魏延の存在価値
230年に行われた曹真の蜀遠征と、魏延、陽谿の戦い。
【年表】
226年5月、
魏の文帝・曹丕が病死。明帝・曹叡が魏の第二代皇帝に即位。
226年8月、
孫権自ら五万の軍勢を率い、
江夏郡太守・後将軍の文聘を石陽城に攻めるも僅か20日間余りの対陣で撤退。
襄陽を攻めた左将軍・公安督の諸葛瑾も
魏の撫軍大将軍・司馬懿と右将軍・徐晃らの前に敗退。
227年春、
蜀漢丞相・諸葛亮は『出師の表』を上疏して漢中に進駐。
227年6月、
驃騎将軍の司馬懿が新たに荊州と豫州、
二州の軍事統括司令官として宛に駐屯。
228年春、
蜀に寝返ろうとした新城の孟達が司馬懿に斬られる。
同年、春、諸葛亮が第一次北伐を開始して自ら祁山に進出。
天水・南安・安定の三郡が魏から蜀へと離反。
しかし馬謖の街亭の敗戦で、蜀軍は撤退。
228年8月、
呉の鄱陽太守・周魴の偽降をきっかけに、
魏の曹休が10万の軍勢で呉領内、揚州の晥城へと侵攻。
同時に荊州方面では驃騎将軍の司馬懿と左将軍の張郃が荊州南郡江陵へ向け、
豫州方面からは豫州刺史の賈逵、前将軍の満寵、徐州東莞太守の胡質らが、
合肥南東の濡須口(東関)に向けて出兵。
しかし曹休が晥城の北東、内石亭の地で、
呉の大都督輔国将軍荊州牧の陸遜、鎮西将軍の朱然、奮威将軍の朱桓らに、
三方から包囲されて大敗。
曹休は賈逵の救援で辛うじて戦場を脱するも、
敗戦のショックから悪性の腫瘍を発し、やがて病没。
228年12月、
諸葛亮は第二次北伐遠征を開始。
散関から兵を出して陳倉を包囲するが敵城の防備は固く、
蜀軍は攻め切れず兵糧切れで撤退。
229年春、
諸葛亮は第三次北伐遠征を開始。
陳式を派遣して武都・陰平二郡を攻めさせるとともに、
自身も建威に出て、二郡を平定する。
229年4月、
孫権が皇帝に即位。
230年8月、
魏の大司馬・曹真が明帝に対し、蜀征伐の遠征を申し出て認められ、
曹真は長安から子午谷より蜀に攻め入り、
また荊州方面では大将軍の司馬懿が、漢水を遡って南鄭を攻撃。
しかし秋の長雨が30日続き、遠征の続行が困難となり、
明帝の勅命により魏の蜀征伐は全面撤退という結果に終わる。
洛陽に帰還した曹真は間もなく重病に陥り、231年3月に逝去。
230年、
魏の蜀遠征が失敗に終わった直後、
逆に漢中から魏延・呉懿らが羌中に向けて出陣。
陽谿の戦いで魏の郭淮・費耀を撃破する活躍を見せる。
230年冬、
孫権が合肥へと侵攻。
しかし賈逵や曹休の死後、彼らの任務を受け継ぎ、
都督揚州諸軍事・豫州刺史・征東将軍となった満寵が
孫権の偽装撤退を見破ったため、
孫権軍は敗退。
【逆襲の曹真】
229年春の、諸葛亮第三次北伐で武都・陰平の二郡を蜀軍に奪われた魏では、
230年8月、大司馬・曹真の上奏により、
大規模な蜀への反転攻勢遠征計画が提案されることとなった。
相当大掛かりな作戦で、
大司馬の曹真は自ら斜谷道を通って漢中を目指し、
荊州の大将軍・司馬懿は漢水伝いに水陸両輪で同様に漢中郡南鄭への侵入を図り、
また遠く西方、涼州の武威方面(涼州刺史の徐邈か?)からも
侵攻計画が練られた。
が、これでは余りに規模が大き過ぎ、
軍糧の負担や蜀の難道に臨んでの兵の進退等、リスクが高いと、
司空・陳羣からの批判を受けたため、
曹真は代わりに、自らの進軍経路を斜谷道から子午道に変えた
新たな修正案を提示。
それにもやはり陳羣からクレームが入ったのだが、
最終的には曹真がそれを受け入れた形での、
漢中遠征が決行される運びとなった。
どうも結局は曹真と司馬懿二方面からの侵攻となったようだったが、
この魏軍の動きに対しては蜀軍の方でもまたそれに合わせ、
孔明は先ず江州に駐屯していた驃騎将軍の李厳を
兵2万人とともに漢中まで呼び寄せると、
北方からの敵に対しては魏軍の出口となる場所に成固と赤板の
二城を築いて自ら守備を受け持ち、
さらに東方荊州、漢水からの敵に対しては、
李厳の子の李豊を新たな江州都督として備えさせた。
しかし結果は30日以上も続いた秋の長雨のために、
魏側で物理的に侵攻が不可能となり、
そのまま断念。
230年の8月に始められた曹真の南征は、
結局一月余りの滞陣で全軍撤退の結果に終わってしまう。
しかし仮に曹真が建てた最初の大規模遠征計画のほうだったとしても、
やはり失敗に終わっていただろう。
孔明は北東二方面の敵の備えだけでなく、
不意の敵の出現に対しても李厳の2万の予備兵を用意していたし、
それにもし蜀が魏に攻め滅ぼされるようなことになれば、
次は呉が危なくなる。
だから蜀がピンチに陥る程、呉が黙っていない。
ただ蜀の場合、皇帝があの劉禅なので、
漢中を突破されて直接成都へと入り込まれた場合は危ない。
劉禅が一人で降伏してしまう。(笑)
しかし孔明の存命中はまだ、それも不可能だったろう。
孔明の対応は完璧だ。
だから230年8月の曹真の遠征計画も、
それは恐らく、
魏蜀間の国境地域に存在する郡県城郭諸都市に対してのパフォーマンス。
第一次北伐の際にも、孔明が祁山を攻撃すると
周辺の南安・天水・安定の三郡が魏から離反して蜀に付いてしまったが、
言わば彼ら第三勢力への牽制のため、
成否に関わらず示威運動として見せておくべき
戦いだったということなのではなかろうか。
それと、曹真自身の健康面での問題もあったかもしれない。
曹真はこの蜀の遠征から帰還して間もなく重病となり、
翌231年春3月に亡くなってしまう。(曹真の跡目は曹爽が継ぐことに。)
孔明第二次北伐の時も、曹真は費曜を援軍に派遣するも
自身が直接現場の救援に駆けつけることはなかった。
だから230年の蜀への遠征も、
どこか彼にとって国に対する最後の奉公といった意味合いが
強かったのではないか。
曹真は失敗に終わりそうな作戦の結果を見抜けずに実行してしまうような、
浅はかな将軍ではない。
曹真は曹丕~曹叡の代に掛け、
大将軍として実質帝国全体を纏める総司令官の地位にあったが、
器量・実力ともに申し分なく、
唯一の欠点といえば太っているといったところぐらいであろうか。(笑)
曹真は曹休と共に同じ曹操の族子として引き取られて養育を受け、
特に曹丕とは起居を共に過ごした、
曹丕にとって本当の意味での兄弟のような存在だった。
魏としても皇帝の親族に、これだけ確かな人物がいれば安泰だったろうが、
しかし『三国志演義』では諸葛亮と司馬懿、
二人の天才軍師の間に入って見事な引き立て役とされ、
この辺りは何とも気の毒な限りだ。
《魏延の存在価値》
一方的に蜀にばかり、攻められているわけにはいかないと、
計画された曹真の蜀遠征だったが、
結局長雨により撤退。
そしてまた皮肉なことに、曹真や司馬懿、魏の遠征軍が撤退を遂げたその直後、
直ぐにまた蜀の反撃が開始される。
それが230年、
遠く西方の羌中(甘粛省甘南チベット族自治州、卓尼県一帯)にまで
進出をしていった魏延や呉懿らによる長距離遠征。
魏延・呉懿はその際、陽谿の戦いで魏の郭淮・費瑤と戦って撃破し、
その功績で、魏延は督前部、丞相司馬・涼州刺史から
前軍師・征西大将軍・仮節、南鄭侯に昇進し、
呉懿もまた護軍・討逆将軍、関中都督から
左将軍、高陽郷侯に昇進。
既述のように魏の曹真が重病となっていたため、その影響だろうが、
しかし蜀軍はこの西方への遠征で、
魏本国からの援軍の邪魔を受けることがまったくなかった。
ただ曹真が無理でも張郃はいた筈なので、
まったく本国からの援軍が派遣されなかったというのは
少し首を捻ってしまうところだ。
やはり蜀への遠征が兵站面でかなりの負担になってしまったということだろうか。
しかしながら、
魏延はこれまでもしつこく孔明に、
自身が独立先行しての長安急襲作戦の遂行を打診していたが、
ここで漸くその独立の遠征軍として派遣され、
活躍の機会を得ることとなった。
魏延の長安急襲作戦については現代でも盛んに議論されるところだが、
私から見て、
魏延が孔明にしつこく願い出ていたその長安急襲策は、
もし実行されていれば十中八九、成功をしていた。
この作戦の詳細について、
『魏略』の記述では、
※(『三国志 魏延伝』注「魏略」)
「魏略曰:夏侯楙為安西將軍,鎮長安,亮於南鄭與群下計議,
延曰:「聞夏侯楙少,主婿也,怯而無謀。今假延精兵五千,負糧五千,
直從褒中出,循秦嶺而東,當子午而北,不過十日可到長安。
楙聞延奄至,必乘船逃走。長安中惟有御史、京兆太守耳,
橫門邸閣與散民之谷足週食也。比東方相合聚,尚二十許日,
而公從斜谷來,必足以達。如此,則一舉而咸陽以西可定矣。」
亮以為此縣危,不如安從坦道,可以平取隴右,十全必克而無虞,
故不用延計。
(魏略に曰く:安西将軍の夏侯楙が長安を鎮守していた。
諸葛亮は南鄭において群下の者達と計議を興すと、
魏延は:“聞けば夏侯楙は年若く、主の婿(夏侯楙は夏侯惇の子)で、
臆病で無謀。
今、仮に私に精兵五千と、糧食5千をお任せくだされば、
真っ直ぐに褒中から出て、秦嶺山に沿って東へと進み、
子午道から北へと向かわせて貰えるのなら、
長安に到るまで10日もかからないでしょう。
夏侯楙はこの私がいきなりやってきたと聞けば、
必ず船に乗って逃走するに違いありません。
長安にはただ御史と京兆太守がいるのみ。
横門にある邸閣の食料貯蔵庫と、散逸した民の穀物で、
軍の兵糧は十分に足ります。
東方の魏軍が軍勢を集めるのに、なお20日ばかりはかかるでしょうから、
公(諸葛亮)は斜谷から出てこられるまで、十分、間に合うでしょう。
このようにすれば、一挙に咸陽以西の地を
平定することができるでしょう。」と。
しかし諸葛亮はこの計を危ぶみ、安全で平坦な道から出て、
隴右の地域から平定して取るのがよく、
そのほうが十全必勝の策で危険が無くていいと、
魏延の計を用いなかった。)」
と、なっていて、
それと今一つ、
『魏延伝』の本伝の記述では、
※(『三国志 魏延伝』)
「延每隨亮出,輒欲請兵萬人,與亮異道會於潼關,如韓信故事,
亮製而不許。延常謂亮為怯,嘆恨己才用之不盡。
(魏延は毎度、諸葛亮が北伐遠征に出向く、そのたびに兵一万で、
諸葛亮とは異なった道から潼関で落ち合い、
韓信の故事に倣いたい、などと欲していたが、
諸葛亮は制止して許さなかったため、魏延は常に諸葛亮が臆病なため、
己の才が用いられないのを嘆き恨んだ。)」
と、
このような感じに。
両者で多少の違いはあるが、
大まかには魏延が先に急行して長安を奪取し、
後から孔明の本隊と合流するという計画。
しかし成否に関しては先ず、長安の守将が夏侯楙だったということ。
もうこれだけで成功の確立は間違いない。
これはだから、後に成都への直接襲撃を受けて降伏してしまった
劉禅と一緒で、
他にも劉備の蜀取りの際、軍師の龐統が劉備に対し、
益州牧・劉璋の籠る成都への急襲策を上策として献策していたが、
これなども詰まり劉璋本人の降伏や逃亡を狙ってのことだろう。
要するに彼らは皆、“そういう”人達だったわけだ。(笑)
それと、今一つの成功要因として、
これは孔明が第一次北伐で祁山にまで進出をした後のことになるが、
その時に魏帝の曹叡が自ら長安にまで出てきていた。
何故かといえばそれは長安の動揺を鎮めるため。
蜀軍が祁山を攻めたことで魏の天水・南安・安定の三郡が
蜀に寝返ってしまったが、
曹叡はそうした事態を危惧し、慌てて自ら長安にまで乗り込んでいった。
だからその曹叡が長安に出てくる前なら、
祁山と同様、長安を攻略することでその長安周辺、
三輔(京兆尹、右扶風、左馮翊)と呼ばれる地域が
一斉に蜀に寝返っていた可能性が非常に高い。
これは当時の一種の法則で、
本国と結ぶ補給線が途中で敵に分断された場合、
その時点で孤立した支城のほうは降伏を余儀なくされてしまう。
第一次北伐の際、隴西郡太守の游楚という人が実際、
※(『三国志 張既伝』)
「卿能断陇,使东兵不上,一月之中,则陇西吏人不攻自服」
などと、
敵に都との間の道を遮断されれば降伏するしかないといった発言をしていて、
多少粘ることはできても、
それもせいぜい一ヶ月だと言っている。
だから魏延がもし長安の一気奪取に成功していれば、
長安はおろか、周辺地域まで一斉に蜀に靡いていた可能性が
とにかく高い。
が・・・、
ただ問題は取って、城を取れてもその後のことである。
魏延は潼関まで取って本隊と合流すると言っていたが、
軍隊の別行動というのは非常に危ない。
もし何らかの事情で孔明本隊との合流を果たせなければ、
魏延は逆に長安で孤立する結果となる。
実際蜀軍は第二次北伐の際に、陳倉に立て籠もる僅か千余人の抵抗の前に、
遠征の進軍を断念にまで追い込まれている。
予定と本番では、
何がどう変わるかわからない。
それと、仮に長安周辺の地域を蜀に離反させたとしても、
その後に曹叡がやってくれば、
そこでまた所属が一気に魏の領有へと塗り替えられてしまう。
魏延の作戦は“先ず大丈夫”という考えに立っての作戦だ。
しかし孔明の場合はさらにそのリスク面での不確定要素を細かく潰していって、
“本当にもう、これでなら大丈夫か?間違いはないのか?”という立場に立って、
全ての作戦が立てられている。
だから孔明が魏延の提案に対し『魏略』で、
平坦な道を進み、隴右を平定を優先したほうが安全だと語っていた、
そのままのことで、それ以上でも以下でもない。
しかしこれは全軍のみならず、
一国を統べる宰相の立場に在る者の執るべき態度として
どちらが望ましいといえるか、
答えは明らかだ。
元より蜀が一人でどれだけ頑張ったところで、
単独で魏を攻め滅ぼすことなど不可能なのだ。
そこは呉の動向を窺いつつ、ことを進めていく必要があり、
だから大前提として蜀が単独で無理をするわけにはいかない。
蜀が一人で動いても呉が一緒に動いてくれなければ、最終的な成功は得られない。
そのためには何度でも繰り返し、
チャンスにはいつでも勝負を賭けられるような体制で臨まなければ、
一々リスクの高いバクチなどしてはいられない。
が、これが逆に、
弱小の追い詰まれた立場だからこそ、敢えてリスクの高い冒険を犯さなければ、
その弱い立場を覆すような成果も得られないと、
そのような見方も存在しているが、
しかし例えば後の第四次北伐の際に、
祁山の戦いで孔明は司馬懿率いる魏の本隊相手にそれこそその、
稀有な野戦での大勝利を収めているが、
しかしそれでその後どうなったかといえば、
司馬懿はまた元の山上に築いた陣地に戻って防備を固め、
そのまま一ヶ月以上も睨み合いの対陣が続いただけだった。
詰まり野戦の大勝というのは得られて、
せいぜいその程度の戦果でしかない。
その一勝のために、一体どれだけのリスクを背負い込まなければならないのか。
これはもう必然として三国中最も国力の貧弱な、
蜀という国の持つ条件に左右されてしまうもので、
だからたとえば司馬懿などは良く孔明に対し、
「諸葛亮は臆病で、果敢な決断力や実行力に欠ける」などと評していたが、
それは自分が大国の魏に属しているからこそ言える言葉で、
もし司馬懿が小国の宰相の立場にいれば、
やはり孔明と同じ消極策しか取れない。
だから別に孔明が逆に魏にいれば、司馬懿と同じことはできる。
それともう一つ、
孔明が魏延にリスクの高い長安急襲作戦を認めなかった大きな理由として、
孔明としてはたまさか、
魏延を戦場で無駄に死なせて失うようなことを最も恐れていた。
それくらい大事な武将だったから。
魏延はたとえば現代日本のブロ野球で言えばダルビッシュ。
彼が投げればほぼもう間違いなく勝てるという、
必勝のエース。
孔明の行う軍事作戦は基本、危難を避け、
確実に味方が勝てるような布陣を展開して相手をその条件化に
引き擦り込むというものだったが、
しかし戦場の現場の状況は刻々と変転をする。
思わぬ不利な条件での戦いを強いられるケースも訪れることだろう。
しかしそんなときでも、どんな場合でも、
戦えば如何なる相手にも変わらぬ一勝をモノにすることができるという、
魏延とはまさにそんな必勝将軍だった。
これはもう、蜀の行う軍事作戦上、
決して手放すことのできない切り札、ワイルド・カードだった。
それが魏延。
蜀中最強。
当時の中華全土を含めてみても、
確実にMVPクラスの武将だったことは間違いない。
だから基本、魏延は丞相司馬や前軍師など、孔明の本部付けが多い。
孔明自身が手放さなかったのだろう。
とにかく敵との戦いにおいては何より不確定要素を排除し、
より安全でブレの無い作戦計画を理想としていた孔明にとって、
魏延は戦闘の勝利に非常に高く、安定した確率を計算できる野戦司令官だった。
だから孔明本人が直接敵と戦う本戦を予定していた場合、
孔明が魏延を単独で切り離して使うことはしない。
長安しかり街亭しかり。
しかし西方羌中への出兵に関しては、このときは孔明は出兵しておらず、
自分のところで使う必要がなかったため、
安心して独立の遠征にも魏延を送り込むことができた。
魏延は良く孔明の総軍司令官としての消極的な態度を「臆病だ」と批判し、
現代でもこの両人の確執は色々と取り沙汰されるところだが、
確かに魏延には、余り自分を単独で自由に使ってくれない孔明に対しての
不満はあったかもしれない。
しかし孔明が魏延を自身の手許から容易に手放すことがなかったのは、
それだけ孔明が魏延の力を信頼し、必要としていたからで、
魏延のほうも内心、そこまで孔明に対しての
不満などはなかったろう。
魏延と孔明両者の関係については、
「魏延は関羽?」(http://ncode.syosetu.com/n8983bp/)なども、
ご参照いただければと思います。