになってさらりと背表紙だけ見て歩いたりはしたが、あそこにある記録等が王族の知る記録の全てとは限らない。
代々王にのみ受け渡される記録…国民や他の者達には知らされないモノのひとつやふたつやみっつやよっつくらい、あってもおかしくは無い。
「書物は無いのよ」
母が、扇をぱちんと閉じて言った。
「は…?」
書物は無い。
だが、記録はある…とは…?
ーじゃあ、石板とか? そんな場所を取るモノならとっくに皆が知る所になりそうだな。
分からないといった顔をした長男に、フリードリヒ公爵が苦笑した。
「記録は、国王陛下の頭の中に」
「は⁈」
意味がわからない。
「お前はこれから聖女…サクラ様と関わり、儀式の際、レヴィアス殿下をお支えしなければならない。そのお前が何も知らないでは、後々都合が悪いので、簡単に教えてやっておいて欲しいと…陛下が」
何も知らない…何も知らない?
儀式の意義も、作法も、一通りは既に記録を見て知識としては身に付けたつもりだ。
城の図書館の書物を漁り、必要な情報を集め、聖女召喚に備えた。
召喚自体は魔道士達の仕事だったが、召喚の儀式の流れは全て把握していた。
今後は披露目で各国に無事聖女が召喚された事を知らせて、その後は『始まりの地』へ赴き、『新しき壁再生の儀』…新たなる壁を造る儀式へと進んで行くはずだ。
その、はずなのに。
「違うのですね。この国にある記録と、本来の歴史や『やるべき事』は」
理解の速さに、フリードリヒ公爵は満足気に頷き、テーブルを挟んで正面に座る様、促した。
「まず、我らがシシリー王国が出来たのが、今から6千年前だった事、それから、我が国には今まで5人の聖女がいた事から、話を始めよう」
ー6千年⁈ 5人⁈ ていうか、それ、今から話して、午後の業務差し支えますね? ヒュー、きっと帰って来れなくて、ドアの前でまた薬飲んじゃいますね?
「待って下さい‼︎ あの、話が長くなりそうなのと、少し心の準備をする時間が欲しいので、後日にお願い出来ませんか?」
「今晩よ」
「今晩だな」
示し合わせたかの様な2人の即答に、アーダルベルトは言葉を失った。
きっと、もうあまり時間が無いのだ。
そして、それは非常に重要な内容なのだ。
「わかりました。今晩必ず家に帰りますので」
「定時よ」
「定時だな」
「……定時で」
2人を追い出して…もとい、送り出して、アーダルベルトは自分の執務机につくと、両肘を机に付き両手を組んで、その上に額をのせて深く深く、溜息を吐いた。
眼前には書類も何も無い、机の艶やかな茶色い木目が見えている。
嵐は去った様に見えて、今晩に先送りしただけだ。
しかも、内容が…。
ー多分、レヴィアス殿下はご存知なのだ。
いつもなら落ち着くはずの執務室が、今日はなんだか少しよそよそしく感じられた。
「ただいま戻りました」
控えめな、扉からの声に、アーダルベルトは苦笑しながら入室を許可した。
「悪かったね」
「とんでも無いです。大丈夫でしたか?」
「取って喰われはしないからね。一応親だし」
苦笑すると、ヒューも少し笑った。
「ところで、ヒュー。そこで少し飛び跳ねてみなさい」
「…は……?」
疑問の顔をしながら徐ろに一回ジャンプしたヒューに、アーダルベルトが少し険しい顔をする。
「薬の音がさっき部屋を出て行った時よりも少ない。飲み過ぎは身体に悪いから、お腹に優しいハーブティーとかにしなさい」
心から心配しての忠告に、ヒューは苦笑し、可笑しそうに瞳を細めた。
「私の心配より、仕事して下さい」