3
むかしむかし。
そう物語るほど、むかしではないむかし。
とある海に、魔女と人魚がいた。魔女と人魚は親友だった。魔女にとって、人魚は心許せる唯一の存在だった。毎日毎日一緒にいて、笑い合って、幸せに暮らしていた。
そんなある日、異世界から人間が落ちてきた。海に落ちたその男を、人魚は救った。
それが魔女と人魚の運命を狂わせるとも知らずに。
人魚は魔女に言った。
――ねぇルチア! これって一目惚れかもしれない! 初恋よ初恋!
幸せそうに笑った。
――あのひとも、わたしのことを好きだと言ってくれたの!
苦しそうに泣いた。
――向こうに、帰りたいんだって。ねえ、ねえ、ルチア。
――わたし、人間になりたい。人間になって、向こうであのひとと一緒に暮らしたい!
わかったわ、と魔女は答えた。そう答えるしかなかった。彼女のことが大好きだったから、彼女の本気の願いを叶えてあげたかった。
異世界に転移させるだけなら、普通の魔法でなんとか事足りる。けれど、人魚が人間になる――そんな願いを叶えるためには、制約が発生する特別な魔法が必要である。
魔女は制約の他に、対価として人魚の真っ赤な髪の毛も求めた。海の中で炎のように揺らめくそれは美しく、魔女のお気に入りだった。
魔女の黒い髪と彼女の赤い髪を交換すると言えば、彼女は喜んだ。これで向こうでも、貴女のことを傍に感じられると。
魔女は人魚に、この魔法の制約を伝える。
一年以内に彼と共に幸せになれなければ、貴女は私に関する記憶を失うでしょう。貴女は私を認識できなくなるでしょう。
それでも貴女は、願いを叶えたいの?
――ええ、と人魚はうなずいた。
かくして彼女は人間になった。その彼女に、魔女は一本の短剣を渡した。彼女が持っていた赤とはまったく違う、血のような不吉な色の剣。これで男を殺せば、記憶を失わずにこの世界に戻ってくることができると言い添えて。
きっと彼女は使わないだろうとわかっていた。最後の最後まで男を信じて、記憶を失うのだろう、と。あの男はクズだと、どれだけ本性を言っても彼女は信じてくれなかったから。
愚かにも、己が恋した男を信じたのだ。――親友である魔女よりも。
だからどうか一年後、彼女が幸せになれなかったそのときには。魔女のことを忘れてしまった、そのときには。
彼女が何度恋をしようと、その全てが彼女を傷つけるものでありますようにと――願ってしまった。
だって、だってと、魔女は思う。
彼女は私を、捨てたのだ。私と会えなくなるかもしれないとわかっても、私のことを忘れてしまうかもしれないとわかっても、「ごめんね」と泣いてもなお、恋を選んだ。
恨んだわけではない。憎んだわけでもない。ただ、悲しかった。
だから願ってしまったのだ。〝魔女〟のそれが呪いに転じることなんて、知っていたのに。
彼女が異世界でも不自由なく暮らしていけるように、そしてその恋路が実るようにとひそかに手助けし続けたが、無駄だった。
魔女の危惧は的中する。結局彼女は彼とは幸せになれなかった。彼女は彼を殺さなかった。彼女は魔女を忘れた。――呪いが、発動した。
彼女の娘までもが呪われていった。彼女たちの恋が不幸せに終わるのを、魔女は遠くから見守った。見たくないと思うことは許されない。魔女自身が、許したくなかった。
魔力が高まる満月の夜にだけは、彼女にかけた魔法にほんの少し干渉できた。とはいえできることといったら、髪を元に戻すことくらいだった。
彼女はそれを、ただそういうものだと認識した。満月の夜にはそうなるのだ、と。魔女のことは忘れても、〝魔女〟に願って魔法をかけられたことや、対価を取られたこと、制約を破ったこと、それらは覚えていた。魔女を認識できないがゆえに、彼女の記憶が、認識が、作り替えられたのだ。
それでも魔女は、月に一度のその何の意味もない魔法をやめなかった。
そして少しの時が経ち。亜依が、彼女の家族になった。
かろうじて亜依だけが呪いから外れていた。彼女と血の繋がりがない、けれど確かに、彼女の家族である少女。彼女の大切な宝物。
だからずっと待っていた。亜依が恋をするときを。
何が何でもその恋を、今度こそ、叶えてあげたかった。
ずっと、待っていた。
――陸と亜依の出会いは魔女が仕組んだものなのだと、そう知ったら、彼らはどんな反応をするだろう。
知らせるつもりはない。教えるつもりはない。必要がない。
出会いは魔女が仕組んだものでも。
彼らの恋は紛れもなく、彼ら自身のものなのだから。