文帝の死と孟達の帰参
第一次北伐開始直近までの三国の出来事と年表の確認。
219年5月、定軍山に夏侯淵を斬った劉備は曹操から漢中を奪い、
同年の7月には、劉備は漢中王を自称。
しかしその219年、
曹仁の守る樊城攻略のため、関羽が留守にしていた荊州の本拠地、
江陵と公安の二城を呂蒙が襲って占領し、
孤立した関羽は同年末の12月に孫権に捕えられて斬首。
220年、曹操が病死し、嫡子の曹丕が魏王・丞相職に就任。
さらに同年、漢の献帝に禅譲を迫って魏王朝を開闢し、その初代皇帝として即位。
400年続いた漢王朝も遂に滅亡。
221年、魏の曹丕が皇帝に即位したことに対し、
劉備もまた蜀漢の皇帝として即位。
同年7月、孫権に殺された関羽の報復のため、親征。
夷陵の戦いを迎える。
序盤は劉備軍が順調に進撃を重ね、
劉備自身、夷道まで突き進むもそこで膠着状態となり、
翌の222年6月には、陸遜の反撃を受けて蜀軍は壊滅。
劉備は辛くも難を逃れて白帝城にまで退避。
しかし夷陵の戦いに勝利した孫権軍ではそれ以上、劉備軍を追撃せず、
そのまま軍を引き上げてしまう。
何故ならば劉備軍を追撃してさらなる戦果の拡大を得ようとする
孫権軍の背後を狙って、
魏の曹丕が呉軍との同盟関係を破棄し、
三路から大軍を編成して襲い掛かって来たのだ。
それが222年の9月で、陸遜が劉備を撃ち破ってから僅か2ヶ月後のこと。
結局このことで呉蜀の間に再び友好関係の回復が模索されるのだが、
実際に同盟関係が修復されるのは劉備の死後。
222年に始まった魏呉の激突は夷陵の戦いにも劣らぬ程の激戦で、
濡須口では曹仁と朱桓が鎬を削り、
濡須口東方の洞口では曹休、臧覇、張遼らが
呂範、全琮・徐盛らと戦い、
南郡江陵方面では
曹真・夏侯尚、張郃らが朱然・諸葛瑾・潘璋、孫盛らとそれぞれ戦い、
始めの内は全ての方面で魏軍が優勢に戦いを進めたが、
しかし呉軍側の根強い抵抗と、疫病が流行したため、
223年3月、魏軍は総退却した。
しかし曹丕はその年からさらに、一年毎に呉への侵攻を繰り返し行い、
224年9月にはまた、自ら広陵にまで出兵。
しかし呉の徐盛が築いた疑城に、戦わずして撤退。
225年10月にもまた自ら再び広陵にまで遠征するも、
その年は冬の寒さが一段と厳しく、
川が凍り付いて船を出すことさえできなくなってしまったため、
やむなく撤退。
一方、蜀では223年の4月に劉備が永安(白帝城)で逝去。
同年の年5月に後主劉禅が新皇帝として即位し、
10月には孔明が鄧芝を使者に呉との同盟関係を修復。
225年、益州南部で雍闓・高定らが起こした反乱の鎮圧のため、
自ら出兵して益州南部四郡を平定。
227年、孔明は「出師表」を上奏して北伐を開始。
劉備の死からは凡そ4年、内乱の鎮圧からは2年程の期間が経っていた。
227年春、孔明は先ず漢中に入ると沔水の北、
陽平郡石馬県に陣を構える。
しかしそこから兵を進めて実際の北伐が開始されるのは
翌228年の春。
詰まり一年間の空白があるのだが、
実はこの期間の間に、
あの有名な孟達の寝返りがあった。
孟達は嘗て関羽の死に際し、関羽からの救援要請を断って
援軍を送らなかったために劉備の怒りを買い、
孟達は自主的に房陵・上庸をの二郡を劉備に返上して“放於外”と、
自らを追放すると言って暇を遂げて致仕し、
部曲四千余家を率き連れ魏へと出奔した。
しかし容姿才幹に秀でていた孟達は寝返り先の魏でも
文帝の曹丕から直々に、格別の寵愛を受け、
散騎常侍・建武将軍・仮節、平陽亭侯に封じられた上、
房陵・上庸・西城の三郡を合わせて新設された新城郡の太守として、
同地の支配を任せられた。
が、
孟達の魏での優遇も、寵愛を受けていた文帝・曹丕や、
及び親友だった桓階・夏侯尚ら相次ぐ病死と共に崩れ落ちる。
孟達は魏国内で皇帝の曹丕や一部の者には、
「将帥の才だ」とか、或曰「卿相の器だ」とか、
大変評判が良かったが、
しかしまた同時に司馬懿、劉曄、費詩を始め、多くの魏の重臣達から
「巧言で信義なく、任ずべからず」、
「自らの才を恃み、決して恩義に感懐することはない」、
「小人にして不忠」などと、
特に彼の人間性に付いて、厳しい批判を受けると共に、
“またいつ願えるかわからない”といった不信感や、
離反の警戒感を持たれていたのだった。
孟達は自身の大事な庇護者を失ったことで
また新たに魏国内での自分の立場や将来に不安を抱き、
再び魏から蜀への帰参を考え始める。
これはしかし蜀にとって非常に重大な外交案件で、
新城郡は蜀が漢中から漢水を抜け、荊州方面の魏領内へと
出て行くための貴重な侵攻ルートの一つで、
だからもし孔明が一度寝返ったこの孟達を得ることができれば、
蜀は呉にも頼らず自力で魏への多方面攻撃が可能となり、
これにより魏への北伐に際して、戦略の幅と行軍の自由度を
格段に押し広げることができた。
だから227年から228年までの一年間、
孔明はこの孟達の寝返りを待っていたことになる。
実際それくらい孟達の存在は、
これから魏への北伐遠征を目論む孔明にとって、
その作戦の動向を左右する、
重要なキャスティング・ボートを握る存在であったのだろう。
これはまた呉の孫権にしても同様に重要で、
後に孟達が司馬懿の攻撃を受けた際も、
呉は蜀と共にそれぞれ西城の安橋・木闌塞に将軍を派遣して
孟達を救援しようとした程だった。
しかし結局、孟達が自らドジを踏んで全てを台なしにしてしまう。
227年の年末から228年の間に掛け、油断していた孟達の隙を付く形で、
宛に駐屯し南方、呉蜀の対応を任されていた司馬懿の奇襲により、
新城の孟達は敗死をさせられてしまう。
孟達は魏からの寝返りに当たって孔明への手紙に、
「(司馬懿の駐屯する)宛は、洛陽からは八百里、
私の所からも千二百里離れています。
私の離反を聞き、司馬懿が私を討つべく天子に上奏をしても、
都との遣り取りに一ヶ月は掛かるでしょう。
その間に私は諸軍を整えて城を固めてしまいます。
また、我が在所は大変深險で、司馬懿も自ら遣ってなど来ないでしょうし、
他の諸将が来ても、私に患いはございません」などと悠長なことを言い、
スッカリ油断をしてしまっていた。
しかし宛の司馬懿はそんな孟達の想像を超えるスピードで、
道を倍し昼夜兼行で八日間で孟達の上庸城にまで辿り着き、
八道から包囲して城を攻め立てた。
そして包囲から十六日の後、228年正月、
上庸城は孟達の甥の鄧賢や将の李輔の内応により城門が開かれ、
城は陥落。
司馬懿は孟達を斬って首を京師に送り、
捕虜一万人余りを獲て宛城へと帰還した。
孔明はそれで結局、
228年から、改めて単独での北伐を開始することとなるのだが、
孟達が魏から蜀へ、再度の寝返りを考えたのは、
それはそれまで自分を贔屓にしてくれていた文帝の曹丕が死去し、
魏での立場が危うくなったためで、
詰まり孔明の第一次北伐は基本として、226年6月の曹丕の死を狙って、
企てられたものだということがいえる。
とにかくこの当時、敵国を攻める最良のタイミングといえば、
それはもう君主交代の、ドサクサの混乱時が一番の狙い目だった。
何といってもこの大陸には古来より「服喪」という、
浮世の制度の枠組みを超えた、民族上の最重要宗教儀礼が存在していたため、
その期間に敵に攻め込まれるのが最も厄介なことだった。
だから逆をいえば蜀でも劉備が死んだ223年は
かなりヤバかった年でもあるのだが、
そのときは魏呉で上手いこと潰し合ってくれていたために助かった。
しかし曹丕が死んだことで今度はそのチャンスが蜀に回ってきた。
この機会を活かさぬ手はない。
孟達の死は惜しかったが通常の喪の期間は3年。
詰まり凡そ、226年から229年までの間が、
孔明が最初の北伐を窺う一つの大きなスパンだったといえるだろう。