Ⅱ
風の匂いが夕方に近付いていた。近付いていると言ってもまだまだ夕方には早い。騒々しさと閑散さの間にある時間に、緩んだ風がやんわりと私達を包んでいた。四時四十五分って、青蘭の近くだとそんな時間だ。都会過ぎず、かと言って田舎では無い。便利ではあるが少し都心から離れた街は、学生で賑わう時以外は案外閑散としている。そんな雰囲気のあるこの街のこの時間が結構好きだったりする。
バス停近くの日除け付きのベンチに座っている私達に、バスのぶおんとした生暖かい風が当たる。春とはいえ、夜が近付くと肌寒さを感じる。長く伸びた日除けの影は、私の顔は覆っても、足までは届かなかった。
道路の反対側に居る親子の声を聞きながら、そっと隣を伺った。藍姉のハイテンションマシンガントークと、蒼兄の茶々入れは人と話すのに慣れていない佳月君にはきつかったらしい。うつむき加減がなんとも言えない。そういう私も佳月君をフォローしながらあの二人の相手をするのは初めてだったから、少し疲れた。本当に容赦無いなあ。なんせ藍姉はうちで一番のお姫様だから。そして蒼兄はその藍姉を止めてくれないから。対人関係で苦労しがちな人だと、初めの方は面食らってしまうだろう。実際に佳月君が今グロッキー状態に近いように。
「……大丈夫? ごめんね、いつも藍姉と蒼兄はあんな感じなんだ」
「……大丈夫です。フォローさせちゃって、すみませんでした」
不安そうに揺れた前髪を、さらっと風がさらっていった。白空と夏弥ちゃん達の関係と、私達の関係は形は同じだけど、随分違う。お互いに、遠慮しすぎている。自覚していたとしてもあっさり変えられるような性分では無い。でも、私は彼らのような関係を持ちたいと望んでいるのだ。それには、私達の間は開きすぎている。反対車線に、バスが通って行った。ぬるい風は来なかったけど、佳月君との間に何か明確に隔たりが出来たような感じがした。
「謝らないで、佳月君。…………喉、乾いちゃったね。ちょっと、ここで待っててくれる?」
「……はい」
駄目だなあ。上手くいかないや。会わせたい人が居ると連れ出したのも、私なのに。佳月君にとって一番いいことが出来ていないのはひしひしと感じていた。第一、私自身が佳月君がリーダー的存在にもなりうる人になることが一番彼にとって幸せなのか、心底共感している訳では無い。むしろ酷なことだろうと思っている自分だって居るのに。相反する意思をどうにかする方法なんて、知らない。
ガコン、と自販機の音ではっとした。考えすぎると周りが見えなくなる、私の癖。いけないよ、なんて自分を戒めつつ、二本のペットボトルを持って佳月君のところまで急ぐ。
「ごめんね、一人で待たせて。はい、佳月君、どっちが好き?」
「いえ……え?」
驚いたような声をしていた。なんだか可笑しくて、くすりと笑ってしまう。私の右手にはよく売っている普通のストレートティー。これ、朱璃姉がよく飲むんだよね。私も結構好きなんだ。
「紅茶と、ぶとうジュース」
濃縮還元の百パーセントだけどねと言うと、ま状況を飲み込めてないらしく、動揺しているのが見てとれた。
「えっと……先輩が買ったものなので、貰えません」
「いいの、気にしないで。私の姉兄のせいでもあるんだし、両方好きだったから選べなくて。佳月君が選んでくれたらいいなって思ったの」
建前を並べつつ勧める。本当はジュースなら、ぶどうよりもりんごの方が好きなんだけど、一般的な男子にはりんごよりもぶどうの方が好評らしいからやめた。ぶどうだって嫌いじゃないけど、私の家でぶどうと言うと白空か茜だ。
「ありがとうございます……じゃあ、ぶどう頂いてもいいですか?」
「勿論」
佳月君の足に、また影がかかった。こちら側の車線に、もう一台バスが通り過ぎて行った。ぶおんとした生暖かい風に乗って、かち、とペットボトルのキャップを開ける音が聞こえる。横目で伺うと、佳月君がペットボトルを傾けていた。それを見てから私もキャップを開ける。小さい頃は堅くて開けられなかったのに、今では一人でも開けられる。小さい頃に比べれば成長しているのだろう。
最初よりも気まずさが薄れ、のんびりとした空気が流れる、穏やかな時間だった。楽に投げ出された足は少し行儀が悪いけど、誰かに窘められるほどでもない。こんな時間もたまにはいいなあ、なんて。
「コマンダー最高幹部補佐が、荷物も持たずにこんな所で何をやっているんでしょうか」
飲んでいた紅茶が喉に入りかかった。こういう形の皮肉を、こんな声色で言う人を、私は一人しか知らない。私が佳月君に会わせたかった、三人目の人。慌てて後ろを振り向くと、想像通りの人が立っていた。
「紫陽兄!!」
「ただいま、黒華。こんな所で何してるの」
「紫陽兄を待ってたの。この春にできた、私の後輩を紹介したくて」
夕暮れにはまだ早い黄色い光を背に、紫陽兄は軽く微笑みながら私を見ていた。さっきのからかいを含んだ言葉だって、凄く優しい。そんな紫陽兄が私の言葉に、訝しそうに佳月君を見た。視線を受けてひくりと佳月君の身体が動く。藍姉と達とは違うから、そこまで相性は悪くない……はず。
「紹介って…………そこの?」
「そうだよ、御影佳月君」
口がぽかりと空いていた。初めて会う人にはそうだろう。何度も言っているけど、紫陽兄はとっても綺麗だ。大きくて二重瞼。でも目元が母さんに似ていて涼しげだから父さんほど童顔という印象を受けない。つんとした鼻に薄い唇。身体付きもがっしりしてないし、細身だから女装しても違和感なんて無いと思う。
「え、あ…………み、御影佳月です。梶野先輩にはいつもお世話になっています」
警戒心なんだろうな、このつっかえた言い方って。まあ、あの藍姉と蒼兄に会ったばかりだし、紫陽兄も危ないかもって思っちゃったんだろう。さっき凄くたじたじだったもん。慎重になる気持ちが感じられて、なんだか強く生きてと言いそうになってしまった。
「佳月君、大丈夫だから。紫陽兄は藍姉達みたいにはならないから」
あの双子のテンションと私と紫陽兄のテンションは対極にあるって言ってもいいと思う。基本的に私達はテンションが低い方だし、佳月もそうだと思う。クラスの中心になって騒ぐタイプじゃない。
「ふうん、黒華に害が無ければいいけどね。僕は梶野紫陽。黒華の兄で高一」
「初めまして……あの、貴方は去年の卒業生なんですよね」
車の排気ガス混じりのぬるい風。私にまとわりついて動かない。春の匂いはあまりしない夕暮れ時の長い影が佳月君にかかっていた。
「それがどうしたの? 僕は去年の卒業生で、コマンダーの最高幹部だったけど」
「ご兄妹で青蘭のツートップだったと聞いたので、本人ならそうだろうと。同じクラスの冬木茜に、ちらっと話を聞いていたので」
「茜が?」
陽の光が紫陽兄の顔を照らしていた。長く伸びた影の足。赤く染まりつつある空は広がっていた。
「ふうん……で? 何か用。最高幹部にでもなるつもりがあって僕のところまで来てるの?」
父さんに似た大きな目がつい、と細まった。目の細め方が母さんに似ている。この声色は、誰かを試す時のもの。
「……いえ、コマンダーに入れるとは思っていません。そんなつもりで言ってないです」
「何それ、最高幹部の話出てきたの君なのに?」
言葉が一言でも出たら、少し言い訳をするように佳月君は話す。この話し方も、いつかは変わって欲しい。身内じゃない、ただの他人の身勝手な願いだけど、私にはこの話し方が自分を殺した結果のように感じてしまって。
「そんなこと言うんだったらね、僕も黒華も人前に立つの好きじゃない。拒否権無しでコマンダー入れられて最高幹部までやった。求められたからやったよ、元々やろうと思ってたことでもないし。君がツートップのどっちかに入りたいんだったら、秘訣なんて僕は知らない。自分で考えるんだね、まずはその髪どうにかするとかさ」
「待って、紫陽兄」
吐き捨てたみたいだった。佳月君を見る紫陽兄の目はとても強い力を持っていた。
紫陽兄の言っていることは正しいけど、佳月君の本心に関しては違う。佳月君はコマンダーに入る気がない。でも私は佳月君みたいな人がコマンダーに入って欲しい。強要しないのは約束だから、口にしたことは無い。それを望んでいるのが私だけではないことも言っていない。今回はそれが裏目に出ているようだ。
少し不満げな顔をした紫陽兄に少し笑いかけてから佳月君に向き直る。前髪で隠された表情と美しい顔。それを一般に晒すことは彼の中ではとても大きいこと。自分のせいで誰かが傷付くのを見たくない、優しい男の子。彼のこの思いが真っ直ぐに届かないのがもどかしい。
「御影夫妻と約束したことがあるって言ったよね。あれね本当は二つなの。佳月君を私の保護下に置くことと、出来たらコマンダーに入れること。コマンダーに関しては佳月君の意思が一番大事だから今まで言わなかった。今まで教えてた仕事は、私の直属の後輩としての仕事。……ごめん白状する。私も後を継いでくれる人が居るといいなっていうのは思ってた。もし、佳月君のトラウマが無くなったら、コマンダーに入ってもらって……来年度の最高幹部補佐になってくらたらいいなって。勝手にそんなこと思ってて、ごめんね。でも、少しでも考えて欲しいの」
コマンダーに入る選択肢を彼が選んだら。一緒に仕事が出来たら。近くで少しでもトラウマを癒すことが出来たら。それ以上に成果のある仕事は無い。
「………………」
「トラウマとか聞いてる分に、その髪も訳ありなんでしょ。僕は事情を知ってる訳じゃないし、よっぽどのことが無ければ首突っ込まないようにする。黒華に害が無い限り僕は何も言わない……そうだ。君さ、白空のことどう思ってる」
「白空って……冬木先輩ですか? あの、言ってもいいか分からないですけどそんなに好感持ってないです」
「よし合格。僕と結託しないか?」
「紫陽兄何言ってるの?」
何故いきなり白空の名前が出てくるんだろう。紫陽兄、どんなに白空が嫌いだからと言ってそれは……いいんだろうか。というか結託して何する気なの。
「ちょっと黒華待っててくれる? 後輩君に悪いことしようっていうつもりじゃない、僕白空よりも優しいから」
「え、佳月君に優しくしてくれるってこと……?」
紫陽兄は優しく接する人をめちゃくちゃ選ぶ。たとえ初対面だとしても簡単には優しいなんて言わない。結託するとか優しいとか、もう驚きばっかりなんだけど。とか思ってたら何かこそこそ話し出したし。……紫陽兄メモに何書いてるんだろう。あ、佳月君に渡した。佳月君頭下げてる。……握手した! え、マジか、あの二人いきなり仲良くなったんだけど、何で?




