Ⅵ
紫陽はしおんと読みます。自分でも読めないことは分かってます。でも彼は紫陽です。
私の気分なんて知らないと言うように春風は吹き抜ける。今の私の気分が春に似つかわしくないことは分かっているけど、普段からこんな陽気な風といつでも同化出来るような私じゃない。いつもと同じように春の匂いを連れてくる春風。決して嫌いな訳じゃない。むしろ暖かくて好きだ。ただ、いつでも好きなものが自分の気分という調和しないのが今の状態ってだけ。
佳月君と別れてから気分が晴れない。逃げられたのは思っていた以上に心にくるものがあった。明日、上手くいくのかな。やっぱり私はネガティブだった。一度考え出すとマイナスの感情で満たされてしまう。
あーあ、自嘲するように空を見上げる。青空に白い雲が浮かんだ、穏やかな空は清々するくらい私と反対だった。この空が、私の暗い感情を全部吸い取ってくれたらいいのに。
「何やってんの、上向いてたら転けるよ」
後ろから投げ掛けられた、聞きなれた声。声変わりしても、一般的な男性よりも少し高い声。不注意を嗜めていても、嘲るような色なんて無い。代わりに暖かさを目一杯込めたような声色。私の大好きな声。
「紫陽兄!」
「お帰り、黒華。入学式お疲れ様」
振り向いた先に居たのは、 思った通りの人だった。私の一つ上の兄。小さい顔に二重ながらも少し凛々しさを感じる眼、つんとすましたようにそびえる鼻、薄い唇が端正な顔立ちを作っている。
「紫陽兄もお帰り。入学式、どうだった? 高校楽しくなりそう?」
「ただいま、でもまだ分からないよ黒華。自己紹介だってろくにやってないんだし。それに、僕と気が合う奴なんて少数派だし」
やれやれと首を振るけど、私を馬鹿になんてしてない。いつだって、家族と話している時の紫陽兄の顔は、本当に優しくて暖かい。
「そんなの。紫陽兄の良さが分からない人なんて居ないんだし、見つけられるよ」
「どうだかねぇ」
私は紫陽兄が好きだ。他人に驚く程冷淡な時もあるけど、私や家族を大事にしてくれる。その美しい容姿と相まって人を敵にまわすこともある。理解者を作るのが難しいと言った方が分かりやすいかもしれない。
「でも、私は紫陽兄のこと大好きだよ」
「そう? 僕も黒華は好きだよ」
私と紫陽兄はちょっと(?)仲が良すぎる。何回白空に、兄妹でそんなに仲がいいのは異常だと言われたことか。
でも、それって兄弟構成的な所以もあると思う。私は四人兄弟の末っ子。上の二人は双子─藍姉と蒼兄─だから、やっぱりお互いに特別なんだと。勿論、私や紫陽兄のことも大切にしてくれてる。でも、何回か藍姉がこう言っているのを聞いたことがある。
「あたしはあたしで蒼は蒼だけど、あたしは蒼で蒼はあたしよ?」
と。そんな姉兄を見て育ったから、私と紫陽兄もそんな感じになった。藍姉や蒼兄も大好きなんだけど、私の一番は紫陽兄なんだ。
「ありがとう、すっごく嬉しい」
私が笑うと、優しい顔して微笑む紫陽兄との時間は、他と比べようがないくらい幸せな時間。
「ご馳走さま」
「黒華もういいの? まだ大皿におかず残ってるけど」
「父さん、平気だよ。黒華あんまり食べないし、残ってるんだったら僕とか蒼兄が食べるから」
「黒華に無理して食べさせないでも無くなるって」
「足りたんだったら良かったよ」
家族での食事の時間。仕事が長引くと、お母さんが居ない。
「私、も……ご馳走さまでした」
少し喋り始めるのが早かったらしい、朱璃姉がむせた。
「朱璃、ほら水」
「紅……」
白空と茜の兄姉の紅兄と朱璃姉は仲がいい。ご飯の時間も、いつも隣同士。お互いが特別なんだなって思うけど、藍姉と蒼兄よりもなんというか、依存に近いような気がする。
「朱璃姉、私先にシンク使うね」
朱璃姉が頷いたのを確認して、八人の賑やかさから離れる。うちの食卓はいつもこう。もともと梶野家と冬木家は二世帯住宅に住む、いわば何よりも近しい隣人、だ。どちらの家も、両親が共働きなので、手が空いている大人がその日の夕食の当番を受け持つ。だからいつも賑やかに楽しく親族で過ごしている。もはや皆兄弟のように思ったり、親が二組居るような感じがしたりする。そんな私の「家族」がとても好きだ。
ただ、ひとつ問題がある。私と白空のことだ。私が誰よりも苦手な存在。年齢が同じだから、色々と一緒にされることも多いが、正直それがしんどい。一緒にされるんだったら、紫陽兄が良かった……。今日だって、入学式での白空の振る舞いは誉められるようなものじゃない。これからどうするんだろ、私……。
シンクの蛇口をあける。水の音が響く。しんどさなんてその水に紛れたらいいと思った。ため息はつきたく無いのに、してしまう。
「暗い顔してんなぁ。ため息までついちゃって。幸せ逃げんぞ?」
嘲笑の中にこちらを探っているような気配が感じられる声色。半年前に声変わりを迎えたばかりの、まだ慣れない低い声。間違うもんか、この家の中でこんな風に話しかけてくる奴なんて、一人しか居ない。
「何の用っ…………白空」
水を止め、 振り替えると、思ったとおりの奴が笑いを浮かべながら立っていた。
「水飲みに来ただけだっつの。何、お前苛立ってるじゃん」
誰のせいだと怒鳴りたくなる衝動を押さえて声を絞り出す。
「まあね、手に負えない相手について考えてただけ。もうどうしようも無いけど」
「なんだそいつ、迷惑な奴だな」
「本当にね」
とげも皮肉も余裕の表情で飄々と受け流される。むかつく。誰のせいで私がこんな思いしてるなんて、分かってるくせに。
「白空」
「何だよ」
緩慢に首を持ち上げ、私を見下ろす。その目を見たくなくて、シンクに向き直る。
「どうして入学式、あんな式辞したの。一年生、可哀想だった」
「俺は面倒なこと長々とやってたく無いんだよ。それに、お前が思ってる程嫌だと思ってる奴は居ないさ。式辞なんて長引くだけ面倒だろ。校長の話とか、さっさと終われって思ってる奴の方が多いんだよ、そんなもんだ」
「だからって!」
あんまりな言い草。シンクの縁に両手を置く。こんなことを聞いたら、一年生はどう思うだろう。傷付く子だって、きっと居る。こんな適当な奴が、青蘭のトップ? 笑わせるにも程がある。
「何だよ、お前、立場的に俺の方が上だって忘れてるんじゃないか? 去年までは逆だったが、今は俺が最高幹部だ。お前が口出ししたとしても、最終決定権は俺にある。あれは俺が判断した結果だ。それに、もう終わったことだろ。いちいち気にしてんな」
悔しい。何で私はこれに言い返せないんだろう。横目に白空の手が映る。水を汲んだら、さっさと出ていこうという所だろう。何で、白空は最高幹部なんだろう。
「………………白空」
「次は何だよ」
「明日、白空の直属の後輩連れて会議室。やらなきゃいけないことがある」
「はいはい。最高幹部補佐さんは生真面目ですねーっと」
遠ざかる足音。教室で聞いたあの音とは全く別のもの。音が小さくなるたびに苦しくなる。自分自身に対する嫌悪感、白空に対する苛立ち、白空に従うしかない自分の立場、こんなことになるなんて、思っても居なかった過去の自分の浅さ──全て一つの胸の中でごった煮にされている。嫌だ、こんな私も、白空も。
「……黒華?」
はっとして顔をあげると、心配そうな紫陽兄が居た。
「大丈夫なの? 皿まだ洗い終わってないけど。結構時間経ってるよ」
「……ごめん、紫陽兄。大丈夫、すぐ終わるから!」
心配なんてかけたくない。私のせいで、紫陽兄の顔を曇らせたくない。だから大丈夫だから、心配しないで。紫陽兄に心配かけてる自分は、一番嫌いだから。これ以上、自分を嫌いになったら、私どうしていいか分からないから。
「……そう。じゃあ、黒華と一緒に洗っちゃおうかな」
「え、あ、私こっちに寄るね」
唐突のことに驚いた。でもすぐ気が付いた。紫陽兄は、私に気を使ってくれてるのだと。
「ありがと、二人って狭」
「仕方ないね、あ……ごめん紫陽兄、これ食器棚に置いてくれる?」
「ん。じゃあ黒華これよろしく」
「了解!」
嬉しかった。私のことを分かってくれてる人は紫陽兄だった。心配なんて言わないでくれて、暗い顔もしないでくれる。それどころか笑ってくれる。そんな存在が居てくれることが心強かった。
ふ、と彼のことを思い出した。彼には、そんな存在が居るのだろうか。落ち込んだ時、ただ一緒に居てくれるような存在が。私は、なれるだろうか。他人の、そんな存在に。なれたら、その時は、相手のことも、自分のことも好きになれるような気がした。
やけに黒華の帰りが遅くて、心配になった。それだけじゃない。さっき白空が台所の方へ行ったような気がして、胸がざわついていた。白空の分の食器はまだテーブルに置いてある。でも、コップだけそこには無かった。嫌な予感がする。
「ご馳走さま、朱璃姉、先に片させて」
急いで皿の上を綺麗にし、朱璃姉の許可を確認する前に台所へ向かった。水の音が響いていて欲しかった僕の期待は裏切られた。
「本当にね」
代わりに小さく聞こえたのは、黒華の苛立ちが含まれた声だった。僕に向けられることのない声。嫌な予感は的中してしまったようだ。
「白空」
「何だよ」
「どうして入学式、あんな式辞したの。一年生、可哀想だった」
「俺は面倒なこと長々とやってたく無いんだよ。それに、お前が思ってる程嫌だと思ってる奴は居ないさ。式辞なんて長引くだけ面倒だろ。校長の話とか、さっさと終われって思ってる奴の方が多いんだよ、そんなもんだ」
「だからって!」
基本的に馬が合わない黒華と白空。よく黒華は正反対だと表現する。かなり的を得た答えだと思う。僕は黒華の方が好きだから公平さに欠けるけど、聞いている限り白空が悪い。何より、僕は黒華を泣かす奴は許さない。黒華に寄り付く悪い虫も許さない。全部潰してやるくらいの勢いで。よって白空いつか潰す。
「………………白空」
「次は何だよ」
「明日、白空の直属の後輩連れて会議室。やらなきゃいけないことがある」
「はいはい。最高幹部補佐さんは生真面目ですねーっと」
これ黒華相当怒ってるな。白空、許さない。
「お、やっぱ居たか。黒華専属セコム」
「…………お前、いい加減にしろよ」
僕と白空は犬猿の仲。当たり前だ、大事な人を傷つけた奴なんて、身内だったとしても許さない。悔しいけど、僕よりも上にある嘲笑が張り付いたような顔を睨み付ける。お前は僕の敵だよ。
「へっ、あんたに言われることじゃないね」
「僕は黒華を傷付ける奴を許さない。お前のせいで黒華が泣いたことが、何回あった? それだけで理由なんて十分過ぎるだろう」
「へいへい、許されなくても別に構わねぇよ」
なんだあいつ、一回家族全員から殴られるくらいあってもいいんじゃないか? 何人が黒華を大切に思ってると? 上辺だけのお前と上辺は無くとも一つ一つを大切にする黒華、どっちの方がいいんだろうな。
白空はどうでもいいとして、まずは黒華だ。僕の優先順位の一位はいつだって妹だ。