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孫権の戦い

228年春、蜀軍の第一次北伐に前後して行われた孫権軍による対魏二つの戦い、

226年8月の石陽の戦いと、228年8月の石亭の戦いから、

孫権の戦いと人物を考える。

228年春から行われた諸葛孔明の第一次北伐は、

最終的に孔明の指示を無視した馬謖が街亭で魏の張郃に撃破されたことで、

蜀軍の敗退という結果に終わった。

孔明は撤退後、馬謖ら関係者の処断をするとともに、

自らもまた三階級降格で丞相職を退き、右将軍の身分に。


しかし孔明はまだその年も明け切らぬ228年の冬の内に、

直ぐにまた今度は第二次となる北伐を開始することとなる。


その前後の年表を追っていくと・・・、


226年5月、

魏の文帝・曹丕が病死。魏の第二代皇帝には明帝・曹叡が即位。


226年8月、

孫権自ら五万の軍勢を率い、孫奐・鮮于丹らを連れて

魏の荊州江夏郡太守・後将軍の文聘を石陽城に包囲。

しかし文聘の固守の前に呉軍は攻めあぐね、

孫権は敵援軍来着の報と共に、僅か20日間余りの対陣で撤退。

一方でまた、

襄陽を攻めていた左将軍の諸葛瑾、及び張覇も、

魏の撫軍大将軍・司馬懿、及び右将軍の徐晃らの前に敗れ去るという結果に。


227年春、

蜀漢丞相・諸葛亮は『出師の表』を上疏して漢中に出兵。

沔水べんすいの北、陽平郡の石馬県に陣を構えて留まる。


227年6月、

驃騎将軍に昇進した司馬懿が新たに都督荊州豫州諸軍事に任命され、

同二州を統監する司令官として宛への駐屯を命じられる。


228年春、

魏から蜀に再び寝返ろうとしていた新城の孟達が、

司馬懿から急襲を受けて斬られる。

同年春、諸葛亮が第一次北伐を開始して自ら祁山に進出。

天水・南安・安定の三郡が魏から蜀へと離反。

しかし馬謖が諸葛亮の命令を守らずに街亭で敗れ、蜀軍は撤退。


228年8月、

呉の鄱陽太守・周魴の偽降をきっかけに、

魏の曹休が10万の軍勢で呉領内、揚州の晥城へと侵攻。

同時に荊州方面では驃騎将軍の司馬懿と左将軍の張郃が荊州南郡江陵へ向け、

豫州方面からは豫州刺史の賈逵、前将軍の満寵、徐州東莞太守の胡質らが、

合肥南東の濡須口(東関)に向けて出兵。

しかし曹休が晥城の北東、内石亭の地で、

呉の大都督輔国将軍荊州牧の陸遜、鎮西将軍の朱然、奮威将軍の朱桓らに、

三方から包囲されて大敗。

曹休は賈逵の救援で辛うじて戦場を脱するも、

敗戦のショックから悪性の腫瘍を発し、やがて病没。


228年12月、

諸葛亮は第二次北伐遠征を開始。

散関を経て陳倉を包囲するが、城将・カク昭の堅守の前に攻め落とせず、

兵糧切れで撤退。


229年春、

諸葛亮は第三次北伐遠征を開始。

陳式を派遣して武都・陰平二郡を攻めさせるとともに、

自身も建威に出て陳式の背後を魏軍から守りつつ、二郡を平定する。


229年4月、

孫権が皇帝に即位。



挿絵(By みてみん)

魏呉人員配置図(228年頃)


《石陽の戦い》


226年8月、孫権自ら五万の軍勢で孫奐・鮮于丹らと共に

江夏郡太守の文聘を石陽城に包囲。

そのとき、石陽城は大雨の影響で城壁が崩れ掛かっていた程だったのだが、

文聘が泰然自若と官舎内で横になった姿を孫権に見せると、

孫権は「援軍が来るからああいう風に余裕でいられるのだ」と考え、

敢えて自分から無理に城へ攻めかかろうとはしなかった。

一方、魏の都でもこの孫権の大侵攻に、

江夏郡に援軍を送ろうとの意見が出されていたのだが、

しかしまだ帝位を継いだばかりの曹叡は、

「水戦に慣れた孫権が船を降りて陸戦を挑んで来た狙いは奇襲にあり、

文聘が江夏を固守している以上、城は簡単に落ちず、

また孫権が長く現地に留まって戦う気もない筈だから、

もしこちらの援軍が来たとわかれば、

たとえその援軍は少数でも孫権は撤退するだろう」と言って、

ただ一人治書侍御史の荀禹を援軍として派遣すると、

荀禹は歩騎1000人ばかりの人数を連れ、山中で烽火を上げさせた。

すると孫権はやはり、敵の援軍来たりとそのまま何もせず、

城の包囲から20日間余りの対陣で引き上げて行ってしまうのだった。


結局、孫権自身は殆ど何の成果も上げられないまま退却となったが、

ただその一方で孫権と一緒に来ていた揚武中郎将・江夏太守の

孫奐(孫静の子、孫暠・孫瑜・孫皎の弟)は、

将の鮮于丹と、及び自身の配下の呉碩、張梁と共に魏の敵将三人を捕らえ、

高城という城まで落とす戦果を挙げて活躍をした。


しかしまたその一方で、

襄陽を攻めた左将軍の諸葛瑾、及び張覇は、

魏の撫軍大将軍の司馬懿、及び右将軍の徐晃らの前に

敗退するという結果に。



《孫権と諸葛瑾》


孫権は魏帝・曹丕の死の隙を狙って、

荊州の江夏・襄陽を攻めることにしたものの、

見事に敗退。

孫権はこれまで幾度も対魏戦線に自ら大将として出向いて、戦ってきたが、

しかし目立つのがやはり、孫権の戦さ下手。

孫権の軍事センスの無さは殆ど劉備と同レベル。

戦場で孫権が間々、一人で孤立して敵に囲まれるという場面が見られるのだが、

そうなってしまうのは多分、彼に戦場全体の状況と、

自分自身の立ち位置の関係とが全然把握できていないから。


そのくせどういうわけかこれが劉備と同様、

孫権は戦場に自分自身が大将として出ていきたがる。

226年の荊州攻めでも自分と諸葛瑾とのツー・トップでの侵攻だった。

が、しかし諸葛瑾とは・・・?

そもそもこの人事は一体何なのか。


陸遜はどこにいったのか?


夷陵の戦いで劉備を破った陸遜はこのとき、

その以前の鎮西将軍に輔国将軍を加官された上、新たに荊州牧、江陵侯として、

嘗て関羽攻めの際には宜都郡太守として、

宜都郡(荊州南郡の枝江以西、枝江・夷道・夷陵の地域)の

どこかの城に入っていた筈だが、

それと荊州方面には今一人、

陸遜と共に夷陵の戦いで活躍した征北将軍の朱然が、

彼は恐らく荊州南郡の江陵城に入っていて、

しかし陸遜が荊州牧となった際、江陵侯に改封されているので、

或いは朱然と異動になったか、ちょっと良くわからない。


しかし孫呉荊州方面の対魏蜀軍司令官は要するにこの二人で、

何故この両者を差しおいて、

孫権が諸葛瑾と二人で出ていくのか?

孫権もそうだが諸葛瑾も決して軍事面に優秀というわけではない。

戦さ下手二人の孫権と諸葛瑾で、

文聘や司馬懿、徐晃にはとても敵わないだろう。

が、

朱然の方に関しては、孫権が石陽攻めに失敗した後、

魏の追撃に苦しめられる殿軍の潘璋を助けて、

呉軍の撤退に功績をなしたということになっているので、

朱然の方はどうやら孫権の戦いに一緒に参加はしていたらしい。

しかし陸遜の方は何をしていたのかわからない。


孫権は後の234年夏5月、孔明最後の第五次北伐の際にも

諸葛瑾とのコンビで出兵をいっているが、

そのとき孫権自らは十万と称する大軍を率いて合肥新城を攻め、

諸葛瑾の方は陸遜と共に襄陽を攻撃させた。

しかし結局どちらも失敗。

孫権は魏帝・曹叡が直接援軍を率いて親征して来るとの情報を得ると、

未だその軍の来着もまたず、

攻城を諦めてとっとと撤退してしまった。

そして一方、襄陽方面の方も、

今度は諸葛瑾に陸遜を一緒に付けたのだが、

これはしかし、

要するに孫権は現場の軍の指揮権を二人に二分してしまっている。



《孫権の不可解な性癖》


これは軍の統率上、最もしてはいけない行為で、

陸遜と諸葛瑾の二人は229年、孫権が皇帝に即位した際に、

揃って共に武官の最高位である大将軍に任じられているのだが、

陸遜は上大将軍・右都護で、

諸葛瑾は大将軍・左都護・豫州牧に就任。

席次では一応陸遜の方が上となるがほぼ同等。

他には、

歩隲が驃騎将軍・冀州牧、

朱然が車騎将軍・右護軍・兗州牧、

全琮が衛将軍・左護軍・徐州牧と、

軍事指揮には不向きな諸葛瑾が何と並み居る優秀な将軍達を抑えて、

武官のトップの座に納まってしまっている。


これはもう、孫権の諸葛瑾に対する寵愛の結果以外の何ものでもないが、

しかしそれで構わず、本人の適正も度外視して大将軍に任命し、

さらに同じ戦場に、同等の権限を持つ陸遜と一緒に送り込んでしまう。


で、これが孫権の戦さ下手と並ぶ、彼の二つ目の大きな欠点で、

この悪癖はもう、孫権が孫策から跡目を次いだ、その当初から変わらず、

孫権はずっと同じ過ちを繰り返し続けてきていた。


先ず一番有名なのが、赤壁の戦いの際、

左都督の周瑜を総司令官に任命する一方で、

孫権は初代孫堅の代からの重鎮で、

周瑜とは大変仲の悪かった程普を右都督として任命して軍権を二分し、

結果、勝ったからいいものの、これは実際、非常に危なかった。

そしてまたその赤壁の勝利後、

今度は蜀への遠征をしたいと願い出る周瑜に対し、

荊州南郡江陵城を与えて彼にその許可を与える一方で、

いや荊州は劉備に与え、曹操軍の対抗勢力とて利用した方がいいという

魯粛の意見も聞き、

それで孫権は結局、彼がどうしたかといえば、

孫呉荊州領の南半分、南部の四郡を周瑜から切り離し、

魯粛の進言通り、

その地を劉備に分け与えてしまった。


詰まり孫権は自分で、自分の家臣達を相手に二重外交をやっていたわけだ。


またさらにその後の関羽攻めの際にも、

孫権は呂蒙に加え孫皎と共同で攻めさせようとして、

で、それを呂蒙から、かつての赤壁の事例とも合わせて

厳しく諫言されていた。


だからもう、孫権はずっとである。


極め付けは晩年の、彼の経歴の中でも最も批判を受ける二宮の変で、

その場面でも孫権は、

彼の後継候補となる三男の孫和と四男の孫覇を全く同等に扱い、

それがやがて、家臣団が真っ二つに分かれて争い、

多くの混乱と犠牲者を生む大政争へと発展していってしまうのだが、

結局これは、元々彼が古くから持っていた最大の悪癖だった。


何故、孫権はそんなことをするのか?


それは恐らく彼の家臣に対する寵愛。

孫権が家臣を可愛がる余り、その家臣に対して何か厳しく断を下すことができず、

相手の求めもしない要らぬ温情を余計に与えてしまう。


例えば周瑜と魯粛の一件にしても、

実は孫権は、荊州を劉備に与えるという魯粛の意見には

内心では反対だったそうなのだが、

しかし自分では嫌だと思いながらも他ならぬ魯粛の立場を慮って、

その意見に従った。

が、一方で周瑜には周瑜で好きにしていいよと、許可を与え、

結果、荊州は周瑜と劉備に二分されることに。

孫権としては何とか自分の中で、

上手く両者の折り合いを付けた積もりだったかわからないが、

しかし周瑜も非常にやりづらかっただろう。


諸葛瑾の扱いなどにしても孫権は、夷陵の戦いの後に行われた魏との戦いで、

彼は諸葛瑾の用兵に苦言を呈しているのだが、

しかし結局は諸葛瑾を大将軍にまでしてしまっている。



《石亭の戦い》


226年8月に行われた石陽への侵攻は、

その年の226年5月に文帝・曹丕の病死した、魏国内の

混乱の隙を狙っての作戦だったが、

その後228年春に、孔明の第一次北伐が失敗に終わってから、

228年の8月に行われた石亭の戦い。


蜀の第一次北伐の失敗後に行われた呉の石亭の戦いは、

孫権の出したある命令がきっかけとして始まった。


その頃、魏国では、孫権軍に対する陽州方面の司令官として、

大司馬征東将軍で揚州刺史の曹休が赴任していたのだが、

孫権は先ずこの曹休をどうにかしたいと思い、

そこで揚州予章郡鄱陽太守の周魴に対し、

「山越の旧族名師達の中で、魏にも良く名の知られている誰かを使い、

その者に偽って敵と内通するように見せ掛け、

そうやってうまく曹休を誘き出すことはできないか?」と言って、

指示を出してみたところ、

すると周魴は、

とても山越の人間ではそんなうまい芝居はできないからと、

自らその役を買って出ることにした。


周魴は自分の親族を使い、様々な理由を書き連ねた7通もの書状を

曹休に送って魏への投降を訴え、

さらに孫権とも謀って、ありもしない罪を捏造し、

その罪に対して周魴が剃髪して謝罪をするという演技まで行い、

そうして漸く曹休を信じ込ませることに成功した。

曹休は周魴の、

「郡を挙げて寝返るから、呼応し兵を出して欲しい」との要求に応じ、

配下の建武将軍・王凌と共に10万の軍勢を率いて晥城へと出陣。

また洛陽の都でもその曹休の上表を受けた明帝・曹叡が、

豫州の賈逵と荊州の司馬懿、張郃に指示を出して出兵を命じ、

荊州の司馬懿、張郃は南郡江陵へ向け、

豫州の賈逵は満寵、胡質を従えて、彼らは合肥南東の濡須口(東関)から、

晥城を目指していった曹休軍との合流を目指して、

それぞれが別ルートで出兵することとなった。


しかしこの曹休の遠征に対しては、

尚書の蔣済や出兵を命じられた満寵らが“非常に危い”と、

上疏して曹叡に注意を促したが、

だが彼らのその書状が曹叡に辿り着く前に、

現地で曹休は孫権軍に捕まり包囲されてしまう。


曹休は大軍で呉領内の敵地深くまで進軍したが、

しかし彼の向かった晥城には既に孫権軍入城して

待ち構えていることがわかった。

その時点で曹休は自分が騙されたという事実を知ったのだが、

だがそれでも曹休は味方の人数を恃んで、

そのまま呉軍との決戦を選択した。


しかし戦場は潜山と長江に挟まれた狭隘の地で、

前後の道を塞がれればそのまま閉じ込められてしまうような、

非常に地形的に不利な場所だった。

そして実際その通り、

曹休軍は呉の陸遜、朱然、朱桓ら、三方から包囲されて惨敗を遂げてしまう。

だが曹休自身は王凌の奮戦と、賈逵の救援により、

何とか戦場の窮地を脱し、逃げ延びることができた。


が、曹休は賈逵に助けられながらも逆に

「お前達の合流が遅れたからだ」と賈逵をなじり、

都に帰還しても曹叡に対し、

やはり敗戦の責任を賈逵に押し付ける様な主張を行ったという。

元々曹休はどういうわけか、この賈逵を昔から非常に嫌っていて、

かつて曹丕の代に賈逵が曹丕から豫州刺史に任命された際、

曹丕は賈逵に「節」(配下の人間を自分の裁量で処断できる権限)も

一緒に与え様としたところ、

そこに曹休が横から、「賈逵には性格上、大いに問題がある」と訴え、

曹丕にそれを撤回させてしまったことさえあった。

それゆえか曹叡の代に入っても、

豫州の軍権は荊州方面の軍指令官である司馬懿が、

都督荊州豫州諸軍事として、

隣の豫州の軍権まで一緒に統括していた程だった。


曹丕にとって曹休は同じ族子の曹真と並び、

若き日を、起居を共にして過ごした兄弟同然の関係で、

後を次いだ曹叡にしても、

やはり彼ら股肱の親族衆にはかなり気を使う側面があったようだ。

しかし曹叡も、石亭の敗戦に対する曹休の言い分には流石に無理があると認め、

曹休の訴えは退けて賈逵の罪は不問。

また曹休自身の責任も、曹休の宗室としての立場を考えて

同様に不問とした。


が、

その後、石亭での敗戦を深く恥じた曹休はその憤りの余り、

背中に悪性の腫瘍を発し、

その年の内に病死してしまった。

曹休の死後は、満寵が新たな都督揚州諸軍事として就任することとなった。



《孫権と張昭》


ただそれにしても・・・、

大勝はしたものの孫権の、石亭でのこの勝利は、

勝ちはしても、ここまで敵に対して屈辱の遺恨を残す様な戦勝は、

好ましいとはいえない。


武田信玄の「戦いは五分の勝ちを以って上となし、

七 分を中とし、十を下とす」といった有名な言葉にもあるように、

敵に対して余りに酷い恨みを残す様な戦勝は、

返って後々の報復劇へと繋がり、とにかく色々問題が多い。


現場の将軍は勝つことを最優先に、それで構わないが、

一国を裁量する国主としては、

やはりそれ以上のことを考える必要がある。


が、この孫権に関しては、

以前の荊州攻略の際も捕まえた関羽の処刑で、

それが劉備の逆襲へと繋がった。

だからあの一件に関してはそもそも関羽を捕える必要がなかった。

包囲を甘くしてそのまま逃がしてやればそれで良かったのだ。

捕まえたほうが返って後の対処に面倒なこととなる。

しかし孫権には関羽が許せなかったのだろう。

孫権はその以前から劉備・関羽の兄弟とは色々、

個人的な因縁を持っていた。


孫権にはそういったことの恨みを晴らし、

自分で喜んでいるようなところがあった。

その上、彼は元々、天下統一といった命題に対しても特に積極的ではなく、

今の呉国内での、自身の身分と立場の現状に、

何の不満も痛痒も感じてはいなかった。

だから彼の取る軍事戦略なり、外交戦略なりといった行動自体が、

どれも非常に場当たり的で、対症的なものにしかならなかった。


これは極論ながら、

もし孫権が嘗ての赤壁の戦いの際も、彼が諦めて素直に曹操に降伏していれば、

後の三国争乱の時代も訪れることはなかった。

悪く言えば孫権が抵抗したために、

その分、長い戦乱の時代を招く結果となった。


これが小説の「三国志演義」などでは、

当時曹操軍の侵攻を前に、

呉国内では主戦派、降伏派、真っ二つに分かれての紛糾状態となって、

収拾がつかなくなってしまうが、

史実では逆で、

呉の国内では重鎮の張昭を筆頭として、

国論はもう大部分が降伏派の意見で考えがまとまっていた。


で、あるのに議論は中々決着しなかった。

何故なら唯一人、

孫権が嫌がってそれを受け入れなかったからだ。


しかしそこに魯粛と周瑜が“大丈夫、勝てますから”と助け舟を差し出し、

結果、孫権はうまく大勝を収めることができた。

それで孫権は皇帝となった後、張昭に対し、

「もしあのとき、公の意見を受け入れていたら、

とても今の自分はいなかったでしょうなあ」と皮肉をぶつけているが、

しかし張昭にしてみれば、

元々そんなことはどうでも良かったに違いない。

張昭はもう始めから、孫権に対してはバッテンを付けていた。

だから孫策が重態に陥ってその後継にも、

張昭は孫権など推薦しなかった。

多分、孫策が死ねば、張昭は自分もそこで引退する

積もりだったのではないかと思われるのだが、

が、そこを孫策から「弟を頼む」と言われてしまったため、

それで仕方なく、また世俗での政治家としての仕事を

続けざるをえなくなってしまった。


しかしその孫策の死後、

呉は一気に崩壊の危機に直面する。

後継者である若い孫権に、まったく政治的信用がなかったからだ。

しかしそこを張昭が、いわば彼の個人保障で、領内の豪族達を説得して

孫権を新たな国王として擁立させた。

だから孫権は張昭にいつまでも頭が上がらない。

だが張昭は後の曹操軍の侵攻に対しては、

孫権に降伏を勧めた。


状況を見れば、曹操が荊州までを手に入れたことで、

もう体勢は決まってしまっていた。

曹操が焦って短期決戦に挑んできたため、

呉はまさかの幸運な大勝利を得ることができたが、

そんなことは確率的に殆ど奇跡に近いことだった。

だから、

“降伏してしまえばいい。降伏したって別に殺されるわけではないのだ”と、

張昭にしてみれば、そんな思いだったのではないか。

魯粛などは選択を悩む孫権に対し、

「私は降っても召し抱えられれば州郡の長を下回ることはありませんが、

公は果たしてどうでしょうか?」と言ったりしていたが、

元々孫権の君主としての地位は棚ボタで、

孫策と違って孫権自らが戦って勝ち得た地位ではなかった。


“何故、そんな今の身分を惜しむのか?”


孫権にとても天下を統一をできる力や、また本人にもそんな志望はないのだから、

それなら始めから無理なことは止めて、諦めて降ってしまったほうが、

下手に勝って戦乱の時代が続くよりもよっぽどいい。

張昭はもう、そんな考えだったろう。


赤壁の戦いの後、

周瑜は引き続いて荊州南郡江陵城の曹仁を攻める。

赤壁以上の困難な戦いで、周瑜は城の陥落に丸一年を要した上、

自身も鎖骨に矢を受けて重傷を負った。

しかし大局的に戦略上、非常に重要な場所で、

呉ではその江陵城を取ったことで蜀への道が開かれ、

その後の天下統一までのプランを描くことも可能となった。


戦略的にどうしても必要だったから、

周瑜は一年以上も粘って奪取したわけだったのだが、

孫権にはそうした目がまったくなかった。

だから彼は城攻めをしていても、危なくなれば直ぐに引き返してしまう。

大局観を持っていないから、

どの戦いは重要で、どの戦いはそうでないといった

視点がないのだ。


曹休を撃ち破った石亭の戦いでも、

実はそのとき、朱桓が孫権に対し、

「敵の退路を柴で塞いでしまえば敵は完全に逃げ道を失い、

曹休の首まで取ることができ、またさらにそのまま進軍していけば寿春まで

一気に落とすことも可能でしょう」と、進言していたのだが、

しかしその案に陸遜が反対したため、

孫権は陸遜の指示のほうに従ったという。


だが実際、賈逵の援軍がいたので寿春までは取れなかったろうが、

道を塞げば曹休の首は取れた可能性が非常に高かった。

しかし陸遜はそれを否定した。

だから或いはそのとき陸遜の頭には、

魏帝の宗族たる大物将軍・曹休の首を挙げてしまうことで、

やはりその後に与える政治的影響までを考えていたのではないか。

勝っても元より騙まし討ちの勝利で非常に後味が悪く、

相手に対して与える心象も良くない。

下手をすればまた夷陵の二の舞。


孫権は少なくとも軍事面に関してだけは、

彼の配下達に全て任せておいたほうが良かったろう。

蜀では君主は劉禅だったが、

それでも彼は諸葛孔明のすることには一切干渉せず、

ほぼ無制限の独裁権を与えたため、

その点では組織として非常に機能的な面を持っていた。

しかしその一方でまた魏の皇帝に軍事の天才・曹叡が現れてしまったりと。

孫権の行動はもう完全に曹叡から見切られてしまっていた。


演義の周瑜と孔明の関係ではないが、

よりにもよって何故、こんなタイミングで

曹叡のような人間が出てきてしまうのか・・・・・?


これは何とも、運命の巡り合わせとしか思えない。


赤壁の戦いについての考察記事も参考によろしければどうぞ。

「曹操は何故、赤壁に軍を進めたのか?」(http://ncode.syosetu.com/n8991bp/)

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