普通の恋ができたなら 1
「亜依、ごめんね。今日の夜ごはんは自分で用意してくれる?」
朝ごはんを食べている最中、母にそう言われた。ちらっとカレンダーを確かめると、なるほど、確かに前回のその日から約一ヶ月が経っていた。
「うん、わかった」
うなずくわたしに、母はまた「ごめんね」と申し訳なさそうに謝った。
月に一度、母は体調を崩したと言って部屋にこもる。決まって、満月の夜に。そしてその夜だけは、わたしたち娘の前に姿を見せない。
物心ついたときからそうだったから、なぜ、なんて考えるのはもうやめた。そういうものだと納得するほうが楽だった。
……そういえば、と思考が過去へ向かう。昔一度だけ、満月の夜に母と過ごしたような気がする。すごく朧な記憶だ。わたしは熱があって、苦しくて。母はわたしを部屋に入れて、看病をしてくれた。
あの日の母は、全然体調を崩していなかった。――いなかった、けど。
赤。
不意に頭をよぎった色に、あれ、と思う。そうだ。赤い髪の毛は、あのときに見た。それで深夜、わたしは母の静かな泣き声で目を覚ました、のだ。確か、そうだった。
どうして泣いているのかと訊いたわたしに、お母さんは。
それがわからないから――わからないことだけがわかるから泣きたいのだと、言っ、て、
「ちょっと、時間平気?」
「え、あ、平気じゃない!」
たぐり寄せていた記憶が、ぱっと頭の中で霧のように消える。ぼんやりとしていたせいで、いつもよりも朝ごはんに時間がかかってしまっていたようだ。
母の言葉に急いで残りを口に詰め込み、食器を片づけ、学校に行く準備をする。
「亜依、寝癖ついてるよ」
「え、ほんと?」
上の姉の指摘に、慌てて鏡を見る。
「後ろ後ろ。こっちおいで」
下の姉が櫛を持って手招きした。そちらに寄れば、髪の毛を優しくとかしてくれる。そのままじっとしていると、なぜか編み込みまでされ始めてしまった。
「……美代姉、わたしあんまり時間ないんだけど」
「ん、大丈夫大丈夫、すーぐ終わらせるから!」
「じゃあその間、亜依には私の話を聞いてもらおうかなー!」
「美和姉の話も絶対すぐ終わらなくない?」
終わらせる、と笑って、姉は惚気話を始めてしまった。今度の彼氏は確か、十個年上の人だったはずだ。
綺麗な夜景の見えるレストランで夕食を食べたのだと話す姉は幸せそうで、聞きながらわたしの頬も緩んだ。どうにも胡散臭いけど、気のせいであってほしい。
どうか今度こそ、姉が傷つかない恋でありますように。
* * *
わたしの母は三度結婚し、三度離婚している。
なぜかといえば単純な話、といっていいのかはわからないが、そこそこ単純だ。結婚相手が三人揃って大のクズであり、対する母は悪い男に騙されやすい、純粋な娘だったからだ。今ではもう、結婚なんてしないと決心したらしいけど。とはいえ惚れっぽい性格なので、そうと決めた後もたまにひどい目に遭っている。
わたしは父親たちのことをよく知らない。三人目の結婚相手であるらしい実の父親のことも、である。三人とも、クズだった、あるいは結婚してから徐々にクズさが明らかになったということだけ聞いている。
そして母だけではなく双子の姉二人も、まるでそういう血筋であるかのようにことごとく男運がないのだった。まだクズ男に引っかかったことのないわたしは彼女たちと血が繋がっていないから、本当に血筋なのかもしれないとちょっと疑っている。
わたしの父は母との離婚後、性懲りもなく違う女性と……わたしの実の母と再婚した。そして幼いわたしを残し、両親ともに事故で死んだそうだ。二人はどちらも親類から縁を切られていたらしく、見かねた母がわたしを引き取ってくれた。
血も繋がっていないのに、母も姉たちもわたしのことをとても可愛がってくれた。たっぷりの愛情を注いで、育ててくれた。
だから何が一番つらかったといえば、クズ男によって彼女たちが苦しむことだ。笑顔で惚気ていた数日後には号泣、なんてことが多々あり、見ていられなかった。
わたしにもまあ、色々被害が飛び火してきたけれど……それより何より、やっぱり彼女たちの泣き顔を何度も見るのがつらかった。懲りずに恋をする三人を馬鹿だとは思ってしまうけど、それでもわたしは、あの人たちのことが大好きだから。
『亜依は馬鹿な男に騙されちゃ駄目だよ』
泣いている姉に言われた言葉を思い出す。あれは確か、下の姉に言われた言葉だった。母や上の姉からも似たようなことは言われているのだけど。
彼女たちは皆騙されたことがあるのに、いまだ騙されたことのないわたしを心底心配してくれるのだ。ほんと、わたしの家族を傷つける奴らには滅びてほしい。
今度こそは、と恋をして、何度も裏切られて。
……それでどうして、恋自体を諦められないんだろうなぁ、とずっと不思議に思ってきた。
しかし。しかし、である。
とんでもないことが起きた。
このわたしが――恋をしてしまったのだ。
赤羽陸くんに。
気のせいだと思い込もうとした。ただの憧憬なのだと思い込もうとした。
でも、駄目だった。
たったの三ヶ月で、わたしはびっくりするほど彼に惚れ込んでしまった。恋なんてものに感情を揺さぶられる自分が、毎日毎日嫌になる。
陸くんはクズではない、と思う。いや、クズではないと言い切ろう。だって陸くんだ。陸くんがクズのはずがない。この思考自体が危ういものである自覚はある。
けれど、赤羽陸という少年はどんな顔をしているか? と問われたら、わたしは迷わずこう答えるだろう。
お人好しで、与えたがりで、人のことばかりで、優しくて、温かくて、折れない強さを持っていて、自分よりも他人を大切にする。それらが全部、一目見ればわかるような……そんな顔をしている、と。
人を見かけで判断してはいけない、という言葉はあるが、それでも、陸くんの顔から滲み出るそれらは本物だ。本物としか思えなかった。
――だから、怖いのだ。わたしに恋なんてされた彼が、変わってしまうんじゃないか。わたしのせいで、彼の眩しさに陰りが生まれてしまうのではないか。
彼に恋なんてしたくなかった。自分のことを馬鹿だなんて思いたくなかった。それでも捨てられない思いが恋なのだと、ようやく知った。
知りたくなんて、なかった。
恋に落ちた明確なきっかけはない。話していると、眩しいな、と思うことがたくさんあって、それがどんどん積み重なって。いつの間にか、恋なんてものになっていたのだ。
異世界を救ってきた勇者だなんて、そんな話普通信じない。魔法を見たからといって、彼の語る話がすべて真実かだなんて判断はつかない。
にもかかわらず、信じたいと思ってしまったのが間違いだった。ドン引いて、嘘つきだと軽蔑し、距離を取ればよかったのだ。
どれだけ大変だっただろう、と哀れむべきではなかった。
どれだけ身も心も傷ついただろう、と心配するべきではなかった。
彼が異世界の話をできる相手はわたしくらいなんだから、わたしが少しでも吐き出させてあげなければと――気まぐれで上から目線な、身勝手な思いを抱くべきではなかった。
そんなの、今更後悔したって遅いんだけど。