赤壁の戦いから孔明北伐開始までの流れ
赤壁の戦いから諸葛孔明の北伐開始まで、魏・呉・蜀三国の関係と
その間の出来事をザッとおさらい。
208年の赤壁の戦い以来、劉備軍と孫権軍は同盟を結び、
共に曹操軍と共闘する関係にあった。
特に孫権は赤壁以後も曹操と激しく戦い、
長江北岸の支流から流れる巣湖を挟み、
曹操軍の前線となる合肥と、孫権軍の前線となる濡須口の攻防を巡り、
両者は連年に渡って抗争を繰り返すこととなる。
【曹操vs孫権の戦い】
208年、赤壁の戦い
209年、曹操自ら合肥に出陣。
212年冬~213年春、馬超を破った曹操が自ら南征し、
濡須口の戦いが行われる。甘寧が夜襲で活躍などをするが
両軍共に決定打に欠け、
曹操は孫権軍の部将の公孫陽を捕らえると、やがて軍をまとめて撤退。
214年、孫権が廬江郡太守の朱光を攻め、皖城を奪う。
215年、孫権自らが10万の大軍で合肥を攻めるも、
孫権は張遼・李典・楽進らに率いられた僅か7000人の奇襲に撃退され、敗北。
216年10月、今度は曹操がまた自ら南征。217年正月に曹操は居巣に陣を構え、
張遼・臧覇を派遣して孫権軍を攻撃するも、
孫権は呂蒙に命じてこれを防衛。
曹操自身は217年の3月に夏侯惇を総司令官に残し、自身は許都に引き上げる。
すると孫権は使者を遣って曹操に降伏を申し出、
曹操がこれを受け入れると、両者は軍を引いて戦場から撤退を遂げた。
【呉蜀同盟の消滅】
217年に大きな変化を迎える。
それまで孫権・劉備の同盟軍で曹操軍と戦っていた関係がそこで崩れ、
先ず孫権が曹操に降伏。
そして219年には孫権は劉備軍との同盟を解消し、
逆に曹操と同盟して荊州の関羽を攻めて同地を劉備から奪い返すと、
221年7月~222年6月の間にはとうとう、
孫権は殺された関羽の報復を目的とした劉備との、
夷陵の戦いを迎えることとなる。
217年に一体何があったのか?
実はこの年に、魯粛が死んでいる。
先ず始めに赤壁の戦い以前、曹操軍の荊州征伐により同地を追われた
劉備達を庇護し、孫権と同盟させたのが魯粛で、
以後も魯粛はずっと孫呉政権の中で最大の劉備シンパだった。
孫権と劉備の仲が怪しくなるのは214年。
この年に、劉備が益州の占領を終えたという事実を知った孫権が、
劉備の元へ孔明の兄・諸葛瑾を使者に荊州、
長沙・桂陽・零陵三郡の返還を求めたのだが、
劉備はそれに対し「今度また、涼州を取ったら」などと言って
領土の返還を拒否。
怒った孫権は先ず、強引に長沙・桂陽・零陵三郡の長官を自分で
任命して送り込もうとするが、
今度はまたそれを関羽に追い返されてしまう。
すると孫権は遂に軍事行動に出て自ら陸口に出兵し、
魯粛には兵一万を与え巴丘で関羽と対峙させる。
そしてその間にさらに、呂蒙に兵二万を与えて長沙・桂陽方面の攻略へと回し、
同二郡を降伏させると、
その報せを聞いた劉備もまた自ら軍を率いて公安にまで出兵。
関羽も兵3万で益陽に陣し、
両軍はとうとう戦争状態へと突入。
しかし劉備は215年の7月、曹操軍が漢中への侵攻を開始し、
陽平関の砦を陥落させたとの報を受けたため、
結局劉備のほうから折れて講和を提案。
孫権は一応この講和を受け入れたものの、
この一件で彼の、特に劉備と関羽に対しての感情の悪化は
相当なものだったに違いない。
講和自体の内容は、江夏・長沙・桂陽の三郡を呉が、
南郡・零陵・武陵の三郡を蜀が領有するということで和平が成立したのだが、
結局、劉備は半分しか孫権に返していない。
その半分も、魯粛が有名な関羽と単刀赴会の直談判に臨み、
やっと両軍の衝突を回避させてまとめたもので、
しかしその魯粛が亡くなったことにより、
孫権はもう全ての荊州領を自分で取り返すことに決めたのだろう。
関羽を攻める。
劉備との同盟関係も解消する。
そのために、孫権は曹操に対し自ら進んで降伏をした。
【呉蜀対立の真相】
だから結局、孫権との関係を悪化させる一番の原因を
始めに作り出したのも、
それは他ならぬ孫権からの領土返還要求を無碍に突っぱねた
劉備本人だったといっていい。
劉備が自分で両軍の同盟関係をブチ壊しにした。
この点、小説の『三国志演義』では、
赤壁の戦い後、呉軍ではさらなる戦果の拡大を求めて防衛から一転、
反転攻勢に荊州南部の曹操軍領内へと攻め込むのだが、
それを劉備軍が横から諸葛孔明の謀計で以って、
呉軍よりも先に、全てを奪い取って占領してしまう。
遠征司令官の周瑜はショックの余り喀血して病に伏せ、(笑)
見かねた魯粛が劉備のもとへと直接赴き、
“そもそも始めに、曹操軍に追われて領土を失った劉備軍を
保護したのは我々のほうではないか”と訴え、
以降も長く両国の間で談判を重ねていくこととなるのだが、
・・・が、
史実を振り返って詳細にこの領土問題を検証して見た場合、
そもそも劉備軍が自分達でその荊南の土地を武力制圧で
攻め取ったという事実そのものが、非常に怪しく、
恐らく真実では、件の荊南の領土は本当にもう、孫権軍側の好意で、
劉備側に“貸与”されていたという可能性が非常に高い。
だから孫権としては本当に、
実際自分達の好意で貸し与えていた土地だから、
劉備に対して「返せ」と言ったわけだ。
しかしそれを直接、劉備本人の口から「嫌だ」と言われて拒絶される。
(この劉備と孫権の荊州領有を巡る諸事情に関しては、
「周瑜と魯粛 ~呉蜀荊州領問題~」
(http://ncode.syosetu.com/n8988bp/)なども、
参考にして頂ければと思います。)
【劉備の暴走】
しかしこの辺りは恐らく・・・、
劉備は軍師である孔明の助言も何もなしに、
彼の独断で全てをいっている。
後の孔明の外交方針を見てもわかることだが、
孔明の戦略では何より、蜀と呉で同盟を組んで
最大勢力の魏と対抗するのが大原則で、
孔明であれば呉との同盟関係維持に必要なら、
荊州の領土くらい簡単に相手に引き渡していただろう。
しかし劉備はそれを惜しんで孫権の心象を著しく害した。
どころか殆ど相手を侮辱したも同然の行為だった。
そしてそれが後の孫権の荊州侵攻へと繋がり、
自分のした事の報いとして返ってくることになる。
劉備はとにかくメチャクチャをしている。
演義と違って史実での諸葛孔明の活躍は、実は主に劉備の死後なのだが、
しかしそれも当然で、
劉備は孔明を軍師として迎えながら、
彼の言うことを碌に聞いていない。
この点もまた、
三国志演義の世界しか知らない人達にはとにかく意外なのだが、
実際、劉備玄徳という人は軍師の孔明に限らず、
その他の参謀将校達まで全て含めて、
彼は驚く程、人の助言やアドバイスを聞かない。
というより、話しは聞いても、とにかく自分が気に入らなければもう絶対に、
頑として受け入れない。
典型的なワンマン経営タイプの人だった。
だから劉備は史実でも演義と同様、いわゆる「三顧の礼」で以って、
在野の諸葛孔明を軍師として丁重に招き入れるのだが、
そのくせ彼はその軍師の孔明から、
「とにかく先ず、絶対に荊州を取れ」と言われて、取らない。
しかしこれは実際、決して笑い事ではなく、
戦略的に致命的で、
それで、曹操は劉備が放棄した荊州を手に入れたことで、
呉への多方面侵攻が可能となり、
その時点で曹操の天下統一もほぼ決定的となってしまったのだった。
が、それがたまさか、曹操が嘗ての官渡の戦いの時の袁紹と同様、
持久戦を進める幕僚の助言(呉を攻めるに賈詡は三年は待てと
曹操に進言していた)を退けて、呉の制圧を短兵急に急ぎ過ぎたため、
赤壁で周瑜にまさかの大敗を喫するハメとなったが、
もし曹操がそのまま長期戦を選んでいたら、
そのときはさしもの周瑜をしてもどうにもならず、
孫権も劉備も終わりだった。
三国志演義では劉備が天才軍師・諸葛孔明を得たことで、
彼の人生はそれまでと打って変わって、
一気に急上昇を遂げるが、
実際の孔明の本格的な活躍はその劉備の死後。
それは詰まり、孔明が宰相として文字通り、
内政・軍事・外交・人事その他一切のことを全て自分自身の手で
行えるようになったからで、
だから劉備が史実で蜀の国を取ったことも、
実は孔明の存在は関係が薄い。
劉備に蜀を取らせた最大の功労者は、魯粛である。
【三国志演義とはまったく違う、“ビスマルク”魯粛な、彼の意外な活躍】
魯粛が先ず曹操から荊州を追われた劉備一行を呉へと迎え入れて保護し、
両軍の間で同盟を結ばせたのだが、
しかし同僚の周瑜のほうはまったく劉備軍の力をアテにせず、
史上に於いては、周瑜はほぼ独力で曹操の大軍を撃退した上、
彼らから荊州南方の領地を奪取し、
周瑜のいる間、劉備は殆ど孫呉政権内で飼い殺しにされ、
周瑜の存命中、劉備はその周瑜から僅か南郡公安の一県を
与えられているだけに過ぎなかった。
もし周瑜がずっと生きていれば、そのまま彼が蜀の地まで
取ってしまっていただろうが、
その周瑜の死により、
荊州の孫権領が代わりに劉備に与えられることとなった。
始めは周瑜の死後、
魯粛に周瑜の持っていた軍閥と領土とが引き継がれることとなったのだが、
彼は亡き周瑜に代わって南郡江陵の城へと入ると、
直ぐに自分が貰ったその城から出ていって、
そこに劉備を入城させたのだ。
それとその以前にも、まだ周瑜の存命中、
孫権に劉備の荊州南部四郡の支配を認めさせたのも、
全て魯粛だった。
周瑜はどこまで孫呉自力での天下制覇を狙っていたが、
魯粛は逆で、
魯粛はむしろ呉が進んで劉備に、
敵と戦えるだけの領土と軍資を積極的に提供することで、
曹操軍と対抗させる強大な第三勢力の養成を考えていた。
周瑜は劉備を“梟雄”として激しい警戒心を抱いていたが、
魯粛は別に劉備が梟雄でも、
曹操軍と戦争をさせてその力を相殺させる反抗勢力となってくれれば、
それで良いという考えだったのだろう。
だから周瑜などは「飽くまで蜀は自分達で取る」との考えで、
一方で魯粛のほうは、劉備達に対し、
“必要な軍資は荊州のそれを全て自由に使わせてやる。
だからお前達で蜀を取れ“と。
但しそれは飽くまで劉備が蜀を取るまでで、
劉備が蜀を取ったのなら、荊州のほうはまた返して貰うという、
始めからの両者での約束だったのだろう。
しかし結局、劉備は後になって領土返還の約束を無視し、
魯粛はその交渉に苦労させられることにもなってしまうのだが、
だがこれはむしろ、
魯粛の存在によって劉備のほうが救われていたといっていい。
魯粛の死により、
呉蜀の関係が同盟以前のチャラの状態に戻ってしまった。
劉備が自分でチャラに戻してしまった。
劉備は孫権からの領土返還の要求に対し、何故か頑なにそれを拒んだが、
劉備は孫権軍に厄介になっている間、主に周瑜からだが、
かなり辛らつな目に遭わされていた。
おそらくその時の仕打ちに対する恨みからだろう。
しかしそれがまた孫権からの激しい新たな憎しみを買う結果となり、
劉備は結局、荊州はおろか関羽まで全て失うこととなってしまった。
“お前が、お前が”で、
劉備は実際、彼がその様なことを繰り返していては
いつまでも一得一失の状態から抜け出せず、
自身の勢力を大きく拡大させていくことなどもとてもできない。
だからこれは孫権にもやはり同様のことが言えるのだが、
例えば孫権が領内の山越討伐に、
何か柔軟な外交策で上手く対処し直接の紛争を回避出来ていたとしたら、
彼の魏に対する戦果もかなり違う結果になっていたのではないか。
劉備は孫権軍との領有紛争の最中、
曹操軍が漢中にまで侵攻して来たため、そこで孫権軍との争いを止めて、
領土半分の返還をシブシブ了承して引き上げたが、
しかし本来なら、
劉備のほうが曹操よりも先に漢中を取っていなければダメだった。
漢中を五斗米から奪取した曹操は、
もしそのまま南下していれば、
まだ入蜀後間もない劉備軍から益州の地まで攻め取ることが確実だった。
劉曄と司馬懿が曹操にそう進言していた。
しかしこの時もまたどういうわけか、
たまたま曹操が「隴を得て蜀を望まず」などと言って引き返してくれたため、
劉備は益州での支配権を確立することが出来たが、
もしそのまま曹操に攻め込まれていたら、
やはり劉備はそこで終わりだった。
全て劉備が蜀取りにモタモタと無駄な時間を掛け過ぎたためで、
劉備は益州別駕・張松からの要請で益州奪取の行動を起こしてから、
211年~214年まで、
実に4年近い歳月を費やしやっと劉璋を降伏させることに成功した。
この時も劉備は軍師・龐統の成都急襲策を採用せず、
相手に見通しの効かない長期戦へと引きずり込まれてしまっていた。
そもそも曹操のほうが211年3月の時点で、
鍾ヨウを漢中の張魯討伐に向かわせようとしていたので、
だからこれは始めから曹操との競争でもあったのだ。
当然、龐統もそのことを考えて劉備に成都急襲策を進めたのであろうが、
しかし劉備は聞かなかった。
劉備軍はフ城までは何とか無難に軍を進めたが成都の一歩手前、
難攻の要害・ラク城で足止めを食い、
攻略に丸一年を要した挙句、龐統もその戦いで戦死させてしまう。
孔明はこの時に、劉備の存命中では珍しく自ら直接軍を率い、
張飛、趙雲らと共に、蜀へと劉備の救援に向かった。
ただこれはしかし、孔明にとって想定外の行動だったに違いない。
そもそも蜀への遠征軍が劉備の、主に荊州領占領後の配下の者達ばかりで、
またその人数が少数だったのも、
それは恐らく彼らが始めから劉璋軍との本格戦闘など
考えていなかったからだ。
しかし流石の孔明もいい加減、
余りに延々、泥沼の消耗戦を続ける劉備を見かね、
彼が出ていかざるを得なかったのだろう。
それくらい劉備は“そんなことをしたら終りだぞ”というほど致命的な
選択の誤ちを、
彼の人生でもう、何度にも渡って繰り返して来ていた。
最後には夷陵の戦いで、またも黄権の進言を無視して大敗を喫し、
遠征の大軍を壊滅させてしまった。
それは、劉備も白帝城から成都に戻れなかったろう。
彼は孔明に会わす顔がなかったに違いない。
孔明と親友だった馬良も夷陵の戦いで死んだ。
しかし最期、劉備は臨終の今わの際にやっと孔明を枕頭に呼び、
彼に事後を託して激動の生涯を終えた。
孔明はまた一から出直し。
先ず鄧芝を派遣して孫権との同盟関係を回復し、
225年には雍闓・高定らの起こした反乱を機に、自ら出征して
益州南部四郡を平定。
内治を整え疲弊した国力の回復と増強に努めると、
227年、「出師表」を後主・劉禅に上奏し、
孔明はいよいよ本題となる魏への北伐を敢行することとなる。