第一話 見えない壁とおとぎ話
最初に異変に気がついたのは狩人である。
隠れ森と呼ばれる人里離れた森に、若い男の狩人は狩りに来ていた。
雲ひとつ無い晴天、太陽はてっぺん近くに上がっている。狩人は積み上がった木の葉の上を音を立てないように慎重に歩きながら一匹の大きなイノシシを確実に追い詰めていた。
斜面に差し掛かかり、イノシシは歩みを止める。それを合図に彼は弓を構える。
彼が放った矢は、惜しくもイノシシの手前に落ちる。しかし、逃げ出したイノシシの様子がどうも変なのだ。ある地点まで走ると、まるで見えない壁にぶつかったかのように止まり、イノシシはその場に倒れた。
狩人は驚いたが、冷静に止めを刺す。倒れたイノシシを解体しようとナイフを取り出すと、手に何かが当たった。しかしそこには何も無い。
何も無いのにまるでそこに壁があるかのようにツルツルとした手応えがある。
彼はそのまま手をスライドさせてみる。見えない壁はかなり広い範囲にあるらしい。
狩人は村に帰ると、この出来事を村長に話したが信じてもらうことはできなかった。明らかに異常だと思った彼は、この現象に詳しい人がいることを期待して、大陸の中央にある首都セントルへと向かった。
次に異変に気がついたのは漁師である。
ヒガシ島という島民三十人程度の島の漁師だ。
夏の日差しの中、島一番の漁師と言われている褐色肌で立派な髭の屈強な男は、手漕ぎの船を沖に出した。彼しか知らない秘密の漁場に向かうのだ。
まだ顔を見せたばかりの太陽と、南から吹く弱い風を確認し、長年のカンで船を進める。彼のカンはいつも魚の群れへと船を導くのだ。
しかし今日はいつもとは違った。何も無い場所で、船はゴンと音を立てて止まった。いくら漕いでも船は進まないどころか、Uターンしてしまう。驚いた漁師は船の前に手を出す。そこには見えない壁が有った。
漁師は島に帰ると、島中の人々にこの事を話した。彼の話を信じなかった人も沖に船を出し、島の全ての人がこの事実に驚いた。
これは異常事態だと思った島民は、助けを求めるため、漁師の息子を首都へと向かわせた。
ヘリアン王国首都、セントルの学者たちは混乱状態である。
様々な地方から、奇妙な報告が次々と送られてくるのだ。
その報告はどれも「見えない壁がある」というものだ。
報告をまとめることによって次の2つのことが判明した。
一つ目は突如として現れた見えない壁が、ヘリアン王国をぐるりと囲んでいること。
報告された壁の位置を王国の地図に照らし合わせると途切れ途切れではあるが、王国を囲むように壁が出現しているのだ。
二つ目は壁は本当に少しずつだが、動いていること。
これはいくつかの村や町からの報告である。一日に一センチメートル程度、首都の方角に向かって壁が動いていることが確認された。
本当に奇妙な話であるが、国を滅ぼしかねない一大事である。直ちに調査隊が結成され、壁の報告が有った場所へと向かった。
奇妙な壁の話は三日も経たないうちに国中へと広まった。そしてこの状況は、首都から南の地方にかけて言い伝えられているおとぎ話に似ていると噂されるようになる。
首都の南の町アンドルは、多くの人で賑わう町である。その朝市で二人の主婦が件の噂話をしていた。
「ちょっとメリーさん聞きましたか? 奇妙な壁の噂」
と、小太りの女性が小声で囁く。
「いやね、フリルさん。知らないわけ無いでしょう。みんな話しているではありませんか。あの話、どう考えても勇者オーブの物語にそっくりなのよね」
と、痩せた女性が甲高い声で話す。
痩せた女性のメリーは声がよく響くことでこの町では有名である。近くにいた幼い少年がこの声に反応して尋ねる。
「おばさん、勇者オーブの物語ってなあに?」
「まあ、おばさんなんて失礼ね。それはさておき、寝る前にお母さんに話してもらわなかったの?私なんかはよく話してもらったわ」
メリーはおばさんと言われて少し不機嫌だ。
「おっ、お姉さんだね。ごめんなさい。それってどんな話なの?」
「ちょっと長い話になるから今話すのは無理よ。暇してる町長なら喜んで話してくれるんじゃないかしら」
「ありがとう、町長さんのところに行ってくるよ」
少年は町長の家へ走り出した。
町長の家は賑やかな町と対照的にこじんまりとしている。
町長のイーサンは、平和な町を2階の窓から眺めながらのんびりと読書をしていた。時々、白いやぎ髭を撫でて退屈を紛らわしている。
「町長さーん! お話聞かせてー!」
元気な少年の声を聞き、イーサンはドアを開けた。
「おお! クルト坊やじゃないか。どうした? 何でも話してやろう。まずはワシが30の頃の話を⋯⋯」
クルトはイーサンの話を遮って言った。
「ちがうよ! 勇者オーブの物語ってやつ!」
「おお、そうかそうか。それはワシが知っている話でも特に好きな話じゃ。少し長くなるからお菓子を用意してやろう」
「やったー!!」
イーサンは厨房からクッキーと紅茶をテーブルに運んできた。
クルトは待ちきれず、椅子に座り足をばたつかせている。
イーサンは席に着くと、ボロボロの本を開いた。
「勇者オーブの物語。はじまりはじまり。」
イーサンは本を開き、語り始めた。
今から千年ほど前の話である。
キキョウ村で不思議な男の子が生まれた。
母親も父親もどこにでもいるような人間なのに対して、生まれた子供は奇妙なことに背中に白鳥のように白い翼が生えていたのだ。その子はキキョウ村の方言で規格外を意味するオーブと名付けられた。
普通ならおかしな子供、又は魔物の子供として迫害されるであろう。しかしオーブは、母親譲りの柔らかな金髪と、父親譲りの澄んだ緑色の瞳で多くの人々を魅了し、虐められるどころか皆の憧れの的となった。
オーブは、細い体からは考えられない並外れた力を持っていた。五歳の時には既に、大人の男でも二人がかりで運ぶ樽を一人で運ぶことができた。
さらに物と会話する能力を持っており、誰も抜くことができなかった聖剣と友達になり、抜くことができたのだ。
この並外れた力と聖剣を使い様々な事件を解決していくのだ。
特に有名なのはこのエピソード。
オーブの十五歳の誕生日に異変が起きる。
突如として透明な壁が王国をぐるりと囲い、国民を追い詰めるかのように壁は首都へ向かって縮んでいったのだ。
国境沿いに発見された壁は、僅か一週間で全ての国民を首都に追い込んでしまうほど小さくなってしまった。
もうこの国も終わりだ。ほとんどの人々がそう諦めかけた時、オーブは精一杯聖剣を振りかぶり、透明な壁に穴を開けた。
オーブが穴から抜け出すと、すぐに穴は塞がってしまったようで戻れなくなってしまった。
穴の外には魔王トレームの姿があった。
トレームは最強の技、バリアの使い手である。どんな攻撃も見えない壁で防いでしまうのでオーブは苦戦したが、聖剣の力で見事トレームを倒し、王国を救ったのだ。
オーブは謙虚なため、国王からのどんな褒美も受け取らなかったそうだ。
「これがかの有名な勇者オーブと見えない壁の話じゃ。さて、次のエピソードじゃがこれなんかどうじゃろ。勇者オーブがカエルに変えられてしまった少年を⋯⋯」
「あっ! もうこんな時間だ。帰らなきゃ」
またイーサンの話を遮ってクルトは言う。
「また来るんじゃぞー」
それでもイーサンはたくさん話ができて上機嫌だ。鼻歌を歌いながら夕飯の支度をした。そしてイーサンは呟いた。
「また勇者オーブみたいな少年が現れないかのう。ぜひ会ってみたいものじゃ」