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正統王朝のメンツと司馬懿の意地

第四次北伐 ~祁山の戦い~。

司馬懿の登場。

【年表】


226年5月、

魏の文帝・曹丕が病死。明帝・曹叡が魏の第二代皇帝に即位。


226年8月、

孫権自ら五万の軍勢で江夏郡太守の文聘を石陽城に

攻めるも20日間余りの対陣で撤退。

襄陽を攻めた左将軍の諸葛瑾も

魏の撫軍大将軍・司馬懿と右将軍・徐晃らの前に敗退。


227年春、

蜀漢丞相・諸葛亮は『出師の表』を上疏して漢中に進駐。


227年6月、

驃騎将軍の司馬懿が新たに荊州と豫州、

二州の軍事統括司令官として宛に駐屯。


228年春、

蜀に寝返ろうとした新城の孟達が司馬懿に斬られる。

同年、春、諸葛亮が第一次北伐を開始して自ら祁山に進出。

天水・南安・安定の三郡が魏から蜀へと離反。

しかし馬謖の街亭の敗戦で、蜀軍は撤退。


228年8月、

呉の鄱陽太守・周魴の偽降をきっかけに、

魏の曹休が10万の軍勢で呉領内、揚州の晥城へと侵攻。

同時に荊州方面では驃騎将軍の司馬懿と左将軍の張郃が荊州南郡江陵へ向け、

豫州方面からは豫州刺史の賈逵、前将軍の満寵、徐州東莞太守の胡質らが、

合肥南東の濡須口(東関)に向けて出兵。

しかし曹休が晥城の北東、内石亭の地で、

呉の大都督輔国将軍荊州牧の陸遜、鎮西将軍の朱然、奮威将軍の朱桓らに、

三方から包囲されて大敗。

曹休は賈逵の救援で辛うじて戦場を脱するも、

敗戦のショックから悪性の腫瘍を発し、やがて病没。


228年12月、

諸葛亮は第二次北伐遠征を開始。

散関から兵を出して陳倉を包囲するも攻めきれず、

蜀軍は兵糧切れで撤退。


229年春、

諸葛亮は第三次北伐遠征を開始。

陳式を派遣して武都・陰平二郡を攻めさせるとともに、

自身も建威に出て、二郡を平定する。


229年4月、

孫権が皇帝に即位。


230年春、

孫権は、諸葛直と衛温に命じ、兵1万を連れて海路、

夷州・亶州の調査へ向かわせる。

夷州は台湾、亶州は沖縄諸島ではないかと推察されているのだが、

しかし「労多くして益少なし」といった

陸遜や全琮の諫言通り、

一行は夷州には辿り着いたが亶州には辿り着けず、

損害を出したばかりで失敗に終わり、

帰国後、諸葛直と衛温は孫権から勅命によって

目標不達成を理由に誅殺をされた。


230年8月、

魏の大司馬・曹真が明帝に対し、蜀征伐の遠征を申し出て認められ、

曹真は長安から子午谷より蜀に攻め入り、

また荊州方面では大将軍の司馬懿が、漢水を遡って南鄭を攻撃。

しかし秋の長雨が30日続き、遠征の続行が困難となり、

明帝の勅命により魏の蜀征伐は全面撤退という結果に終わる。

洛陽に帰還した曹真は間もなく重病に陥り、231年3月に逝去。


230年、

魏の蜀遠征が失敗に終わった直後、

逆に漢中から魏延・呉懿らが羌中に向けて出陣。

陽谿の戦いで魏の郭淮・費耀を撃破。


230年冬、

孫権が合肥へと侵攻。

しかし賈逵や曹休の死後、彼らの任務を受け継ぎ、

都督揚州諸軍事・豫州刺史・征東将軍となった満寵が

孫権の偽装撤退を見破ったため、

孫権軍は敗退。


231年、

揚州刺史の王凌に呉の将・孫布が投降を申し入れる。

満寵は孫布の投降を偽装と読むが、彼の留守中に

満寵とは以前から対立関係にもあった王淩が勝手に

孫布を迎えようと督将の一人を派遣。

しかし逆に孫布の夜襲を受け、送り込んだ歩騎700人の内、

過半数の死傷者を出して失敗。


231年2月、

孫権は太常の潘濬に節を与え、

呂岱、呂拠、朱績、鍾離牧と共に5万人の軍勢を指揮させて

五溪の蛮(異民族)の討伐に向かわせる。

しかし賊軍の抵抗は頑強で潘濬軍は苦戦を強いられ、討伐は長期化。

結果、10ヶ月後の11月になって漸く反乱の鎮圧に成功。


231年3月、

曹真が病死したこの月、諸葛亮は第四次北伐遠征を開始。

魏将の賈嗣と魏平を祁山に包囲し、木牛による輸送などを行う。


魏の明帝・曹叡は「西で有事が発生した。そなたにしか任せられない」と

言って、

司馬懿を長安に駐屯させて都督雍州梁州諸軍事に任命し、

車騎将軍の張郃、後将軍の費曜、征蜀護軍の戴凌、雍州刺史の郭淮らを

統括させて蜀軍の討伐を命じた。


231年7月、

孔明はやはり兵糧切れで撤退を余儀なくされるも、

蜀軍は木門道にて追撃をして来た魏の張郃と合戦し、

張郃を射殺する。


232年、

諸葛亮は士を休め黄沙に於いて農耕を進める。

流馬・木牛を作り終える。

兵を練り、武を講じる。


232年、

呉の陸遜が廬江に侵攻。

しかし満寵が慌てず軍を整えて陽宜口にまで進出すると、

その報を聞き、呉軍は夜の内に遁走。


233年3月、

孫権は遼東太守・揚烈将軍・公孫淵の内通を信じ、

彼に九錫、その他の恩賞を届けるべく、

張弥・許晏・賀達の使者を1万の兵と共に遼東へと派遣し、

公孫越を燕王とした。

顧雍・陸遜・張昭ら重臣達は皆反対をしていたが、

結果は彼らの危惧した通りに、

公孫淵は孫権が派遣した使者を斬り、財貨も奪って魏に寝返る。

公孫越は逆にこの功績により、

魏帝・曹叡から大司馬・楽浪公に任命される。


233年、

満寵が上表し、老朽化した合肥城に代わり、

旧合肥城の北西30里の地に合肥新城を築く。

(満寵伝では233年だが、孫権の伝では230年の築城)

するとその年の内にまたも孫権自らが軍を引き連れ、

合肥新城を奪取しようと襲来。

孫権は始め20日間程の内は、

新たにできた合肥新城の位置が旧城よりも巣湖の岸辺から遠かったため、

上陸を控えていたが、

満寵は孫権が合肥新城の獲得に拘って必ず上陸してくるであろうと読み、

歩騎6千の兵を城の隠れた場所に伏せて待つと、

果たして孫権は兵と共に上陸。

満寵は伏兵で敵に奇襲を掛けて撃退。

孫権軍は斬首6百、その他の水死者を含めた損害を出す。


233年、

司馬懿は成国渠を穿ち、臨晉陂を築き、農地数千頃を灌漑して

国力を充実させた。


233年冬、

諸葛亮は諸軍を使って米を斜谷口に運び集め、

斜谷に邸閣(食料庫)を治める。

同年、南夷の劉冑が反乱を起こしたが、

庲降都督の馬忠が鎮圧し平定した。



《第四次北伐》


231年2月(後主伝で2月、明帝紀で3月)、

曹真の病死を切欠に諸葛孔明は第四次北伐遠征を開始。

再び祁山に出ると魏将の賈嗣と魏平を包囲。


※(『三国志 後主(劉禅)伝』)

「九年春二月,亮復出軍圍祁山,始以木牛運。魏司馬懿、張郺救祁山。

(九年(231年)春二月、諸葛亮はまた祁山に軍を出した。

始めて木牛で輸送を行う。魏の司馬懿と張郃は祁山の救援に向かった。)」


※(『三国志 明帝(曹叡)紀』)

「三月,大司馬曹真薨。諸葛亮寇天水,詔大將軍司馬宣王拒之

(三月、大司馬曹真が死去した。諸葛亮は天水を侵し、詔によって

大将軍の司馬宣王がこれを拒んだ。)」


魏の明帝・曹叡は司馬懿を都督雍州梁州諸軍事に任命して長安に駐屯させ、

張郃、費曜、戴凌、郭淮らを統括させて蜀軍の討伐を命じた。


※(『三国志 諸葛亮伝』注、「漢晋春秋」)

「漢晉春秋曰:亮圍祁山,招鮮卑軻比能,比能等至故北地石城以應亮。

於是魏大司馬曹真有疾,司馬宣王自荊州入朝,

魏明帝曰:「西方事重,非君莫可付者。」

乃使西屯長安,督張郃、費曜、戴陵、郭淮等。

(漢晋春秋曰く:諸葛亮は祁山を包囲し、鮮卑族の軻比能を招き寄せた。

軻比能らは元の北地郡の石城県にて諸葛亮に呼応した。

魏の大司馬・曹真が病気となり、司馬宣王が荊州から入朝した。

魏の明帝は言った:

“西方は重要な事態となっている。君でなければできない”と。

そして、西の長安に駐屯させて、

張郃、費曜、戴陵、郭淮らを監督させた。)」



挿絵(By みてみん)

(第四次北伐 行軍図 ①)


いよいよ司馬懿の登場。

司馬懿はそれまでは都督荊州豫州諸軍事として、宛に駐屯し

荊州方面の軍事を担当していたのだが、

曹真の死を受け、明帝・曹叡直々の選任により、

新たな対蜀迎撃西方軍事総司令官として駆り出されることに。


が、これは結構、小説『三国志演義』しか知らない人には意外なのだが、

諸葛孔明の5回に渡る北伐遠征の内、

諸葛亮と司馬懿が戦ったのは後半第四次と第五次の2回のみで、

前半の3回までは曹真が担当して蜀軍と戦っていた。


そしてまたこれも意外なことながら、

曹真は彼自身が直接孔明の部隊と合戦をしたわけではなかったものの、

対蜀軍の防衛戦結果でいえば、

第一次と第二次で2勝して負けなし。

第三次の北伐では、恐らく彼が病気で参加できなかったと思われ、

それを踏まえて見れば、曹真はほぼ蜀軍に対して無敗。

(ただ曹真も、魏延や呉懿、王平らを擁する孔明の蜀軍本隊と直接野戦を行っていた場合、

どうなっていたかはわからない。

野戦では蜀軍のほうが魏軍よりも強い)


が・・・、

司馬懿の方は諸葛亮と直接野戦で戦って敗れた上、

第四次では4ヶ月余りの対峙の後、蜀軍が兵糧切れで撤退。

第五次の戦いでは野戦で負けはしなかったものの、

7ヶ月余りの対陣の末、最後は孔明本人の病死によって蜀軍の撤退。


曹真の場合は実際に、蜀軍の進撃を阻んで追い返したといっていいが、

司馬懿の場合は何れも敵の自主撤退のみで、

彼が自力で蜀軍を追い返したとまではいえない。

戦勝結果を付けるとすれば、司馬懿の1敗1分け。


詰まり司馬懿は全く諸葛亮との戦いで勝ってなどおらず、

殆ど一方的に負けている。

しかも直接の野戦まで含めて。


だから同じ野戦司令官として見た場合でも、

これで諸葛亮が司馬懿の下に行くはずもないのだが、

陳寿の評に見られるが如く、

「応変の将略はその長ずるところにあらざるか」などと、

やはり最終的に遠征をして魏軍を倒すことができなかったという結果から、

“結局は色々と国に負担を掛けただけで、大した成果もなく、

徒労に終わっただけではないか”と、

取られてしまったということなのだろう。


しかし戦争には相手がある。

相手が自分よりもずっと格下なら勝利は容易いが、

相手が同レベルで、しかも守勢に入られた場合など、

とても勝つことは難しい。


ボクシングなどの格闘技の試合でも、

一発ノック・アウトの派手なKO勝利なら誰の目にも一目瞭然だが、

しかし仮に実力者同士の伯仲した試合で、

素人目にはわかりにくいが、

実はその二人の間では非常にハイ・レベルな駆け引きが

展開されていたとしても、

一般人の素人にはもう、ただのダラけた詰まらない試合にしかみえない。


実力に大きな差があれば、豪快なノック・アウトも出やすいが、

しかし両者の実力が僅差で拮抗してくるほど、

試合内容そのものは逆に地味なものへと変わっていってしまう。


孔明の北伐も基本、相手が曹真、司馬懿と、

双方共戦さ慣れした専門の、玄人同士の戦いなので、

展開はどうしても地味にならざるを得ないのだが、

ただ、孔明は孟達を奇襲で破った司馬懿の電撃作戦を見抜き、

孟達に注意の手紙を送ったりしているように、

詰まり彼は司馬懿と軍事戦略的に全く同じ見方をしているわけで、

もし孔明が魏に在って司馬懿の立場にいれば、司馬懿と同等の働きで、

公孫淵の討伐など、曹叡の下で活躍はできるだろう。


また戦場での実戦指揮にしたところで、

諸葛亮に率いられた魏延、王平、呉懿、呉班、高翔といった蜀軍の将軍達は皆、

いざ魏軍との直接野戦対決となった場合、

彼らは殆どの場面で司馬懿、郭淮、費瑶といった名立たる面々を相手に

勝ちを制し、

殊、野戦での蜀軍の強さは魏軍の比ではなかった。


勿論、実際の戦闘行動をするのは孔明ではなく、

彼の配下の有能な武将達が戦うわけだが、

そこはだから、現代のプロ野球などでも、

プレーをするのは選手達で、監督は指揮をするだけ。

だから大事なのは孔明自身が配下の武将達を率い、

いかにうまく、自軍を勝たせるような状況に持っていけるかどうかという、

その点が彼の将としての、手腕の問われるところになってくるだろう。


しかしそれで、実際の戦闘場面での孔明の軍事指揮でいえば、

司馬懿を相手に直接の野戦で撃破しているのだから、

彼の軍事指揮能力に疑うべき点などどこにもない。


と言うより、当時一流の知識人たる名士層の人間達でいえば、

恐らくは皆、能力的に、政治的にも軍事的にも、

大体同じような水準にあったのではないかと思われる。

また個人的な戦闘能力に関しても、

本来貴族という階級は、

庶民に対してあらゆる面で超絶していることが求められ、

そこはだから、

それだけ誰よりも優れているから、

自分が人の上に立つ困難で難しい責任を負う立場にいるのだという、

そういった自負を持ち、

それがまた、貴族という特殊なステータスの、

存在価値の拠り所ともなっている。


だから例えば呉の孫策、孫権に使えた虞翻などにしても、

彼には正史三国志の注釈中でのエピソードで、

あるとき、孫策が山越の際に、味方と別れて一人、

馬に乗って森の中にいたところ、

それをたまたま虞翻が見付けて、「ここは危険だから」と注意し、

孫策に馬から降り、弓矢を手に持ち注意をしながら

森から抜け出るように促した。

しかもそれまでは自ら「矛術に心得がある」というその腕前で、

虞翻自身が孫策を警護しつつ、道を先導して進むからと。

しかし虞翻には馬が無かった。

だからもし本当に急に敵と遭遇した場合、

いざとなれば孫策は馬に乗って逃げられるが、

虞翻にはそれができないので、

それを孫策が心配して「君はどうするのかね?」と聞くと、

虞翻は、

「私は足には自身があり、1日に2百里(80キロ)歩くことも可能です。

これまでも吏卒の中で私に叶う者はおりませんでした。

だからもしあなたが馬に乗って駆けていったとしても、

私はその足で遅れずに付いていくことができます」と言ってのけたという。



※(『三国志 虞翻』)

「吳書曰。策討山越、斬其渠帥、悉令左右分行逐賊、獨騎與翻相得山中。

翻問左右安在、策曰「悉行逐賊。」翻曰「危事也!」令策下馬

「此草深、卒有驚急、馬不及縈策、但牽之、執弓矢以步。

翻善用矛、請在前行。」得平地、勸策乘馬。

策曰「卿無馬奈何?」答曰「翻能步行、日可二百里、

自征討以來、吏卒無及翻者、明府試躍馬、翻能疏步隨之。」行及大道、

得一鼓吏、策取角自鳴之、部曲識聲、小大皆出、遂從周旋、平定三郡。」



と、

まあこんなエピソードが残されているほど、

虞翻といえばたとえば現代、コーエーのシミュレーションゲームなどでも、

彼は完全な文官扱いで武力なんかもたったの40程度しかないが、

それどころか現実には、

下手をすれば一騎打ちで名立たる大陸の勇将達を敵に回して、

互角に戦えるほどの武力の持ち主だった。


それとまた実戦での軍事指揮に関しても、

当時、地方から漢王朝の官僚として登用されたような者達は皆、

別にこれといった実戦経験なども持たず、

そのまま賊徒叛乱の討伐などに抜擢を受け、

普通に戦って任務を全うして帰ってくるというのは当たり前のことだった。


だからこの点に関しても、

彼ら名士クラスのエリート達の間では、そうした軍務についてもどこかでまた、

事前に学べるような教育環境が整えられていたのではないだろうか。


だからそこまで各名士達の間で能力全般に渡って、

特に余程本人がその分野に不得意ということでもなければ、

素人の域にまで下がるということは先ず無かったかと思われるのだが、

まして軍事に関しては、

ただ勝敗の結果のみで判断を下すことはできない。



《諸葛亮VS司馬懿》


さてしかし、

ただこの第四次北伐に関しては、

記述の内容が関連史書毎にかなりの異同があり、

実は勝敗の結果さえ違ってしまっている。


孔明本人の伝でも、

「糧盡(尽)退軍。與魏將張郃交戰、射殺郃。

(糧が尽きて軍を撤退させた。魏将の張郃と交戦となり、張郃を射殺した)

」と、

張郃を射殺したことは書かれているが

勝敗自体に関しては単に“兵糧切れで撤退した”としかない。

『三国志 後主(劉禅)伝』でも、

「夏六月亮糧盡(尽)、過軍。郃、追至青封、與亮交戰、被箭死。

(夏6月、諸葛亮は兵糧が尽きて軍を退けた。張郃が、青封で追いつき、

諸葛亮と交戦となったが、矢を受けて死んだ。)」と、

やはり同じ。


そして敵方の『三国志 明帝(曹叡)紀」においても、

“秋七月丙子、以亮退走

(秋7月丙子6日、諸葛亮は退走した)”でしかないのだが、

ただ『晋書 宣帝(司馬懿)紀』のみに限っては、

“帝攻拔其圍(囲)、亮宵遁、追撃破之、俘斬萬計。

(帝(司馬懿)はその包囲を攻め抜き、諸葛亮は宵に遁走した。

追撃してこれを破り、斬った捕虜は万を数えた)”と、

逆に大勝したことになっている。(笑)


しかし魏側の資料では自分達の敗戦は書き辛いだろうが、

ただ孔明本人の伝ならば、

大勝利ならもっと明確に記載されて良かりそうなものだが、

やはり陳寿から見て、

撤退は即ち“負け”という扱いでしかなかったのだろうか。


一方ハッキリ蜀軍の勝利として書かれているのが、

『漢晋春秋』と『資治通鑑』。

『漢晋春秋』では蜀軍は、

「大破之。獲甲首三千級,衣鎧五千領,角弩三千一百張,宣王還保營。」と、

首三千級に玄鎧五千領、角弩三千一百張を獲得する程の

大勝を挙げたとの記述で、

『資治通鑑』の方でも「魏兵大敗,漢人獲甲著三千,懿還保營。」と、

獲甲三千を著す戦果を蜀軍が達成したとの記述になっている。


『漢晋春秋』と『資治通鑑』は殆ど同じ記述内容で、

『漢晋春秋』は東晋の習鑿歯による著作で成立が300年代頃。

『資治通鑑』は北宋の司馬光による著作で、1084年の成立。

なので通鑑の方が漢晋春秋のほうを見て、

ほぼソックリに取り上げたということのように思われる。


以下、細かくその内容を追ってみると、

先ず曹叡から、張郃、費曜、戴凌、郭淮らを指揮し、

蜀軍の撃退を命じられた司馬懿だったが、

彼は先ず費曜、戴凌に4千の精鋭を与えて上邽ジョウケイを守備させると、

残りの兵を挙って出撃させて、西の祁山で蜀軍に包囲されている

賈嗣、魏平の救援に向かわせたという。


『三国志張郃伝』には、

「諸葛亮復出祁山。詔郃督諸將、西至略陽。亮還保祁山

(諸葛亮がまた祁山に出た。詔によって張郃が諸将を監督することとなり、

西に向かって略陽へと到着すると、

諸葛亮はまた祁山の守備へと還った)」などとあるのだが、

ただここには司馬懿の名前が出てこない。

しかし張郃と諸将を監督して率いていたのが司馬懿だったので、

恐らく彼らと一緒に行動していたものと思われる。

彼ら魏の遠征軍は、長安から隴山山脈を越えて天水の北方、

略陽、街亭方面からの大回りルートで、

祁山を目指して進軍していくこととなったようである。


挿絵(By みてみん)

(第四次北伐 行軍図 ②)


しかしその司馬懿に張郃が、

ようの二城に兵を分けて駐屯させた方がいい」と、

待ったを掛ける。

これは天水方面の蜀軍から補給線を守るためか、

或いはこの第四次北伐遠征に際して孔明は、鮮卑族の軻比能と手を組み、

その軻比能は北地郡石城県まで進出して、

北方から関中を脅かす気配を見せたといい、

張郃の提案は軻比能に対しての備えという意味もあったのかも知れない。


が、

司馬懿はその張郃の進言を退ける。

司馬懿の言うには、

「もし前軍だけで敵に当れるならば、将軍の言う通りで構わないが、

しかし軍の分散は、楚の項羽が黥布に敗れた結果と同じこととなる」 との

ことで、

結局そのまま軍を分けずに進軍をしていった。


一方、

祁山で賈嗣・魏平の二将を包囲していた諸葛亮もまた司馬懿・張郃軍の接近に、

祁山の包囲はそのまま、

兵を二手に分けて自身は司馬懿と対峙すべく上邽に向かう。


郭淮と費曜はこの北進して迫ってくる蜀軍を迎え撃ったが

諸葛亮はこれを破り、

上邽の地で麦を大いに刈り取る。

するとやがて長安から救援に現れた司馬懿の軍と上邽の東で遭遇。

しかし司馬懿は兵を収めて要害に立て籠もったため、軍を交えることができず、

諸葛亮は引きあげた。

司馬懿も諸葛亮の後を追って鹵城まで追走する。



※(『晋書 宣帝紀』)

「張郃勸帝分軍住雍、郿為後鎮,帝曰:「料前軍獨能當之者,將軍言是也。

若不能當,而分為前後,此楚之三軍所以為黥布禽也。」遂進軍隃麋。」


※(『三国志 諸葛亮伝』注、「漢晋春秋」)

「宣王使曜、陵留精兵四千守上邽、餘衆悉出、西救祁山。郃欲分兵駐雍、郿、

宣王曰「料前軍能獨當之者、將軍言是也。

若不能當而分爲前後、此楚之三軍所以爲黥布禽也。」遂進。

亮分兵留攻、自逆宣王于上邽。郭淮、費曜等徼亮、亮破之、因大芟刈其麥、

與宣王遇于上邽之東、斂兵依險、軍不得交、亮引而還。宣王尋亮至于鹵城。」



挿絵(By みてみん)

(第四次北伐 行軍図 ③)


この点、

『晋書 宣帝(司馬懿)紀』では、

司馬懿が張郃の進言を退けて

隃麋(関中盆地内、隴山山脈の東、隴右の地)にまで進出したところで、

諸葛亮が大人数で上邽の地の麦を

刈り取ろうとしているとの情報が入り込んできた。

諸将はこの報に怯えたが、

司馬懿は、

「諸葛亮は思慮深いが決断力に乏しい。必ず自営を固めて安全にしてからしか、

上邽の麦刈りに向かうことはないだろう。

私なら二日間昼夜兼行で現場に間に合う」と言い、

兵の装備を軽装にして朝早くから夜遅くまで、

夜を日に継いで駆け抜け上邽の地まで急行軍をした。

司馬懿が上邽の地にまで到着すると、既に蜀軍は現場に集まっていたが、

しかし諸葛亮は司馬懿の軍の砂塵を遠望すると、

同地から引き上げていった。

司馬懿はそれを見て、

「我が軍は道を倍して疲労甚だしく、これは兵の道に通暁した者ならば

貪り襲いかかるところだ。

しかし諸葛亮は敢えて渭水に拠らず撤退し、

これならば与し易い」と語ったということになっている。


※(『晋書 宣帝紀』)

「亮聞大軍且至,乃自帥眾將芟上邽之麥。諸將皆懼,

帝曰:「亮慮多決少,必安營自固,然後芟麥,吾得二日兼行足矣。」

於是卷甲晨夜赴之,亮望塵而遁。

帝曰:「吾倍道疲勞,此曉兵者之所貪也。亮不敢據渭水,此易與耳。」」



ただここからが『晋書』と、『漢晋春秋』『資治通鑑』との間で

内容がかなり変わってくる。

『漢晋春秋』と『資治通鑑』では、

司馬懿の軍が上邽にまでやってくると、

諸葛亮はそのまま祁山付近の鹵城という城にまで撤退したことになっているが、

『晋書』では司馬懿が諸葛亮を「与しやすい」と語った後、

次いで漢陽(天水の旧名)に軍を進めたところで、

再び諸葛亮と出くわし、

そこで司馬懿は陣を列して蜀軍を待ち受けた。

しかし蜀軍は攻めてこず、

司馬懿はさらに武将の牛金に軽騎を率いて諸葛亮を誘き出させようとしたが、

両者が接近したところで諸葛亮はまたしても撤退。

司馬懿もまた祁山まで追撃。

諸葛亮は鹵城に駐屯し、南北二つの山に拠り、水を断って重囲をなした。


と・・・、

さらにまたここから、

『晋書 宣帝紀』では、

司馬懿がダイレクトに祁山を包囲する蜀軍を攻め抜こうとしたところ、

またしても諸葛亮は宵の内に戦線を放棄して撤退。

司馬懿は追撃して万に上る俘虜を斬ると、

洛陽の都から曹叡から軍を労う使者が派遣され、

司馬懿は封邑を加増されたということになっている。


※(『晋書 宣帝紀』)

「進次漢陽,與亮相遇,帝列陣以待之。使將牛金輕騎餌之,兵才接而亮退,

追至祁山。

亮屯鹵城,據南北二山,斷水為重圍。帝攻拔其圍,亮宵遁,追擊破之,俘斬萬計。

天子使使者勞軍,增封邑。」



しかし『漢晋春秋』及び『資治通鑑』の記述では異なり、

祁山の鹵城にまでやってきた司馬懿に対し、

そこでまた張郃が進言。

「敵は遠来して我らに逆らい、我々が合戦を相手に請うても得られないのは、

敵が我が軍の利が戦わないことにあると、

長期の計画で制圧したいと欲しているからです。

且つ包囲を受けている祁山の味方も、既に我が救援の大軍がもう、

近くまでやってきたということはわかりましたから、

安心して人心も固まった筈です。

ですから今はもう、我々はここでの駐屯を止めるべきです。

そうして奇兵を分けて敵の背後を窺うようにします。

もし我々が敵の目の前まで来ながら、

敢えて押し寄せることもできないとなれば、

逆に味方人民の失望を買ってしまうことでしょう。

今諸葛亮は孤軍で食も少なく、もう補給切れで撤退しようとしているのです。

(だから焦ってこちらから手を出す必要はない)」と。


しかしこの張郃の進言に対してもやはり司馬懿は従わず、

飽くまで諸葛亮から離れることなく、

司馬懿もまた山に登って塹壕を堀り、屯営を築いて、

鹵城の蜀軍と対峙した。

しかし味方に敵を攻めることまでは許さなかった。


が、

魏本国の救援部隊は祁山の解放に目前まで迫りながら

陣に留まって何ら救援の手を差し伸べようとはしないという・・・。

蜀軍に包囲を受けたままの祁山の賈嗣と魏平は度々司馬懿に向け、

「公は蜀を虎の如く畏れているが、

天下の笑い者となられるおつもりか!」と、出戦を請い願った。

司馬懿はこれに気を病み、

そうして遂に、夏五月、

司馬懿は張郃を使って無当監・何平(王平)の南囲の陣のほうを攻めさせると、

自身は中道を進んで諸葛亮に向かった。


この動きに対し諸葛亮も魏延、高翔、呉班を使わして迎撃をさせると、

魏兵は大いに敗れ、

蜀軍は甲首三千級、衣鎧五千領、角弩三千一百張を獲る

大戦果を挙げた。

負けた司馬懿は再び元の屯営に還って守りを固めた。


挿絵(By みてみん)

(第四次北伐 行軍図 ④)


・・・と、

『漢晋春秋』はここまでだが、

『資治通鑑』ではさらにその後の蜀軍の撤退と

張郃の死までが記載されている。


司馬懿が諸葛亮と祁山での直接野戦対決で敗れて1ヶ月後の

夏六月、

蜀軍のほうが遂に兵糧が尽きて総退却を開始。


すると司馬懿は敵の追撃に張郃を派遣。

張郃は司馬懿に、

「軍法では、城の包囲には必ず出口を開け、

帰る軍も追ってはならないとなっています」というも、

やはり司馬懿は聞かず、

張郃は已むを得ず逃げる敵を追って追撃したが、

木門にまで来たところで敵の伏兵に逢い、

蜀兵は高きに乗じて佈伏し、弓弩が亂(乱)髮し、

その内飛んできた矢が張郃の右膝を射抜き、戦死を遂げたという。



※(『漢晋春秋』)

「建興九年二月伐魏。亮圍祁山,招鮮卑軻比能,比能等至故北地石城以應亮。

於是魏大司馬曹真有疾。司馬宣王自荊州入朝,

魏明帝曰:“西方事重,非君若可付者。”乃使西屯長安,

都督張郃,費耀、戴陵、郭淮等。

宣王使耀、陵留精兵四千守上邽,餘眾悉出西救祁山。

郃欲分兵駐雍、郿,宣王曰:“料前軍能獨當之者,將軍言是也;

若不能當而分為前後,此楚之三軍所以為黥布禽也。”遂追。

亮分兵留攻,自逆宣王於上邽。

郭淮費耀等徼亮,亮破之,因大芟刈其麥,

與宣王遇於上邽之東,斂兵依險,軍不得交,亮引兵而還,宣王尋亮至於鹵城。

張郃曰:“彼遠來逆我,我請戰不得,謂我利在不戰,欲以長計製之也。

且祁山知大軍以在近,人情自固,可止屯於此,

分為奇兵,示出其後,不宜進前而不敢逼,坐失民望也。

今亮懸軍食少,亦行去矣。”宣王不從,故尋亮。既至,又登山掘營,不肯戰。

賈詡、魏平數請戰,因曰:“公畏蜀如畏虎,柰天下笑何!”宣王病之。

諸將鹹請戰。

五月辛已,乃使張郃攻無當監何平於南圍。自案中道向亮。

亮使魏延、高翔、吳班赴拒,大破之。

獲甲首三千級,衣鎧五千領,角弩三千一百張,宣王還保營。」



※(『資治通鑑72』、魏紀4、太和五年辛亥、西元二三一年)

「漢丞相亮命李嚴以中都護署府事。嚴更名平。亮帥諸軍入寇,圍祁山,以木牛運。

於是大司馬曹真有疾,帝命司馬懿西屯長安,

督將軍張郃、費曜、戴陵、郭淮等以禦之。

三月,邵陵元侯曹真卒。

自十月不雨,至于十月。

司馬懿使費曜、戴陵留精兵四千守上邽,餘眾悉出,西救祁山。

張郃欲分兵駐雍、郿,

懿曰:「料前軍能獨當之者,將軍言是也。若不能當而分為前後,

此楚之三軍所以為黥布禽也。」遂進。

亮分兵留攻祁山,自逆懿於上邽。郭淮、費曜等徼亮,亮破之,

因大芟刈其麥,與懿遇於上邽之東。懿斂軍依險,兵不得交,亮引還。

懿等尋亮後至于鹵城。

張郃曰:「彼遠來逆我,請戰不得,謂我利不在戰,欲以長計制之也。

且祁山知大軍已在近,人情自固,可止屯於此,分為奇兵,示出其後,

不宜進前而不敢逼,坐失民望也。今亮孤軍食少,亦行去矣。」懿不從,

故尋亮。

既至,又登山掘營,不肯戰。賈詡、魏平數請戰,

因曰:「公畏蜀如虎,奈天下笑何!」懿病之。

諸將咸請戰。夏,五月,辛已,懿乃使張郃攻無當監何平於南圍,自案中道向亮。

亮使魏延、高翔、吳班逆戰,魏兵大敗,漢人獲甲著三千,懿還保營。

六月,亮以糧盡退軍,司馬懿遣張郃追之,

〔郃曰:「軍法,圍城必開出路,歸軍勿追。」懿不聽。郃不得已,

遂進〕。郃進至木門,與亮戰,

〔漢〕(蜀)人乘高佈伏,弓弩亂髮,飛矢中郃右膝而卒。」






《司馬懿の気質》


『晋書 宣帝(司馬懿)紀』でのみ、

蜀軍に祁山の戦いで大勝したことになっているが、

『三国志 明帝(曹叡)紀』では、

「秋七月丙子、以亮退走、封爵増位各有差。」と、

祁山戦の記述まではないが、

孔明が退走し、将軍各位に封爵が与えられたとは書かれている。

一応蜀軍を追い返したという結果から、

功績ということにされたのだろう。


ただ『晋書』のほうの祁山戦の司馬懿の戦勝に関しては、

これはもう完全なリップ・サービスだろう。


司馬懿では先ず、諸葛亮に戦争で勝てない。


何故かといえば、

この諸葛孔明第四次北伐の、諸葛亮と司馬懿の直接対決において、

司馬懿のほうが恐らく敗れ去るであろう結果は、

始めの早い段階で予想がつけられる。


それは長安出征直後の司馬懿と張郃の両者の会話から、

そこでわかる。


張郃は隴西へと向かう司馬懿に対し後方の安全確保のため、

ようの二城に兵を分けて駐屯させたほうがいいと

進言をするが、司馬懿は却下。

その反論として司馬懿は、

「軍の分散は、楚の項羽が黥布に敗れた結果と同じになる」としたが、

これはおかしい。


司馬懿は戦力の分散が味方の敗退に繋がると言っているが、

張郃はそのままの方が危ないから手当てしておいたほうがいいと

言っているわけで、

だから別によう二城への兵の駐屯で、

魏が蜀軍に滅ぼされるわけではない。


だから張郃が指摘したような危険は実際あるのだが、

しかしそれをしてしまうと当然ながら、

自軍の戦力の集中が崩れてしまう。


司馬懿は「もし前軍だけで敵に当れるならば・・・」と語っているが、

詰まりもしここでよう二城に兵を分散して

残していってしまうと、

そうなるといざ、魏軍では蜀軍との野戦決戦に必要な人数が足りず、

戦って勝利を得ることが難しくなってきてしまう。

素の野戦勝負でも魏のほうが分が悪い。

使える人数はできるだけ、多ければ多いほうがいい。

だから司馬懿は張郃の進言を無理に退けた。


と、

詰まり司馬懿は飽くまで直接相手と野戦で戦って、

蜀軍及び諸葛孔明を、

力尽くで撃退してやろうと目論んでいたというわけだ。


守ろうなどとはまったく考えてもいない。

何が何でも戦って相手に勝とうとしている。


ここが『三国志演義』の司馬懿と180度異なるところで、

演義では司馬懿が、

「別にこちらが無理に諸葛亮を相手にせずとも、どうせ糧食が尽きれば

蜀軍は勝手に撤退をしていくしかないのだから」と、

一切、孔明の誘いにも乗らず、

見ているほうがイライラする程に守勢を決め込むが、

史実ではまったく逆で、何と司馬懿は超アグレッシヴに、

直接の野戦対決で諸葛亮を完膚なきまでに、

叩き潰してやろうと意気込んでいたのだ。


しかし対等の野戦でも蜀軍は充分に強かった上、

さらに諸葛孔明は軽挙を避け、

常に相手よりも有利な地形を確保して戦うように心掛けていた。

だから無理してそんな蜀軍に野戦を挑もうとすれば、

絶対に負けるしかないのだ。


だから司馬懿が演義と同様、初めから“専守防衛”を決め込んでいれば、

そのまま演義と同様、

蜀軍の自動撤退を予測できるのだが、

それが司馬懿の方が無理して蜀軍に勝負を挑もうとしていたことから、

そこでもう、

第四次北伐の勝敗の行方が逆にわかってしまう。


司馬懿が負ける。


だからむしろおかしいのは司馬懿のほうだ。

何でそんな、負けるとわかった勝負を挑みたがるのか・・・。


およそ彼のそうした態度は、

一般的に定着している司馬懿のイメージとは逆だろう。

司馬懿の性格は史実でもいわれるように、

“狼顧の相”の持ち主として、

非常に老獪で猜疑心の強い、陰湿なイメージが強い。


私なども勿論同様で、

だからそれまで司馬懿は曹操と似ているのではないかと思っていた。

お互いに良く似ているから、

曹操は司馬懿を警戒したのではないかと・・・。


だから張郃の最期にしても、

追撃を渋る張郃に、無理矢理その実行を迫って戦死させてしまうなど、

これでは丸で司馬懿が張郃を・・・、

とまで疑っていた時期もあったのだが、

が、

これは違った。


司馬懿は誰に似ているかといえば、

劉備に似ている。


劉備という人は意地の塊のような人間で、

何というか、例えば度胸試しで導火線に火が点いた爆竹を手に持って、

それをどこまで離さずに我慢できるかといったような勝負で、

結局最後まで爆竹を離さずに手を破壊させてしまうといった感じの、

それくらい、

司馬懿も同じ。

ただし司馬懿の場合はカラーとしてノブレス・オブリージュといった類の、

名門、エリートとしての矜持。

劉備は侠者。


司馬懿は良く諸葛亮を評して、

「臆病だ、決断力がない」などと散々コケにしていたが、

しかしでは、自分は一体どうなのだ?となった場合、

人を臆病と貶すからには、当然、自分は勇敢であらねばならない。

進んで困難な敵にも立ち向かっていかねばならない。


まして魏は蜀に6倍する程の大国で、

さらに言えば正統王朝としての立場を持っている。

その大国の魏王朝が辺境の小国からの侵攻に、

ただ嵐の過ぎ去るのを待つように、怯えて守りを固めていることなど

断じて許されない。


孔明の第一次北伐で、

祁山を攻められると南安・天水・安定の三郡は蜀に寝返ってしまった。


だから司馬懿の軍事行動はそうした彼ら、第三勢力に対しての

パフォーマンスの意味合いもある。

司馬懿の一挙手一投足は天下の耳目の下に晒されて、

彼の動向が世間多くの人々から強い関心を持って見られている。

司馬懿は堂々と正義の軍を起こし、

そして華々しく敵を撃ち破らねばならない。


・・・と、

それが司馬懿の、不自然な程に張郃の助言を退け、

諸葛孔明との直接対決に拘る理由だったのではなかろうか。


だから司馬懿が張郃に命じた追撃の一件も、

司馬懿は後の第五次北伐の際にも、

撤退をする蜀軍を追って自ら追撃していることから、

張郃に命じた追撃のときも、

恐らく彼も一緒に蜀軍の追撃を行っていたものと思われる。


とすれば下手をすれば司馬懿の命も危なかったが、

ただこれが例えば劉備なら、

勝敗の結果まで度外視して軍を壊滅させてしまうが、(笑)

しかし司馬懿の場合は戦さ下手の劉備と違って、

文字通り軍事巧者の専門家なので、

いくら彼が強気で攻めたいと思っても、

負け戦さならその結果はハッキリとわかってしまう。


そこに司馬懿のジレンマがある。


だから司馬懿はできるだけ戦力を集中させて、

いざ敵の目の前にまで攻め寄せるのだが、

しかし自分から無理には突っ込んでいけない。


司馬懿は上邽で麦刈りを行う蜀軍に対し、

軽装の兵で、昼夜兼行で現場に駆け付けて勝負を挑んだが、

孔明は戦わずに撤退。

司馬懿は逃げる孔明を「我が軍は遠路、急行軍を重ねて疲労困憊にもかかわらず、

彼は兵法を知らない。与しやすい」などと笑ったが、

しかし司馬懿はそんなことを言いつつも、

“懿斂軍依險,兵不得交,亮引還”と、

彼らはシッカリと難攻の要害に先制布陣を布いて待ち構えていたのだ。

だから孔明は攻めずに引きあげた。


さらに次いで司馬懿は漢陽(天水)まで行って、そこでも蜀軍と対峙するが、

“帝列陣以待之(帝は陣を並べて之を待つ)”と、

やはり陣地を構築して、そこに蜀軍を誘き寄せようとしていた。


しかし中々やってきてくれないので、

それでまた今度はまた牛金を囮に、

何とか孔明をその陣地にまで引き寄せようとした。


だがそれも上手くいかず、

司馬懿は逆に自分自身ほう方が、孔明によってどんどん蜀軍に有利な南方へと

引き摺り込まれていってしまう。


で、そこで再び張郃が司馬懿に警告をする。

司馬懿と張郃は元々、祁山で蜀軍の包囲を受けている

賈嗣、魏平の救援にやってきたわけだったが、

ただ賈嗣と魏平の囲まれている現場間近まで出てくるのは

逆にマイナスだった。

何故ならそこではもう、今か今かと祁山の解放を願う味方からの

出陣要請が高まり、

それまでずっと司馬懿がやろうとしてきていた、

敵を誘き出して叩くということができず、

逆に自分達の方が味方救援のため、万全の備えの敵陣地に向かって

突入をしていかなければならなくなってしまうから。

だから張郃は、逆にさっさとこの現場から離れて、

持久戦に持ち込めと言った。


しかし司馬懿には従えなかった。

それでは大軍の自分達の方が賊軍を相手に薄みっともなく、

背を見せて逃げ回る格好となってしまうから。

いくらそれが戦略、あるいは戦術上の撤退だとしても、

史書のほうには“逃走”だの、“遁走”だのとハッキリと明記され、

それがこの先、未来永劫に渡って己や国の不名誉として残されてしまうのだ。

司馬懿にはそれが耐えられない。


だから司馬懿の用兵はとても、“応変の将略”などとは呼べない。

戦さ下手なのではない。

そうではなく、

彼の持つ余りに強い思想性や哲学性が邪魔をして、

彼の軍事行動さえも左右してしまうのだ。


応変の将略とは張郃のように、現実に対し、決して無理に逆らわず、

状況に合わせた対応をしていくということで、

無理な勝負を強引に勝利に変えるようなマジックなどではない。

それをひっくり返そうとすれば、

奇跡の確立のケースを逆から辿って再現していくしかなく、

だから例えば始めに大きな借金を抱え、

それを返すためにはもう、どれだけのオッズでしか

勝負ができないといったような、

しかし現実のほうがそんな、自分の都合に合わせて、

思い通りに動いていってくれるわけではない。

だからそういった、

最初からもう相手を見ない、自分勝手な目標設定で勝負に臨んだ場合では、

必ず失敗する。


司馬懿も言えば、始めに理念ありき、信念ありきの大将だ。

といって勿論、

決して司馬懿は相手への過小評価から、

自身が持つべき合理的判断の目まで腐らせるような増上慢、

口舌の徒の類ではなかったが、

ただ諸葛孔明の北伐遠征を迎え撃つ魏の軍司令官としては、

単純にミスマッチだった。

だから曹真ならば諸葛亮と戦って、勝てるかどうかは条件次第だが、

しかしただ、負ける将軍でもなかった。


が、これが司馬懿だと返って大負けする可能性が出てくる。

元々専守防衛の持久戦以外では、

無理に相手に仕掛ければ非常に負けの確立の高い戦争だ。


しかし司馬懿はそんな戦いでも、

強引に力尽くで敵を捻じ伏せようとしてしまうと・・・。


ただしこれは、

『明帝紀』の補注の「魏書」の中に見られる記事の事柄なのだが、

まだ蜀軍の第四次北伐出始め頃。

上邽の麦刈りに付いて、

魏の都、洛陽の朝廷内の議論場に於いて、そこでは一つの策として、

元々諸葛亮の軍は輜重無く、軍糧が続かないという欠点を持つため、

そこで、“上邽周辺の麦を刈って賊の食を奪ってしまえば、

無為に兵を労すことも必要なく、自ずと自滅をする”との提案をする者がいた。

しかし明帝の曹叡はそれらを皆退け、

逆に前後して司馬懿の元に増援を送り、勅使を送って麦を守らせたため、

結果、魏蜀の両軍で、その上邽の地の麦は糧食として

双方に用いられることとなったと。



※(『三国志 明帝紀』注、「魏書」)

「魏書曰。初、亮出、議者以爲亮軍無輜重、糧必不繼、不擊自破、無爲勞兵。

或欲自芟左右生麥以奪賊食、帝皆不從。前後遣兵增宣王軍、又敕使護麥。

宣王與亮相持、賴得此麥以爲軍糧。

(「魏書」に曰く。初め、諸葛亮が祁山に出たとき、議者の多くは

諸葛亮の軍隊には輜重が無く、兵糧が続かないだろうから、

攻撃せずに相手が自滅するのを待ち、こちらから兵を送る必要もないと言った。

あるいはまた、上邽の麦を刈り取って賊の食料を

奪い去ってしまうのがいいとの意見も出たが、

明帝はその何れにも皆、従わなかった。

前後して司馬宣王の軍に兵を増員して派遣し、また勅使を送って麦を護らせた。

そのため司馬宣王と諸葛亮は共に、

この麦を軍の糧として頼りとすることを得た。)」と。



これは、

魏の側で上邽の麦を蜀軍よりも先に刈り取ってしまうというのは、

いわゆる“焦土戦術”というヤツだろう。

敵に与える食料を全て消し去り、無理やり撤退に追い込んでしまう。

しかし曹叡はそれを却下した。

その作戦なら確かに自軍の兵を労すことなく、敵を追い払えるが、

しかし今、敵に包囲されている祁山の賈詡と魏平を

そのまま見殺しにすることになってしまう。


『晋書 宣帝(司馬懿)紀』では、


※(『晋書 宣帝(司馬懿)紀』)

「亮聞大軍且至,乃自帥眾將芟上邽之麥。諸將皆懼

(諸葛亮は長安から魏の大軍が迎撃に出兵してきたことを知ると、

大勢で上邽の麦を刈ろうとし、魏の諸将は皆これに怯えた)」と、あるが、


これは詰まり、

上邽の麦とは魏の遠征軍が現地で食い繋いでいくための兵糧となるべき

穀物だったということなのだろう。

向かった遠征先に兵の食べる食料がなければそこで飢え死にしてしまう。


『三国志 郭淮伝』では、


※(『三国志 郭淮伝』)

「五年(231年)、蜀出鹵城。是時、隴右無穀、議欲關中大運。

淮以威恩撫循羌胡家使出穀、平其輸調、軍食用足

(五年(231年)、蜀軍は鹵城に出た。この時、隴右には穀物が無く、

関中へと食料を大いに輸送すべきだとの議論がなされた。

郭淮は威光と恩愛で羌胡の異民族を懐柔し、彼らの家から穀物を供出させ、

公平にその輸送の労役を割り当てさせたので、

軍の食料は充足した。)」となっていて、


この点、北伐遠征軍の補給問題に、常に頭を悩ませていた蜀軍だけではなく、

実は魏軍のほうでもかなり、対外戦争維持のための軍糧の確保には、

相当な問題を抱えていたことがわかる。


だから兵も出さず、焦土作戦で敵を撤退に追い込んでさえしまえば、

それが最も楽な方法ではあるのだが、

しかしそれでは地元の民衆に多大な損害を与え、

苦しめることにもなってしまう。

郭淮は恩威で以って羌胡の異民族集団を撫循してまで、

何とか現地での穀物を捻出したようだが、

しかしそんな負担をいつまでも彼らに対して掛け続ければ、

何れは大きな離反へと繋がっていってしまう。

(因みに軍糧の供出には輸送の負担までが一緒に義務として付いてくるらしく、

かつて曹操が漢中へ遠征した際、兵糧は河東郡に求めたが、

その役務の厳しさに暴動さえ起こりかねないといったような状況だった。)


それと元来、中華王朝の冊封体制では、

礼を弁えぬ未開の野蛮人に対し、皇帝がその徳と恩威で

教化をしていくという王化思想を持っている。

これもまた『明帝紀』補注の「魏略」の記事だが、

孔明の祁山攻囲で、

天水・南安・安定三郡の吏民が蜀に離反してしまった第一次北伐の折、

曹叡は自ら直接乗り込んでいった長安にて、


※(『三国志 明帝紀』注、「魏略」)

「朕惟率土莫非王臣,师之所处,荆棘生焉,不欲使千室之邑忠信贞良,

与夫淫昏之党,共受涂炭。故先开示,以昭国诚,勉思变化,无滞乱邦。

巴蜀将吏士民诸为亮所劫迫,公卿已下皆听束手。”

(朕が考えるに、この天下の率土の至るところ、我が王臣でない者はないのに、

軍隊(师)の存在するところには、荊や棘が生い茂ってしまう。

千の家のある邑の忠信貞良の者達に、あの淫昏の党夫どもと、

途端の苦しみを受けさせたくはない。

故に先ず開[开]示して、以って国の誠意を昭かとし、

勉めて変化を思い、乱れた邦に滞ることのないように。

巴蜀の将吏士民で諸葛亮に劫迫されるところとなった多くの者達は、

公卿以下、全て処罰はせずに許そう)」などと、


一つの布告を行っていた。


詰まり今回の反乱は皆、諸葛亮に脅迫されたこととして、

巴蜀の将吏・士民・公卿以下、抵抗を止めるのであれば、全て許そうと。


もし敵からの侵略に、それを放って賊徒共の手に

自由に委ねるようなことがあれば、

その時点で魏は正統王朝としての優位性を失ってしまうことになる。

だから曹叡は祁山の賈嗣、魏平を見捨てることができないし、

焦土戦術を行うようなこともしない。

それはまさに曹叡の対外政策基本コンセプト。

そのためには無論、消極的な軍司令官より、

より積極的で攻撃的な人物の方が望ましい。


そのための司馬懿の対蜀総司令官の抜擢でもあったのだろうが、

しかし曹叡もまさか、

司馬懿が彼の想像以上に超積極的な人物だったとは、

思いもよらなかったろう。(笑)


消極姿勢は困るが、といって無理に攻めれば、

敵は罠を張って待ち構えているので絶対に負けざるをえない。

それではまた本末転倒だ。


それ故か、曹叡は後の第五次北伐、

五丈原に出現した諸葛亮の迎撃を命じた司馬懿に対し、

何と詔勅で以って、


※(『三国志 明帝記』)

「但堅壁拒守以挫其鋒

(但し堅壁拒守して相手の鋭鋒を挫くことに務めよ。)」と、


彼の出戦を厳重に戒めた。

しかしそれでもなお、司馬懿が出撃許可を求める上奏を行ってきたため、

曹叡は最後に辛毗を自らの勅使として直接司馬懿の陣に送り込んでまで、

出撃を厳禁させた。(笑)


しかもその上に、このとき蜀軍と呼応して南方から出兵した呉軍の対応に、

曹叡は別に負けてもいない司馬懿のほうに2万の増援を送り、

孫権の方は自ら少数の精鋭を率いて対応に当たった。

それくらい、

曹叡は司馬懿が無理に蜀軍に突っ込んで大敗することを

恐れていたのだろう。


全くこれは、

三国志演義の小説からは想像もつかない、

司馬懿の意外の姿だ。


司馬懿は後年、政敵である曹真の長男・曹爽との争いに、

耄碌したフリをして演技して見せ、

やがてクーデターを起こして国を乗っ取ってしまうなど、

そうしたことなどから自分もそれまで、

司馬懿は非常に表裏の性格の持ち主だとばかり思っていたのだが、

違った。


司馬懿は“表裏”どころか、“表表”の人間だった。


司馬懿は本来、ワザと自分から耄碌したような振りをするなど、

そんなことは彼のダンディズムが許さない。

しかしそれを敢えて自ら彼がやったということは、

それは本気になったということだ。


決して怒らせてはいけない相手を、

曹爽は不用意に本気で怒らせてしまった。


この辺りのところはだから、

かつて劉備が曹操との戦いに敗れ、エン州から逃れて来た呂布を保護した際、

後にそれが仇となって、

劉備は呂布に徐州を乗っ取られてしまうのだが、

そのとき劉備は自分から呂布に和を求めて妻子を返して貰い、

それからは今度は逆に、自分が呂布の配下として、

それまでは劉備の方が曹操軍の防衛のため、呂布を駐屯させていた小沛の城に

送り込まれるという屈辱の目に遭わされる。

だが劉備がまた、その小沛で1万人余りの兵を集めると、

呂布は、


(『三国志 先主(劉備)伝』)

「呂布惡之(呂布はこれを悪く思い)」と、


それを不快に思って自ら出兵して再度劉備を攻撃し、

曹操の元へと敗走させてしまうのだが、

しかしそもそも劉備が自分から呂布に降伏を進み出たのも、

それは再び自分で兵を集め、自力でまた呂布から徐州を取り戻そうとしたからだ。


結局敗れて曹操の下へと落ち延びていく結果となってしまうのだが、

それでもその劉備が始めから他人を頼っていくことをしなかったのは、

彼にとってはやはり、それが自分にとっての恥だったから。


元々周囲からは危ないと注意されていたのにも関わらず、

それを敢えて人間を自分の判断で受け入れ、

で、結局“国を乗っ取られてしまいました。助けてください”では、

とても州の主として面目が保てない。

だから“自分の不始末は自分の手で”と、

自ら呂布の下へと降伏を願い出ることにしたのだ。

劉備も決して、悪くもないのに自分から人に頭を下げるなんてのは、

屈辱以外の何ものでもなく、

元よりそんなことはとても、彼のプライドが許さない。


しかしその耐えられない屈辱を敢えて飲み込み、

また下げたくもない頭を下げて、

劉備は自ら呂布に対して降伏を願い出た。

自分の不始末を何とか自分の手で挽回するには、

それがどうしても避けては通れぬ、必要なことだったから。


呂布は最期、囚われの身となった際、

曹操と一緒にいた劉備に向かって、


※(『三国志 呂布伝』)

「是兒最叵信者!(この者が最も信用できないのだ!)」との、


有名なセリフを吐き掛けるが、

要はそれくらい、呂布が本気で劉備を怒らせたということだ。

しかし呂布は自分でそんなことも自覚していなかったのだろう。


劉備は結構、演義でも正史でも、

そのどっちもどっちで誤解されて捉えられている面が強いのではないか。

演義での劉備はそれこそ温厚な君子人だが、

正史での劉備は朝廷の使者・督郵を柳の木に縛り付け、

自ら杖で200回もシバキ上げて半殺しの目に遭わせたりと、

かなりの乱暴者。(笑)

しかしこの場合、相手が劉備をそこまで追い詰めたということのほうが、

余程の大問題だろう。

劉備は非常な癇癪持ちだが、決して短気というわけではない。


ただ劉備は実際、見方によっては都合良く、

仕える主を何度も変えて渡り歩くなど、

言行に一貫性が乏しく、フラフラと迷走しているようにも見える。


だから正史で呂布が言った、「是兒最叵信者!」といった

彼に向けての不信感は、

現代の史実に於ける劉備評の中にもかなり存在しているのだが、

しかしだからこれが、司馬懿の評などとも同様に、

フタを開けて見れば実は別に何の“裏”もなく、

意外に普通に唯の“表”だけだったと、いうことのように思える。


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