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第二次北伐(陳倉の戦い)~第三次北伐(武都郡・陰平郡の制圧)

第二次北伐(陳倉の戦い)~第三次北伐(武都郡・陰平郡の平定)まで。

【年表】


226年5月、

魏の文帝・曹丕が病死。明帝・曹叡が魏の第二代皇帝に即位。


226年8月、

孫権自ら五万の軍勢を率い、

江夏郡太守・後将軍の文聘を石陽城に攻めるも僅か20日間余りの対陣で撤退。

襄陽を攻めた左将軍・公安督の諸葛瑾も

魏の撫軍大将軍・司馬懿と右将軍・徐晃らの前に敗退。


227年春、

蜀漢丞相・諸葛亮は『出師の表』を上疏して漢中に進駐。


227年6月、

驃騎将軍の司馬懿が新たに荊州と豫州、

二州の軍事統括司令官として宛に駐屯。


228年春、

蜀に寝返ろうとした新城の孟達が司馬懿に斬られる。

同年、春、諸葛亮が第一次北伐を開始して自ら祁山に進出。

天水・南安・安定の三郡が魏から蜀へと離反。

しかし馬謖の街亭の敗戦で、蜀軍は撤退。


228年8月、

呉の鄱陽太守・周魴の偽降をきっかけに、

魏の曹休が10万の軍勢で呉領内、揚州の晥城へと侵攻。

同時に荊州方面では驃騎将軍の司馬懿と左将軍の張郃が荊州南郡江陵へ向け、

豫州方面からは豫州刺史の賈逵、前将軍の満寵、徐州東莞太守の胡質らが、

合肥南東の濡須口(東関)に向けて出兵。

しかし曹休が晥城の北東、内石亭の地で、

呉の大都督輔国将軍荊州牧の陸遜、鎮西将軍の朱然、奮威将軍の朱桓らに、

三方から包囲されて大敗。

曹休は賈逵の救援で辛うじて戦場を脱するも、

敗戦のショックから悪性の腫瘍を発し、やがて病没。


228年12月、

諸葛亮は第二次北伐遠征を開始。

散関から兵を出して陳倉を包囲するが敵城の防備は固く、

蜀軍は攻め切れず兵糧切れで撤退。


229年春、

諸葛亮は第三次北伐遠征を開始。

陳式を派遣して武都・陰平二郡を攻めさせるとともに、

自身も建威に出て、二郡を平定する。


229年4月、

孫権が皇帝に即位。



【第二次北伐 ~陳倉の戦い~】


228年8月、荊州方面で行われた魏と呉の戦いの後、

228年12月、諸葛孔明は第二次北伐遠征を開始。


挿絵(By みてみん)

(第二次北伐 行軍図)


同じ228年の春に行った第一次北伐では軍を二手に分け、

自身は関山道から祁山へと進んだ孔明だったが、

第二次北伐では軍も分けず、ルートも変えて故道から散関を抜けて

陳倉を攻めた。


しかしこの動きは既に魏の曹真によって読まれていた。

曹真は街亭の敗戦で蜀軍が撤退をしていった後、

蜀に寝返った天水・南安・安定の三郡を征討し、再び魏に臣従をさせたが、

そこから引き上げる際に、

「諸葛亮は祁山に於いて懲りた為,次には必ず陳倉より出てくるだろう」と言い、

将軍の郝昭等を派遣して陳倉の防備を固めさせていたのだった。

しかし守る人数自体は僅かに千余人。


孔明は構わずに陳倉を攻めさせるが、

しかし想像以上に城の守りは堅固で抜けず、

陥落させることができなかった。


孔明は郝昭と同郷人だった靳詳を派遣して降伏を呼び掛けるもうまくいかず、

仕方なく再び雲梯や井闌等の各種攻城兵器を使い、

果敢に城攻めをいったが、どれも失敗に終わり、

結局攻城二十日間程を経て、

またも敗れて無念の撤退という結果に終わってしまうのだった。


ただその際、郝昭と共に陳倉の守備に就いていた将軍の王双が、

撤退する蜀軍を追って城から飛び出してきたため、

孔明は待ち伏せて王双を斬った。


一方魏軍の方では、蜀に攻められる陳倉の救援に、曹真が将軍の費耀らを派遣。

さらに洛陽の都では河南城から張郃が3万人の軍勢を連れて

蜀軍撃退の援軍に向かう準備が進められていた。

魏の明帝・曹叡は自ら河南城にまで出向き宴席を設けて張郃を見送り、

またその際曹叡は陳倉が既に蜀軍に落とされているのではないかと

心配をしていたそうなのだが、

張郃は「敵は糧食少なく、恐らくは私が陳倉に到着するよりも早く、

滞陣10日程で城を攻め切れず撤退しているでしょう」と答えた。


実際には20日間程だったが蜀軍は張郃の予想通り、

陳倉城を落とせず、そのまま兵糧切れで撤退へと追い込まれた。



【北伐遠征軍の補給問題】


さてしかし先ず始めの疑問として、

曹真は何故、孔明の二回目の北伐が陳倉だと予想できたのか?


曹真は「一度祁山で懲りたから」と言っていたが、

孔明は後の第四次北伐の際にも、同じその祁山を攻め立てていた。

だから別にまた祁山に出くることもできた筈だ。


それと今一つ気になるのが、

蜀軍の遠征が、たった20日間分の食料しかなかったということ。

これなどにしても、たったの20日間分では満足に敵との戦争も行えないだろう。

陳倉戦だけでなく、本国からは敵の援軍も迫ってきていた。


勿論蜀の食料生産量がそれだけというわけではなく、

恐らく一回の輸送可能分量がそれだけということなのだろう。

そこはやはり険しい山脈越えの難道なだけに、

たくさんの量を運びたくとも限界があるのに違いない。


しかし、となるとこれは、

同時にまた蜀軍の行う一度の軍事活動単位が、

最大で20日間だということにもなってきてしまう。

詰まりその動ける20日間の内に、蜀軍は新たな補給を受けるようにしなければ、

次からの軍事活動が行えなくなってしまう。


孔明は第四次北伐の際に上ケイで麦刈りを行っていたが、

要するにそこに食料があった。

第五次北伐の際には五丈原で屯田を行った。

詰まりそれが行えるような地形だった。

そして第一次北伐遠征時、

その時孔明は始めに先ず郿城を奪うと宣言していたが、

郿城といえば、

嘗て董卓がそこに30年分の食糧を蓄え立て籠もった城として

非常に有名な城だ。

そして第二次北伐遠征の際の陳倉。

“倉”というからに、

やはりそこは魏の重要な食料集積地だったのではないか。


何れも皆、食糧の確保が重要なポイントとなっている。

詰まり孔明の北伐遠征とは元々、占拠可能な各地の食料拠点を確保しつつ、

続けていくような軍事作戦だったということのようである。


孔明は第一次北伐の際に祁山を攻めているが、

その時の魏軍側の守備兵が誰であったかは不明。

しかし後の第四次北伐の際には、賈嗣、魏平という将軍が守備に就いていた。

だからこの祁山も陳倉と同様、一度目の蜀軍の侵攻を受けてから、

前回の時と比べて強化されていた可能性が高い。

詰まり一度通った道は敵の警戒が強くなる。

即ち遠征に向かう進軍ルートは、一々道を変えていったほうがいいと。


それに陳倉のほうは曹真が強化したといっても人数自体は1000人程度。

かつて官渡の戦いのとき、エン州のケン城で都督の程イクが

率いていた兵が700人で、

対する袁紹軍の方は、ケン城の余りの人数の少なさに、

もう城攻めも行わずに無視してスルーしていってしまうほどだった。

だから1000人とはせいぜいその程度の人数で、

総合的な判断から、

蜀軍にとって陳倉は最も妥当な攻略ポイントだったのだろう。


また曹真の側から見た場合でも、

『水經注』の「與兄瑾言治綏陽谷書」に書かれている内容など、

蜀軍は既に第一次北伐の段階で陳倉を一つの攻略目標として捉えていた

可能性が高い。

褒斜道(斜谷道)と関山道は第一次の北伐で使用し、

険しい難道を通った長安への急襲策も諸葛孔明の性格上、考えにくく、

子午道と駱谷道も除外。

となると残るは散関から陳倉へと抜け出る故道。


孔明としては曹真に自分の動きを読まれていたことになるが、

といって千人程の人数では、

遠征計画の変更を行うほどの障害にもならなかったろう。


元より孔明の北伐遠征作戦自体が、

非常に緻密な補給計画を考えた上での行動だった筈で、

それを考えた場合、一度決めた作戦計画を途中で簡単に変えることも

困難だったに違いない。

しかし陳倉攻めには前以て、相当大掛かりな攻城兵器群を

持ち込んでいることからも、

蜀軍ではたまさか、不慮の事態にも対応が効くよう、

かなりの準備をしていたことが窺える。

孔明は軍司令官として、やるべきことは充分に行っていた。

ただ第二次北伐遠征の陳倉攻めに関しては、

守将の郝昭が良く力を尽くし、善戦したということだろう。


蜀軍では逆にたった小数の敵城の攻略もできず、

不甲斐なく追い返されたことになる。

“たったその程度の城も攻め落とせずに、何が魏の打倒か?”と、

例えば陳寿などが、

「然連年動眾,未能成功,蓋應變將略,非其所長歟

(然れども連年のように軍隊を動かしながら、魏への北伐が成功しなかったのは、

応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかったからだろうか)」と、

有名な評を残しているが、

しかし当時の城は例え小規模でも、本気の抵抗をされれば容易に陥落は覚束ない。

中に入る将兵の質によってもそれは大きく左右される。

詰まりそれくらいの不確定要素の出現で、

軍事活動の結果全体までが大きく左右されてしまうということでもある。

ましてそんな城が幾つも存在するのだから、

それを“うまくすれば勝てる”だなどと、

思っているほうがよっぽど危ない。


陳寿は孔明に対して何か私怨があったのではないかとも言われているのだが、

こんなことは実際、別に書かでもの、軍事を知らない素人の言葉だ。

ただ古今の戦史においても奇策が功を奏し、

現実に稀有な大勝を収めたというケースも幾つか、存在はしている。

曹操などもそうした“応変の将略”を駆使して、

鮮やかな勝利を数々モノにしてきていたが、

しかし彼が相手にして勝ちを収めた敵というのは誰も皆、

黄巾の賊だったり、あるいは袁術や呂布など、それこそ軍司令官としては

二流・三流以下の者達ばかりだ。

相手がバカなら勝ちはいくらでも得られる。

しかし戦争というのは別に、相手が優れた名将でなくとも、

ただ普通の常識を備えた者であれば、

もうそれだけで、以後の展開はビタッと、動かなくなる。

まして曹叡・曹真・張郃・司馬懿ら、超一級の名将達を相手に、

国力においても5倍以上の差のある大国を敵に回して、

“どうして勝てないのか?余り戦争はお上手ではないようですね”

などとは・・・。

大体その考えでいけば、

呉や蜀よりも遥かに強大な国力を持った魏のほうは、

とっくに呉や蜀を滅ぼしていなければおかしい。

またそうなれば魏にはそれこそ孔明以下の無能しかいないということにも

なってくる。

陳寿は他にも色々、自分の恣意的な判断で

記載者への評を変えるといった態度が見受けられるようなので、

孔明に対しての“応変の将略”云々といったこの一文に関しても、

どうも実際に何か、個人的なやっかみがあったように感じられてならない。


逆に陳寿が本気で魏の打倒について、

上手くやり方次第では勝てるなどと思っていたとすれば、

もしそんな考えの人間が遠征の軍司令官だった場合、

例えば陳倉城の攻略などにしても、

下手をすれば味方が全滅をするまで粘っていたことだろう。

そんなことは“当たれば、当たれば・・・”と、

何度も確立の低い大穴狙いを続けて、

最後には手持ち資金の全部を磨り潰してしまうギャンブラーのようなもので、

官僚ならばなおさら、

計画を成功させなければそれが自分達の責任問題になってしまうので、

何がなんでも失敗は認めず、

自分達が初めに考えた作戦案に拘って絶対に中断をしない。

仮にそれでもし作戦が失敗に終わったとしても、

少なくとも“こうなっていれば・・・”という前提があるので、

自分達のその考えが悪かったとも、間違いだったなどとも決して思わない。

だから彼らには反省がない。

会社だったら突然の巨大損失発覚とともに、

気が付いたときには既に手遅れといったパターンで、

最後の破滅のそのときまで、その暴走は止まらないだろう。


孔明は確かに陳倉戦に敗れ、あえなく撃退をされたが、

しかし逆を言えば孔明自身が無理な戦争にいつまでも拘らず、

自軍の損耗を最小限に兵を引き上げさせたというふうにも捉えることができる。

実際彼はこの第二次陳倉戦の撤退後、直ぐにまた第三次の北伐遠征に

乗り出すこととなる・・・。



【北伐遠征回数の数え方】


蜀軍は第一次遠征に続き、第二次遠征も失敗。

ところが・・・、

228年の12月に、陳倉攻めに失敗して漢中へと戻った蜀軍は直ぐにまた、

年明けの229年の春に、再び第三次北伐遠征を開始。

孔明は陳式を派遣して武都・陰平二郡を攻めさせるとともに、

自身も建威に出て陳式の背後に備え、同二郡を平定する。

この時魏軍では雍州刺史の郭淮が蜀軍の迎撃に出てきたが、

孔明の建威進出に撤退。


挿絵(By みてみん)

(第三次北伐 行軍図)


だからこの第二次遠征と第三次遠征の北伐には、

直接の連続性がある。

詰まり孔明としては陳倉の攻略は失敗したが、

しかし直ぐにまた方針を改め、

今度は武都・陰平二郡の占拠に作戦を切り替えたということだ。

連続性はあるが同じ戦術作戦行動ではない。

飽くまで別モノ。やり直し。


ただし第一次から第三次までの北伐遠征は、

ほぼ一回分の軍事キャンペーンと見ていい。

元々第一次北伐の撤退も、馬謖の軍令違反による想定外の敗戦で、

蜀軍は致命的なダメージを負ったわけではない。

そして第二次遠征における陳倉の戦いも同様、

敵の意外な備えからの不慮の撤退。


後に孔明が第四次北伐遠征にやはり補給が続かず撤退した際、

司馬懿は次の蜀軍の遠征を三年後と予想し、

そして実際、その三年後の234年に第五次北伐遠征が行われることとなった。

第三次の北伐が229年で、第四次の北伐が231年だったので、

司馬懿はそのような予想が立てられたのだろう。


詰まり孔明の北伐は3年の準備期間に一回の北伐遠征実行が基本。


第一次から第三次の遠征までは228年の春から229年の春と、

ほぼ一年間の間に行われている。

だから通常、孔明の北伐は本人が直接親征し、出兵していった回数を

基準に数えられているが、

大きな戦術キャンペーンとしての北伐の枠組みは、

分けて三回だ。


228年春、第一次北伐(街亭の戦い)※負け

228年冬、第二次北伐(陳倉の戦い)※負け

229年春、第三次北伐(武都・陰平の平定)※勝ち


231年春、第四次北伐(祁山の戦い)※勝ち


234年春、第五次北伐(五丈原の戦い)※分け


しかしこの数え方は結構重要で、

何故かというと、

単純にその分、孔明の敗け数が減るのだ。(笑)


これはでも実際、バカにはできない。

孔明は確かに第一次・街亭の戦いと第二次・陳倉の戦いで敗れて撤退したが、

しかし第三次までの北伐遠征を同じ作戦行動の一環と見なせば、

最終的に蜀軍は武都・陰平二郡の占拠という勝利の形で終わっている。


第四次の撤退も李厳の失態から補給切れのための撤退で、

それまでは野戦でも魏に勝っていた。

第五次の戦いは五分の戦いだったが、

最終的には孔明の病死による撤退。


だからこう見れば、大きく三回の作戦行動として、

別に孔明は彼の北伐遠征でどこも負けてなどいない。


最終的に蜀が魏を倒すことができなかったという観点に立ってみれば、

確かに蜀軍の敗けとなってしまうのだが、

純粋に局地戦での、魏蜀両軍の軍事衝突の結果でいえば、

これは明白な蜀軍の優勢、判定勝ちと見なすことができる。


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