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第五次北伐、諸葛孔明最後の戦い ③ 五丈原の戦い

文字制限を越えてしまったので分割。


諸葛孔明最後の戦い。

第五次北伐~五丈原の戦い~。


その後半戦。ファイナル・ラウンド。


武功水を挟んで、五丈原の台地上に強固な陣地を構えた魏蜀両軍の攻防戦。

【武功から五丈原へ、第五次北伐第2ラウンド】


孫権は蜀軍よりも3ヶ月も送れて出兵しながら、

結局自分のほうが蜀軍よりも先に撤退してしまった。

それも三方面の全面撤退。


しかし孔明のほうは依然、北方で司馬懿軍と向かい合ったまま。

孫呉軍の全面撤退により、この第五次北伐遠征での魏打倒も叶わぬ夢と

潰え果ててしまったが、

が、それでもまだ彼の戦いは終わらない。


孔明はこれまでの遠征も、決して無駄なことをしてきたという

積もりはなかった。

魏の打倒は決して蜀の単独ではできない、

孫権軍の動向にも結果が左右される非常に成功確率の低い、困難な事業だったが、

しかし最低限、自分達のほうでできること、やれることはある。

自分達でできることは自分達でシッカリとやっておくまでで、

今回の北伐遠征にしても、

おそらく孔明は自分の寿命の限界を濃厚に意識していたであろうが、

だからといって彼が、決してこれが最後だからと、

自分の命の尽きるまで、

ギリギリまで戦場で粘っていたというわけではなかったろう。


飽くまで軍の兵糧が残っているから、

軍事活動の可能な間はそれを行うまでで、

それは前回の北伐と変わらない。

だから孔明が陣中に没したとき、魏延などは北伐の続行を主張していたが、

詰まり兵糧はまだ残っていたということになる。


諸葛孔明とはそういう人である。

どこまでも実直を絵に描いたような人物で、

本来感動ドラマの主人公にはなりにくいタイプの面白みの欠ける、

至って地味な人間だ。

しかし三国志演義ではそれがいわゆる物語的な設定や演出によって、

非常に盛り上がる勧善懲悪の劇場型ヒューマンドラマと仕上がっているが、

しかし概して現実の、生の歴史とは大抵、非常に地味で味気ないものでしかない。

現実はそんなに詰まらない。

詰まらなければ別に人は見向きもしない。

だから現実の徳川光圀や徳川吉宗がどうということもないが、

それが『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』なら大喜びなわけだから。

フィルターを掛けて勝手に盛り上がっているのは、

見ている読者や視聴者のほうで、

元々歴史上の本人達の、現実の姿とは何の関係もない。



【五丈原の戦いおける、各関連史書間の不整合】


諸葛亮は初め、武功で屯田をしていた。

そして5月の麦の収穫を終えてから、

改めて五丈原に向かったものと思われるのだが、

しかし『三国志』曹叡の本紀、及び『資治通鑑』の既述を参照すると、

6月に孫権軍に攻められる満寵が、

合肥新城からの撤退を曹叡に打診してきて、

それに対して曹叡が、

征蜀護軍の秦朗に步騎二万を授けて諸葛亮と戦う司馬懿の援軍に回し、

合肥の方には曹叡自らが親征し、

7月に入ってから龍舟に乗って救援に向かったという格好になっている。


とすると、秦朗の援軍は6月以降のこととなる筈なのだが、

のほうを見ると、



※(『晋書 宣帝(司馬懿)紀』)

「二年,亮又率眾十餘萬出斜谷,壘于郿之渭水南原。

天子憂之,遣征蜀護軍秦朗督步騎二萬,受帝節度。

諸將欲住渭北以待之,

帝曰:「百姓積聚皆在渭南,此必爭之地也。」

遂引軍而濟,背水為壘。

(二年(234年)、諸葛亮はまた、10余万の軍勢を率いて斜谷へと出て、

司隷扶風郡郿県の渭水南岸の原に防塁を築いた。

天子はこれを憂い、征蜀護軍の秦朗に步騎2万人を監督させて援軍に派遣し、

帝(司馬懿)に節度を受け渡した。

諸将は渭水の北岸で敵を待ちうけたいと欲したが、

帝(司馬懿)は言った:“百姓は皆、渭南に集中している。

ここは必争の地だ。”と。

遂に軍を率いて渭水を渡り、背水に陣を構えた。)」



・・・と、

この書かれ方だと、

まだ一番初めの、斜谷から現れて武功へと駐屯した蜀軍に対し、

その迎撃にやって来た司馬懿が、

諸将と共に布陣をどうしようかと協議を始める、

その前に援軍が到着したことになってしまって、

いまいち整合が取れない。


整合性が取れないのはまた、

『晋書 宣帝(司馬懿)紀』と『三国志 郭淮伝』との間でもズレがあって、

中々うまいこと、記事が繋がってくれない。


しかし『晋書』に関しては第四次と第五次、二回の対蜀戦の結果が

何れも司馬懿の大勝として書かれるなど、

かなり司馬懿寄りになってしまっているので、

ここでは取りあえず、合わない点は『晋書』以外のほうで整合性を取って、

合わせていきたいと思う。


なので先ず初めは2月、

斜谷を出て武功に留まった蜀軍に対して、

迎撃にやってきた司馬懿もまた、渭水渡って背水の陣を布いて対峙。

武功では屯田を行う蜀軍。

あわよくばそこで、屯田の邪魔に攻め込んできた魏軍との決戦をもと、

考えていた孔明だったが、

しかし司馬懿は攻めてこず。

5月、蜀軍は無事に秋の収穫を終えて、

余分な非戦闘員を漢中の地へと戻す。

そして6月、

渭南で向かい合う両軍に魏の秦朗が2万の増援を引き連れて武功へと到着。


孔明はその魏の援軍が現れた6月頃に、

平地の武功から五丈原の高台へと陣を移す。

それは恐らく魏軍の人数が増えたことで彼我の戦力が逆転し、

そのまま蜀軍が武功の平地に居座り続けるのが危険になってきたから、

そのための措置として。


司馬懿にとっては以前から自分が諸将に対し、

「諸葛亮が若し勇者なら、武功を出て、

山に依り東に向かうだろう。しかしもし西の五丈原に上ったのであれば、

諸軍は安泰だ」と語っていた、

その結果の通りとなったわけだが、

しかしその東方に関しては孔明自身が、馬冢が堅固で突破できないと語っている。


だからこれも逆だろう。

司馬懿は本当は、自分のほうでちゃんと迎撃準備をしていた、

その馬冢のほうを蜀軍に攻めに来て貰いたかった。

そもそも五丈原のほうが防御力が堅いのだから、

魏軍としては敵に五丈原に登られたほうが排除が難しくなる。

蜀軍の五丈原帯陣は今戦役の長期化を意味することでもあった。


それをだから司馬懿は逆に、

“あ~、本当は敵が東のほうに向かっていれば、こっちは危なかったのに、

あいつら臆病だから、

西の五丈原の方に引っ込んでくれて助かったわ”などと、

敢えてそう反対のことを言うことで、

味方の士気高揚や敵の混乱を誘ったのだろう。

しかしながら勿論それで、蜀軍が動揺するということはなかったが、

だからこんなことも、

引っ掛けられたのは後世の人間達のほうで、

“孔明はバクチをしない慎重派だから。賭けに出ることができずに

安全な消極策を取った。

だから彼は北伐に勝利を得ることができなかったのだ”などと、

司馬懿の言を、そのまま彼の言った通りに受け取って、

やはり孔明は軍司令官として全然ダメだと。

だから司馬懿にそう言われた魏軍内の兵士達なんかは、

やはりそのまま孔明のことを臆病で無能なヤツだと思っていたのだろう。


しかしまあ史書に書いてあることがそのまま真実だというのなら、

もう陳寿や司馬懿の残した通りの評価で、

諸葛孔明という人物像を確定することは可能だ。


だが現実には蜀軍が五丈原へと退いた結果、

魏軍のほうが逆に、

その厄介な高台の方の敵に向かって攻め込んでいくという形に、

変えられてしまっていたのだから。


曹叡は司馬懿に対し、



※(『三国志 明帝紀』)

「但堅壁拒守以挫其鋒、彼進不得志、退無與戰、久停則糧盡、

虜略無所獲、則必走矣。

走而追之、以逸待勞、全勝之道也。

但し堅く壁を拒守し、以ってその鋭鋒を挫け。

敵は進めなければ志を得ず、久しくとどまり糧食が尽きれば、

戦うことなく撤退するしかなくなる。

略奪しようにも獲る物がなければ、必ず敗走するに違いない。

敗走すればそこでこれを追う。

これぞ逸を以って労を待つ、全勝の道だ。)」



と、

敵の兵糧が尽きれば勝手に引き返していくしかないから、

それまで固く守って手を出すなと厳命したが、

それでも今さまに、

魏は多方面に渡って敵の侵攻を受けている真っ最中。

故に蜀軍にいつまでも取り付かれて危ないのは魏軍側のほうだったのだ。

だから司馬懿は何とか、

できれば蜀軍を自分達の陣地のほうへと誘き寄せて撃破したかった。

しかしそれができなくなった。

が、それでも必要以上に時間を長引かせたくはない。

焦りはやはり、司馬懿のほうにあった。


曹叡は飽くまで司馬懿に待てと命じたが、

しかしそれはそれで、魏軍のほうにも憂慮すべき問題点が存在していた。

一般に蜀軍は長距離遠征軍のため、弱点は補給難だと言われ、

だから魏軍はただ砦に籠もって相手にならず、

敵が引き返していくのを待つだけで良かったなどと言われるが、

が、

それが実際、フタを開けて見れば、

先の第四次の戦いにて。

実は敵を迎え撃つ魏軍のほうでも兵糧はギリギリで、

後少しで補給が切れ掛かってしまっていたのだ。


対して蜀軍のほうでは逆に、

李厳の失敗がなければ、依然、食料補給に問題はなかった。

だから第四次北伐の戦いは、

あのまま続いていれば蜀軍が確実に勝利を収めていた。

補給の尽きた魏軍は撤退を余儀なくされ、

蜀はそれを追って追撃をしていくだけでいい。

そうなれば長安まで取れていただろう。

蜀軍が長安を取れば、西域への道を遮断し、

第一次の北伐で岐山を取ったことで南安・天水・安定の3郡が寝返ったように、

長安周辺三捕の地域から瑯西以西まで悉く蜀軍の領土として

確定していたに違いない。


司馬懿は今回の戦いに臨んで、事前に成国渠と臨晉陂を築いて、

軍糧をシッカリと確保していたが、

しかし万が一、それ以上の軍糧を蜀軍が用意していたとしたら・・・?

前回は半年以上戦って、なおも余剰分があり、

しかも今回は武功で屯田まで行なっていた。


孫権軍のほうは先に引き揚げていったが、

司馬懿にとって、五丈原での戦局の行方は、

未だ予断を許さぬ状況に置かれていたと言っていいだろう。





【五丈原移転以後の両軍の戦い】



※(『晋書 宣帝(司馬懿)紀』)

「二年,亮又率眾十餘萬出斜谷,壘于郿之渭水南原。

天子憂之,遣征蜀護軍秦朗督步騎二萬,受帝節度。諸將欲住渭北以待之,

帝曰:「百姓積聚皆在渭南,此必爭之地也。」遂引軍而濟,背水為壘。

因謂諸將曰:「亮若勇者,當出武功,依山而東。

若西上五丈原,則諸軍無事矣。」

亮果上原,將北渡渭,帝遣將軍周當屯陽遂以餌之。數日,亮不動。

帝曰:「亮欲爭原而不向陽遂,此意可知也。」

遣將軍胡遵、雍州剌史郭淮共備陽遂,與亮會于積石。

臨原而戰,亮不得進,還於五丈原。

會有長星墜亮之壘,帝知其必敗,

遣奇兵掎亮之後,斬五百餘級,獲生口千餘,降者六百餘人。

(青龍二年(234年)、諸葛亮は十余万の衆を率いて斜谷へと出て、

郿県の渭水南岸に塁を築いた。天子(曹叡)はこれを憂え、

征蜀護軍の秦朗に歩騎二万を統監させ、司馬懿の節度を受けさせた。

諸将は渭水の北に往き、諸葛亮を待ち受けることを欲したが、

司馬懿は、「百姓達は皆、渭水の南に集まっており、

ここは必争の地となる」と言い、軍を引き連れて河を渡り、川を背に塁を築いた。

そして諸将に、「諸葛亮が若し勇者なら、武功を出て、

山に依り東に向かうだろう。しかしもし西の五丈原に上ったのであれば、

諸軍は安泰だ」と言った。

果たして諸葛亮は五丈原に上り、渭水を北へ渡ろうとした。

司馬懿は将軍の周当を囮として陽遂に派遣して駐屯させ、

蜀軍を誘き出させようとしたが、数日の間、諸葛亮は動かなかった。

司馬懿は「諸葛亮は陽遂には向かわずに五丈原で戦うことを欲している。

この意図は知るべきだ」と言い、将軍の胡遵と雍州刺史の郭淮を派遣して

共に陽遂の備えとさせると、積石で諸葛亮と遭遇した。

原に臨んで戦争となったが諸葛亮は進めることを得ず、五丈原に還った。

長星が諸葛亮の塁に堕ち、司馬懿は諸葛亮が必ずや敗れることを悟った。

奇兵を派遣して諸葛亮の背後から引き止めに掛かった。

五百余の首級を斬り、生口千余、降伏者六百余人。)」



※(『三国志 郭淮伝』)

「青龍二年、諸葛亮出斜谷、並田于蘭坑。是時司馬宣王屯渭南。

淮策「亮必爭北原、宜先據之」議者多謂不然。

淮曰「若亮、跨渭、登原、連兵北山、隔絕隴道、搖蕩民夷、此非國之利」

宣王善之、淮遂屯北原。塹壘未成、蜀兵大至、淮逆擊之。

後數日、亮盛兵西行、諸將皆謂欲攻西圍。

淮獨以爲「此見形於西、欲使官兵重應之。必攻陽遂耳」

其夜果攻陽遂、有備不得上。

(青龍二年(234年)、諸葛亮は斜谷に出て、蘭坑に田を並べる。

この時司馬懿は渭水の南に駐屯していた。

郭淮は「諸葛亮は必ず北原を争うに相違なく、

宜しくこれを先に占拠すべし」と、

献策したが、議者の多くはそうではないと言った。

しかし郭淮はさらに「若し諸葛亮が、渭水を跨ぎ、原を登り、

兵を連ねて北山に向かえば、隴への道を隔絶されて、民夷が動揺し、

これは我が国の有利にはなりません」と重ねて言った。

司馬懿はこれを善しとし、郭淮を北原に駐屯させた。塹壘が未完成のとき、

蜀兵が大挙して襲ってきたが、郭淮は逆にこれを撃退した。

数日の後、諸葛亮は兵を盛んに西行し、

諸将は皆、蜀軍が西の囲みを攻めようとしているのだと言った。

しかし郭淮は独り、「これは西に行くと見せ掛け、

我が官兵を重ねてそれに応じさせようとしているのです。詰まり敵の囮で、

蜀軍は必ず陽遂を攻めるに違いありません」と主張した。

すると果たして、その夜に陽遂が敵に攻められたが、

備えのために蜀軍は戦果を得ることができなかった。)」




さて蜀軍は武功から五丈原へと陣を移し変えたわけだが、

では魏軍のほうはどうだったのか?

一緒に彼らも陣を相手に合わせて、五丈原の側へと移したのか・・・?


で、

これは私が考えるに、

司馬懿は恐らく始めの位置から陣を移し変えてはいない。

もしくは動かしても直ぐ近く。

何故そう考えるのかというと、


『水経注』、及び『太平御覧』という資料に、

孟琰という蜀の武将が登場してくるのだが、

その記述によれば、

先ずこの孟琰が武功水の東岸に布陣。

しかし渭水の増水によって孟琰が蜀の本隊と切り離されて孤立。

するとすかさずそこへ司馬懿が騎兵一万人を差し向け、

二十日の間、孟琰の陣営に攻撃を加えたという。

それに対して孔明は急ぎ竹橋を作るとともに、

その間、武功水越しに魏軍に向かって弓を射掛けて敵を威嚇。

やがて竹橋の完成を見て敵兵も引き下がっていったと。



※(『水經注』渭水)

「臣遣虎步監孟琰,據武功水東,司馬懿因水長攻琰營,

臣作竹橋,越水射之,橋成馳去。

臣(諸葛亮)は虎步監の孟琰を派遣し、武功水の東を拠り所とさせた。

司馬懿が渭水の増水に因り、孟琰の屯営を攻撃した。

臣(諸葛亮)は武功水越しに敵を射ち、浮き橋が完成すると、

敵は去っていった。)」


※(『太平御覽』橋)

「臣先進孟琰據武功水東,司馬懿因水以二十日出騎萬人來攻琰營,

臣作車橋,賊見橋垂成,便引兵退。

(臣(諸葛亮)は先ず、孟琰を進めて武功水の東を拠り所とさせた。

司馬懿が20日の長雨に因り、騎兵1万人で孟琰の屯営を攻撃させた。

臣(諸葛亮)は車橋を作り、賊はその橋の完成を見ると、

すなわち兵を退いた。)」



武功水は別名を斜水と言い、武功水とは五丈原の台地の直ぐ東隣りを

南北に流れて、渭水へと注ぎ込んでいる河だ。

斜水とは詰まり“斜谷の~”といった意味だろう。


しかし孟琰はその武功水の東岸に布陣をして、増水のために孤立。

それに対して蜀軍は河に阻まれて竹橋を作らなければ救援に迎えなかったが、

魏軍の方ではそのまま孟琰の陣地に兵を送って攻撃を加えている。


ということは詰まり、

そのとき司馬懿の軍は、孟琰と同じ武功水の東側のほうに

布陣していたということになる。

さらに渭水の北岸にいてもやはり増水に阻まれて

孟琰の攻撃には行けないことになるので、

司馬懿は渭水の南岸にいる。


詰まり司馬懿は始めの陣地から殆ど動いてはいないと・・・。


だから始めに私が予想をした、

現代の地図上の郝家堡辺りの位置のままだったか、

それか今度は魏軍のほうが、

蜀軍が引き払った武功の陣地に入れ替わりで入ったとか。



挿絵(By みてみん)

五丈原の戦い後半戦、布陣図(推測)



【北原の戦いと陽遂(積石)の戦い】


五丈原の台地へと陣を移した蜀軍は、そこからまさに渭水を北へと

渡ろうとする様子だった。


それに対して司馬懿が取った行動。

司馬懿は周当という将軍のを囮として陽遂に派遣して駐屯させ、

蜀軍を誘き出させようとした。

しかし数日の間、諸葛亮は動かなかった。

司馬懿はそれを見て、

「諸葛亮は陽遂には向かわずに五丈原で戦うことを欲している。

この意図は知るべきだ」と語ったという。


その一方、

郭淮は、孔明は必ず北原の地を狙うに違いないから、

先ずここを占拠すべきだと主張。

しかし諸将はそうではないと思った。

が、郭淮はなおも、

敵の真の狙いは北原を抑えて魏本国の都と西方諸国との間の隴の道を遮断して、

民夷を動揺させることが目的なのだと重ねて主張。

司馬懿もこれに同意し、郭淮を北原に駐屯させた。

するとやがて、郭淮が未だ塹壘を拵えている間に蜀軍が大挙して襲ってきたが、

郭淮は逆にこれを撃退してみせる。


蜀軍が北原の地を抑えることは、おそらく第一次の北伐で孔明が

祁山を占拠したことと同じ意味合いなのだろう。

それで本国との道を遮断された南安、天水、安定の三郡は

一斉に魏から蜀へと寝返ってしまった。


北原の位置は一応地図で確認ができた。

五丈原の北西で渭水の北岸、現代の中国地図で大体、“北庄”の位置くらいか。


挿絵(By みてみん)

サイト「三国遗址五丈原风景名胜区_旅游指南_景区攻略_门票信息_风景网(http://scenic.fengjing.com/shaanxi/index10404.shtml)」様、掲載の五丈原周辺地図。


しかし陽遂の場所のほうが全然わからない。


司馬懿は始め、将軍の周当を囮に陽遂に送るも、

蜀軍は動かず。

しかし郭淮の予想通りに北原へと蜀軍が現れた後、

西へ向かう形勢を示した敵に対し、

郭淮は、今度は蜀軍は陽遂のほうへと向かうだろうと。

そして実際にそっちのほうに敵がやってきて合戦にもなった。

だから渭南で対峙する両軍にとって、

この北原と陽遂はともに戦略・戦術上の重要拠点だったのだろう。


晋書のほうの記述を見ると、


※(『晋書 宣帝紀』)

「亮果上原,將北渡渭,帝遣將軍周當屯陽遂以餌之。數日,亮不動。

帝曰:「亮欲爭原而不向陽遂,此意可知也。」

遣將軍胡遵、雍州剌史郭淮共備陽遂,與亮會于積石。

臨原而戰,亮不得進,還於五丈原。

(はたして諸葛亮は五丈原に上り、渭水を北へ渡ろうとした。

司馬懿は将軍の周当を囮として陽遂に派遣して駐屯させ、

蜀軍を誘き出させようとしたが、数日の間、諸葛亮は動かなかった。

司馬懿は「諸葛亮は陽遂には向かわずに五丈原で戦うことを欲している。

この意図は知るべきだ」と言い、将軍の胡遵と雍州刺史の郭淮を派遣して

共に陽遂の備えとさせると、積石で諸葛亮と遭遇した。

原に臨んで戦争となったが諸葛亮は進めることを得ず、

五丈原に還った。)」


と、

この書かれ方だとどうも、

先ず始めに司馬懿がここに来るだろうと予想した陽遂に、

結局蜀軍は現れることはなかったが、

が、それも何か蜀軍のフェイントだったような感じで、

だから「いや、それもわかっているんだ」と、

司馬懿は警戒を怠らず、

胡遵や郭淮を派遣して蜀軍による時間差攻撃を見事に防いだみたいになっている。

実際、後に陽遂のほうは攻められているので、

北原への攻撃も、

それ自体が本命の陽遂を奪取するための、蜀軍による遠大な見せ掛け攻撃だったと取れなくもない。

しかし三国志の郭淮伝のほうの詳細を見た場合、

やはり司馬懿のほうが読み違いをしているような感じがする。


ただ北原のほうは第一次北伐に於ける祁山と同じような意味合いの

拠点だったとわかるのだが、

果たしてこの陽遂のほうはどのような場所だったのか・・・?


わからないが、

ただその辺りのところが、司馬懿の読みが外れるポイントに

なっているようにも思える。

司馬懿はこの戦いにおいて皇帝である曹叡本人から直に、

厳しく交戦を戒められていたが、

しかし司馬懿個人としては、

何が何でも直接対決で蜀軍、および諸葛亮を力で叩き伏せたい。

だが蜀軍陣地は鉄壁過ぎて迂闊に手が出せない。

蜀軍を倒すためにはだから、何とか都合良く蜀軍のほうから砦を出て、

自分達のほうの拠点を攻めさせるようにしなければならない。

だから司馬懿は余りに敵に勝ちたい勝ちたいと逸る気持ちが強すぎて、

それが彼の戦局眼にも微妙な狂いを生じさせてしまうのではないか。


北原という拠点は、

そこを抑えたからといって直ぐに渭南の司馬懿軍に影響を与えるような

場所ではない。

だから魏軍諸将の反応も鈍かったのだろう。


さてそれで、

先ず蜀軍のほうが先に陣地を五丈原のほうへと移し変えてしまったわけだが、

そのことで、

当初、武功で魏蜀の両軍が渭水の南岸で南北に対峙していたときと変わり、

蜀軍が武功水を西に渡って五丈原の台地へと陣を移したことで、

今度は新たな戦場の状況として、

魏蜀の両軍がその、南北を縦に走る武功水を挟んで、

その河越に東西で対峙するという形勢に変わった。


よって蜀軍にとっては武功水が魏軍の侵入を阻む天然の防衛ラインともなる。

しかし所々は河底が浅く、そのまま渡って来れる場所も

あったかと思われるのだが、

それを現代の地図上の华(華)明村から掛かっている橋のところを

その比較的浅めの渡河ポイントとみて、

仮にその西岸、五丈原蜀軍陣地側の場所、

グーグルの地図で「八岔」の付近を陽遂としてみてみる。


『水経注』、及び『太平御覧』では、孟琰が武功水の東岸にまで出て

布陣していたが、

これは魏軍側に武功水を渡らせないようにするための配備だったのだろう。

河の増水によって孤立した孟琰が救出されて、

その後どうなったかまでは不明だが、

増水期間が過ぎたのであれば、そのままずっと同じ場所に

駐屯していたとも考えられる。

時期的には前回、第四次北伐の時には盛夏の6月の増水が発生しているので、

魏軍が今度、五丈原の蜀軍陣地を目指して武功水の渡河運動を始めたのも、

大体6月くらいの、それくらいの時期か。


残り6、7、8月まで三ヶ月、

五丈原では100日余りの対陣だったということで、

まあ、その頃。


とにかく河の水が引いたことで、

今度は魏軍が逆に武功水の渡河を開始。

先ずは比較的水深の浅目の場所からチョロチョロと先発隊を

試しに送り込んでみる。

それが将軍の周当で、場所が陽遂。


しかし蜀軍は動かない。

司馬懿はそれを見て、

「大丈夫だ、蜀軍は動かない。諸葛亮は五丈原の陣地で待って、

我々を迎え撃とうとしているのだ」と。

そうして魏軍は後続まで次々に武功水の西側へと乗り込み、

そして五丈原陣地への攻撃を開始。

といっても全面攻撃というわけではなく、緩やかなの包囲といった程度で、

攻撃は五丈原でも弱目の箇所を狙ってピンポイントに攻撃を仕掛ける。

そしてそれが詰まり『郭淮伝』に「西圍(囲)」と記述されている場所。


地図上では現代の五丈原鎮と書かれているその場所。

地図ではそのポイントはやや小高い丘となっているのがわかる。

しかも蜀軍本陣の居座っている五丈原の台地の直ぐ近く。

だからこの“西圍(囲)”というのは、

多分、五丈原本陣の防御力を補うための、言わば“出城”だったのではないか。


陽遂の胡遵と郭淮が襲われる前、蜀軍は一旦その、

西の囲みに向かう勢いを示していたが、

要するに司馬懿はその、西囲の出城を攻め上げることで、

彼は包囲された味方救援のため、孔明が五丈原の本陣から降りてきたところを、

捕らえて撃滅したいという狙いを持っていたのではないか。

だから魏軍諸将の誰もが皆、蜀軍が西へと向かう気配を見せたときに、

「よし、引っ掛かった」と思った。


しかしそこへまた郭淮一人、「そうじゃない。今度の敵の狙いこそ陽遂だ」と、

警告を発した。


この場合、もし実際に蜀軍が陽遂を占拠すれば、

蜀軍の西の陣地を攻撃中の魏軍のほうが、

逆に武功水東岸の本隊と切り離されて孤立してしまう。

蜀軍の狙いはそれだったろう。


因みに「陽」という漢字には、

山ならばその南側、川ならばその北側という意味があるそうで、

とするとこの場合、

陽遂の推定ポイントを渭水の南側に置いてしまうのは良くない。

が、

これを武功水の側から見て、

そうするとその地点は、今度は武功水の北端ということになる。

「陽」が北で、「遂」をまあ、その果て、終わりというふうに取れば、

結構いい線なのではないかと思うが、

しかし司馬懿も元々、蜀軍西側陣地への攻撃は

孔明を誘い出すための罠だったので、

蜀軍の狙いが陽遂を占拠して、

武功水東岸の魏軍をそのまま孤立させようとする狙いに、

中々気付けなかったのではないか。

とすれば、

この辺りは孔明も上手く司馬懿の性格を考えながら、

相手をかなり手玉に取って、立ち回っているようにも感じられる。

孔明は演義と同様、司馬懿に婦人用の髪飾りなどを送って挑発をしていたが、

これなども実際、司馬懿という人間の気質を考えれば、

恐らく司馬懿は表面上は黙ってその場をやり過ごしたであろうが、

はらわたは煮えくり返っていたことだろう。


何せ司馬懿は戦さの始めに明帝・曹叡から直接、「但堅壁拒守」と、

詔で以って固く出戦を禁じられていたのにも拘らず、

司馬懿は孔明からその婦人の装飾品を送り付けられた直後、

怒りの余り、自ら上表して蜀軍との決戦を願い出ているのだから。(笑)



※(『晋書 宣帝紀』)

「時朝廷以亮僑軍遠寇,利在急戰,每命帝持重,以候其變。

亮數挑戰,帝不出,因遺帝巾幗婦人之飾。帝怒,表請決戰,天子不許,

乃遣骨鯁臣衞尉辛毗杖節為軍師以制之。

後亮復來挑戰,帝將出兵以應之,毗杖節立軍門,帝乃止。

(時に朝廷は諸葛亮は国外からの遠征軍で、

諸葛亮にとっては急いで戦うほうが有利なため、

そこで宣帝(司馬懿)には常に慎重に、蜀軍の変化を窺うように命じた。

諸葛亮は幾度も戦いを挑んだが、宣帝は出撃しなかった。

そのため、諸葛亮は宣帝に布陣の髪飾りを送りつけた。

宣帝は怒り、決戦したいと上表した。しかし天子は許さず、

硬骨な臣下である衛尉の辛毗に杖節を与え勅使と為し、彼を軍師として派遣し

宣帝を制止させた。

その後もまた諸葛亮は戦いを挑んできて、

宣帝はまた、兵を出して応戦しようとしたが、辛毗が杖節を軍門に立てたため、

宣帝は止めた。)」



司馬懿も司馬懿だが、(笑)

意外にこう、孔明は「応変の才略は・・・」云々などと言われながら、

相手の心理を巧みに利用しつつ、

実は相当、うまく戦っていたものと思われる。




【戦いの終わり。秋風五丈原】


魏蜀の両軍が五丈原にて対峙すること、100余日。

3ヶ月以上も睨み合いが続いたわけだが、

意外に双方共、ただジッと手を拱いて何もしなかったわけではなく、

結構、色々な動きを見せていたことがわかる。


特に効いてしまったのが、諸葛亮の行った司馬懿への挑発。(笑)

しかし江戸時代の日本の侍などにしても、

人に嗤われればその時点で斬り合いの決闘になっていたように、

元よりこれはただの悪口などではない。

晋書にはその辺りのやり取りが、



※(『晋書 宣帝紀』)

時朝廷以亮僑軍遠寇,利在急戰,每命帝持重,以候其變。

亮數挑戰,帝不出,因遺帝巾幗婦人之飾。帝怒,表請決戰,天子不許,

乃遣骨鯁臣衞尉辛毗杖節為軍師以制之。後亮復來挑戰,帝將出兵以應之,

毗杖節立軍門,帝乃止。初,蜀將姜維聞毗來,

謂亮曰:「辛毗杖節而至,賊不復出矣。」

亮曰:「彼本無戰心,所以固請者,以示武于其眾耳。

將在軍,君命有所不受,苟能制吾,豈千里而請戰邪!」

(時に朝廷は、諸葛亮は国外に住み、遠くから来寇してくることから、

敵にとっては短期決戦が望ましいため、宣帝(司馬懿)には常に慎重に、

臨機応変に対処するように命じた。

諸葛亮は何度も戦いを挑んだが、宣帝は出ず、

そこで諸葛亮は宣帝に婦人用の髪飾りを送り付けた。

宣帝は怒り、上表し決戦をしたいと訴えた。しかし天子は許さず。

硬骨の衛尉・辛毗に杖節を与えて軍使と為し、これを制す。

後にまた諸葛亮が戦いを挑んで来ると、宣帝はまさにこれに応じ、

出兵せんとしたが、

辛毗が杖節を持って軍門に立ちはだかったため、宣帝は止めた。

初め、蜀将の姜維が、辛毗がやって来たと聞き、諸葛亮に、

「辛毗が勅使としてきたからには、

もう賊が撃って出てくることはないでしょう」と言った。

諸葛亮はそれに答えて「司馬懿には元々戦う心などなかった。

彼が決戦を申し出た理由は、

自軍の将兵達に対し、やる気だけでも示そうとしたからだ。

将、軍に在れば、君命も受けざる所あり。もし本当に私を制すつもりなら、

千里の道を、戦いたいと申し送る必要などあるものか」と言った。)



・・・などと、記されているが、

しかし司馬懿にまったく蜀軍と戦う意思がなかったとか、

決してそんなことはない。

真逆だ。

だからこれはむしろ孔明の、猛烈なる戦意を秘めた相手に対しての、

痛烈な皮肉なのだ。


孔明自身、司馬懿という人物の性質も性格も知り抜いた上で、

だから正々堂々と、士人同士として勝負を決しようじゃないかと、

ライバルに投げ掛けているわけである。

実際、江陵の戦いで、周瑜と曹仁が両軍で期日を決めて

大決戦を行ったりしているのだが、

(因みにその戦いで周瑜が矢を受けて負傷をする)

そうとなれば蜀軍も五丈原から降りて雌雄を決するだろう。


そして孔明が自ら城砦から出て野戦決戦を行うということは、

元より蜀軍は敵との戦力差を考えて五丈原に上ったのであろうから、

そこから降りて戦うということは自軍の兵力の劣勢を敢えて承知した上で、

それでも戦うということだ。

だからそれくらい孔明自身、自軍の野戦の強さには

絶対の自信を持っていたのだろう。

結局のところ、事実として孔明は戦さに弱いどころか、

もうメチャクチャ野戦には強かった。


もし彼の戦う敵が“孔明は軍事に疎い”などと言って、

舐めて掛かってきてくれるような相手であったのなら、

北伐もよほど楽だったろう。


一方、

司馬懿のほうは司馬懿で彼もまた、

弟の司馬孚に対し、



※(『晋書 宣帝紀』注、「帝弟孚書問軍事」)

帝復書曰:「亮志大而不見機,多謀而少決,好兵而無權,

雖提卒十萬,巳墮吾畫中,破之必矣。

(宣帝の弟の司馬孚が書簡で軍事に付いて問い、すると宣帝はまた、

「諸葛亮は、志は遠大だが機を見る眼がない。謀略は多いが決断力に乏しい。

兵事を好むも、はかりごとがない。十万の兵を連れているといえども、

既に私の術中に堕ちたも同然で、必ず破れる」と返事を送った。)」などと、



色々と非難したりしているが、

無論、こうしたことは兵士達の前でのパフォーマンスの意味合いもある。

司馬懿も当然、諸葛亮の挑戦に応じたいのだが、

それを許して貰えず、

自分だけが一方的に相手からコケにされて悔しいのだ。

が、それも・・・、



※(『晋書 宣帝紀』)

與之對壘百餘日,會亮病卒,諸將燒營遁走,百姓奔告,帝出兵追之。

亮長史楊儀反旗鳴鼓,若將距帝者。帝以窮寇不之逼,於是楊儀結陣而去。

經日,乃行其營壘,觀其遺事,獲其圖書、糧穀甚眾。

帝審其必死,曰:「天下奇才也。

(諸葛亮と対峙すること百余日、諸葛亮は病で逝去した。

蜀の諸将は軍営を焼き払って遁走した。

住民達が走ってその事実を告げて来たため、宣帝は兵を出して蜀軍を追撃した。

諸葛亮の長史の楊儀は、旗を返し鼓を鳴らして宣帝の前に

距離をへだてて立ちはだかった。

宣帝は窮した敵を追うことはせず、楊儀は兵を集結させて陣を去った。

数日後、蜀軍の営塁跡にいった。

蜀軍の遺していった物を見、図書や糧穀の獲得は甚大だった。

宣帝は諸葛亮は間違いなく死んでいると判断し、

「彼は天下の奇才だ」と言った。」



・・・と、

「帝審其必死」、

詰まりもう、相手が死んでしまった後となれば遠慮なく、

そのまま“大したヤツだった”と。


古の漢の三傑の一人、蕭何の故事に、

かつて劉邦が秦の都・咸陽を占領した際、

味方の多くが宮殿の財宝や後宮の美女を求めてその場所へと殺到する中、

ただ一人、蕭何は文書殿に走って秦の歴史や法律、

人口統計の記載された政府関係の書物などを、

片っ端から回収したという有名なエピソードがあり、

蕭何はそれらの文書群を通し、まざまざと秦という国の実態を知ったわけだが、

司馬懿も同様に、

彼が軍営跡に残していった諸葛亮の仕事そのものの内容を知るに及び、

率直に凄いと感心したのだろう。


司馬懿はまだ両軍で対峙中の最中にも、

蜀軍からの使者を通じ、



※(『晋書 宣帝紀』)

「先是,亮使至,帝問曰:「諸葛公起居何如,食可幾米?」

對曰:「三四升。」次問政事,曰:「二十罰已上皆自省覽。」

帝既而告人曰:「諸葛孔明其能久乎!」竟如其言。

これより前のこと、諸葛亮の使者がやって来た時、

宣帝が「諸葛孔明殿はどのようにお過ごしか。

食事はどのくらい摂っておられるのか」と問うてみたところ、

使者は「三、四升です」と答えた。

次に政務について問うと、

使者は「罰棒二十以上の件に関しては全てご自身でご覧になられます」と

答えた。

使者が去った後、宣帝は人に告げて言った。

「諸葛孔明は、そう長くはあるまい」と。

結局その言葉の通りとなった。)」と、



間接的ながら、

司馬懿も孔明の仕事振りについては多少知る機会があったが、

そのときは彼も無論、「死ぬだろう」などとは冗談半分だったろうが、

それが実際、宿敵の仕事場にまでやってきてみて、

“本当にこんなことをやっていたのか・・・”と、

同じ名士クラスの人間が、相手の仕事量に驚くわけだから、

「天下奇才也。」といった彼の言葉も、

もし仮に自分も同じことをやれと言われて、

果たしてここまでのことができるかどうか・・・、

ちょっとわからないといった感じだったのではないか。

苦笑混じりに、半ば驚き半ば呆れてと、

また今生で二度とは会えぬという多少の物悲しさもあっただろう。


それと今一つ、

蜀軍の遺棄していった陣所からは大量の糧穀が獲得できたというが、

先程も述べたように、これがもし五丈原に於ける両者の戦いにおいて、

魏軍のほうが先にその兵糧が尽きていたとしたら・・・。


孔明の陣没により蜀軍の撤退が決定された際、

唯一人、魏延だけは北伐の続行を頑なに主張したが、

詰まりその時点ではまだ、蜀軍の軍糧は残っていたことになる。


実際、撤退後の五丈原陣地へと司馬懿が踏み込んだ際、

彼らはそこで蜀軍によって遺棄された、甚大な量の穀物を発見している。


司馬懿も今回の戦いでは成国渠や臨晋陂といった、

食料増産のための治水灌漑設備を建設して、長期戦覚悟で臨んでいたが、

だがこれがもし、

孔明が開戦前、事前に用意していた兵糧の総量が、

司馬懿の予測をも遥かに上回るものであったとしたら・・・?


特に孔明は今回、武功で屯田まで行っていた。


そしてもし孔明の寿命が途中で尽きることなく、

最後まで戦場で粘って、

魏軍の兵糧のほうが先に尽き果ててしまっていたとすれば、

そのときは、

もしかして蜀軍が単独で五丈原の司馬懿軍を撃ち破るほどの

大戦果を挙げていた可能性だって、

決してなかったとは言いきれないだろう。




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