口づけの意味
「でもさ、男が出てくると百合厨がうるさいよ?」
作画担当の九重珠姫がそう言うと、原作担当の綾辻涼子が反論する。
「あんたが切ない系がやりたいって言うから」
二人は共同で漫画同人誌を執筆していた。
放課後の図書準備室では、打ち合わせという静かな激論が交わされていた。
「だってこれだと二人が結ばれないじゃない」
「結ばれるのだけが百合じゃないでしょ」
「百合警察がうるさいよ」
「そうは言っても時間もないんだし、プロットも書いてあるんだから、今回は片思い百合で」
「二人共、ちょっとうるさい」
カウンターで番をしていた三崎めぐるが、一学年上の二人に向かって容赦なく注意した。準備室は図書カウンターにつながっているため、二人の議論は丸聞こえだったのだ。
「すまん、三崎」
綾辻はクールに、片手を上げて謝った。彼女もいちおう図書委員である。
「ちょっとくらい良いじゃないよ。利用者少ないんだし」
「珠姫はいい加減、美術部戻れよ」
「だって打ち合わせが終わってないじゃない」
「そう言って部活をサボりたいだけでしょ」
準備室での打ち合わせはある意味で口実だった。
「めぐるはどう思う?」
九重は唐突に後輩に尋ねた。
「どうって、なに?」
「これ」
九重はそう言って、打ち合わせ用に綾辻が書いてきたプロットのコピーを手渡した。
三崎はさっと目を通すと、
「この中から選ぶの?」
大きく3つの案が出されていて、基本的には百合呼ばれるカテゴリーだった。
「ねえ、珠姫先輩」
「なんだ」
「百合ってなに?」
「お前それは……一言で説明するのは難しい。とても哲学的なもので下手をすると争いが起きかねない……」
「そんなわけあるか」
綾辻が後ろから突っ込む。
「百合っていうのは、女性同士のこう……恋とか愛とか……うちの学校でよくあるやつだよ」
九重はなぜだか恥ずかしそうに説明した。
説明は概ね合っていたので、綾辻はそのまま見守っていた。たしかに三人が通う高校は女子の数が過剰なので、恋人かどうかはさておき、女性同士のカップルは比較的多いかもしれない。そういった話はすぐに噂になるのだが、三崎は疎いようだ。
「ふーん。じゃあさ、涼子先輩と珠姫先輩は百合?」
三崎の唐突な質問に九重は、
「それは……難しいな……」
「難しくねえよ。そこ否定しなかったらおかしな空気になるでしょうが」
綾辻はあくまで冷静に突っ込む。三崎は気にせずにコピーを眺めながら、
「これ全部恋愛モノなの」
「そう」九重が答えた。「ああ見えて涼子は恋愛脳だから、ラブストーリーとか書かせたら、いい話を書く人だ」
「恋愛脳とか言うんじゃあない。それに、あんたが動きのある作画が面倒だって言うから……」
「怒るなよ。冗談じゃないか」
「怒るだろ」
「ごめんよ。飴ちゃんあげるから許して。ね」
九重はジャンパースカートのポケットからイチゴ味のキャンディを取り出すと、綾辻に手渡した。
「恋愛モノってさ、デートとかするんでしょ?」
「そうだね」
「恋人どうしってどういうことするの?」
三崎はあどけない顔で尋ねる。
「そうだな……」
九重はなにかを思いついたのか、おもむろに立ち上がり、綾辻の顎を引き寄せると、流れるような自然な動作で彼女の唇を塞いだ。
「!!」
綾辻は表情ひとつ変えなかったが、三崎はあまりのことに目を見開き、言葉を失っていた。
数秒前とは打って変わって、静寂が図書館を満たす。
荒くなった二人の鼻息が聞こえた。次いで、汁物をすするような、濁って湿り気を帯びた音がした。
二人の唇の隙間をピンク色のものが蠢いている様子が三崎の位置からでも確認できた。彼女たちの唇は、お互いの唾液で濡れそぼち、薄暗い図書準備室の蛍光灯の光をぬらぬらと反射していた。
綾辻と九重はそのまま一分近くも唇を合わせていた。
「へ、返却された本、棚に戻してくるね」
三崎は上ずった声を出して、逃げるようにその場を立ち去った。
彼女がいなくなるのを確認すると、九重は名残惜しむようにゆっくりと綾辻から唇を離した。粘性をもった唾液の糸が唇の間を橋のように繋いでいた。
間髪入れずに、綾辻がもっていた新書サイズの文庫本を九重の頭に振り下ろした。
「あ痛っ!なにすんだよ」
「それはこっちのセリフだ」
「背表紙は痛いよ。やりすぎだよ」
「ほう……舌を入れるのはやり過ぎではない、とでも言いたいのか?」
「スキンシップじゃないか」
「お前のスキンシップは粘膜経由なのか?」
「だってめぐるが恋人ってどういうことするの?って聞くから……」
「聞くから?」
「つい勢いで……」
「つい勢いで?」
「舌を入れました」
「ばかやろう」
綾辻は再び新書を振り下ろした。今度は手加減して表表紙の面だった。小気味良い音がした。
「ここ学校だぞ。誰に見られるかわからないじゃないか」
「既にめぐるに見られたけど」
「お ま え が 見 せ た ん だ ろ」と今度は本の角で九重の頭をつつく。
「じゃあ誰も見ていなければ良いんだね?」
「そういうことを言ってるんじゃあない。冗談にあたしを巻き込むなって言ってんの」
噂好きの女生徒が多いこの高校では、図書準備室で二人がキスをしていたというニュースは瞬く間に広まるだろう。その結果、本人たちの意志や意向は関与せず「お付き合いをしている二人」ということになってしまうだロウ。
「じゃあさ……本気なら、良いの?」
九重はまっすぐに綾辻を見つめた。
その視線を受け止めた綾辻は、おや、と思った。いつもの冗談くささが見受けられないのだ。
「本気って、なんだよ」
「涼子とキスしたい、ってことなら、キスしてもいいってことだよね?」
本気なのか冗談なのか、綾辻には掴めなかった。
こういう状態が一番反応に困るのだ。
「……なにを言っとるんだ」
綾辻は眉間にしわを寄せ、困惑の表情を作り、九重を見た。
「わたし、涼子とのキスは本気だよ。舌を絡めたとき、頭の奥がじん、て痺れて……とても気持ち良かったよ」
「……」
「涼子は?」
「……なにが」
「気持ちよくなかった?」
「いや……それはまあ……」
涼子は否定しなかった。実際、キスと九重の舌の感触のせいで、体の奥が少し熱くなっていた。
「涼子」
九重は両手を広げて綾辻を抱こうとする。
「なんだよ」
「もう一回、しよ。キス」
「……別にいいよ……」
「いいの?」
「否定形の『別にいいよ』だよ」
「なんだ」九重は大袈裟に肩を落とした。「ちょっと、がっかりした」
「がっかりって……あんた、そんなにあたしのこと好きなわけ?」
綾辻はもう一度まっすぐに九重を見つめた。
「ああ……好きさ。大好きだ!」
九重も綾辻をまっすぐに見つめ返した。
「そう……」綾辻は照れたように頬をかいた。「嬉しいけど、あんた、顔赤くするくらい恥ずかしいなら無理にやらんでも」
図星をつかれて九重はぺろっと舌を出した。
「でも涼子のこと好きなのは本当だよ。キスして気持ち良かったのも本当」
「わかったわかった」
真正面からそんなことを言われて少し胸が鳴ったが、それを努めて無視し、綾辻は軽くあしらうように手を振った。
これ以上付き合うと、九重が何を言い出すのかわからなかったからだ。
「もうあと三〇分で下校時間だから、それまでに打ち合わせ、詰められるところを詰めておこうよ」
「終わるかな?」
「終わらせるように努力」
「終わる気配がない」
「誰のせいだ、このやろう」
「わたしのせいです」九重はペコリと頭を下げる。
「よろしい」綾辻は腕を組んで、椅子の背にもたれる。
「じゃあさ、もう今日は涼子の家行って、お泊りでやろうよ。明日休みなんだし。よし、そうしよう」
「勝手に決めるなよ。今日ちょっと、うちは親戚来るからダメなんだよ」
「じゃあどうする?ホテル行く?」
「なんでだよ。珠姫の家でいいだろ」
「しょうがないなあ。わかったよ。うちでいいよ。その代わり……」
「その代わり?」
「お泊りして」
「いや、うち親戚来るから……」
「涼子は親戚とわたしとどっちが大事なの?寧ろどっちが大事じゃないの?」
「あんたはあたしのなんなんだよ」
「この熱くなった心と体をどうしてくれるの?」
「それ打ち合わせの話だよね?」
「あ、あたりまえじゃない」
「なんで視線そらした!?」
結局、綾辻は折れて、一度帰宅して親戚に挨拶した後、九重の家に行くということになった。
「でも変なことしてきたら即帰るからね」
「変なこと?」九重はわざとらしくきょとんとすると、綾辻に尋ねた。「変なことってなに?」
「そりゃあ……口に出して言えないようなことだよ」
綾辻は口篭った。九重の策にはまったのが少し悔しかった。
そんな彼女の耳元に、九重はわざと吐息混ざりで囁きかける。
「じゃあ、キスはOKだね」
(了)