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9/12

李厳の失脚と蜀中の・・・な面々

李厳の失脚と、

その他、蜀中の・・・な人士達について。

【李厳の失脚】


231年の諸葛孔明の第四次北伐は、祁山での戦勝など、

司馬懿率いる魏軍に対し優勢に戦いを進めていたものの、

しかし最後には結局、

何れの史書の記載にも見られるが如くに“糧盡(尽)”と、

補給切れでの撤退となってしまった。


しかしその兵糧切れに関しても、

実は後世にも非常に有名な、

李厳による、輸送業務失敗のミスから引き起こされた撤退だった。


李厳は230年、蜀が魏の曹真・司馬懿らによる多方面侵攻を受けた際、

諸葛亮より漢中にまで呼び出され、中都護署府事として任命され、

孔明が北伐で遠征中、その間留守中、漢中での業務の一切を

預かることとなった。

因みにそのときに李平と改名。


それまでも李厳は北伐のために諸葛亮が漢中に入り、

擁・涼二州方面の魏軍との戦いを続けていた間、

江州に入って彼は荊州方面の魏軍の扱いを担当していた。


だから李厳は諸葛亮の重要なパートナーであるとともに、

諸葛亮に次ぐ実力で政権の№2という位置にまで付けていたのだった。


そして231年の第四次北伐の際は、李厳は孔明から漢中の留守と同ときにまた、

主督運事として、木牛の使用でも有名な、

遠征軍への軍糧輸送業務を任されることとなったのだが、

ところがこのときに、


※(『三国志 李厳伝』)

「秋夏之際、值天霖雨、運糧不繼。」と、


夏から秋の長雨のために輸送が続かなくなってしまったのだという。


で、

李厳はその事情をそのまま、前線の孔明に対し、

参軍の狐忠と督軍の成藩を使者に遣わして、事情を話して、

孔明を呼び還すことにした。


が・・・、

それで孔明が北伐を切り上げて漢中へと戻ってくると、

李厳は、


※(『三国志 李厳伝』)

「軍糧饒足、何以便歸?

(軍糧は足りているのに、何で帰ってこられたのか?)」と、


驚いたフリをして、

自分の失敗を孔明に責任転嫁しようとした。


そしてまた、さらに皇帝の劉禅に対しては、

「敵を誘い出すための偽りの撤退です」などと出鱈目の主張をしたため、

怒った孔明は自分が戻ってくる前と後の、李厳の手紙を証拠として

劉禅に差し出して、

李厳の間違いや過ちを明らかにした。


すると李厳は窮して自らの非を認め、謝罪をした。

李厳はこの罪で免官となり庶民に降格の上、

梓潼郡へと配流という結果に。


ただ孔明は李厳に対して重い処罰を下したが、その子には罪を問わず、

逆に父の汚名を返上すべく、諭す手紙を送ったという。

そして李厳自身もまた、

諸葛亮ならば、いつかはまた自分を復帰させてくれると

期待していたそうなのだが、

しかし234年、孔明の死を聞くと、

これでもう自分が復職する可能性は完全になくなったと嘆き、

間もなく死去したという。

子の李豊は後に朱提太守にまでなったという。


しかしながら一つ、

ここまでで良くわからなかったのが、

李厳は孔明には「何で戻ってきたのか?」と言い、

劉禅のほうには「偽装撤退です」などと、

孔明に責任転嫁するなら劉禅にもそのまま、

“自分はちゃんと米を送っていたのに、

何で孔明が勝手に帰ってきたのかわからない“と、

そう言えばいい筈なのだが、

何故か劉禅にはまた、別の言い訳をしている。


が、

もし劉禅にも同じ言い訳をしたら、

当然だが孔明一人が悪いということになってしまう。

しかしそうではなく、

孔明自身も偽装撤退で帰って来たという理由ならば、

孔明も何の責任にも問われない。


だから李厳としてはそうすることによって誰の責任転嫁などではなく、

“こうすれば誰のせいにもならず、別に何の問題もないわけだから、

だからもう、これで済まそうじゃないか?”と、

そういう考えだったのだろう。


補強業務自体の失敗は、李厳自身が自ら罪を認めて謝罪しているように、

これはやはり、

彼の役務上の失敗だったようである。


そのままでは自分が処罰されてしまうが、

だからそれを何とか回避しようとして起こした、

一連の騒動だったように思われる。



【李厳が補給の失敗に犯したミスとは?】


しかし軍糧輸送業務の不継続が李厳自身の手落ちだったとして、

それが一体どのようなミスであったのか?


先ず李厳が漢中からの、補給業務の一切を請け負った第四次北伐において、

蜀軍では「木牛」なる発明品を開発して、

輸送量の増大と効率化を図っていた。


ただ現代一般にはこれが、「木牛流馬」として、

一緒にされてしまっているのだが、

史実では先ず第四次の北伐に開発、使用されたのだが、

「木牛」のほうで、

後の第五次の北伐遠征時に新たに追加投入されたのが、

「流馬」なる発明品で、

実は開発が別々だった。


『三国志 後主(劉禅)伝』には先ず、

孔明第四次北伐の231年(建興9年)春2月、


※(『三国志 後主(劉禅)伝』)

「九年春二月。亮復出軍、圍祁山。始以木牛、運。」とあり、


ここで初めて木牛が使用されたと明記されている。


そしてその翌年の232年(建興10年)、


※(『三国志 後主(劉禅)伝』)

「十年亮、休士勸農於黃沙。作流馬木牛畢。教兵講武。」とあり、


ここで今度は新たな試作品の「流馬」が完成を見たと思われ、


さらに後の第五次北伐の234年(建興12年)春2月、


※(『三国志 後主(劉禅)伝』)

「十二年春二月。亮、由斜谷出、始以流馬運。」と、


ここで初めて、木牛とも一緒だろうが、

そこにまた加えて、「流馬」が実地投入されたとわかる。


果たしてその「木牛」と「流馬」なる物が

一体どのような代物であったのかといえば、

一応正史、諸葛亮伝の注釈にその詳細が書かれてはいるのだが・・・、

参考までにその全文を掲載すれば、


亮集載作木牛流馬法曰「木牛者、方腹曲頭、一腳四足、頭入領中、舌著於腹。載多而行少、宜可大用、不可小使。特行者數十里、羣行者二十里也。曲者爲牛頭、雙者爲牛腳、橫者爲牛領、轉者爲牛足、覆者爲牛背、方者爲牛腹、垂者爲牛舌、曲者爲牛肋、刻者爲牛齒、立者爲牛角、細者爲牛鞅、攝者爲牛鞦軸。牛仰雙轅、人行六尺、牛行四步。載一歲糧、日行二十里、而人不大勞。流馬尺寸之數、肋長三尺五寸、廣三寸、厚二寸二分、左右同。前軸孔分墨去頭四寸、徑中二寸。前腳孔分墨二寸、去前軸孔四寸五分、廣一寸。前杠孔去前腳孔分墨二寸七分、孔長二寸、廣一寸。後軸孔去前杠分墨一尺五分、大小與前同。後腳孔分墨去後軸孔三寸五分、大小與前同。後杠孔去後腳孔分墨二寸七分、後載剋去後杠孔分墨四寸五分。前杠長一尺八寸、廣二寸、厚一寸五分。後杠與等版方囊二枚、厚八分、長二尺七寸、高一尺六寸五分、廣一尺六寸、每枚受米二斛三斗。從上杠孔去肋下七寸、前後同。上杠孔去下杠孔分墨一尺三寸、孔長一寸五分、廣七分、八孔同。前後四腳、廣二寸、厚一寸五分。形制如象、靬長四寸、徑面四寸三分。孔徑中三腳杠、長二尺一寸、廣一寸五分、厚一寸四分、同杠耳。」


・・・と、

ざっと以上のような物になるらしいのだが、

ここまで細かく説明されても、全然わけがわからない。(笑)


しかし、

「木牛」に対して「流馬」というからには、

何か水運に関わるような物のイメージだ。


で、

『李厳伝』では、


※(『三国志 李厳伝』)

「九年春,亮軍祁山,平催督運事。秋夏之際、值天霖雨、運糧不繼。

平、遣參軍狐忠、督軍成藩、喻指呼亮來還。亮承以退軍。

(九年(231年)春、諸葛亮は軍を率いて祁山に出た。

李厳は輸送に関わる事を催督したが、

夏から秋にかけての際、長雨に遭って、軍糧の輸送が続かなくなった。

李厳は、参軍の狐忠と、督軍の成藩を派遣し、

諸葛亮に還って来るように説明をさせた。

諸葛亮はこれを承知して軍を撤退させた。)」だが、


『華陽国志』の方には、


※(『華陽国志』)

「盛夏雨水。平恐漕運{元豐與廖本作「漕運」。他各本倒作「運漕」。}不給,

書白亮宜振旅。夏六月,亮承平指引退。

(盛夏の雨水で、李平<厳>は漕運が給せなくなるのを恐れ、

諸葛亮に軍を戻すように建白し、

夏六月、諸葛亮は李平<厳>の指図に従い、引き下がった。)」とあり、


ここに“漕運”という文字が文に見える。

“漕運”とは水上輸送のことだ。

となると李厳は川を利用した水上輸送を行っていたのか?


・・・いや、それではおかしい。

水上輸送を行っていたのなら、

別に盛夏の大増水も問題ないはずだ。


北伐で蜀軍が利用するルートの道は、“蜀の桟道”の存在で非常に有名な道だが、

桟道とは、川沿いの谷の急斜面を彫り抜いて作った道なので、

この道はもし川が増水すれば、水中に没して使えなくってしまう。


それで実際にもし盛夏の増水で、

蜀の桟道が利用できなくなってしまったのであれば、

今度は船を使って補給物資を運ぶしかない。


だから詰まり、

李厳は道が増水で沈んでしまったために、

今度は船で軍糧を運ばねばならなかったのだが、

その船を用意していなかったということなのではないか。


それまでは普通に蜀の桟道から陸運で米を送っていた。

ところが盛夏の増水でその道が水没。

しかし李厳はまさか、そんなときのための輸送船の用意を怠っていた。

それで「平恐漕運不給」、

“船”での輸送ができないと・・・。


しかし漢水の川は非常に良く氾濫を起こす。

かつて樊城の戦いで、

樊城の曹仁を救援に来た于禁・龐徳らの七軍が漢水の氾濫のために水没し、

230年8月に行われた、魏の曹真・司馬懿らによる漢中侵攻作戦も、

30日も続いた秋の長雨のために進軍を阻まれ、

撤退へと追い込まれた。

だからそんなことはわかりきったことだったのに、

李厳はその船の用意をしていなかった。


しかしこれは多分、

231年2月から開始された孔明第四次北伐は、撤退が8月で、

ほぼ半年。

それまで3回の北伐は、1回の遠征が一月前後と非常に短く、

おそらく李厳はまさか、

4回目の遠征がそこまで長期化するなど、

考えてもいなかったのだろう。


ただ、ではそれで、

李厳は自分の責任ではないと、言い逃れできるのかいえば、

そうではなかったため、

何とかごまかすしかなかったのだろう。


そしてそのことでまた、

第四次の北伐で「木牛」だったものが、

第五次北伐の際には、今度は新たに水上輸送までを完璧に考慮した、

「流馬」が一緒に開発されることとなったのではないか。

第五次北伐も春の2月から秋の8月まで、

夏から秋に掛けての雨季を挟んだ7ヶ月間という、

長期の遠征だった。


これまで李厳は出世街道まっしぐらで、実質の政権№2。

それがせっかくここまできながら・・・と、

李厳はここで、些細のミスから自分のキャリアに傷が付くことを

嫌ったのに違いない。

もしそのまま素直に謝っていれば、

そこまで重い処分でもなかったのではないかと思われるのだが、

ただ、単なるミスならば未だしも情状酌量の余地はあるが、

しかし嘘となった場合、

これは孔明も軍規上、ただ事では済ませなくなってしまう。

結局李厳は自分のヤブヘビで、

トップから一気に庶民にまで身を窶す皮肉な結末となってしまった。



【蜀中のその他、・・・な面々】


だが孔明にとってもまた、これは痛い。

李厳は実際それまでは有能な彼の片腕として、

大変な業務を支えてくれていたわけで、

そのパートナーの失脚とともに、

それと今一つ、

第四次の北伐遠征では、


※(『華陽国志』)

「時宣王等糧亦盡,(時に宣王(司馬懿)等の糧も亦た尽き、)」などと、


実は意外に魏軍のほうでも、兵糧が枯渇してピーピーだったのだ。


だからもし今少しの間、蜀軍が祁山で粘っていたのなら・・・?

後は先に糧食が尽きて、撤退をしていく魏軍を追撃していけば、

それこそ長安まで一気に落とせていたかもしれない戦いだったのだ。


ただ実は李厳の人間性については常々、衛尉の陳震などが諸葛亮に対し、

「李厳は腹に棘があって故郷の人も近付かない」などと、

忠告をしていたという。

そのためこの辺りの孔明の人材起用に関しては、

生前の劉備が「口先だけから決して重用してはならない」と言っていた

馬謖の任用などとともに、

孔明の人を見る目のなさだと批判されたりもするのだが、

しかし馬謖にしても李厳にしても、二人とも非常に

優秀な人材には違いなかった。


元より小国で、ただでさえ人材不足の蜀にあって、

強大な敵に少しでも立ち向かっていくためには、

こうした希少な優れた人士達は、否が応でも用いざるをえない。

逆を言えば、劉備などにはその“少しでも~”といった姿勢はなかった。

だからこれは別に、劉備が孔明よりも人を見る目があったということではない。

劉備は極端に言えば人物を選り好みして、

そして自分の気に入らない人物を避けて使わない以上、

できないことも多かった。


たとえば劉備が益州の劉璋を攻めて成都を包囲した際、

そのとき劉璋の下には許靖という、

当時、世間でも非常に高い名声を誇っていた人物が、

益州内の太守として招かれていたのだが、

しかしこの許靖は、成都が劉備に包囲されると、

世話になった劉璋を見捨てて一人で逃亡を図った。


だがそれは失敗に終わって、

許靖はまた元の成都城内へと戻されてしまうのだが、

戦後、劉備がその事実を知り、

この名士を自分で用いようとはしなかった。


劉備とは特にこうした、高い地位にありながら名前だけといった、

この手の卑怯な振る舞いを激しく嫌う人だった。


けれどもそれを法正から諌められる。

法正は、「許靖の場合、彼の人となりに関係なく、

その高名が天下に聞こえ渡っているため、

だからもしここで我々が許靖を任用しないとなれば、

世間の多くの人は、公(劉備)が君子を軽んじていると思い、

人が集まらなくなってしまうでしょう」といった意味合いのことを言って

劉備を諭し、

それで劉備は思いなおして許靖を左将軍長史として任命するのだが、

ただ劉備にとって法正は珍しく、

相手からの意見を良く聞き入れるという家臣だったので、

だからこれも、むしろその珍しい一例のほうだったろう。


だから他では孔明の諫止も聞かず、

そのまま怒って処刑してしまったケースもある。


あるいは劉巴などにしても、

孔明が勧めなければ劉備との接点などなかった。

劉巴は劉備を激しく嫌って逃げ回っていた。


龐統にしたところでそうだ。

“こんなヤツ全然使えない”と劉備自身が一度罷免をしてしまっている。

その後、魯粛や孔明の取り成しで態度を改めるものの、

とても劉備だけでは、帝国を興せるような勢力自体、

作ることはできなかったろう。


そこはやはり孔明ありきで、

劉備は自分自身の理念やポリシーを優先に生きていた人だったが、

孔明は初めから天下制覇を目標に定めて行動をしていた。

それも一弱小地方軍閥のスタート・ラインから。

その最低ラインから天下統一にまで持っていくためには、

一体、何が必要となってくるのか?


そのために必要なことを淡々とこなして潰していくだけ。

それにはどんな些細な才能も見逃さない。


だから彼は好き嫌いをしない。


後の第五次の北伐の際、孔明は軍中で、

罰棒20以上といった些細な刑罰の審理にまで、自らあたっていたというが、

要はそこまで細かく、そして広い範囲に渡って

人をつぶさに見ていたということだ。

呉の朱桓などは一万人いた自分の私兵達の

彼らと彼らの家族の顔と名前を全て覚えていたというが、

孔明もまた、彼は宰相という国家の最も高い地位にありながら、

彼も朱桓のように末端の一兵卒に至るまで、

彼らの家族構成や、また彼らがどんな生活をしていのるかといったことを

全て把握し、

だけでなく彼らの面倒を見ていくか、導いていくかといったことまで

事細かく気を配っていたことだろう。


孔明にとってはどんな小さな力も、国にとってのプラスになるのであれば

どんどんウェルカムで、

それがまして李厳や馬謖ほどの才能となれば、

否やということはない。

李厳は武官として賊乱の鎮圧等に多大な活躍を示すだけでなく、

文官としても諸葛亮・法正・劉巴・伊籍らと共に蜀科の制定に携わるなど、

とにかくマルチな方面に多彩な才能を発揮している。

馬謖も文武に渡って優秀。


ただ反面、“腹に棘が・・・”、“口先だけで・・・”と、

決してパーフェクトではなく、

同時に大きな欠点も抱え持っているような人達で、

その点で、

孔明は確かに、逆に彼らから足を引っ張られるということも多かった。

けれども彼らを使わなければ、

端から北伐のような大事業も起こせないのだから、

だから彼らを使ったから北伐が失敗したというようなことはない。


だから孔明は指導者としては、

例えば日本のプロ野球で言えば、三原脩、野村克也、仰木彬といった、

とにかく限られた今あるだけの現有戦力で、

細かい欠点は追求せず、

それぞれが持っている長所を最大限に伸ばして活用していくような、

そんな指導者だったと言えるだろう。


これが逆に巨人のような、

放っておいてもひっきりなしに、次から次へと大物スター選手が

続々と補充されてくるようなチームなら、

川上哲治監督みたく、

超スパルタで、個人の欠点から細かく潰していって、

できなければ容赦なくどんどんと選手を

入れ替えていくといったようなこともできるが、

碌に人も集まらない弱小のチームで、

“お前はこれがダメ、お前はあれがダメ”だなんてことをいって

切り捨てていこうものなら、

その内、誰もいなくなってしまうだろう。


むしろそこまで良く持っていったなというのが、

孔明の宰相としての真価であり、

とにかく蜀中の人材というのは李厳や馬謖に限らず、

才能はあっても性格に一癖も二癖もあるといったような、

性矯激の人物達でひしめき合っている状態で、

もし孔明でもなければ、

とてもそんな彼らにある一定の方向性を与えて、

大きな命題に向かって一つにまとめ上げていくといったことさえ困難だったろう。


みんなバラバラ。


バラバラでしかもそれだけじゃない。


それぞれ己のみを高しと自負する者達が、

互いにギスギスと攻撃し、潰し合いをしているような、

そんな状態でさえあった。


それはもう、

“この世の中に自分より優れた者など存在しない”という程の、

異常なまでに肥大化した自尊心を持つ、エゴイスト達・・・。

特に実際に仕事のできる、優秀な人士達ほど、

その傾向は甚だしかった。


李厳もそんな中の一人だったが、

その他、尋常ならざる自尊心と他者への排撃精神を持った、

蜀中の人物達を列挙すれば、

楊儀、廖立、彭羕、来敏、孟光、許慈、胡潜と、

この辺りはもう・・・。

そもそも使うにしたって、こんな人物達しかいないのだから。


そして放っておけば勝手に自分達同士で潰し合いを始めると・・。


およそ普通の人間が孔明と同じ宰相の立場に立たされたしても、

とても職務を全うできないだろう。


それくらい酷い。


李厳や馬謖も結局、終わりが良くなかったが、

他の者達も同じように良くない。


先ずは楊儀だが、

彼は孔明亡き後、自分が孔明の後継者として丞相になれるものと

思っていたのだが、

それが案に相違して実際には実権の無い中軍師とされたことに腹を立て、

そして「こんなことなら丞相が亡くなったときに

魏に寝返っていれば・・・」と、

ポロッと漏らしたところを告げ口されて庶民に降格。

そのまま漢嘉郡へと流罪となった。

この辺りは李厳ともまったく同じだが、

しかし楊儀はその配流先でも他人の誹謗や過激な発言を繰り返したため、

ついに身柄を朝廷から直接拘束され、

そこで自殺を遂げた。


廖立も常日頃、自身の才能・名声は孔明に次ぐと自負していたが、

それが李厳らの下に置かれ閑職に回されたと不遇をかこち、

そしてあるときとうとうその不満が大爆発。

劉備や関羽はおろか、蒋琬、李邵、向朗、郭攸之、王連と、

立て続けに罵詈雑言の嵐を吐きまくって相手への誹謗中傷を繰り返し、

そしてその発言が取り上げられて庶人に落とされた上、

汶山郡に流罪。

やはり李厳らと同じ運命だが、

しかし彼もまたその李厳と同様、諸葛亮の死に際しては、

もう自分はこのままだなどと語って嘆いたという。


彭羕も有能ではあったが、

傲慢な性格が問題視されて次第に遠ざけられるようになり、

そしてあるとき、ついに劉備から江陽太守に左遷。

しかしその左遷をきっかけに、

「あの老革おいぼれでは耄碌して話にならない!」と、

何と馬超を誘って主君である劉備への謀反を画策。

結局、馬超が上奏して事がばれ、彭羕は処刑。


来敏と孟光の二人は書物に詳しい博識の学者だったが、

しかし言葉に節度がなく、常軌を逸した振る舞いなどにより

何度も免職や格下げを繰り返し、

寿命こそ辛うじて全うしたものの、二人とも晩年には失脚して

罷免されたままだった。


この辺りの事情は許慈の伝中における、有名な孫盛の注釈にも、

「孫盛曰。蜀少人士、故慈、潛等並見載述。」と、

ハッキリ指摘されているように、

やはり蜀は小国で人材に乏しいため、

許慈や胡潜のような者達までが列伝に拾い上げられ、

数合わせとして載述されているといったような内情だった。


まったく孔明も大変だが、

しかし現実問題、狭い蜀中にあって、

他に代わりとなれる人材も満足に存在しないといった状況では、

やはり彼らの力に頼っていかざるをえないだろう。


孔明自身、彼らの欠点に付いては人から言われずとも十分承知のことだったが、

とにかくもう、何か役に立つことで何がしかプラスになってくれるのであれば、

もうそれで構わないといったスタンスで対応していたようだ。


こうした点、孔明は、

陳震から「腹に棘がある」と注意された李厳の任用に関しても、

彼は「棘であっても触れさえしなければいい」などと答えていたといい、

諸葛孔明という人はそのように、

人材の任用に際しては飽くまで人の欠点を見ず、長所や利点のみを拾って、

そこをどんどんと吸収し、伸ばしていこうとするタイプの政治家だった。


だから諸葛孔明の人事面での大きな特徴として、

彼はとにかく人を褒めちぎる。

それも中途半端にではなく、誰々が一番だとか天才だとか、

最上級の比喩で以って、

その人の長所や美点を取り上げて激賞する。


最も有名なところでは関羽からきた、

中央人事の不満に対して彼に答えた手紙の文面。


かつて劉備が劉璋を降伏させて新たに自分が益州入りした際に、

そこで新たな論功行賞が行われることとなったのだが、

そのときに、外様の将で未だ新参の黄忠や馬超が、

古参で旗本の関羽や張飛と同じ主要四将軍の任命を、

劉備から拝命するという決定がなされた。


関羽はその人事に不満を抱き、

「馬超の才が一体、誰ほどのものだというのです!」と、

怒りの手紙を劉備にではなく孔明に差し出すのだが、

すると孔明はその問いに答えて、

先ず、

「孟起、兼資文武、雄烈過人、一世之傑、黥彭之徒。當與益德並驅爭先、」と、

一旦は馬超を張飛にも並ぶ古今の英傑だと前置きして、

そしてそこからまた改めて、

それでも、

「猶未だ髯殿(関羽)の絕倫に及ばざる無し」と、

まだまだ、あなたの働きには到底誰も敵わないと絶賛をする。


するとこの孔明の手紙を受け取った関羽は、

「羽、書を省みて大いに悅び,以って賓客に示す。」と。


他にも蔣琬には、

「社稷の器(国家を担う器である)」だとか、

姜維にも、

「涼州で最高の人士」だとか、


相手を褒める言葉に出し惜しみなどはせず、

人の欠点は見ない。

どうしても限度を超えた場合は処分を検討せねばならないが、

それでもなお、再起の道は残し、決して相手を追い詰めるまではしない。


逆に長所より人の欠点を評価の基準に持っていったような場合、

世の常として、

組織内で繰り広げられるのは“内ゲバ”だ。

“あいつが、あいつが”で、

互いの潰し合いで派閥抗争が激化し、

ただでさえ弱小の蜀中でそんな事態を招いては、

とてももう、対外遠征に出ていける余裕など全然なくなってしまうだろう。


実際、楊儀、廖立、彭永、来敏、孟光、許慈、胡潜など、

彼らは皆、

彼らの仕事や能力に何ら問題があるわけではなかったが、

その代わり自分以外、その他あらゆる者達に対する排撃が止まず、

遂に罷免された者達だった。


それでも別に、自分一人で全部の仕事をこなせるのならそれでも構わないのだが、

そんなことまではとても無理なのだから、

結局、彼ら自身が自分達で思っていたほどには、

彼らが国にとって絶対不可欠の大黒柱だというわけではなかった。

まあせいぜい、数ある支柱の中の大なる存在といった程度止まりで、

その一本か、他の何本かといった選択になった場合、

逆に彼らのほうが除かれるしかなかった。

(ただしこの判断が逆になると国のほうが倒れることとなるが・・・)


ただ馬謖や李厳の任用などにしてみても、

欠点持ちがダメだというのであれば、

彼らはもう、みんな初めから使えない。

しかし彼らを使わなければ失敗もしないがその代わり、

それ以上、大きなことも何もできなくなってしまう。


それにたとえば関羽などの例にしても、

彼のようなケースなら、

褒めてもらった孔明への恩返しやお礼のため、

より頑張って自分達の業務に励んでいってくれるに違いない。

だから孔明は、彼の積極的な人材活用によって足もともすくわれる反面、

一方ではまた、

それ以上多くの様々な場面で、

彼自身が周囲大勢の者達から助けられていたはずである。

そしてそのことがまた、

孔明の死後、彼の後を引き継いだ蔣琬、費禕、董允ら他の蜀の三相達が、

孔明と同じようにしたいと願いながら、ついに誰も果たせずに終わった、

北伐遠征という難事業の実行を可能にしたのだと、いえるだろう。


諸葛孔明の仕事とは元より既述の如く、とても一筋縄ではいかない、

常識外れの問題人達ばかりを相手にしてのもので、

およそ単なる一官僚としての役目には決してとどまらぬ、

やはり古の管仲や晏嬰にも匹敵するような、

堂々たる政治家としての偉業だった。


近年では特に、陳寿の残した評などから、

諸葛孔明を演義のような軍師としてではなく、

単なる優秀な一内政家と見る向きが強いようだが、

しかしその内政面に関したところで、

実社会に於ける政治問題というのはとても、

ペーパーテストの決まった答えを知ってさえすれば、

それで全てが解決ができるといった性質の世界ではない。


しかも現代の会社風に言えば、

自分が社長だからって、社員達は満足に言うことも聞かない、

そんな会社なのだから。

あんな人間もいれば、こんな人間もいるで、

しかも放っておけば、

彼らは同じ社員同士で仇敵を見るようにいがみ合い、

そして潰し合いを始めるという。


たとえばかつて劉備が劉璋を降服させて蜀の主となった際、

そのときは法正の活躍が非常に大きかったのだが、

彼はその功績を認められて劉備から蜀郡太守・揚武将軍の地位に抜擢をされた。

しかしそうすると法正は自分の権限を利用して、

以前に受けた僅かな怨みにも必ず報復し、

自分のことをを毀傷した者達数人を欲しいままに殺害してしまったという。

それで誰かある人が孔明に、

「法正は蜀郡太守として余りに好き勝手をやり過ぎで、

将軍(孔明)は主君に言上なさって、

彼の刑罰・恩賞の権限を抑えるべきです。」と忠告をした。

すると孔明はそれに答えて、

「かつて主公(劉備)が公安におられたとき、北は曹操の強大さを畏れ、

東は孫権に気兼ねし、近くは孫夫人が変事を起こさぬかと、

いつも気に病んでおられたが、

こうした進退ままならぬときに、法(正)考直は主公(劉備)を

補佐して翻然と羽ばたかせ、

二度と他人の制約を受けないで済むようにしてくれた。

どうして法正の好きにしてはならぬと禁止できようか」と、答えたという。



※(『三国志 法正伝』)

「以正爲蜀郡太守、揚武將軍。外統都畿、內爲謀主。

一湌之德、睚眦之怨、無不報復、擅殺毀傷己者數人。

或謂諸葛亮曰「法正於蜀郡太縱橫。將軍、宜啓主公、抑其威福」

亮答曰「主公之在公安也、北畏曹公之彊、東憚孫權之逼、

近則懼孫夫人生變於肘腋之下。當斯之時、進退狼跋。

法孝直、爲之輔翼、令翻然翺翔、不可復制。

如何禁止法正使不得行其意邪」」



この辺りは非常に難しいところだろう。

法正のしたことは犯罪だが、この場合下手に彼を取り締まると、

以後は彼のような功績を挙げる人の出現を妨げることにもなってしまう。

それにたとえばまあ、いくら相手に対しての何か憤りや憤懣の感情を

募らせようと、

それで思いのまま、好きに人の顔にツバを吐き掛けるようなことをすれば、

殴り合いの喧嘩なって当然だが、

そこはやはり因果応報で、

孔明としては元より、人との接し方に関しては、より慎重であるべきだと。

それを人が始めにもっと良く考えて貰わなければといった

意味合いも持っていたことだろう。


だからこれは飽くまで孔明がどちらの側に肩入れをしようとするものではなく、

孔明としては精一杯、中立の立場を保ったということに違いない。

それが迂闊にどちらかに偏れば、

そこからまた“乱”へと発展してしまいかねない。

宰相としてはやはり、

厳正で公正無私なる態度が理想として求められる最大の条件だ。


それとこれは呉の張昭の話だが、

張昭が孫策に仕えるようになってからのこと、

その頃、張昭の下には日々、北方の士大夫達からたくさんの手紙が

送られてきていたのだが、

しかしその手紙の内容というのが、

どれも張昭本人の人物を褒め称えるものばかりだった。

張昭としては、そうした手紙のことを黙っていると、

北方の人々と密かに内通し合っているようで、

が、逆にこれを公表した場合、

そうすると丸で自慢をするような感じになり、どうにも判断に困った。

しかしそれを聞いた孫策は、

「昔、斉の桓公は、一に仲父、二にも仲父と、宰相だった管仲に全てを委ねて、

遂には覇者とまで成ったが、今私がその、人々から絶賛されて止まぬ

子布(張昭)殿の賢を用いれば、

同じ功名が得られるというわけですな」と、

笑い飛ばしたという。


※(『三国志 張昭伝』)

「昭每得北方士大夫書疏、專歸美於昭。昭、欲嘿而不宣則懼有私、

宣之則恐非宜、進退不安。

策聞之、歡笑曰「昔管仲、相齊。一則仲父、二則仲父、而桓公爲霸者宗。

今子布賢、我能用之。其功名獨不在我乎。」」


呉の国は魏と比べて豪族勢力の力が強く、また山越という異民族の

抵抗運動の強い、

いわゆる難治の地域だった。


張昭は孫権から個人的に嫌われて用いられなかったため、

彼が呉の丞相の地位に就任することはなかったが、

しかしその候補として、呉の重臣一同の間から真っ先に推されていたのは、

常にこの張昭だった。


諸葛孔明にしてもまた、

彼も蜀中に於いては李厳や楊儀、廖立といった非常にアクの強い、

傲岸な才人達からでさえ、

彼らが孔明を措いて自分達を一番に持って来るようなことはしなかった。

それくらい完璧だったのだろう。


孔明と同じ蜀の四相と称された蔣琬、費禕、董允の内で、

董允が費禕の後を次いで尚書令になった際に、

費禕の、仕事はキッチリ定時で済まし、遊びも続けるといった

余裕の仕事振りを真似してみようとしたところ、

わずか10日の内に政務が停滞し、

董允は、

「人の才能・力量とは、これ程にかけ離れているものなのか・・・」と、

絶句したというのだが、

しかし董允をしてそこまで言わしめる才の持ち主だった費禕が、

彼は蔣琬の死後、漢中に駐屯して孔明の事業を引き継ぐこととなったのだが、

しかし再び北伐遠征の開始を強く願う涼州刺史の姜維に対し、

費禕は、「丞相(諸葛亮)でさえ無理だったのに、我々ではとても無理だ」と、

許可を与えなかったという。

結局、蔣琬、費禕、董允の三相は北伐を再開することなく終わったが、

しかしこの董允と費禕、両人の言葉からも、

諸葛孔明という人が宰相として、

どこまで異次元レベルの人物であったか、

良く窺えるエピソードだ。


入りては相、出でては将として、

史実に於いても諸葛孔明とはやはり、

とにかく優秀なSupreme Commanderだったことに違いはないだろう。




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