Ⅰ
連載するつもりでいます。お付き合いいただけたら嬉しいです。
辺りは春の匂いに満ちていた。麗らかで穏やかな春の朝。肌寒さもなく、過ごしやすい。
コンクリートの間から生えたタンポポの花、少ない土から育った菫の紫、散り始める桃の花びら、どこからか届く、桜の香―――。新しい一年に似つかわしい、美しい春の日。期待でふくらんできた蕾が、一斉にほころびる季節だ。柄にもなく浮かれている私は、通学路をいつもより軽い足取りで進んでいた。あともう少しでも嬉しいことがあったら、スキップしながら学校に向かっていたかもしれない。春の到来に、いつも以上に機嫌が良かった。
今日は、青蘭学校中等部の入学式。私はもう三年生になった。これから迎える、新入生ヘの期待を胸に、また学校が始まる。
春休み明け、まだ生活が戻ってきていない人達には敵の眠気が誘われる朝。着々と集まる生徒を、三階の教室から見下ろしていた。入学式の準備はすでに整っている。私も式場も、ね。本当は、心を落ち着けないといけないのに、私は、ある事を思い出していた。
中二の二月の終わり、凍てつくような冷気が落ち着きだした頃、青蘭にある保護者がやって来た。それは、御影夫妻。私は全く知らなかったから、いきなり呼び出されて驚いた。え? こういうのって普通、トップの人間がやるものなんじゃ……? 話を聞くと、もう既に来年度には青蘭のトップになる、私の従兄弟の冬木白空と電話で相談内容を話した。御夫妻は、息子さんと白空は相性が悪いだろうと、白空を補佐する立場の私との面会を所望していた、ということらしい。
そんな事私は何も知らなかった。しなくていいと言う御夫妻にひたすら頭を下げ、内心で白空に罵声を浴びせてやった。私の想像での白空は悪びれずに、「あれ、俺言ってなかったか? まー、大丈夫だったろ?」なんて笑いながら抜かした。野郎、ふざけるなよ……。
御夫妻には申し訳無かったけど、事情が分からないうちは何も出来ないので、お茶を出してから白空に話したことをもう一度聞かせてもらった。
「うちの息子のことなんです。私達家族は、来年度からこの学校に通うことになるんですが、何分小学校でトラブルがありまして。息子にはそれがトラウマになってしまっているんです」
御影結希さんは、お茶を一口飲んだ。器の中の水面が静かに揺れていた。
「これを見てください」
上品な革の、シンプルなバックから取り出された物は、一枚の写真だった。
「二年前の息子の写真です。……これを見て、どう思いましたか? 」
男子にしては長めの、癖のある髪。幼さがありながらも、とても綺麗に整った顔立ちの少年が笑っている。紫陽兄の美しさにはまだ及ばなくても、なかなか居ない美少年と言っていいだろう。
「お綺麗な息子さんだと思いました。目鼻立ちはお母さん似なんですね。でも、全体の雰囲気はお父さんによく似ています」
何しろ、御影夫妻がお美しい。そのDNAを受け継ぐ子供が美しくない訳があろうか。
「あなたは息子を見て、私の物にしたい、ということは思いませんか?」
「いえ、思いません。物、なんて言えるほど偉い人間ではないので。むしろ、息子さんの方がよほど出来た人間かと」
長年一緒に居る人達は、所作が似てくると言われる通り。目を丸くするのがそっくりだった。
「……あなたなら、大丈夫かもしれない」
「え? 」
「お願いがあるんです」
真剣な二つの双眸が私を見据える。この光に、応えなければならない。背筋をしゃんと伸ばさなくては。私のような、一介の学生に、こんなに真剣に話してくれる人に、不真面目な態度は見せられない。
「何でしょうか」
「私達の息子を、あなたの保護下に置いて欲しいんです」
「え……それは、先ほど仰っていた彼のトラウマと、関係があるのですね? 」
御影夫妻のお願いは、とてもシンプルだった。少し拍子抜けしてしまったが、重々しく頷く御影夫妻の前でそんな事を言えるような人間ではない。美しい二つの顔は、本当に真剣だった。私に誠意を見せてくれる大人に、どうして断れよう。
「分かりました。青蘭学校中等部コマンダー最高幹部補佐、梶野黒華が承ります」
強張っていた顔がふ、とほどけた。思い出したように口をつけたお茶は、すっかり冷めてしまっていた。空になった器が、三つ並んだ。
「青蘭学校中等部コマンダー、最高幹部補佐……」
新しいこの環境で、やっていけるだろうか。学校も、私も、私の保護下に入る彼も―――。でも、上手くやるために足掻くだけだ。やることは決まっている。だから、絶対にやりとげる。この一年は、私だけの一年にはならないだろうから。前を向け、私。