恋なんてするものじゃない 1
赤羽陸には、好きな女の子がいる。可愛くて綺麗であたたかい、陸にとって日常の象徴のような女の子。その子の名前は、鳴海亜依という。
陸が異世界から帰ってきたところに偶然居合わせた彼女は、海で溺れる陸のことを危険も顧みずに助けてくれた。
――だから好きになった、というわけではない。もちろん、それも好感を抱くきっかけではあったのだろうけど。
あの日はあまりに焦っていたので、せいぜいとんでもなく優しい人だな、程度の印象しかなかった。転移の魔法を使うには、全神経を集中させなくてはならなかったせいもある。
二度目の出会いはまったく予期していなかった。
『……あれ、きみって昨日の……?』
驚いて思わず叫びながらも、綺麗な声だな、と思った。透明、というのが一番適した表現かもしれない。無駄な色がついていない、耳に温かく馴染む透き通った声。
思えば、彼女の声を初めて聞いたのはそのときだ。初めて出会った日には、彼女は混乱していたのか一言も声を発さなかったから。
昨日のアレって何、と問いかけてきた彼女の表情は真剣であり、そしてその声はどこか安心を与えてくる声で、だから陸は、彼女に自分の話をした。
信じてもらえるとは少しも期待していなかった。
――しかしなぜか、亜依は陸の話をすぐに受け入れた。魔法を見ていたとはいえ、普通はこんなにあっさり信じられるわけがない。亜依が信じた、ということを、陸のほうが信じられなかった。
けれど。
『……そっか。大変、だったんだね』
何言ってるの、と馬鹿にするでもなく。
すごいね、と目を輝かせるのでもなく。
亜依はただ静かにそう言って、まるで自分のことのようにつらそうな顔をした。わたしでよければこれからも話を聞こうか、と言ってくれた。
彼女のその態度に、赤羽陸は救われてしまった。まさか自分が、誰かからそう言ってもらうことを求めていたとは思ってもみなかった。思ってもみなかったから、あっさりと落ちてしまったのだ。俺なんかがこの子を好きになっちゃいけない、と否定しようとしてみてもどうにもならなかった。
亜依は陸の話を信じた。信じたうえでなお、陸を赤羽陸という一人の『人間』として見てくれて、心配してくれた。
――それが、あのときの陸が無意識に求めていたことだった。
『英雄』と呼ばれることに疲れ切り、もてはやされることに疲れ切り、化け物として恐怖されることに疲れ切っていた陸にとって、亜依の言葉は泣きたくなるくらいに嬉しいものだった。
だから、好きになってしまった。
『英雄』になり、『人間』でなくなってしまった陸が、普通の女の子である亜依に恋をするなど許されないことだったのに。
好きでいるだけなら。少し仲良くなるだけなら。――少しなら、少しなら。
どんどんわいてくる欲を押しとどめ、友達以上のことをしないように気をつけた。亜依は陸の気持ちに気づいていないだろう。気づかれるわけにはいかなかった。
そんなふうに、気持ちが零れないよう慎重に日々を送っていた、から。
これって何の試練? と陸は顔を引きつらせる。
『ここはね』
隣に座る亜依が、ルーズリーフに端的でわかりやすい説明を書いてくれる。風邪で声が出ないのだという亜依は、今日はずっと文字で話していた。
そのせいなのか何なのか、距離が近い。もう少しで腕がふれ合いそうなほど近い。匂いが届いてくるほど近い。
だというのに顔を更に寄せてきて、わかった? とでも言いたげに首をかしげながら見上げてくるものだから、たまったものではなかった。
しかも陸が「あ、なるほど。ありがと、やっぱり鳴海の説明わかりやすいな」なんて褒めようものなら、とにかく嬉しそうに笑うのだ。わずかに頬を染めて、柔らかく目を細めて。
陸の知る亜依は、こんな笑い方はしなかった。
こんな、まるで恋した相手を見るような目では見てこなかった。
声が出ない分、彼女なりに表情を使ってコミュニケーションを取りやすくしようとしているのかもしれない。
そうだと思わなければ、彼女に何かしてしまいそうで恐ろしかった。
「……あのぉ、鳴海さん……近くありませんか……」
『ごめん、いやだった?』
「いや、嫌ではないけど……」
『これくらい近いほうが今はおしえやすいから』
「ですよねー」
乾いた笑みを浮かべる陸に、亜依は少し不安げに表情を陰らせる。
そして何か思いついたように、あ、と小さく口を開けた。いつもの綺麗な声は、もちろん聞こえない。
『話はかわるんだけど』
「うん?」
『あいってよんでいいよ』
「……うん?」
書かれた文字を凝視する。漢字は画数が多くて面倒なのか、ひらがなが多いのが可愛いんだよな、と現実逃避気味に考える。
凝視したところで、書かれた文字は変わらなかった。
「いやいやいや、鳴海?」
いつもの呼び名に対し、亜依はしょんぼりとしつつ首をかしげた。思わず、うっと言葉に詰まる。こういう亜依は初めて見た。
しかし可愛いと思っている場合ではないので、そんな思考を振り払う。
「きょ、今日の鳴海おかしいよ? 大丈夫? 風邪は喉だけって言ってたけど、熱もあるんじゃない? 今日の勉強はここでやめとこ、な?」
どう考えたっておかしいのだ。陸が亜依と呼びたいと主張したのは先週のことで、そのときの彼女は「え、無理かな」とためらいもなく即答した。亜依は案外頑固だから、そこまで嫌がっていたことをたった一週間で受け入れるとは到底思えなかった。
そこでふと引っかかる。
たった一週間。一週間――一週間前、何があった?
頭に浮かぶのは、ある人物。
「……なあ。もしかして、あれからまた魔女に会ったりしたか?」
訊きながら、亜依の様子を注視する。目を瞬いた彼女は緩く首を振った。
「…………そっか」
嘘をつかれたと、わかってしまった。
普段は意識して色々なことから目を逸らすようにしているが、今のように『見よう』と思ったときには、陸の目は何も見逃さない。嘘に伴う、ほんの少しの動揺も。
亜依に嘘をつかれたのはショックだったが、魔女が関わっているなら仕方ない、と自分を納得させる。きっと何か理由があるのだ。
「ごめん、やっぱり今日の勉強は終わりにしよう。ちょっと用事思い出した。風邪引いてるんだしできれば送っていきたかったけど……ごめんな、一人で帰れるか?」
立ち上がり、勉強道具を鞄にしまっていく。あの厄介な魔女が何かしでかしたのだとしたら、一刻も早く問い詰めなくてはならない。
『もうおわり?』
そう書いて、亜依は寂しげな表情で陸を窺ってきた。――魔女に会うのは別に今日じゃなくても、とちらりとよぎった考えを慌てて振り払う。こんなに可愛い亜依と長時間一緒に過ごすのは身が持たないのだ。原因がはっきりすればまだ冷静に対応できる。はずだ。
なんとかうなずけば、亜依はしぶしぶと帰り支度をしてくれた。
校門までは亜依と共に行って、そこで別れる。悲しそうな彼女に心から「ごめんな!」と再び謝り、駅とは反対方向に足を進めた。どうせ他者には魔女に関わるものを認識できないにしても、できるだけ人の少ないほうへ行きたかった。
普段は入らないような小道に入ると、ほどなくおあつらえ向きな空き地を見つけた。そこにお邪魔させてもらい、立ち止まる。
「……おい、魔女。聞こえてるだろ。あれを説明してほしい」
精一杯の不機嫌な声で、どこかからこちらを観察しているであろう魔女に話しかける。案の定、微笑をたたえた魔女が眼前にすうっと現れた。
「さて、あれとは何かしら?」
「っ――!?」
間違いなく、今の言葉は魔女が発したものだった。しかし、耳に届いた声は彼女のものではない。
今の、声は――亜依のものだ。
それを理解した瞬間、思考が怒りで染まる。
「お前っ! 鳴海に何したんだ!?」
詰め寄る陸に、魔女はわざとらしく首をかしげた。
「仮にも仲間だった私に対して、随分怖い顔をするのね?」
魔女の口から出てくるのは、聞き間違えようもない亜依の声。普段は安心をくれるその声が、今はとても恐ろしく感じる。
「お前のことは今でも仲間だと思ってるし友達だとも思ってるけど、それとこれとは話が別だっ! 鳴海に何かしたんだとしたら、俺はお前を許せないからな!」
「……相変わらずねぇ。しかも、許さないじゃなくて許せないと」
魔女はきょとんとしてから、呆れたように笑う。その表情を見て、早く答えろと怒鳴りかけたのをなんとか耐えた。ついかっとなってしまった。
今言ったとおり陸は彼女のことを仲間だと思っているし、厄介で面倒だとは思いつつも嫌ってはいない。むしろ好ましい。
だから、冷静になれ、と自分に言い聞かせる。落ち着いて話し合いがしたかった。怒りで我を忘れ、一方的になじるなどあってはならない。
深呼吸をして、もう一度同じ問いをかける。
「……鳴海に何したんだ?」
「薬を渡しただけよ。アイの願いを叶えるための、ね。でもどんな願いかは秘密よ? 私から言えるとしたら、そうね。一週間後までにある条件を満たさなければ、泡になって消えてしまう……つまり死んでしまう、とか?」
――死ぬ? 鳴海が?
淡々と答えた魔女は、絶句する陸を見てにんまりと笑った。
「なーんてね。そんなものをこの私が渡すわけがないでしょう?」
陸は黙って彼女の目を見つめた。嘘は、ついていない。
「私は幸福な結末が好きな魔女よ」
ハッピーエンド。
それは魔女の口癖だった。ハッピーエンドが好きなのだと、旅の途中彼女は何度も語った。
「でも、幸福へ一直線に向かっていく物語は好きではないの」
それも何度も言っていたことだ。そういうとき、魔女は決まって自身の髪の毛を弄んでいた。何かを懐かしみ、何かを憎むような目をしながら。
なぜ、と訊いてみたことがある。最初から最後まで幸せな、完全無欠なハッピーエンドではいけないのかと。
魔女は答えた。『そんなものを認めたら、私はまた誰かを呪ってしまうから』。
それ以上のことは何も言わなかった。最後まで、陸は彼女の大事な部分にふれることを許されなかったのだ。
――彼女の名前すら、陸は知らない。肉体年齢を彼女の魔法で戻してもらうとき、代償として仲間の名に関する記憶を消されたが、魔女の名だけは最初から知らなかった。
魔女は歌うような口ぶりで、鳴海亜依の声を紡ぐ。
「だからほんのすこーしだけ、余計な手出しをさせてもらったというわけ。おわかり?」
「……つまり、鳴海が死ぬことはないってことか?」
「ご名答」
笑う。笑い声さえ亜依と同じだった。そして笑い声だけなら、目をつぶれば亜依のものときっと聞き分けがつかない。気持ちが悪かった。
「条件は最初から満たされていた。心配しなくとも、一週間経てば魔法は解けるわ。声も元通り。あの子は死なない。あの子がちゃあんと賢ければ、その意味に気づくはずよ」
まあでも、と魔女はくつりと喉を鳴らす。
「今のあの子は賢くないから、自分だけではきっと気づけないでしょうね」
「……どういうことだよ」
「さてね? 私が語らずとも、いずれわかることだわ。人の楽しみを奪うような真似、私嫌いなの」
「全ッ然楽しみなんかじゃないんだけど」
「ああそうだ。リク、アイの魔法が解けるまで、彼女に何も言わないでちょうだいね?」
「……お前、それ頼みじゃなくて魔法だろ。こんなことに魔法使うなよ」
「それじゃあ私、もう行くわ」
会話をする気がないのだろう、魔女は早々に立ち去ろうとした。慌てて「待って」と呼び止め、以前訊きそびれた問いを口にする。
「なんでお前は、鳴海の名前を知ってたんだ?」
彼女は当然のように最初から、亜依のことを『ナルミアイ』と呼んだ。
経過観察、とうそぶいた魔女を信じるなら、こちらに帰ってきてから時折様子を見られていたのだろうとは想像がつく。そうなれば、陸の傍によくいる亜依のことを知るのも当然ではある。
しかし、だとしてもおかしかった。
魔女はこう見えて、他人に興味がない。陸の仲間になってくれたのは、彼が異世界人であり、彼女が異世界人という存在に興味を持っていたからだ。そんな陸の名前を覚えてもらうまでにも、一年以上かかったのだ。
だからおかしい、と思ってしまう。
陸の問いに、魔女は初めての顔を見せた。いつもの食えない笑みを浮かべようとして、それに失敗したような顔。
自分でも気づいたのだろう、彼女は苦笑気味に息を漏らす。
「――だってあの子は、私の大切な子の一人だもの」