馬謖は何故、山に登ったか?
街亭の戦い。
馬謖が何故、孔明の命令に反して山の方に登ったのかということについての
新たな仮説と検証。
【第一次北伐遠征の開始】
228年春、
諸葛亮は斜谷道から、郿を奪うと喧伝しつつ、
趙雲と鄧芝をその囮として、
魏の迎撃軍本隊を率いる大将軍・曹真を箕谷で防がせると、
孔明自身は関山道から祁山を攻撃。
するとたちまち南安・天水・安定の三郡は魏に背いて蜀に呼応し、
関中には激震が走った。
※(『三国志 諸葛亮伝』)
「六年春、揚聲由斜谷道取郿、使趙雲鄧芝爲疑軍據箕谷、
魏大將軍曹真舉衆拒之。
亮身率諸軍攻祁山、戎陳整齊、賞罰肅而號令明。
南安、天水、安定三郡叛魏、應亮、關中響震。
(六年(228年)春、諸葛亮は斜谷道から、郿を取ると喧伝しつつ、
趙雲と鄧芝をその疑軍となし、箕谷を拠り所とさせると、
魏の大将軍・曹真は軍を挙げてこれを拒んだ。
諸葛亮自身は諸軍を率いて祁山を攻撃。
軍隊は整然として、賞罰は厳粛で号令は明らかだった。
南安、天水、安定の三郡は魏に叛き、
関中には激震が響いた。)」
※(『三国志 諸葛亮伝』注、「魏略」)
「魏略曰:始,國家以蜀中惟有劉備。備既死,數歲寂然無聲,是以略無備預;
而卒聞亮出,朝野恐懼,隴右、祁山尤甚,故三郡同時應亮。
(「魏略」に曰く:始め、国家では蜀中にはただ劉備が有るだけだと考えていた。
劉備が死んだ後、数年に渡って静寂として声もなく、
そのため予めの防備も無かった。
ところが突然、諸葛亮が出兵したと聞き、朝野は恐れおののき、
隴右、祁山では特にそれが甚だしかった。
こうして三郡は同時に諸葛亮に呼応してしまった。)」
孔明第一次北伐 行軍図
このとき、魏から蜀に寝返った三郡の内、涼州天水郡内での出来事。
その方面には雍州刺史の郭淮と天水太守の馬遵が赴任していたのだが、
彼らは自分達の管轄する南安・天水・安定の三郡が
孔明の進軍によって蜀の手に落ちたとき、
たまたま領内巡察のために城を離れて外出中だった。
そしてそのとき、馬遵には、
姜維(中郎)、梁緒(功曹)、尹賞(主簿)、
梁虔(主記)、子脩(郡吏上官)らの面々も部下として
一緒についてきていた。
天水郡の治所は冀城だったのだが、
馬遵は冀城の領民達の離反の心配や郭淮の判断を受け、
上司の郭淮と共に冀城の東方の上邽への退避を決め、
そこに入城することに。
しかしそのことは姜維らには知らされず、郭淮と馬遵は彼らを置き去りにして、
自分達だけで上邽へと立ち去っていってしまったのだった。
もし冀城が蜀軍への寝返りを決めていたとすれば、
姜維達の家族も同様に蜀に寝返っていることになるので、
馬遵には彼らの忠誠心が信頼できなかったようだ。
馬遵の出身地は不明だが、
この当時、中央の都から派遣された地方の任命太守達は単身赴任が基本で、
その上自分の周りを固める役人達が皆、地元の人間達ばかりとなれば、
馬遵が疑心暗鬼に陥るのも無理からぬことではあったが。
姜維達は始めはすぐに馬遵の後を追って上邽へと駆け付けていったのだが、
馬遵から直接入城を拒否され、
仕方なく冀城へと帰還するも、そこでもやはり締め出しを食らい、
そうして結局、蜀へと自分達が降参するしか無くなってしまったのだという。
馬遵が心配した通り、
実際その頃、天水郡は既に蜀軍に寝返ってしまっていた。
「張既伝」によれば、
天水・南安の二郡では領民が孔明の遠征軍に応じて
太守を追放してしまったとのことで、
詰まり姜維達一行は、
馬遵からは蜀に寝返った冀県の領民の仲間として、
逆に地元の冀県では魏軍の官僚として、
双方から追い出されてしまったということのようだ。
演義と違って別に孔明が特別な策を使ったわけではなかったが、
取りあえず魏軍の配置として、
上邽に郭淮と馬遵がいる。
孔明は祁山周辺。
孔明はそこから北方の街亭に馬謖を送り込むこととなるが、
実はこのとき、
街亭の後方の列柳城という城に、
高翔という将軍が馬謖達と一緒に派遣されており、
彼は街亭で敗れた蜀軍の撤退を王平と共に支えて奮戦したが、
郭淮の攻撃を受け撃ち破られてしまったという。
※(『三国志 郭淮伝』)
「太和二年、蜀相諸葛亮出祁山、遣將軍馬謖至街亭、高詳屯列柳城。
張郃擊謖、淮攻詳營、皆破之。
(228年、蜀相の諸葛亮は祁山に出て、街亭に将軍の馬謖を遣わし、
列柳城に高詳を駐屯させる。
張郃が馬謖を攻撃し、郭淮が高翔の営を攻め、皆これを破った。)」
高翔は後の第4次北伐でも、
魏延や呉班と共に司馬懿率いる魏軍を撃退して活躍したそうなのだが、
しかし陳寿の記した『三国志』の蜀書には伝も立てられず、
後の第二次北伐の際に、武都・陰平を攻略した陳式などと同様、
こういう人達は何故そのような扱いなってしまうのか。
しかし後に高翔が郭淮から攻撃されていることから、
高翔は、長安から派遣された張コウ軍を迎え撃つ馬謖の軍を、
天水の郭淮軍から守るための部隊だったのだろう。
そしてまた一方、斜谷道の箕谷では陽動の趙雲と鄧芝が、
魏の本隊、大将軍・曹真率いる大軍を防ぎ止めて戦っている。
それと、
誰かは不明なのだが、
孔明は遠く西方の隴西郡にまで将兵を送り込んだらしい。
先に寝返っていた南安郡の領民がその蜀軍の軍勢と一緒になって
隴西郡にまで攻め寄せていったという。
隴西郡の太守は游楚という人だったが、
彼は動揺する領民に対し、「やがてこの地に、蜀に寝返った
天水・南安の二郡から軍勢が押し寄せてくるであろうが、
それも本国からの討伐軍が来ればまた逃げ去っていくだろうから、
先ずは城門を固く閉ざして彼らの侵入を防ぎ、
逆に魏の救援軍が破れ、いよいよ城が危ないとなれば、
そのときはこの私の首を君達の手柄として、
蜀軍に降伏してくれればいい」と言って説くと、
官民皆、涙を流し、
共に一丸となって城を守ることに決したという。
そうして、やがてやってきた蜀軍に対し、
游楚は長史の馬顒を城外に布陣させると、
一方で蜀の敵将に向かっては「我々はこうして一ヶ月程も
敵から遮断されれば、そのまま降伏するしかない。
今、諸君らが無理してこの城を攻める必要があるだろうか?」と言い送った。
※(『三国志 張既伝』注、「魏略」)
「卿能斷隴、使東兵不上、一月之中、則隴西吏人不攻自服。
(卿(攻めにきた蜀の誰か)が隴を遮断し、東方の兵を西上させなければ、
一ヶ月の内に、隴西の吏人は攻めることもせずに
自ずと降伏せざるをえなくなるだろう。)」
すると言われた相手もその通りだと思ったようで、
そこに游楚が命令して馬顒に敵陣を攻撃させると、
蜀軍はもうそのまま撤退して立ち去ったという。
それと今一人、
涼州刺史の徐邈という人が、
孔明の北伐軍に呼応して起こした涼州内異民族叛乱の鎮圧に活躍し、
その後も長く同州の統治の安定に大きな功績を残したという。
一方、孔明の北伐に対し、
魏の明帝・曹叡は蜀軍の本隊が斜谷道ではなく祁山に現れたと知ると、
歩騎5万の援軍を従えて自ら洛陽の都から長安にまで出兵。
さらにそこから祁山の蜀軍本隊撃退のため、
曹真には箕谷で趙雲・鄧芝軍の相手をさせたまま、
別働として張郃を派遣する。
馬謖はこの張郃の侵軍を阻むべく、
孔明によって祁山から街亭へと送り込まれた。
※(『三国志 諸葛亮伝』)
「亮使馬謖督諸軍在前、與郃戰于街亭。
(諸葛亮は馬謖に諸軍を監督させて前軍(先鋒)に属し、
張郃と街亭で戦わせた。)」
街亭は敵が六盤山山脈を抜け、
隴西方面から天水・祁山方面へと向かうルートの出入り口に位置する要衝の地で、
蜀軍はここさえ押さえておけば、
魏軍のその方面からの侵入をシャットアウトして
締め出すことが可能だった。
しかしこれは先ず第一の疑問として、
増援の張郃は何故、祁山の蜀軍に対し渭水沿いにそのまま西に直進していかず、
わざわざ面倒な山脈越えで、
街亭から大回りして祁山の地へと向かわねばならないのか?
が、この点に関しては、実は後の第4次北伐のときにも、
やはり祁山の蜀軍に対し、
司馬懿と張郃が街亭から迂回する大回りルートで
敵の撃退に向かっていた。
とすれば蜀軍が先に隴関辺りに兵を送って塞いでしまっていたのか、
ともかく魏軍は東から渭水沿いに入ってはいけないらしい。
しかし逆は可能。
後の第4次北伐の際、張郃が司馬懿に対し、
「敵に襲われる心配があるから、
雍と郿の二城に守備兵を残して置いたほうがいい」と
進言していることから、
だから蜀軍のほうでも祁山方面から関中盆地内部の方へと進撃することは、
可能は可能だったようなのだが、
ここが少しややこしく、
それも天水方面から渭水沿い長安へと向かって東進していく道では
なかったようなのだ。
詰まり、
だから天水方面から陳倉までの間の、その渭水沿いの道自体が、
塞がって潰れていた可能性が高い。
これについてはまた後ほど考察。
街亭古戦場地図
街亭の実際の場所は石碑が残っていて、
そこが街亭の古戦場跡地ということにされている。
ただこれは飽くまで現代の地図から見てのことなのだが、
現代に石碑の置かれたその街亭古戦場跡は、山脈の東側と道が繋がっておらず、
馬謖が登ったという南山の位置や、高翔の入っていた
列柳城の場所などもわからない。
ただ街亭という場所を簡略化して単純に見た場合、
細長く切り立った谷間の、出口付近の開けた場所が、
街亭だと思って貰えばいい。
敵はその細い道を大人数では通れず、少人数ずつで進んでいかねばならない。
対してそれを迎え撃つほうでは、細い谷間の出口付近のところで
散開して待ち受け、
後はチビチビと細道から出てくる敵を各個撃破していけば、
簡単に撃退することができる。
ところが街亭に派遣された馬謖は何故か細道の出口を塞がず、
南側にあったと思われる山のほうに登って、
敵の大軍を全て素通りさせてしまった。
※(『三国志 諸葛亮伝』)
「謖、違亮節度、舉動失宜、大爲郃所破。
(馬謖は諸葛亮の節度と違えて、挙動は適切さを失い、
大いに張郃に破られるところとなった。)」
“だから馬謖はバカだった”と、
現代に至るまで酷評される次第となっているわけなのだが、
・・・が、
これが実際の戦史において、
この街亭の戦いと非常に良く似たケースでその隘路のほうを塞がず、
南側にあった山のほうに登って敵を防いだというケースが、
実際に存在している。
それは有名な日本の「大阪夏の陣の戦い」で、
しかもその山に登った武将というのが、
名将の誉れ高い、後藤又兵衛基次だった。
「道明寺・誉田の戦い」布陣図
大阪夏の陣における道明寺・誉田の戦い。
この戦いで後藤又兵衛・真田幸村ら率いる西軍の大阪方は、
東方、大和口から河内平野に侵入してくる幕府軍に対し、
国分村付近の狭隘の地を利用して敵を迎え撃つことに決定した。
地図を見ると、
戦場は街亭と似たような隘路を持ち、川が流れ、
南方には小松山という小高い山まであり、
しかも後藤又兵衛がその山のほうに登って戦っている。
しかし西軍本来の作戦でなら、
又兵衛は小松山ではなく、
図で水野勝成・堀直寄の部隊のいる、その場所辺りに布陣して
戦わなければならない。
ところが後藤隊は何故か山のほうに登り、
しかもそのために敵の大軍から包囲される格好となってしまっているのが
見て取れる。
まさに街亭の馬謖状態。
何故、後藤又兵衛ほどの名将が、
そんなマネを仕出かすのか・・・?
実はこれ、
地図では後藤又兵衛一人が小松山に登って敵と戦っているが、
まだ他にも真田幸村以下、
後から味方の部隊が一緒にそこまでやって来ることになっていた。
しかし不慮の濃霧のために道に迷って、他の隊は戦場への到着が遅れ、
それで、後藤隊のみが単独で先に現場へと
来着してしまったというわけなのだ。
それで本来なら隘路の出口のほうを塞がねばならないのだが、
元より敵は大軍。
少数の後藤隊だけでは防ぎ切れず、
そのままでは何れ南の山から敵が越えて、
後藤隊のほうが逆に隘路の中に包囲されてしまう危険性が生じたのだろう。
“それならばいっそ・・・”と、
それで又兵衛は小松山のほうに登って敵を防ぐことを考えたのに違いない。
ただ敵を防ぐだけなら高い山のほうに登って戦ったほうが防御力は高い。
これはもう時間の問題だが、
とにかく後からやってくる援軍の来着まで、
又兵衛は何とか山の上で粘ることに決めたのだろう。
味方がやってきさえすれば、
彼らがまた隘路のほうを塞ぐことで当初の作戦計画も全く完成を見る。
しかし結局味方の援軍は間に合わず、
後藤又兵衛は小松山に戦死する結果となってしまうのだが・・・、
だから街亭の馬謖も、
この小松山の後藤又兵衛と同じような考えを持っていたとしたらどうか。
そこで一つ気になるのが、
街亭での敗戦後、
孔明から直接処断されることとなった馬謖は孔明に対し、
『襄陽記』によれば、
※(『襄陽記』)
「明公视谡犹子,谡视明公犹父,原深推殛鲧于羽之义,使平生之交不亏于此,
谡虽死,无恨於黄壤也。
(明公は私を我が子のように思ってくださり、
私も明公のことを父のように思っておりました。
舜が鯀を誅し、その子の禹を取り立てた如くに、
明公が私の遺族を遇して下さるのなら、私は死んでも恨みません。)」
との、
手紙を残したとされているのだが、
これはしかし、
馬謖は自分の刑罰に対し、
まったく「済みませんでした」との一言すら残していない。
馬謖が手紙で言っていた舜が鯀を誅して云々の故事というのは、
鯀とはかの有名な夏の帝禹の実父だったという人で、
帝堯の治世のあるときに、黄河の氾濫がひどく、その治水対策のため、
帝堯から鯀が、治水工事の役目を任されることとなった。
しかし黄河の洪水を鎮めるには“息壌”なる物が必要だと聞かされた鯀は、
苦労して昆侖山の天帝にまで、その“息壌”を貰えるように頼みにいくも、
無下に断られてしまう。
そこで鯀はもう天帝の“息壌”を無理やり盗んで持ち帰り、
それでやっと黄河の氾濫を収めた。
しかし直ぐ、怒った天帝に“息壌”を取り返されてしまうと
再び黄河は氾濫した。
だがそれを見た帝堯は「全く治績が上がっていない」と誤解し、
鯀は最後には処刑されてしまったという。
帝尭は治水の任を鯀から舜に代え帝位も舜に譲ったが、
舜は鯀の息子であった禹に治水を任せることにした。
禹は治水事業に大きな功績を現し、
やがて舜から禹へと帝位も禅譲されることとなった・・・。
と、
この逸話から考えてみた場合、
馬謖本人としては良かれと思ってそうしたことだったのに、
それが認められずこのような結果になってしまったのだといった、
そんな感じのニュアンスで、
だから馬謖自身はやはり、街亭での敗戦をそれが失敗だったなどとは、
まったく考えていなかったのではないか?
詰まり馬謖は自らの確信で山のほうに登った。
元より馬謖はインテリである。
しかも「才器過人、好論軍計」と、
取り分け軍事面に堪能な知識と優れた才覚を持っていた。
だから馬謖が街亭の戦いで隘路の出口のほうを塞がず山のほうに登ったのも、
それは馬謖がインテリだからこそ、
敢えて山のほうに登る選択肢を取る、それだけの何か、
確かな理由が存在していたのではないか・・・?
《街亭の戦い》
この点、正史の「諸葛亮伝」中に裴松之が
注釈として引用している「袁子」には、
※(『三国志 諸葛亮伝』注、「袁子」)
「亮之在街亭也、前軍大破、亮屯去數里、不救。
(馬謖が街亭で大敗したとき、諸葛亮は距離的には馬謖を
救援できる場所に駐屯していたが、彼は馬謖を救援をしなかった。)」
などと書かれたりしていて、
馬謖がもしその援軍を待っていたとしたら、
それは大阪の陣における後藤又兵衛と同じだったと考えることもできる。
ただ大阪の陣では後藤又兵衛の戦った道明寺付近のその場所が、
西軍と東軍の主要決戦場であったわけなのだが、
孔明の第一次北伐に於ける街亭でいえば、
そこは孔明の予定していた両軍の決戦場ではなかった。
だから良く現代でも、
“もし蜀軍が街亭の戦いで勝っていたら・・・?”との
議論がなされるが、
しかし街亭の敗戦の際、
王平の率いる僅か1,000人の部隊が陣鼓を打ち鳴らして踏み留まると、
張郃は伏兵の存在を疑い、
それ以上、無闇に近付こうとしなかったという。
詰まりその程度のことでもう、
敵は満足に攻め寄せてくることもできなかった。
もし蜀軍に完全に道を塞がれれば、
張郃はそれ以上、容易に軍を進めることはできなかったであろうし、
それにたまさか街亭で勝ったところで、
もう一方面、
箕谷で曹真の大軍を相手に戦っていた趙雲・鄧芝軍のほうはどうなるのか?
街亭で勝利を収めても、箕谷が突破されれば
魏軍はそのまま漢中盆地内へとなだれ込み、
そこで全てが終わってしまう。
では孔明が街亭に馬謖を送って敵を防がせた、
そもそもの作戦意図とは何だったのか・・・?
《第一次北伐遠征、孔明の作戦意図》
孔明の北伐では初回の遠征から最後の遠征まで、
基本、孔明自身は渭水の河を越えてそれ以上大きく、
先の北方へは軍を進めていない。
これは恐らくその渭水を大軍が超えた場合の、
撤退の困難さを考えてのことだろうと思うが、
それで孔明が魏蜀両軍の決戦の場に選んだのが、祁山及び五丈原。
あるいはそこに孔明が第二次の北伐で攻め取ろうとした
陳倉までが含まれるか。
だからまあ行っても、陳倉の渭水北岸ギリギリまでの場所。
故にこの第一次北伐に孔明が考えていた決戦場も
どこかその辺りの場所だった筈で、
街亭ではない。
孔明自身は祁山付近に駐屯。
祁山の敵を攻囲して降伏させたか、もしくはまだ包囲中か。
孔明は後の第4次北伐でも祁山を守っていた魏将の賈嗣と魏平を
包囲して攻撃しているが、
そのときは祁山の敵は手当てして抑えつつ、
一方で孔明自ら北進して上邽の郭淮、費曜を野戦で撃ち破り、
また、街亭から大回りして祁山の救援にやってきた司馬懿と張郃の救援軍をも、
祁山周辺の戦いで撃破し大勝をあげていた。
だから第一次北伐のときも多分そのときと似たような状況で、
例え祁山の敵を包囲中だったとしても、
孔明自身の行動は自由だったと思われる。
そうして、孔明は箕谷と街亭で敵を防がせつつ、
自身は東進して陳倉辺りにまで出ていく積もりだったか・・・?
これは、
『水經注』の「與兄瑾言治綏陽谷書」という、
孔明が兄の諸葛瑾に送った手紙の内容に、
※(『水經注』「與兄瑾言治綏陽谷書」)
「有綏陽小谷,雖山崖絕重,谿水縱橫,難用行軍。昔邏候往來,要道通入。
今使前軍斫治此道,以向陳倉,
足以扳連賊勢,使不得分兵東行者也。
(綏陽小谷なる、山崖絶重にして谿水が縦横に流れるような谷が有って、
行軍に用いることも難しいが、
昔は人が往来していて、今、前軍を使って此の道を斫り、陳倉に向かわせれば、
以って賊の勢いの向きを変えるさせるに足り、
彼らに兵を分けて
東に行かせないようにできるでしょう。)」などと書かれていて、
この手紙の中の“足以扳連賊勢,使不得分兵東行者也。”とは、
詰まり箕谷で趙雲・鄧芝と戦う曹真軍のことを指しているのではないか。
・・・と、
ここまでくれば、
孔明の意図として、蜀軍は先ず、
箕谷と街亭の曹真・張郃を趙雲・鄧芝、馬謖・王平らに防がせるとともに、
その間、彼らとは別に蜀軍本隊のほうから陳倉にまで兵を出し、
そうやって蜀軍が箕谷と街亭で戦う魏軍に対し、
彼らの背後を襲う素振りを見せることで、
曹真、張郃の部隊を、再び渭水沿岸の地にまで引き戻そうとしていたことになる。
資料の中では孔明が前軍を使い道を斫ってとあるが、
そうして先ずは先鋒の部隊に谷の道を切り拓かせつつ、
やがて孔明自身も中軍本隊を連れて陳倉まで出ていき、
そこで戻って来た曹真・張郃軍を直接に迎え撃つか、
もしくはまた、さらにそこから新たに兵を送り込むことによって、
箕谷と街亭で戦う魏軍の退路を断つことまで考えていたか、
そのどちらかということになるだろう。
街亭は孔明第一次北伐遠征時における、魏蜀両軍の予定決戦場ではない。
然るに孔明が彼の第一次北伐遠征で考えていた基本戦略としては、
箕谷と街亭からそれぞれ引き返してきた曹真・張郃と、孔明自身とによる、
陳倉での魏蜀両軍の直接対決だったに違いない。
そしてその辺りの意図を曹真が察したことが、
後に彼に、改めて陳倉の防備を固めさせるきっかけともなったのではないか。
サイト「三国遗址五丈原风景名胜区_旅游指南_景区攻略_门票信息_风景网
(http://scenic.fengjing.com/shaanxi/index10404.shtml)」様、掲載の
五丈原周辺地図。
【天水~陳倉までの、渭水沿い道の存在】
そしてまた、この“綏陽小谷を斫って”云々という記述から、
天水と陳倉の間を結ぶ渭水沿いの道自体が、
潰れて塞がってしまっていたのではないかとの推測も出てくる。
祁山に孔明がいるのなら、そのまま北上して天水まで行き、
そこから渭水沿いに東進していけば陳倉は直ぐそこだ。
それをワザワザ、斜谷道の途中から分岐して陳倉へと向かう綏陽小谷のほうから、
しかもその道を工事して切り拓きながら進まねば陳倉に行けないとなると、
天水~陳倉間のルート自体が、
何らかの理由で通行不能、利用不可の状態になっていたのではないかと
察せられるわけだ。
《馬謖の思惑》
とにかく蜀軍にとっての最大の問題は、
箕谷の曹真軍を如何にして引き戻すかということだった筈だ。
趙雲・鄧芝の軍は飽くまで囮である以上、
そのままではやがて敵に撃破され漢中盆地内にまで入り込まれてしまうのだから。
何もなければ孔明の本隊が祁山方面に出て暴れることで、
曹真軍が斜谷道から引き返してくるはずだったが、
が、そこにまた新たに張郃の援軍が現れた。
しかし孔明が街亭から迂回してきた張郃軍を祁山で迎え撃ち、
箕谷で趙雲・鄧芝が曹真軍を相手にするだけでは、
そのまま曹真に突破されてしまうだけだ。
新たに現れたこの張郃軍にどう対処すれば、上手く曹真軍を
引き戻すことができるのか。
で、
そこで考えられたのが、
先に街亭の難所に兵を送って張郃の侵入を塞いでしまうこと。
そしてその間に、孔明本隊が渭水沿いに雍・郿の二城に向かって
敵の背後を窺うような動きを見せれば、
曹真・張郃の両軍共、慌てて戻ってこざるをえないだろう。
そして戻ってきた魏軍と蜀軍の両軍とで、
そこで改めて決戦と。
だからやはり、
馬謖はただ街亭の道を塞ぎ、
敵を追い返せばいいだけの役目だったはずだ。
が・・・、
しかしそれを敢えて、馬謖は敵を自分のほうに招き寄せてしまった。
と、
ここまで考えてみて、
もし馬謖が孔明の指示通りに道を塞いだだけなら、
綏陽小谷から渭水沿岸の陳倉に姿を現した蜀軍の出現に対し、
魏軍では自分達の退路を断たれまいと、箕谷及び街亭の地からそれぞれ
引き返して行ってしまうだけだが、
だから馬謖は決してその敵を帰してはならないと、
そう考え、
だからワザと自分のほうから道を空けて、
敵を隘路から引きずり出して誘い込んだ。
何故か?
馬謖は街亭で張郃を追い返さず逆に引き付ける。
だからもう、
孔明がその張郃軍を相手にする必要などない。
一方、斜谷のほうでも趙雲と鄧芝が曹真を引き付けている。
その間、勿論孔明の蜀軍本隊はフリーのままの状態・・・。
と、
詰まり馬謖は敢えて自ら孔明の指示に反し、
張郃の部隊を引き付けておくことで、
逆に孔明に対して馬謖のほうから、ある“決断”を迫った。
その“決断”とは、
孔明の本隊でもう一挙、渭水沿いに直行し、
ダイレクトに長安を衝けということではなかったか。
その長安には誰あろう、魏の皇帝たる曹叡本人がいた。
もし曹叡の首を挙げることができれば、
この戦争はもう一気にケリがつくと・・・・・。
で、この考えは遠征実行前に魏延が主張し、
また現代においても良く、
“もしリスクを恐れず諸葛孔明が実行をしていたら・・・”と、いわれる、
蜀軍による、長安急襲策と同じ作戦になる。
孔明の軍司令官としての消極姿勢については、
魏延が度々軍中で不満をこぼしていたとして有名だが、
馬謖もどうやらその口だったのではないか。
しかし魏延が第一次北伐の開始前に献策した長安急襲策については、
孔明が始めにキッパリと却下していた。
だから軍中に於いても今回の孔明の作戦が奇襲ではなく、
飽くまで敵を、事前に想定した予定戦場に引き込んだ上で、
ガップリと四つに組んで迎え撃つ作戦構想だったという点については、
周囲で確かな確認が取れていたはずである。
馬謖も勿論、それを承知していたはずだが、
が、
彼のその考えを変えたのが、
魏の明帝・曹叡本人の長安親征だったのではないか。
曹叡が長安に出てくるのは孔明が祁山を攻略し、
南安・天水・安定の三郡が蜀に寝返った後からである。
遠征開始当初と状況が変わり、
魏の皇帝本人が自ら長安にまで出てきたとなれば・・・、
これは襲わない手はないと。
最終的に馬謖は山のほうに登ったことで張郃軍から包囲を受け、
水源を断たれて疲弊したところを、総攻撃で撃破されてしまうが、
しかし山に登れば水源を断たれることなど、
これは誰の目にも周知に明らかだったはずである。
ある程度は事前に汲み上げておくとして、
それで粘れるのは果たして一体どの程度の期間か・・・。
だからもし街亭の戦場が、趙雲・鄧芝らが戦っている箕谷の戦場と同様、
敵が普通に攻め込んできてくれるような場所だったのなら、
馬謖はそのまま道の方を塞ぎ敵を食い止めていて構わなかったのではないか。
しかし現地の戦場の地形と彼我の戦力差などといった要素から、
街亭では敵が攻め込んでこず、
引き返していってしまう可能性のほうが高かった。
そのため、馬謖はワザワザ自分の方から道を空けて、
張郃軍を隘路から通して誘い込んだ。
しかし当然、長くは粘れない。
それでもとにかく、孔明の本隊が長安を急襲するまでの、
その間の時間が稼げさえすればそれでいいと・・・。
ただその長安への急襲策についてはもう、
遠征開始前に孔明からハッキリと否定をされてしまっている。
そこで馬謖は自ら進み出て、
張郃の迎撃に、街亭に自分を派遣してくれるよう、
志願したのではないか。
そういう意味では、馬謖は任命を受ける前から
既に“ヤル気”満々だった。
だから諸将が街亭への任務に馬謖ではなく魏延や呉懿を薦めていたのも、
その辺りの雰囲気を察してのことだったのかも知れない。
馬謖の付き添いに一緒に街亭へと送られ、
彼の行動を諌めたという王平などにしてもやはり同様に、
「不穏な企みは捨て、
ただ忠実に丞相の指示に従うべきだ」といった感じのことを
言っていたのではないか。
後に、この時馬謖に配下として従っていた張休・李盛といった将が、
やはり馬謖と同罪に、戦後孔明から処断されているのだが、
彼らは王平とは逆に、
それこそ完全に馬謖の取り巻きになってしまっていたのだろう。
勿論、馬謖にも過信がある。
先ず己の作戦の成否に関する盲信と、
自分が総司令官の孔明と特別に親しい関係にあるとの馴れ合いの感情。
だから例え命令違反をしても、孔明と親子同然の自分が行えば、
孔明もわかって作戦方針を改めてくれるに違いないといった、
そんな勝手な思い込み。
【孔明が街亭の抑えに馬謖を起用した理由】
しかしながらそもそも孔明は何で、重要な街亭の守備に馬謖を任用したのか?
だから孔明は人を見る眼がなかったのだなどと、
この点は現代でもかなり厳しく批判されているところだが、
ただもし推察の如く、馬謖が街亭方面にまでやってきた張郃軍を
そこでは追い返さず、
ワザと引き寄せて、孔明本隊が長安を急襲するための時間稼ぎをしようと
考えていたのなら、
これは必ず、馬謖自らが強いて孔明に街亭行きを志願したはずである。
何故なら、でないと他の者が向かえばそのまま敵を街亭から
追い返してしまうだけなので。
だから馬謖は自ら進んで街亭行きを志願したに違いない。
そして馬謖が自ら志願したとなると、
その場合、孔明は逆に断れなかったろう。
元々孔明は馬謖を我が子のように可愛がってはいたが、しかしそれ以上に、
これは全体の人事の問題。
馬謖は現代ではもう散々なレッテルを貼られてしまっているが、
しかし当時、能力的にも馬謖は蜀中、有数の高いスキルを持った
人材だったことは間違いない。
しかも街亭の任務自体は恐らく戦争にもならない、
ただジッと駐屯しているだけの役目なのだから、
その程度の任務も任せられないとなると、
これは言ってみれば、東大出のエリートをもう、
碌な仕事にも使わないといった、それくらいの扱いになってしまう。
まして馬謖は孔明を慕い、任せて欲しいと、たっての希望で
信任を求めてきているのに、
それを無下に却下すれば馬謖もまた孔明への信頼を失う。
ただ周りの諸将の間からは実際、危ないとの声も上がっていたが、
しかし見ているのは他にももっと蜀の国中、
多くの人達が孔明の政治判断については見守っている。
李厳や廖立などは自らの失脚後も、
「もし丞相(孔明)が存命ならば・・・」と、
復権に望みを抱いていたが、
それは孔明がずっと、そうした人事を行い続けていたからだ。
だからもし、“危なそうだから・・・”などと、
その程度で狐疑するような人事を平気で行った場合、
例えば誰か、人の讒言を受けでもして、
「中央ではあなた、疑われていますよ?」なんてことにもなれば、
その人物はもう、即座にその場で反乱行動に走ってしまうだろう。
孔明は軍司令官としてだけでなく、国全体を統べる宰相としての
立場を持っているわけだから。
それにまあ、せめて王平を目付けに据えて、最低限のケアもしているのだし。
【北伐遠征軍撤退の真相と戦後の馬謖の処遇】
しかし馬謖の行った命令違反は軍の統率上、決してあってはならない、
致命的な行為だ。
これはもう、もしその策略がうまくいっていたらとか、
そんな作戦の成否の枠を超えた重要問題で、
軍の統率上、極端には、
例えそれが明らかに間違った上からの指示だったとしても、
その確認が取れない限りは飽くまで命令は命令として、
もしそれで隊が危機的状況に晒される結果に陥ろうとも、
グッと我慢し、黙ってその命に服せるような軍隊でなければ
シッカリとした軍の統率は保てず、
また真に強い軍隊を作っていくこともできない。
軍規とはそれくらい重く厳粛で、でもなければ軍隊などは直ぐにバラバラ、
簡単に軍閥化してもう手が付けられなくなる。
それがまして、ただの軍令無視でも決して許されることではないが、
たった自分一人の思惑で、軍全体の作戦行動までを
変えさせようとしたのだとすれば、
これがだから現代などでは、
別に一度の失敗で処断までされるのはおかしいといった意見も出されるが、
これはとんでもない。
軍隊組織にあって、今回の馬謖の暴走こそが最も罪が重い。
“いや、別に自分は良くしようと思ってやったことだから”とか、
“やっていれば勝っていたのに”だとか、
それで情状酌量されて簡単に罪が見逃されるような組織なら、
もう、メチャクチャにしかならなず、
だけでなくもし、その各部組織自体が意思を持ち、
中央組織の命令にまで逆らってまで、
自ら勝手な動きを始めるようにまでなっていってしまえば、
それは破滅の始まりだ。
だから孔明が戦後、
「昔、孫武が勝利できたのは法の執行が厳格だったからで、であればこそ、
楊干が法を乱したとき、魏絳はその従者を処刑したのだ。
もしこの乱世に再び法が廃れれば、
どうして逆賊を討つことなどできようか」と語った通り、
彼にして見ればもう、
馬謖が自分の指示を無視したと知った時点で、
その結果の如何を問わず、
彼の中で今回の第一次北伐遠征軍は終わってしまったも同然だったか
わからない。
それに、仮にもし馬謖の目論見通りに孔明が長安へと急襲して
成功を収めたとしても、
そうなると今度は例え命令違反を起こしてもそのケースの如何によっては、
下がそれぞれの考えで好き勝手に命令を無視して行動しても良いという、
先例を作ってしまうことになる。
馬謖の処刑に対し蔣琬などは「あたら有為の人材を」と、孔明に語ったそうだが、
孔明にして見ればそれどころの話ではなかったろう。
たとえうまくいこうがいくまいが、先ず軍の誰もが軍規に対しては
絶対の服従をするという、
そこからしか何も始まらないのだということを、
厳しい態度で示して見せる必要があったに違いない。
たとえ命令を無視して成功を収めたとしても、
それはもはや功績として認められない。
孔明は最終的に涼州天水郡(旧漢陽郡)西県の千余家を移住させて、
漢中に連れ帰って撤退をしているのだが、
確かにその辺りなら、急行すれば一日で街亭への救援に行けそうな場所だ。
しかし結果として孔明は馬謖の救援には向かわず、
そのまま北伐遠征そのままで終決させて、
漢中への全軍撤退を遂げた。
とすればこれはもう、仮に馬謖の救援に向かったところで、
問題は箕谷の曹真軍である。
もし趙雲と鄧芝が戦っているその曹真軍を箕谷から引き戻すことができず、
そのまま彼らに漢中にまで入り込まれてしまえば、
遠征先の蜀軍は孤立してそこでジ・エンドとなってしまうこととなるので、
単純にそれを防ぐための撤退だったのだろう。
【曹叡の軍才】
それに例え実際に孔明がその長安襲撃を行っていたとして、
成功の確率は非常に低かったろう。
実際、曹叡が長安に出てきたことで、その曹叡本人一人の首さえ取れれば、
確かに一気に両軍の戦争を終わらせることも可能ではあったのだが、
ただその点に関しては、後の、
張郃が司馬懿に言った「後方が危なくなるから雍・郿の二城に
兵を残して置くべき」との発言から、
魏軍でも敵に自軍の補給線を遮断されることを強く警戒していたことがわかる。
だから曹真にしても先ず、自分が斜谷道へと入る前、
始めに郿城に陣を構えてから蜀軍の迎撃に向かっていたし、
とすれば張郃もまた、彼は雍城の方に守備兵を残していたものと思われ、
孔明がそれらの城砦を突破して無事に長安へと向かうことは難しかったろう。
それに曹叡はただの人物ではない。
どころか彼は、純粋に“軍才”という天分の素質でいって、
後漢末から三国の時代を通し、
その中でも際立って俊逸の、まさに天才だった。
幾度にも及ぶ諸葛孔明の北伐が失敗に終わった要因の一つとしても、
この曹叡の存在が与えた影響が非常に大きく、
それくらい、曹叡はこと、
軍事面に関しては抜群の鋭い感覚の冴えを持っていた。
曹叡は自身の判断で長安を含む三輔地方の動揺を鎮めるべく、
自ら親征して長安にまで出てきていた。
しかしこれは、
曹叡が現れたことで彼を捕らえるチャンスが出たと考えるより、
逆に彼がやって来たことで長安はそこで固まってしまったと見るべきだ。
彼が洛陽から連れて来た援軍が5万で、
それを張郃に分けてどれだけの人数を送ったかは知れないが、
たとえ残りの人数が少数だったとして、
それこそ孔明第二次北伐の際、陳倉を守るカク昭のたった千人程度の軍の前に
遠征の大軍が撃退されてしまっている。
先ず曹叡のいる長安は抜けない。
抜けなければ今度は奇襲した蜀軍のほうが、
引き返して来た曹真や張コウの軍に逆包囲されて壊滅となってしまう。
余りにリスクが高過ぎるだろう。
曹叡自身はまだ先代から帝位を継いだばかりだったが、
それでも凡庸な君主ならこの場面に、
自ら援軍を率いて長安には出てこない。
しかもその内の、連れて来た援軍の殆どは張コウに引き渡し、
自分は残された少人数の方で長安を守っていたとしたら、
彼にはもう完全にその戦局に対しての見切りが付いていた。
だからたとえ敵からの急襲を受けてもそのことに気付き、
味方が救援に戻ってくるまでは、自分達だけで長安を守り切れるという、
それだけの確信。
だから曹叡が自ら長安にまでやって来たその時点で逆に、
彼に何か違ったところを感じておかしくなかったが、
しかし公にはまだ、曹叡の人となりは良く知られてはいなかった。
もし馬謖が曹叡を経験未熟で“相手しやすい”と見たとすれば、
やはり馬謖の方が迂闊だったろう。
馬謖が戦った街亭古戦場の実際の場所について、ブログで少し検証してみました。「街亭古戦場の場所について」(http://neri9eshi.blog.fc2.com/blog-entry-50.html)殆どネタですが。(笑)