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恋とは愚かな人間がするものである 1

 恋をしている人は馬鹿だと思う。

 一時の感情に振り回され、傷ついて、苦しんで、幸福を感じて、浮ついて、絶望して、笑って、泣いて。疲れるだけじゃないか、と呆れすら覚えてしまう。


 ――だからわたしは、自分がそんな馬鹿になるなんて想像もしていなかったのだ。



     * * *



赤羽(あかばね)くん、そこの計算違う」


 わたしの指摘に、赤羽くんはきょと、と目を丸くした。手元のノートを覗き込み、首をかしげながらそれとわたしを見比べる。


「え、あれっ、どこ?」

「二分の一が抜けてる。あとここ、プラスとマイナス間違えてるんじゃない?」

「うわぁ、ほんとだ……」


 肩を落とした赤羽くんは、悲愴な顔でノートに消しゴムをかける。けれど力を込めすぎたのか紙がぐしゃりと皺になり、「あっ」とますます悲しそうな顔をした。

 そんな彼につい笑ってしまいそうになって、わたしは頬の内側を噛んだ。――こんな些細なことで可愛いと思ってしまう、馬鹿な自分が嫌になる。


「……ちょっとわたし、飲みもの買ってくるね」


 コーヒーか何かで、この甘ったるい思考を流してしまいたかった。

 おう、という彼の相槌を聞きつつ、わたしは席を立った。教室を出て向かうは一階、階段横の自動販売機。


 到着した自動販売機に小銭を入れようとして、そこで初めて手ぶらで来てしまったことに気づいた。

 ……何しに来たんだか。

 ほんと馬鹿だなぁ、と小さくため息をつく。

 なんとなくすぐに戻る気にもなれなくて、わたしは近くの壁にもたれかかった。


 目に入った窓から見える外は、いつの間にかどんよりと暗い。

 そういえば予報じゃ夕方から雪だとか言ってたな、と思い出せば、ちょうどちらりと白いものが落ちてきた。タイミングがいいというか、悪いというか。


 雪は面倒くさい。けれど、嫌いなわけでもなかった。

 むしろたぶん……好きだ、と言える。彼と出会った日にも雪が降っていたからなんだろうと思うと、またげんなりしてしまうけど。


 そんなふうに考えていたら、階段からその『彼』が下りてきた。


「あ、鳴海(なるみ)! よかった、こっちの自販機で合ってた」


 にこにこと手を振ってくる赤羽くんは、わたしの鞄を持ってきていた。


「手ぶらだったよな? って思ってさー。勝手に開けて財布探すのもあれだし、鞄ごと持ってきちゃった」

「……ありがとう」


 受け取ろうとしたら、その鞄がすっと遠ざけられる。

 無言になるわたしに赤羽くんは笑って、ブレザーのポケットから自身の財布を取り出した。


「奢るよ。何飲みたかったの?」

「いや、いいよ別に」

「いいからいいから。ほら、勉強教えてもらってるし!」


 自分のお金じゃないでしょ、という断り文句が使えたらよかったのだが、あいにく彼はバイトをしている。そのお金は間違いなく彼のものだった。


 うちの高校でバイトをしている人は少ない。禁止はされていないが、あまり推奨されてもいないのだ。

 それなのになぜ彼がバイトをしているかといえば、誰かに贈るプレゼントとかを自分のお金で買いたいから、という……わたしからしたら眩しすぎる理由だった。


 そういうところも好きなんだよな、とナチュラルに考えてしまって、思わず眉根を寄せそうになった。気合いで耐える。


「で、何飲みたい?」


 無邪気な笑顔に、ぐ、と喉の奥から微かに変な音が漏れた。……だめだ、かわ――いくないから、落ち着こう、わたし。

 しかしこんなふうに訊かれたら、固辞するのも申し訳なかった。小さく視線を泳がせてからしぶしぶと答える。


「……ココア」


 コーヒーよりココアを飲むほうが可愛いと思ってもらえるかな、なんて。

 打算してしまう自分に苦い気持ちになる。

 甘ったるい思考を流したい、と思っていたけど、この苦い気持ちもどうにかしたい。そうなると実際、コーヒーよりはココアのほうがいいのかもしれない。……何を考えているのか自分でもわからなくなってきた。


 わたしの混乱した脳内など当然知りもせず、赤羽くんは「了解ー」と軽い返事をしてココアのボタンを押した。可愛いと思ったかどうか、その表情から窺い知ることはできなかった。

 からん、と落ちてきた缶を、彼はかがんで拾い上げる。


「はい、どーぞ」

「ありがとう」


 お礼を言いながら缶を受け取ると、冷えた指先にココアの温もりがじんわりと伝わってきた。


 たぶん彼は、追いかけにきてくれた時点で奢ってくれるつもりだったのだ。それなのにわたしの荷物も持ってきたのは、無人の教室に貴重品を置いていくのはまずい、みたいな理由だろう。

 そういう気配りができるところも彼の美点だと思う。……客観的に見て。


 いただきます、と缶のタブを指で開ける。ふわりと立ちのぼる甘い香りに、ほっと気が緩んだ。

 打算あっての選択だったが、やっぱりココアで正解だったかもしれない。そもそもわたしは、苦いものよりは甘いもののほうが好きなのだ。


 数口飲んでからやっと鞄を受け取る。片手に缶を持ったまま財布を出し、自販機に百円玉を入れて、速やかにブラックコーヒーのボタンを押した。


「え、コーヒーも飲むの?」


 びっくりしたような顔をする赤羽くんに向け、わたしは出てきた缶を放り投げた。難なく受け止めた彼に「ナイスキャッチ」と笑いかける。


「お返し。どうぞ?」

「……うん」


 明らかに『ブラックコーヒーは苦手です』と顔に書いてあった。予想どおりすぎてつい吹き出してしまう。


「ふ、ふふふ、やっぱりコーヒー苦手?」

「いや! 別に! 飲めるよ!」


 やや片言な否定に、ますます笑いが零れる。


「嘘つかなくてもいいのに。ごめん、意地悪しちゃったな。それわたしが飲もうか?」

「……頑張ってみる」


 言うや否や、赤羽くんは缶を開けてちびっと一口飲んだ。思いきり表情を曇らせて、ちびちび飲んでいく。ほぼ缶の角度が変わらないので、飲めているかどうかも怪しい。

 それを尻目に、わたしは自分のココアを飲み進めた。


 甘くてあったかくて、安心する味。

 これはきっとわたしよりも赤羽くんに似合う味だ、と思った。


 ココアを飲み終わって赤羽くんのほうをもう一度確認すれば、先ほどよりはほんの少しだけ缶の角度が上向きになっていた。頑張ってるなぁ、と微笑ましくなる。

 その視線に何かを感じたのだろう、赤羽くんはじとっとした目を向けてきた。


「……なんですか、鳴海先輩」

「いーえ? なんでもないよ、(りく)くん」


 その呼び方に彼は目を丸くして、それからなぜか嬉しそうに小さく口元を動かした。

 先輩、というのは彼の冗談だったが、単なる事実でもある。一応の事実として、わたしは高校二年生で赤羽くんは一年生だ。わたしが十七歳で、赤羽くんは十六歳。


 けれど、彼は()()だから。


 先輩と呼ばないよう、そして敬語を使わないように頼んだのは、わたしからだった。


「……なんでもないっていうのは嘘かな。それ飲み終わったら、お詫びにもう一個何か奢るよ。何飲みたい?」

「んー、これ以上はちょっと飲めないかもなぁ。そんな喉渇いてたわけでもないし」


 確かにわたしが無理やり押しつけたようなものだった。反省していると、「それなら」とどこか緊張したように赤羽くんがこちらを見つめてくる。


「代わりに、小さいお願い聞いてもらう、とかはあり……?」

「うん? お詫びとしてじゃなくても聞くよ?」


 赤羽くんは何かを要求してくることが少ない。彼はお人好しの与えたがりで、誰かから与えてもらうということが苦手だ。

 だからできることならば、彼が『お願い』と呼ぶものを叶えてあげたかった。


 赤羽くんはためらいがちに視線を泳がせる。その視線が再びわたしを捉えるより前に、彼の口が小さく開いた。


「……じゃあ、これからはさっきみたいに呼んでくれない?」

「さっき?」

「陸くん、って言ってたじゃん」


 え、と反射的に声が出て。内容を理解するまでにはもう一拍必要だった。


「い、いや、いやいや! あれは冗談だし、赤羽くんに便乗しただけだし……!」


 ぶんぶん首を振ってしまったが、聞く、と言ってしまったのはわたしだ。それに彼のお願いを叶えたいというのも本心ではある。

 唸り声を上げるわたしに、「難しければいいんだけど」と赤羽くんは眉を下げた。そんな顔をされてしまったら、わたしにできることなど一つだけだった。


 ――体温が上がる。顔が赤い。心臓がきしきしふわふわと、変な音を立てているような気がする。


 ただ下の名前で呼ぶだけなのに、さっきはさらっと言えてたくせに。

 自分で自分に呆れ果てながら、わたしはどうにか声を絞り出した。



「………………陸、くん」



 途端、彼はとても嬉しそうに、ふにゃりとはにかんだ。一際大きく跳ねる心臓が忌々しい。

 あーあ、と心の中でため息を一つ。


 ――恋ってほんとに、なんて厄介なんだろう。


「ありがと、鳴海!」

「お礼言われるようなことじゃないよ」

「でも頑張ってくれたから」

「……そりゃあ、頑張りました、もん」


 ぼそぼそ返すわたしに、赤羽くん……陸くんは「よし」と気合を入れるようにつぶやくと、缶コーヒーを一気に煽った。


「んんんにっがぁ……」

「え、なに、どうしたの?」

「いや、頑張ってくれたのに俺が頑張らないのはダメだと思って」


 別にブラックコーヒーが飲めないとか苦手だとかっていうわけじゃないんだけど! と陸くんは早口で付け足す。嘘だということは丸わかりだったが、指摘はしなかった。

 けれどただ笑ったわたしに察してしまったのか、ばつの悪そうな顔をする。


「ごめん嘘ついた……」

「あはは、わざわざ申告しなくていいよ」


 嘘をついた、というのなら、本当はコーヒーを飲もうとしていたわたしだって同じだ。わたしは彼とは違って性格がよくないから、嘘を自己申告するなんてことしないけど。


「ごちそうさま、ありがとな」

「こっちこそありがとう。ごちそうさまでした」


 二人して缶をゴミ箱へ捨てて、階段を上っていく。前を歩く陸くんの背中を見つめながら、わたしはため息を飲み込んだ。




 心底嫌だけど、


 ――わたしは今日も、陸くんのことが好きだ。




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