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魔法をかけてもらってから、七日目を迎えた。
一週間、わたしは幸せだった。
好きな人を好きでいる自分を受け入れる、ただそれだけでこんなに気持ちが楽になるなんて思わなかった。都合のいいことに声が出ないから、万が一にも好きだと零してしまうこともない。
本当に楽で、何もかもから解放されたようなすがすがしい気持ちだった。
些細なことで彼のことを好きだと感じても、眩しいと感じても、可愛いと感じても、かっこいいと感じても、自己嫌悪に陥ることがない。好きだという気持ちのままに、彼に笑顔を向けられる。
この一週間、それが本当に幸せだった。土日とも陸くんに予定があり、デートできなかったことだけがほんのちょっと残念だけど。
一週間という区切りが日付をまたぐまでなのか、それとも薬を飲んだ時間からちょうど一週間なのかわからなかったが、確実性を取って後者だと思うことにした。泡になる瞬間を誰かに見られるわけにはいかないから、それくらいの時間には一人になる必要がある。
遺書もちゃんと書いたので、消える準備は万端だった。
……きっとお母さんもお姉ちゃんたちも、すごく悲しむけど。わたしが初めての恋を大切にした結果だと知ったら、許してくれたりしないかな。泣かせてしまうのは本当に申し訳ないけど、つらいけど、でも、許してほしい。
最後のわがままだから。
今日の学校はテストの答案返却で終わった。まだ時間的に早いので、どこかでお昼を食べて時間を潰し、それから海に行こうかなぁ、と思う。人生最後の食事、どうしようか。
……なんてのんきに考えてはみるが、やっぱり怖くもなってきた。最終日に頑張ったところで、って感じだけど、一応両思いになるための努力をしてみたほうがいいかな。
「鳴海」
思考が、彼の声で遮られる。ぱっと教室のドアのほうを見れば、陸くんがこちらに軽く手を振った。
その姿を見た途端、視界全体がきらきらと明るくなった気がした。胸がときめきを訴え始める。その衝動のまま、わたしはへにゃっと緩んだ笑顔を向けた。
名前を呼ぼうとして声が出なかったので、とりあえず荷物を持って急いで彼のもとへ行く。会話のために、スマホのメモ帳もあらかじめ開いておいた。
「そ、そんな急いで来なくてよかったんだけど……えっと、今日の放課後暇? 暇だよな? お昼どっかで食べてから、どっか行こう」
何も決まっていないことを決定事項のように言って、陸くんはわたしの手から自然な動作でスマホを奪った。……え、なんで?
そしてそのまま歩き出すものだから、とにかくついていくしかなかった。スマホを奪われてしまったら、歩きながら会話をすることは難しい。
「何食べたい? って答えられないか……んん、それじゃあ色々食べられるとこ……ファミレスでいっか。ごめんな、勝手に決めて」
申し訳なさそうにしつつも、スマホを返してくれる気配はなかった。……どうしたんだろう。色々変だ。口で理由を訊けないのがじれったい。
まあ、でも、と思う。
人生最後の食事を好きな人と食べられるなんて、幸せなことじゃないだろうか。時間までに彼と別れれば何も問題はないのだし、降って湧いたデートを楽しもう。
ついにこにこしてしまったが、陸くんになんだか複雑そうな目で見られていることに気づく。首をかしげると、「楽しそうだなって思って」なんて言われてしまった。
……陸くんと一緒にいて楽しいのは確かだけど、本人から指摘されるのはちょっと恥ずかしいな。
うなずきつつも熱い頬をごまかすように視線を逸らせば、陸くんが変な声を漏らした。
「や……ごめ、なんでもないです。うん、なんでもない」
気になる言い方だったが、声が出なければ追及もできない。大人しく彼とファミレスに向かった。
最後の食事だから迷ったが、季節限定のパスタを選んだ。陸くんは別の種類のパスタを大盛りで。わたしのほうのパスタも気になっていたみたいだったので、少し交換して食べた。
好きな人とこうやって分け合いっこできるなんて、本当に人生最後の食事にふさわしいものだったと思う。しかし、その間もずっとスマホは返ってこなかった。
首の動きや表情の動き、ジェスチャーでなんとか彼と会話していたが、そろそろ返してほしいなぁ、と視線で訴える。
わたしが消えるまで、たぶんあと一時間ほどだ。消える準備をしなければまずい。
「……渡したら、鳴海行っちゃうだろ。今日は夜まで一緒にいたい」
――声が出ていたらきっと大声で叫んでいた。目を見開くわたしに、陸くんははっとする。
「え、あっ、あ、ふ、深い意味はなく! 何も! 夜までっていうのも、その、別に夜までじゃないかもしれないけど、念のためそう言ったっていうか、とにかく違うから!」
必死の弁明に、苦笑いで答える。よくわからないが、本当にそのままの意味なんだろう。
……となると、やっぱりまずい。すごくまずい。なんでよりによって今日? わたしが消えるところを誰にも見せたくないのに。
今日は無理、ということを伝えるためにぶんぶん首を振っても、陸くんは手で目を覆って見ないふりをした。いや、なんで?
とはいえ察しのいい彼のことだ、わたしの意図は伝わっているだろうと勝手に解釈をして立ち上がると、わたしより素早く立ち上がった彼にがっと肩を掴まれた。
「……あー、っと。鳴海、海好きだよな? この後海見にいかない?」
海には行くつもりだったけど、そこに彼がいては意味がない。
こんな表情はしたくなかったが仕方ない、と彼を睨みつけ、再びはっきり首を振る。
「……ダメ?」
しょぼんと上目遣いをされて心が揺れたが、駄目なものは駄目だ。可愛いけど駄目だ。
「ダメか……。ごめん、ダメって言われても今日だけは聞いてあげられないんだけど」
……わたしに拒否権はない、と?
掴む場所を肩から腕に移動させ、そのまま会計を済まして、陸くんはわたしを引っ張っていく。さっきの会話と方向からして、海に向かっているのだろう。その手を振り払おうとしてみたが、びくともしない。
もしかしなくとも逃げられないのか。
冷や汗をかきつつ、腕時計で時間を確認する。
海に着くまではたぶん平気。だけどその先がわからない。はっきりはわからないけど、たぶんあと三十分もない。一週間という期限が零時を回るときまででありますようにと願うしかなかった。
「ほんとにごめん、ごめんな。わけわかんなくて怖いよな……でもごめん、今はまだ、何も言えないんだ」
海に着いて、陸くんはようやくわたしの手を放した。しかし、まったく逃げられる気がしなかった。元勇者と一般人ではスペックが違いすぎる。
時計を見る。あと十分、くらいかな。
どくどくと心臓が嫌な音を立てる。
死にたくない消えたくない――そんな気持ちより、消えるそのときを彼に見られたくない、という気持ちが何より大きかった。
彼の心の重荷に、なりたくなかった。優しい人だ。眩しい人だ。わたしの死が彼を傷つけることは変わらなくとも、せめてその傷をできる限り小さくしたかった。
「あー、うぅん、何もってどこまでの範囲だろ……時間まで粘るしかないよな……いやでもこれを鳴海の前で言えてるってことは、もしかしてあんまきつくない条件なのか?」
ぶつぶつと独り言を言う陸くん。隙あり、と思えればよかったのだが、残念ながら逃げられる気がしないのには変わりがなかった。逃げようとしたら絶対即捕まる。
……やだな、見られたくないな。
時計を見る。陸くんを見る。時計を見る。時計を見る。陸くんを見る時計を見る。
「そんな――ああこれは言えないのか。つまり――あ、これも言えない」
陸くんが何かを言っているけど、上手く耳に届かなかった。
消える正確な時間がわからないから、恐怖はなおさら増している。
怖い、こわい。この一週間、死んでもいいと思えるくらいには幸せだったけど、こんな最期は望んでなかった。死ぬのなら一人で死にたかった。
わたしが消えるところを。……陸くんにだけは、見られたくなかった。
「な、鳴海? ごめん、ほんっとごめん、不安だよな!? ただでさえ――ああもう、これも言えないのかっ!」
焦った様子で、陸くんが近づいてくる。どうしてそんなに焦ってるんだ、と考え、すぐに頬を伝うものに気づく。――最悪だ。わたし、泣いてる。
泣いちゃ駄目だ。せめて、怖がってることが彼に伝わらないように、笑顔を。笑顔、を。
笑わなきゃ。笑え、笑え笑え。あと少しなんだから。それくらいできなくて、どうして彼が好きだって言えるんだ。笑え。笑え笑え笑え。
笑え。
「鳴海、大丈夫、大丈夫だから」
そう、大丈夫なんだ、怖くない。だから笑おう。涙なんて止めてやる。
「あああ……そんな顔しないで……無理しないでいいから、お願いだから、ちゃんと泣いて」
泣いていいわけがない。彼をひどく傷つけることはもう決まってしまったけど、それでも、それでもだ。
――わたしは陸くんが好きだ。
好きな人の記憶に、笑顔で残りたい。そう願うのは、おかしいだろうか。これは普通の恋じゃなかったんだろうか。
ううん、普通の恋のはずだ。だってそう願ったんだから。
ああでも、本当に馬鹿だなぁ。最期までなんて馬鹿だったんだろう。やっぱり恋なんてするものじゃない。確かに幸せだったけど、それ以上に不幸せだ。
わたしのせいで陸くんは悲しむ。苦しむ。わたしが彼に、恋なんていう愚かな感情を抱いたから。
馬鹿なわたしのせいで、陸くんは、
――馬鹿?
思考が、止まった。
おかしい。おかしいおかしい。吐き気がする。
「……え?」
声が零れた。命と共に、二度と戻らないはずだった声が。
「え?」
声が出る。
恋をしている自分を、馬鹿だと思う。
理解して。
絶望した。
――魔法が、解けた。