第五次北伐、諸葛孔明最後の戦い ② 孫呉三路侵攻作戦
文字制限を越えてしまったので分割。
諸葛孔明最後の戦い。
第五次北伐~五丈原の戦い~。
孔明の第五次北伐遠征に合わせて実施された、
孫権軍による、
三方面同時侵攻北伐作戦と、魏呉両軍の戦い。
そして孫権の人物などについて。
【孫権親征、三方面侵攻作戦】
234年5月、
孫権は号10万の軍勢で自ら親征して居巣湖の入り口から合肥新城へと進撃。
それと同時に陸遜・諸葛瑾らには万余人の軍勢で沔水(漢水)から
襄陽へと向かわせ、
また孫韶・張承には淮水から広陵、淮陰へと向かわせ、魏領内への
多方面同時侵攻に打って出た。
※『資治通鑑』 第七十二巻 魏紀四 青龍二年(甲寅,西元二三四年)
「五月,吳主入居巢湖口,向合肥新城,眾號十萬;
又遣陸遜、諸葛瑾將萬餘人入江夏、沔口,向襄陽;
將軍孫韶、張承入淮,向廣陵、淮陰。
(5月、呉主(孫権)は居巣湖の入り口から、号10万の大軍で、
合肥新城へと向かった。
また陸遜、諸葛瑾ら1万人余りを派遣し、江夏から沔水を上って、
襄陽へと向かわせた。
将軍の孫韶、張承らには淮水へと入らせ、廣陵、淮陰へと向かわせた。)」
このとき、蜀軍の諸葛亮が武功にて魏の司馬懿と長期対陣中で、
そのため孫権は、魏の明帝・曹叡本人はとても、
遠距離の遠征に出てくることは不可能だと思った。
※『三国志 呉主(孫権)伝』
「是時、蜀相諸葛亮出武功、權謂魏明帝不能遠出。
(この時、蜀の丞相・諸葛亮が武功へと出兵していたため、孫権は、
魏の明帝が遠出してくることは不可能だと思った)」
ところが、そんな孫権の甘い考えに反して、
魏帝・曹叡は合肥新城の孫権軍撃退のため、自ら出兵を決意。
このとき、6月。
そしてちょうどその頃、今まさに孫権軍の大包囲を受けていた合肥新城では、
都督揚州諸軍事の滿寵が敵の圧力に、いったん合肥新城を放棄し、
北方の寿春にまで孫権軍を引き込み、そこで改めて敵を迎え撃ちたいと、
都の曹叡にまで打診して許可を求めるのだが、
しかしこれを曹叡が却下。
※(『三国志 明帝紀』)
「六月、征東將軍滿寵進軍拒之。寵欲拔新城守、致賊壽春、
帝不聽、曰:「昔漢光武遣兵縣據略陽、終以破隗囂、
先帝東置合肥、南守襄陽、西固祁山、賊來輒破於三城之下者、地有所必爭也。
縱權攻新城、必不能拔。敕諸將堅守、吾將自往征之、比至、恐權走也。」
秋七月壬寅、帝親御龍舟東征、權攻新城、將軍張穎等拒守力戰、
帝軍未至數百里、權遁走、議,韶等亦退。
(6月、征東将軍の滿寵は進軍してこれを拒む。
滿寵は合肥新城から守備兵を抜いて、賊を寿春城にまで引き込みたいと欲したが、
明帝は聞かず、言った:「昔、漢の光武帝は洛陽を拠り所として遠く兵を派遣し、
終に隗囂を破り、
先帝は東に合肥を置き、南に襄陽を守り、西に祁山を固め、
賊軍が来週するたび、この三城の地域で撃破したが、
地には必ず争うところがあるのだ。
たとえ孫権が合肥新城を攻めたとて、陥落させることなどできないだろう。
諸将には堅く城を守ることを命ずる。
私が自ら孫権の征伐へと向かえば、孫権は恐れて逃げ出すであろう。」と。
秋7月壬寅19日、明帝は御龍舟に乗って東征した。
孫権は合肥新城を攻めていたが、将軍の張穎らが力戦し、敵を拒んで守った。
明帝が未だ数百里にも至らぬ内に、孫権は遁走し、
陸遜、孫韶らもまら退いた。)」
曹叡の言うには、
魏呉蜀の三国にとって合肥、襄陽、祁山の三城はいわゆる、
兵法で言う所の“兵家必争の地”たる最重要防衛拠点で、
魏ではこれまでここを死守することによって、
呉蜀からの侵攻を撃退することができた。
たとえ孫権が合肥新城を攻撃しても決して攻め落とすことはできないので、
だから諸将に於いてはこれらの城を堅く守り抜くこと。
そしてその上に今、もし私自らが親征して赴けば、
敵は恐れを抱いて逃げ出すであろう、と。
そして234年7月、
曹叡は御龍舟に乗って東征を開始。
魏将・張穎らの力戦に合肥新城を攻めあぐねていた孫権は、
さらに曹叡の親征を知り、
曹叡の軍が未だ数百里に至る前に撤退。
陸遜・諸葛瑾、孫韶らもまた同様に軍を引き上げ、
遠征は呉軍の全面敗北という結果に。
ただ孫権軍は撤退をしたが、未だ西方にて大将軍の司馬懿が
蜀軍の諸葛亮と対戦中で、
そのため、群臣の多くが曹叡に対し、
第一次北伐の時と同様、曹叡自らが長安にまで赴いていくことを願った。
しかし曹叡は「既に孫権は敗走し、大將軍(司馬懿)が制している以上、
諸葛亮も必ず敗れ去ることだろう。私に憂慮はない」と言って、
寿春にて諸将に論功行賞を行い、合肥・寿春の諸軍を労った後、
234年8月、
曹叡は許昌宮へと戻った。
『三国志』 卷3 魏書三 明帝紀
「羣臣以為大將軍方與諸葛亮相持未解、車駕可西幸長安。
帝曰:「權走、亮膽破、大將軍以制之、吾無憂矣。」
遂進軍幸壽春、録諸將功、封賞各有差。
八月己未、大曜兵、饗六軍、遣使者持節犒勞合肥,壽春諸軍。
辛巳、行還許昌宮。」
234年、魏vs呉 孫権軍北伐三路侵攻図
【合肥戦詳細、満寵と田豫vs孫権の戦い】
孫権軍の三路侵攻に対し、孫権本人が向かった合肥方面の防衛に当たったのが
魏軍、都督揚州諸軍事の満寵。
それまで魏軍の対南方戦線、合肥方面の守将は、
都督揚州諸軍事で征東大将軍の曹休、及び豫州刺史の賈逵らが受け持っていたが、
しかし228年の、両人の相次ぐ死を以って、
都督揚州諸軍事と豫州刺史の役職を満寵が兼任して引き継ぎ、
新たな対孫呉防衛司令官としての任務に当たることとなった。
しかし満寵はそれ以前の遥か昔、
曹操の荊州征伐時の頃から随行して主に荊州在駐となり、
219年に関羽が攻めてきた際には曹仁の参謀として共に樊城での防戦に尽力。
文帝(曹丕)の代に入ってからも新野に駐屯して呉との戦いに数々功績を挙げ、
やがて南郷侯・仮節、前将軍の地位にまで昇進。
そして228年、新たに都督揚州諸軍事として転任することとなったのだったが、
しかし以後、孫権軍にとってはまさにこの満寵が目の上のタンコブして、
彼らの前に立ち塞がることとなった。
それ以降の満寵の功績を並べると、
230年冬、
孫権軍が合肥に攻め寄せる気配を示したため、
満寵は兗州と豫州の軍を召集することを上奏し侵攻に備える。
しかし孫権はそのまま撤退する素振りを見せたため、
都からこちらも撤退するよう、詔勅が下る。
しかし満寵はこれを孫権の偽装撤退だと見抜き警戒を怠らなかった。
するとやはり満寵の目論見通り、
それから10日程の後、再び孫権軍が来襲してきたが、
孫権は勝利を得ることはできなかった。
231年、
孫権軍の中郎将・孫布という武将が投降を願い出てきたため、
揚州刺史の王淩がこれを迎え入れたいと満寵に申し入れたが、
満寵はその投降を偽降と読んだため、却下。
しかしそこに突如、満寵に朝廷からの召還命令が下る。
これが実は、満寵と仲の悪かった王淩が仕組んだ謀略だったのだが、
しかし勅命とあらば拒否することはできず、
満寵は出国に当たって留府長史に対し、
王淩に決して兵を与えてはならぬとの厳命を残して都へと旅立った。
そのため王淩は必要な兵を確保できず、
結局彼は、自分の督将一人に700人ばかりの兵を与えて
孫布の出迎えにいかせたのだが、
その夜、突如孫布からの夜襲を受けて、兵の大半を失うハメとなった。
一方その後、都で明帝と目通りした満寵は、
もうこのまま朝廷に残ることを願ったが、明帝が許さず、
満寵は再び揚州の任地へと戻されることとなった。
232年、
呉の陸遜が廬江に侵攻を開始。
しかし満寵は、廬江は小城ながら将兵は強く簡単に落ちることはないと、
慌てず軍を整え、陽宜口まで救援に赴くと、
それを知った呉軍は夜の内に撤退をして遁走。
233年、
合肥新城の築城。
(満寵伝では233年。孫権伝では230年の築城)
233年、
孫権が合肥新城にまで攻め寄せてきたが、新たに築かれた城が
岸から遠い場所に位置していたこともあってか、
孫権軍では20日程の日数を経ても、
巣湖の湖上からその先、合肥新城に向かって上陸まではしようとしなかった。
しかし満寵は何れ必ず襲撃してくるのは間違いないと、
歩騎6千の伏兵を用意して待ち構えると、
果たして、孫権軍は上陸を開始してきた。
満寵は用意の伏兵で攻めてきた敵に奇襲攻撃を掛け、
散々に撃ち破った。
孫権軍は斬首数100にその他、多くの水死者をだして撤退。
・・・と、
そして迎える234年の5月、
諸葛孔明の第五次北伐の動きと連動した、
孫権軍による三方面からの同時侵攻。
満寵の受け持つ合肥方面へとやってきたのは君主の孫権自ら率いる
号10万の大軍だ。
しかしここに今一人、
満寵の参謀格として田豫なる人物が登場してくる。
田豫は曹操軍の配下としては、特に北方、烏桓・鮮卑・匈奴といった
異民族対策のエキスパートとして活躍。
殄夷将軍などという恐ろしい彼の将軍名(「殄」とは滅ぼし絶やす、
死に絶える、の意)からも、
およそ彼の受け持っていた役目の凄まじさが窺い知れそうな感じだが、
この実戦経験豊富で知略に優れた田豫が、
234年の孫権軍の侵攻に際し、
魏軍総司令官の満寵に戦略、戦術上の重要なアドバイスを与えることとなる。
田豫のこのときの身分は殄夷将軍、汝南太守。
それまで曹丕の時代には、田豫は持節護烏桓校尉として主に幽州・冀州の
北方在駐だったが、
幽州刺史の王雄と折り合いが悪くなって汝南太守へと転任。
しかしといってこの田豫を外して他に北方問題対策の適任者もいなかったらしく、
太和年間に遼東の公孫淵が起こした反乱の討伐に、
曹叡はこの田豫を汝南太守の身分のまま青州の諸軍を率いさせ、
仮節を与えて遼東を追討させようとしたりしていた。
だから田豫がこの孫権軍三路侵攻の際に、彼が南方にいたのも、
偶々みたいなものだった。
田豫はこの反乱終結の後、正始年間(240年~249年)には
使持節護匈奴中郎将、振威将軍、并州刺史として、再び北方転任となる。
【合肥戦進展経緯】
※(『三国志 満寵伝』)
「明年、權自將號十萬、至合肥新城。寵馳往赴、募壯士數十人、
折松爲炬、灌以麻油、從上風放火、燒賊攻具、射殺權弟子孫泰。」
(明年、孫権軍号10万の大軍が合肥新城に至る。満寵は馳せて赴いて往き、
壮士数十人を募り、
松を折り松明とためし、麻の油を以って、風上より火を放ち、賊の攻具を焼き、
孫権の甥の孫泰を射殺した)
※(『三国志 田豫伝』)
「後孫權號十萬衆攻新城、征東將軍滿寵欲率諸軍救之。
豫曰「賊悉衆大舉、非徒投射小利、欲質新城以致大軍耳。
宜聽使攻城、挫其銳氣、不當與爭鋒也。城不可拔、衆必罷怠。
罷怠然後擊之、可大克也。若賊見計、必不攻城、勢將自走。若便進兵、適入其計。
又大軍相向、當使難知、不當使自畫也」豫輒上狀、天子從之。
會賊遁走。後吳復來寇、豫往拒之、賊卽退。
諸軍夜驚、云「賊復來」豫臥不起、令衆「敢動者斬」有頃、竟無賊。」
(後に孫権が号10万の衆で新城を攻めた。
征東将軍の満寵は諸軍を率いてこれを救いたいと欲した。
田豫曰く「賊が悉く衆を大挙して来たのは、徒に小利を投射するに非ず、
新城を質と欲し、以って大軍で致すのみと。
宜しく城を攻めさせるを聴き、其の鋭気を挫き、敵の先鋒と争うべきではなく、
もし敵が城を抜くことができなければ、衆は必ず罷怠をするでしょう。
罷怠して然る後にこれを撃って、大いに打ち克つべきで、
もし賊がそうしたこちら側の計を見抜けば、必ず城を攻めず、
勢い自ずから走り去ることでしょう。
もし便ち兵を進めれば、其の計に適うことでしょう。
また大軍を相向かわせて、敵にその難を知らせれば、
自ら画らせることがないでしょう」と、田豫はすなわち上状し、天子もこれに従った。
賊の集まりは遁走をしたが、後に呉がまた来寇してきたが、
田豫は往きてこれを拒み、賊を退けた。
諸軍が夜に驚き、「また敵が来た!」と云ったが、
田豫は臥したまま起きることもせず、
「敢えて動く者は斬る!」と衆に命令した。
それからしばらくした頃、結局、賊の姿はどこにもなかった。)
※『資治通鑑』 第七十二卷 魏紀四 青龍二年(甲寅,西元二三四年)
「六月,滿寵欲率諸軍救新城,殄夷將軍田豫曰:「賊悉眾大舉,非圖小利,
欲質新城以致大軍耳。宜聽使攻城,挫其銳氣,不當與爭鋒也。
城不可拔,眾必罷怠;罷怠然後擊之,可大克也。若賊見計,必不攻城,勢將自走。
若便進兵,適入其計矣。」
(六月、満寵は諸軍を率いて新城を救いたいと欲したが、殄夷将軍の田豫が曰く
「賊が衆を悉くして大挙して来たのは、小利を図るに非ず、
新城を質として欲し以って大軍を致すのみ。宜しく城を攻めさせるを聴き、其の鋭気を挫き、
鋒と争うべきではなく、もし敵が城を抜くことができなければ、
衆は必ず罷怠をするでしょう。
罷怠して然る後に之を撃てば、大いに克つことができるでしょう。
もし賊がそうしたこちら側の計を見抜けば、必ず城を攻めず、
勢い自ら走り去ることでしょう。
もし便ち兵を進めれば、其の計に適うことでしょう」)
時東方吏士皆分休,寵表請召中軍兵,並召所休將士,須集擊之。
散騎常侍廣平劉邵議以為:「賊眾新至,心專氣銳,寵以少人自戰其地,
若便進擊,必不能制。寵請待兵,未有所失也,
以為可先遣步兵五千,精騎三千,先軍前發,揚聲進道,震曜形勢。
騎到合肥,疏其行隊,多其旌鼓,曜兵城下,引出賊後,擬其歸路,要其糧道。
賊聞大軍來,騎斷其後,必震怖遁走,不戰自破矣。」帝從之。
(時に東方の吏士は皆が分休しており、満寵は上表して中軍の兵と、
並みに休んでいる所の将士を召し、それらの兵が須く集まってきてから
之を撃ちたいと申請をした。
散騎常侍で広平出身の劉邵が議して以為らく「賊衆が新城に至り、
心は気鋭を専らに、
満寵は少人数で以って自ら其の地で戦っているが、もし便ち進撃すれば、
必ずや制する事能わず。満寵が請い兵を待つのは、
未だ失う所を有していないからでしょう。
以為らく、歩兵五千、精騎三千を先に遣わすべきです。軍に先んじて前発し、
声を揚げて道を進めば、形勢を震曜させることができるでしょう。
騎兵が合肥に到らば、其の行隊を疎にして、其の旌鼓を多くし、兵を城下に曜し、
賊の後ろに引き出て、其の帰路を擬し、其の糧道を要します。
賊は大軍が来て、騎兵が其の後ろを断ったと聞けば、必ずや震え怖れて遁走し、
戦わずして自ら破れることになりましょう」と、帝はこれに従った。)
寵欲拔新城守,致賊壽春,帝不聽,曰:「昔漢光武遣兵據略陽,終以破隗囂,
先帝東置合肥,南守襄陽,西固祁山,賊來輒破於三城之下者,地有所必爭也。
縱權攻新城,必不能拔。敕諸將堅守,吾將自往征之,比至,恐權走也。」
乃使征蜀護軍秦朗督步騎二萬助司馬懿御諸葛亮,
敕懿:「但堅壁拒守以挫其鋒,彼進不得志,退無與戰,
久停則糧盡,虜略無所獲,則必走;走而追之,全勝之道也。」
秋,七月,〔壬寅〕,帝御龍舟東征。滿寵募壯士焚吳攻具,射殺吳主之弟子泰;
又吳吏士多疾病。帝未至數百里,疑兵先至。
吳主始謂帝不能出,聞大軍至,遂遁,孫韶亦退。
(満寵は賊を壽春にまで致し、新城を守り抜きたいと欲したが、帝は聴かず、
曰く「昔漢の光武は兵を遣わして略陽に拠って、終に以って隗囂を破り、
先帝は東に合肥を置き、南に襄陽を守り、西に祁山を固め、
賊が来たれば輒ち三城の下者に於いて破りしは、
地には必ず争うべき所が有るということだ。
孫権に新城を攻めさせるのを縦としても、必ず抜くことはできない。
諸将には堅く守るように勅を出し、吾は将に自ら往きて之を征さんとし、
比至、孫権は恐れて逃走するだろう」と。
乃ち征蜀護軍の秦朗に歩騎二万を督させ司馬懿が諸葛亮を御すのを助けさせ、
また司馬懿に対しても、
「但堅壁拒守して以って其の鋒を挫き、彼が進んでも志を得られず、
退いてもこれと戦うことないように、久しく停まれば則ち糧は尽き、
捕虜を略そうとしても獲る所がなければ、則ち必ずや敗走するであろう。
走れば而して之を追い、それが全勝の道である」と、
勅命を下した。
秋、七月、壬寅、帝は龍舟を御して東征した。
満寵は壮士を募って呉の攻具を焚き、
呉主の弟の子である孫泰を射殺した。又た呉の吏士は多くが疾病に罹った。
帝が未だ数百里に到着しない内に、疑兵が先に到着した。
呉主は始め帝(曹叡)は出てくることないと謂っていたのだが、
大軍が至ったと聞き、遂に遁れ、孫韶も亦た退いた。)」
【合肥戦での疑問点】
孫権軍10万の大軍が合肥新城へと大挙して押し寄せてきた圧力から、
満寵は都に対し、一旦合肥新城から兵を撤退させて、
寿春城で改めて敵を迎え撃ちたいと申し送っていたが、
しかしそれは曹叡から却下される。
だが満寵はまだ敵侵攻の開始、初めの内は、逆に自分で直接、
合肥新城への救援に向かいたいと思っていたことが史書からわかる。
先ず234年5月、
孫権軍10万の大軍が合肥新城へと襲来。
その一ヶ月後の6月、
満寵は諸軍を率いて合肥新城へ救援に向かおうとするが、
その行動に田豫が待ったを掛ける。
田豫の言うには、幾ら相手が大軍でも合肥新城が簡単に
落とされることはないから、
だからここは逆に敢えて敵に城を攻めさせて、
相手が疲労をしたところを反撃して追い返せばいいと。
また敵がその我々の狙いに気付けば、
もはや向こうのほうから勝手に引き上げるだろうし、
あるいは本国からの援軍接近が攻城中の孫権軍の耳に入れば、
やはり孫権は自ら軍を返すに違いないから、
攻めるのはそのときでいい。
だから援軍到来の報も、むしろこちらからリークしてやればいいと、
そうして田豫はその案を都にまで送って、
また曹叡もその作戦プランに許可を与えた。
・・・と、
しかしそうすると、
満寵が曹叡に対し、一旦合肥新城から兵を引き上げさせて寿春城で
敵を迎え撃ちたいと願い送ったのはいつのことだったのか?
初めは直接自分で合肥新城の救援に向かいたいと言っていたのが、
途中で方針が変わっている。
満寵は彼の抱く孫権軍撃退の作戦計画の一つとして、
中軍の兵(本国の予備兵?)、
それと東方に交代交代で休んでいる将士達を呼び集め、
それらの人数が揃ってから、
孫権軍を撃退しにいきたいという考えを都に申請していた。
初めに満寵が合肥新城の救出に向かいたいと思いつつも止められ、
またそれから今度は逆に合肥新城からの撤退を曹叡に
打診するに至るという一連の流れは、
全て6月の間ということになっている。
5月には攻められているから、
とすると、
これを順を追って整理していくと、
先ず5月。
孫権が10万の大軍で合肥新城へと襲撃してくる。
そのとき満寵は合肥新城よりも北方の寿春城にいて、
そしてそこから、初めは孫権軍に攻められる新城の救出に向かおうとしていた。
しかしそれを田豫に止められる。
田豫の言葉に“大軍”で云々といった言葉が見えることから、
当初の内はまだ、満寵が新城の救援に向かうにも人数が少な過ぎたのだろう。
そこで田豫の策に従って、攻城を行う敵軍の疲弊を待つとともに、
その間に自分達のほうでも何とか、
兵士達を掻き集める方針に切り替えた。
東方で分休している将士達を集めてというのも恐らくその辺りのことだろう。
が・・・、
ところがその間にもどんどん、孫権軍の攻撃の勢いはいよいよ激しさを増し、
ついにはもう、
現実に合肥新城が陥落の危機を迎えるまでの事態となってしまったのではないか?
それで満寵は止むを得ず、
再度方針を転換して、今度は合肥新城の味方を助ける意味でも、
彼らに城から撤退させて、
改めて寿春城のほうで敵を迎え撃ちたいと中央に願い出ることになったと。
しかしそれも、今度は曹叡から直接却下をされる。
そしてそれに対し改めて考え出された救援プランが、
劉邵の言った、歩兵五千、精騎三千を先行させて敵の退路断ち、
撤退に追い込むという策で、
劉邵の言うところは詰まり、満寵は合肥新城の放棄を願い出てきているが、
実際に未だ合肥新城が敵の手に陥落させられてしまったわけではないので、
然るに先ずここで歩兵五千、精騎三千を急派することにして、
そうして彼らにまた、魏本国から大軍の援軍到来を派手に喧伝させつつ、
同時に敵の帰路と糧道を遮断するような動きを見せれば、
自ずと孫権は自主撤退を遂げるであろうと。
【孫権の苛立ちとジレンマ】
しかしこれまで連年、何度も孫権軍との戦いを繰り広げて来た満寵が
もうダメだと思うほど、
今回の戦いでの、孫権軍の合肥新城への攻撃は余程の
凄まじさだったようなのだが、
しかし結果はこれまでと全く同じ、
敵援軍の到来をしった孫権自身の自主撤退という形で終わった。
ただそれにしても一体、
孫権は何故、敵本国からの救援がやって来ると、
一々攻城を止めて、引き返さなければならないのか?
曹叡や司馬懿も言っていたが、
魏呉の領土争いにおける最戦略重要拠点は合肥(東関)と襄陽(夏口)だ。
満寵は一時、合肥新城の放棄を考えるまでに追い詰められたが、
ただ田豫や劉邵、そして曹叡らが皆一様に固守を求めたように、
もし実際に、満寵が合肥から兵を抜いて寿春へと前線を後退させていれば、
恐らくはそのまま一気に、
敵は合肥新城を陥落させた勢いそのまま、
寿春城まで落としてしまっていたのではないか。
そして後はもう、
ドミノ式に孫権軍は破竹の勢いで領土を拡大させていけた可能性も高い。
たとえばラグビーのスクラムなどでも、
それまで均衡を保って持ち堪えていた双方のバランスが崩れて、
どちらか一方の力が突然スッと抜けたりすると、
その途端にガタガタ~っと、
一方的に押し崩されていってしまったりするが、
それと同じように、
だから合肥での戦いもそうなってしまってはマズイからと、
魏軍側では合肥新城を絶対に死守しなければならかったのだろう。
逆にこれを孫権軍のほうからみれば、
合肥は何としても突破して超えなければならない壁だったと言える。
だから孫権が本気で魏の打倒を狙うのなら、
とにかく先ずはその、合肥(東関)と襄陽(夏口)を
敵から奪い取らなければならない。
勿論そのため、毎年のように何度にも渡ってしつこく
侵攻を繰り返してきていたのだが、
だから攻めるのはいい。
引き返してしまうのがいけないのだ。
もし本気で孫権が合肥を落とす積もりなら、
かつて周瑜が荊南最大の重要軍事拠点だった江陵城を一年間もの歳月を掛けて、
曹仁軍から奪い取ったように、
とにかく取り付いて粘らなければならない。
敵本国からの救援は当然、やってくるだろう。
しかしその以前、217年に曹操本人が大軍を率いて親征してきた
濡須口の戦いでは、
呂蒙を指令官に、孫権軍では保塁の上に強弩一万を配備するなどして、
半年にも渡る長期戦を戦い抜いたりしていた。
しかも今回の合肥戦では蜀軍の諸葛孔明が今まさに、大軍で出兵し、
魏の迎撃軍を北方で引き付けている最中だったのから、
孫権にとっても魏を打倒する最大のチャンスだったのだ。
だから特に今回の戦いに関しては何が何でも引き返してはならなかった。
もし敵が救援にやって来たのなら、
それこそ自分達のほうにも合肥の南面に濡須という城砦を持っていたのだから、
そこで止まって、別に魏の本隊を直接野線で相手しなくてもいい。
砦で固く守ってさえいれば、
魏は今まさに、蜀の北伐軍も含めて4方面から攻め立てられているのだから、
魏にとってはとにかく相手にいつまでも取り付かれて粘られるのが
最も厄介なことだった。
が・・・、
孫権は魏本国から、明帝・曹叡直々の親征となる援軍出来の報を聞き付けると、
結局それだけでもう攻城を諦め、また本国へと逃げ帰っていってしまった。
しかもその撤退戦に於いて、
呉は孫泰を討ち取られるなどの大損害を被っている。
逆に蜀の孔明などはその撤退戦において王双や張郃を討ち取るなどの、
戦果を挙げているが、
退却時に追撃を受けるなどはわかりきったことだ。
だから要するに孫権はその点についても、
何の手当もしていなかったということになる。
このとき孫権本人の下には一体誰が付き従っていたのか・・・、
朱然でも全琮でも、
実戦経験豊富な彼らに任せておけば、
魏を覆すことまでは難しいが、
それでも敵に付け入らせるような隙を作ることもないだろう。
孫権は無理に自ら遠征にしゃしゃり出ることなく、
大人しく配下の将軍達に戦争は任せるべきだった。
これはだから、もしかして孫権本人が上にいるから、
いくら下に優秀な部下達を引き連れていようと、
意見がそこで押し潰されてしまうということなのか・・・?
それは特に劉備軍がそうだった。
劉備は決して人に軍権を渡さず、
どんなに戦争にも必ず彼自身が直接出向いていくことを止めなかった。
しかし彼自身は全然、戦争が得意ではないので、
出ていけば殆どの場面で負けた。
しかも彼は戦場で配下の助言にも碌に耳を貸さない。
元々戦さ下手の上、おまけに人の意見も満足に聞かないとなれば、
これはもうメチャクチャになる。
その最も象徴的な戦争が夷陵の戦いで、
この戦いでもやはり劉備自身が直に戦場へと出向いて指揮を執ったが、
先ず彼の布いた布陣が最悪だった。
資治通鑑によれば、蜀軍はこの時、4万余りの軍勢を率いていたと言うが、
長距離遠征の蜀軍にとっての一番の問題は、
敵に回り込まれて後方の退路、及び糧道を遮断されてしまうことが
最大の懸案事項だった。
すると劉備は何と、50近くの陣営を築き、
持っていた4万余りのその軍勢を本国からの補給線上、数珠球状に点々と細長く、
ズラリと均等に引き伸ばして配置してしまった。
その上しかも、君主である劉備自身がその最前線に陣取り、
5万ともいう呉の大軍と向き合っていたのだから、
詰まり相手の戦力の集中に対して、自分のほうから自軍戦力の分散を行うという、
これはもう自殺行為に等しい布陣だった。
実際、その当時の魏の文帝・曹丕がこの蜀軍の布陣を知り、
「劉備はまったく戦さの仕方を知らない。必ず敗北する」と、
呆れて側近に語るほどだったという。
曹丕も決して戦争の上手いほうではなかったが、
しかしその曹丕にさえわかる程の、支離滅裂な布陣だった。
※夷陵の戦い、両軍布陣概観図(雑)
(劉備軍) (孫権軍)
・・・
至蜀← ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・・ →至呉
↑ ・・・
劉備ココ
当然、流石に蜀軍内部からもその危険性に対する問題意識が高まり、
それで夷陵遠征時における蜀軍の参謀総長格だった黄権が危ないからと、
せめて前線の部隊指揮は自分が取るから、劉備自身は後方に下がって欲しいと、
直接劉備に諫言を入れた。
すると何とその直後、黄権は劉備の側から外されて、
鎮北将軍として呉軍との戦いではなく、
戦争状態にもなっていない北方魏軍に対する抑えとして配置転換され、
飛ばされてしまった。
以後の展開は史実の通りだ。
戦後、孔明は「もし法正がいれば、あそこまでの敗戦には・・・」と語ったが、
別に黄権でも、彼クラスの将軍なら決して無様に負けることはない。
夷陵戦には馬良も参加していたが、馬良でもいい。
しかしその馬良にしても、彼はもう戦前から、
武陵蛮を説得して呉の征伐に協力させる役目として、
初めから劉備の幕僚からは外されてしまっていた。
だから孔明が言った「せめて法正が・・・」というのは、
珍しく劉備が人の意見を聞く、その相手が法正だったということなのだ。
どういうわけか劉備は法正の意見だけは良く聞いた。
だからまあこれを孫権軍で言った場合、
孫権は陸遜くらいの言うことなら、何とか聞くのかといったところになるのだが、
が・・・、
この孫権の場合に限っては劉備とは全く正反対に、
逆に彼が配下武将達の意見を聞き過ぎて、
それで軍事行動がバラバラになってしまっているのではないか、といった、
そんな側面が非常に強く感じられる。
『三国志 顧雍伝』の注釈、江表伝の記述には、
※(『三国志 顧雍伝』注、「江表伝」)
「江邊諸將、各欲立功自效、多陳便宜、有所掩襲。
權以訪雍、雍曰「臣聞兵法戒於小利、此等所陳、欲邀功名而爲其身、
非爲國也、陛下宜禁制。苟不足以曜威損敵、所不宜聽也。」權從之」
(江辺の諸将は各々自ら功を立てんと欲し、
便宜を多く陳べ、掩を襲おうとするところがあった。
孫権が顧雍を訪ねると、
顧雍は「私は兵法に於いては小利を戒めると聞いております。
これらの陳べるところは、巧妙を迎えたいと欲してその身を為さんとするもので、
国のためではありません。陛下は宜しく禁制なさるべきです。
いやしくも足らざれば威を曜すを以って敵を損ねようなどとは、
宜しく聴かざる所なり」と答えた。孫権はこれに従った。)」などと、
孫権には実際、自分の家臣達を可愛がって、あるいは自ら慮って、
何でも彼らの言ってくることに対し、
“いいよ、いいよ”と許可を与えてしまうところがあり、
もしかしてだから、この江表伝に見られるが如くに、
孫権の行う遠征に対し、それに付き従う将兵達でまた別に、
それぞれが勝手に自分達の利益を求め、
バラバラに動き回るといった状況になってしまっていた可能性もある。
となればこれば統帥上の大問題。
孔明は泣いて馬謖を斬り、公に軍法を明らかに示したが、
軍の統帥に関しては、たとえどのような事情が存在しようとも、
士卒は皆、上からの命令に絶対服従をする。
とにかく先ず兵士達が軍の規定に黙って従うというところから始めなければ、
とても軍全体の統率が保てない。
バラバラでは各部署毎に軍閥化していき、
下手をすればその下のほうから
上層部を乗っ取られるなんてことにもなりかねない。
最悪クーデターだ。
だから昔の兵法では罪状の大小や理由の如何に関わらず、
命令違反者に対しては常に極刑で以って、
厳重に罰せられるという措置が取られてきていた。
孫権軍でもかつて、呂蒙が荊州を関羽から奪取して占領した際、
にわか雨を防ぐため、民家から笠一つを取り上げた同郷の兵士に対し、
呂蒙が容赦なく斬首したエピソードなどが存在しているが、
これは現代においても決して変わることのない、
軍隊組織にとっての最重要テーマであり、
あるいは官僚統制全般について言える事柄なのかもしれない。
孫権にしても、史書には顧雍の諫言に対し、
孫権は「權從之(これに従った)」などと書かれているが、
本当に彼がどこまでもそうしていたのら、二宮の変なども起きないだろう。
私は個人的に、数多い三国志の人物の中でも、
特にこの孫権には非常に日本人に近い性質を感じてしまうのだが、
まあ、それはそれとして、
また孫権が本当に、具眼の幕僚達からの、戦場での適切な対応策を正しく
聞いていれば、
もっとマシな戦い方にもなっていた筈だろう。
そもそも孫権が魏に打ち勝つためには、
絶対に蜀との連携が不可欠なものとなってくるのだが、
しかし孫権が蜀とまったく同時に、同じタイミングで攻撃を行ったのは、
諸葛孔明第五次北伐の際のこの時だけだ。
それ以外では蜀軍が遠征を行った後、
その後の魏軍の疲弊を狙って兵を出したりだとか、
決して同時には行わない。
もしくは孫権が一人で何か策を考えて、それを攻撃のきっかけにするとか。
今回の三路同時侵攻作戦でも、
蜀軍の234年2月の出兵に開始より、呉軍の出兵開始は
それよりも3ヶ月遅れの234年の5月だ。
3ヶ月も開けば、下手をすればもう蜀軍のほうが先に
撤退してしまっているだろう。
要するに孫権は初めから、蜀と連携する気などサラサラなかった。
蜀が魏を攻撃して弱らせるのは、それは好きにやってくれればいい。
しかし一緒に行動はしない。
孫権としてはできればもう中原は無視したい。
無視して彼の居城の建業を王都として世界の中心に、
マイ・ワールドを展開していきたい。
しかしそれは飽くまで孫権一人の個人願望で、
彼がそう望んでも、この中華大陸の人士達はそれを認めてはくれない。
孫権が人々を納得させるにはやはり、
歴代中華王朝の正統を引き継ぐ魏を倒さなければ。
だから彼は何度も何度も、北伐そのものは行う。
だがそれはどこまでも自分一人、単独の力で行わなければならない。
彼自身の呉国主としての始まりは、非常に苦々しいものだった。
孫策から一応、跡目を引き継いだものの、
誰もが自分を軽んじて、次々と国から離れていった。
実を言えば魯粛なんかもまさにそうで、
彼はその孫策から孫権への国主交代の際、
呉の前途を見限って曹操軍へと鞍替えしようとしていた一人だったのだ。
そのときはそれを周瑜から直に引き止められて、
魯粛は出国を思いとどまるのだが、
その他多くの者達にしてもまた同様、
周瑜以外では呉の重鎮たる張昭が各地を駆けずり回って豪族や民衆の慰撫に勤め、
そうして漸く孫権を何とか新たな国主として立たせた。
※(『三國志 張昭伝』注、「呉書」)
「吳書曰。是時天下分裂、擅命者衆。
孫策蒞事日淺、恩澤未洽、一旦傾隕、士民狼狽、頗有同異。
及昭輔權、綏撫百姓、諸侯賓旅寄寓之士、得用自安。
權每出征、留昭鎭守、領幕府事。
後黃巾賊起、昭討平之。
(「呉書」に曰く。このとき天下は分裂し、勝手に人々に命令を与えて
欲しいままにする者達が多かった。
孫策はまだ江東の支配に臨んで日が浅く、与える恩恵や恵みも乏しかったので、
一旦傾落すると、士民は狼狽し、異心を抱く者も少なくなかった。
そこで張昭が孫権を助け、百姓を慰撫して安んじ、
諸侯の賓客や、旅で身を寄せていた者達などに対し、
自らの得意とするところで用いて安心させた。
孫権は出征するたびに、張昭を鎭守に留めて彼に幕府の事務を領させた。、
後に黄巾賊が蜂起した際も、張昭がこれを討伐して平定した。)」
だから孫権は、彼の国主としての出発点が、そもそも周囲からの言わば、
“こいつでは駄目だ”といった、存在の否定だった。
実際、若い孫権が彼の父の孫堅や兄の孫策と比べてどうかなど、
それは誰の目にも明らかだったろう。
然るに彼が異常なほど、“自力”という点に拘っていたのも、
おそらくはこうした彼の、初めの国主誕生の経緯が理由の一つとして
あったのかもしれない。
結局、諸葛孔明の北伐失敗の要因も、
それは同盟国の君主が戦さ下手で意固地な孫権で、
敵対国側の君主が天賦の軍才に応変の機略に恵まれた曹叡だったという点が、
要素として非常に大きかったろう。
孔明としてはそれでも最低限、何とかお膳立てだけは整えようとしていた。
しかし孫権が全くそれに乗ろうとしなかった。
それ以上は人為の限界だろう。




