第五次北伐、諸葛孔明最後の戦い ① 武功対陣
文字制限を越えてしまったので分割。
諸葛孔明最後の戦い。
第五次北伐~五丈原の戦い~。
その前半戦。
武功での屯田と、渭南での魏蜀両軍の対陣について。
【年表】
226年5月、
魏の文帝・曹丕が病死。明帝・曹叡が魏の第二代皇帝に即位。
226年8月、
孫権自ら五万の軍勢で江夏郡太守の文聘を石陽城に
攻めるも20日間余りの対陣で撤退。
襄陽を攻めた左将軍の諸葛瑾も
魏の撫軍大将軍・司馬懿と右将軍・徐晃らの前に敗退。
227年春、
蜀漢丞相・諸葛亮は『出師の表』を上疏して漢中に進駐。
227年6月、
驃騎将軍の司馬懿が新たに荊州と豫州、
二州の軍事統括司令官として宛に駐屯。
228年春、
蜀に寝返ろうとした新城の孟達が司馬懿に斬られる。
同年、春、諸葛亮が第一次北伐を開始して自ら祁山に進出。
天水・南安・安定の三郡が魏から蜀へと離反。
しかし馬謖の街亭の敗戦で、蜀軍は撤退。
228年8月、
呉の鄱陽太守・周魴の偽降をきっかけに、
魏の曹休が10万の軍勢で呉領内、揚州の晥城へと侵攻。
同時に荊州方面では驃騎将軍の司馬懿と左将軍の張郃が荊州南郡江陵へ向け、
豫州方面からは豫州刺史の賈逵、前将軍の満寵、徐州東莞太守の胡質らが、
合肥南東の濡須口(東関)に向けて出兵。
しかし曹休が晥城の北東、内石亭の地で、
呉の大都督輔国将軍荊州牧の陸遜、鎮西将軍の朱然、奮威将軍の朱桓らに、
三方から包囲されて大敗。
曹休は賈逵の救援で辛うじて戦場を脱するも、
敗戦のショックから悪性の腫瘍を発し、やがて病没。
228年12月、
諸葛亮は第二次北伐遠征を開始。
散関から兵を出して陳倉を包囲するも攻めきれず、
蜀軍は兵糧切れで撤退。
229年春、
諸葛亮は第三次北伐遠征を開始。
陳式を派遣して武都・陰平二郡を攻めさせるとともに、
自身も建威に出て、二郡を平定する。
229年4月、
孫権が皇帝に即位。
230年春、
孫権は、諸葛直と衛温に命じ、兵1万を連れて海路、
夷州・亶州の調査へ向かわせる。
夷州は台湾、亶州は沖縄諸島ではないかと推察されているのだが、
しかし「労多くして益少なし」といった
陸遜や全琮の諫言通り、
一行は夷州には辿り着いたが亶州には辿り着けず、
損害を出したばかりで失敗に終わり、
帰国後、諸葛直と衛温は孫権から勅命によって
目標不達成を理由に誅殺をされた。
230年8月、
魏の大司馬・曹真が明帝に対し、蜀征伐の遠征を申し出て認められ、
曹真は長安から子午谷より蜀に攻め入り、
また荊州方面では大将軍の司馬懿が、漢水を遡って南鄭を攻撃。
しかし秋の長雨が30日続き、遠征の続行が困難となり、
明帝の勅命により魏の蜀征伐は全面撤退という結果に終わる。
洛陽に帰還した曹真は間もなく重病に陥り、231年3月に逝去。
230年、
魏の蜀遠征が失敗に終わった直後、
逆に漢中から魏延・呉懿らが羌中に向けて出陣。
陽谿の戦いで魏の郭淮・費耀を撃破。
230年冬、
孫権が合肥へと侵攻。
しかし賈逵や曹休の死後、彼らの任務を受け継ぎ、
都督揚州諸軍事・豫州刺史・征東将軍となった満寵が
孫権の偽装撤退を見破ったため、
孫権軍は敗退。
231年、
揚州刺史の王凌に呉の将・孫布が投降を申し入れる。
満寵は孫布の投降を偽装と読むが、彼の留守中に
満寵とは以前から対立関係にもあった王淩が勝手に
孫布を迎えようと督将の一人を派遣。
しかし逆に孫布の夜襲を受け、送り込んだ歩騎700人の内、
過半数の死傷者を出して失敗。
231年2月、
孫権は太常の潘濬に節を与え、
呂岱、呂拠、朱績、鍾離牧とともに5万人の軍勢を指揮させて
五溪の蛮(異民族)の討伐に向かわせる。
しかし賊軍の抵抗は頑強で潘濬軍は苦戦を強いられ、討伐は長期化。
結果、10ヶ月後の11月になって漸く反乱の鎮圧に成功。
231年3月、
曹真が病死したこの月、諸葛亮は第四次北伐遠征を開始。
魏将の賈嗣と魏平を祁山に包囲し、木牛による輸送などを行う。
魏の明帝・曹叡は「西で有事が発生した。そなたにしか任せられない」と
言って、
司馬懿を長安に駐屯させて都督雍州梁州諸軍事に任命し、
車騎将軍の張郃、後将軍の費曜、征蜀護軍の戴凌、雍州刺史の郭淮らを
統括させて蜀軍の討伐を命じた。
231年7月、
孔明はやはり兵糧切れで撤退を余儀なくされるも、
蜀軍は木門道にて追撃をして来た魏の張郃と合戦し、
張郃を射殺する。
232年、
諸葛亮は士を休め黄沙に於いて農耕を進める。
流馬・木牛を作り終える。
兵を練り、武を講じる。
232年、
呉の陸遜が廬江に侵攻。
しかし満寵が慌てず軍を整えて陽宜口にまで進出すると、
その報を聞き、呉軍は夜の内に遁走。
233年3月、
孫権は遼東太守・揚烈将軍・公孫淵の内通を信じ、
彼に九錫、その他の恩賞を届けるべく、
張弥・許晏・賀達の使者を1万の兵と共に遼東へと派遣し、
公孫越を燕王とした。
顧雍・陸遜・張昭ら重臣達は皆反対をしていたが、
結果は彼らの危惧した通りに、
公孫淵は孫権が派遣した使者を斬り、財貨も奪って魏に寝返る。
公孫越は逆にこの功績により、
魏帝・曹叡から大司馬・楽浪公に任命される。
233年、
満寵が上表し、老朽化した合肥城に代わり、
旧合肥城の北西30里の地に合肥新城を築く。
(満寵伝では233年だが、孫権の伝では230年の築城)
するとその年の内にまたも孫権自らが軍を引き連れ、
合肥新城を奪取しようと襲来。
孫権は始め20日間程の内は、
新たにできた合肥新城の位置が旧城よりも巣湖の岸辺から遠かったため、
上陸を控えていたが、
満寵は孫権が合肥新城の獲得に拘って必ず上陸してくるであろうと読み、
歩騎6千の兵を城の隠れた場所に伏せて待つと、
果たして孫権は兵と共に上陸。
満寵は伏兵で敵に奇襲を掛けて撃退。
孫権軍は斬首6百、その他の水死者を含めた損害を出す。
233年、
司馬懿は成国渠を穿ち、臨晉陂を築き、農地数千頃を灌漑して
国力を充実させた。
233年冬、
諸葛亮は諸軍を使って米を斜谷口に運び集め、
斜谷に邸閣(食料庫)を治める。
同年、南夷の劉冑が反乱を起こしたが、
庲降都督の馬忠が鎮圧し平定した。
234年2月、
諸葛亮は第五次北伐遠征を開始。斜谷に出て渭南に駐屯し屯田を行う。
初めて流馬を使い輸送を行う。
司馬懿が諸軍を率い蜀軍の迎撃に当たる。
魏の明帝・曹叡はこの事態を憂慮し、征蜀護軍の秦朗に
步騎2万人の軍勢を与えて援軍に送り、
司馬懿の指揮を受けさせた。
魏の諸将は蜀軍を渭水の北岸で迎え撃つ事を望んだが、
司馬懿は却下して渭水の南岸に渡り、背水の陣を布いて諸葛亮と対峙した。
234年3月、
後漢の献帝・劉協(山陽公)が死去する。
234年5月、
孫権自ら親征して居巣湖の口に入り、合肥新城へと進撃を開始。
またそれと同時に陸遜・諸葛瑾は沔水へ、孫韶は淮水へと入らせ、
それぞれに一万人余りの軍勢を率いさせて、
魏領内への多方面同時侵攻に打って出た。
234年6月、
合肥新城で孫権軍の迎撃に当たっていた征東將軍の滿寵は、
新城の守りを解いて敵を寿春にまで引き込みたいと考えたが、
魏帝の曹叡がそれを却下。
改めて合肥、襄陽、祁山の守備軍に対し、堅守を徹底させるとともに、
自ら合肥新城への親征を決意。
234年7月、
曹叡は御龍舟に乗って東征を開始。
魏将・張穎らの前に合肥新城を攻めあぐねていた孫権は、
さらに曹叡の親征を知ると、
曹叡の軍が未だ数百里に至る前に撤退。
陸遜・諸葛瑾、孫韶らもまた軍を引き上げた。
234年8月、
曹叡が許昌宮に還る。
諸葛亮は司馬懿と五丈原にて百日余りの対峙し続け、
その間、司馬懿は諸葛亮からの挑発にも応じることなく、
専守防衛を貫いて守りに徹した。
やがて諸葛亮が対陣中に病没したため、蜀軍は遠征を中止して撤退を遂げた。
【第五次北伐、諸葛亮の計画とその実行準備】
234年2月、諸葛亮はついに彼の最後となる五回目の北伐遠征を敢行する。
この第五次北伐はこれまでの遠征の中でも最も、
事前に周到な準備がなされた遠征だった。
231年の第四次北伐が失敗に終わって後、
帰還した孔明は将士に休息を与えると共に農耕を進めて兵糧を蓄え、
さらにその兵糧を運送するための手段として前回用いた「木牛」の生産に加え、
新たに「流馬」を開発し、
そしてまた、蓄えた兵糧を、
第五次遠征前年の233年冬に、
事前に諸軍を使って褒斜道の出口となる斜谷口に運び集め、
そこに邸閣(食料庫)を築いて保管した。
また本番の戦闘に備え、
兵士達の軍事教練も一層厳しく鍛え上げた。
孔明の北伐は回を重ねる毎にどんどんと長期化をしている。
始めの1~3回までの遠征は、
大体一回の遠征が1~3ヶ月以内で終了していたが、
第四次の北伐では2月~8月までの約半年の期間。
といって第一次~第三次までの遠征もほぼ一年間の間に
行われたものなので、
そうしたことを考え合わせてみると、
元々諸葛孔明の北伐遠征計画とは、かなり長期のスパンで以って、
計画されていたことが窺える。
それは何故かといえば、
やはり友軍である呉軍との連携を図る必要があったため。
魏を倒すという究極のテーマからすれば、
蜀が単独で魏の相手をするだけでは足りない。
蜀が魏本国からの大軍を引き付けたのなら、
その間にまた、呉軍にも別方面から魏領内へと攻め込んでいって貰わねば、
作戦としては完成しない。
曹叡や司馬懿が語っていた魏にとっての重要軍事拠点は
呉との国境の合肥(東関)、夏口(江夏)、
及び蜀との国境に位置する祁山だったが、
蜀呉両国にとってそれら重要拠点の攻略に最も有効な手段は、
多方面からの同時侵攻作戦だ。
しかし蜀と呉の異なった両国間で、
共にピッタリと息を合わせて軍事行動をしていくことは非常に難しい。
これまでも呉が魏を攻めればそれに応じて蜀がまた魏に攻め込み、
逆に蜀が先に魏に攻め込めば、
後から呉も魏に攻め込むといった形を取ってきていたが、
タイム・ラグがあり過ぎてとても同時とはいかず、
順番順番にしかならなかった。
が、
それが今回の第五次北伐に関しては、
蜀呉の両国で示し合わせた上での、
多方面同時軍事侵攻が行われる運びとなったのである。
ただそれで、
蜀の諸葛亮が褒斜道から斜谷へと進軍を開始したのが2月で、
孫権軍が東方で動き出したのが、
それからやっと5月に入ってからのことだった。
だから蜀軍の方で呉軍の動きに合わせるにしても、
相当長い調整期間が必要とされた。
故にそのためにはとにかく用意できるだけ、大量の糧食を遠征前、
事前に積み上げておくことが必須の条件だった。
そして諸葛亮はこの、第五次の北伐を最後に、
遂に魏軍との対陣を続けたまま、
五丈原の陣中に没する運命となる。
彼自身、
内心この最後の北伐に期する思いには特別なものがあったろう。
【第五次北伐、司馬懿の蜀軍対策とその前準備】
さてしかしながら一方、
魏軍の方でもまた蜀軍の遠征に対しては、
司馬懿が入念な迎撃体制を整え、待ち構えていた。
かつて曹真が孔明の第二次北伐を陳倉だと予想した如くに、
司馬懿も第五次北伐の孔明の動きを予想していた。
それは既に蜀軍が第四次の北伐遠征を補給切れから断念して
撤退を遂げたその直後、
軍師の杜襲と督軍の薛悌らが皆、
「明年、麦が熟せば諸葛亮は再び侵攻してくるに違いありません。
隴右(関中方面)には穀物がないので、
予め冬の内に運び込んでしまうべきです」と、司馬懿に進言をしていた。
しかし司馬懿は、
「諸葛亮は今回再び祁山に出てきて、またその以前は陳倉を攻めたが、
何れも失敗に終わった。
それでも諸葛亮はその敗戦後、直ぐに再侵攻を企ててきたが、
そのときはもう城攻めをすることはなかった。だから今度も次に諸葛亮が
現れるのは必ず隴東で、西ではない。
諸葛亮は毎度、軍糧不足に頭を痛めているので、
今回の戦いで敗れた後は再侵攻には出てこず、
領地で食料の備蓄に励むに違いない。
私が推察するに、蜀軍は向こう三年間は遠征には出てこれない」と、
そう言って司馬懿は、
冀州の農民を上邽に移住させて耕作に従事させるように上表し、
京兆・天水・南安に監冶を興した。
※『晋書 宣帝(司馬懿)紀』
「時軍師杜襲、督軍薛悌皆言明年麥熟,亮必為寇,隴右無穀,宜及冬豫運。
帝曰:「亮再出祁山,一攻陳倉,挫衄而反。縱其後出,不復攻城,當求野戰,
必在隴東,不在西也。亮每以糧少為恨,歸必積穀,
以吾料之,非三稔不能動矣。」
於是表徙冀州農夫佃上邽,興京兆、天水、南安監冶。
(時に軍師の杜襲と督軍の薛悌は皆、明くる年には麦が熟し、
諸葛亮が必ず襲ってくるだろうと言った。
隴右には穀物が無いので、冬には予め運び入れておくべきだ。
帝は言った:「諸葛亮は二度祁山に出征し、一度は陳倉を攻めたが、
何れも敗戦に終わった。もう城を攻めることはないだろう。
きっと野戦を求めてくるに違いない。
必ず隴東に出て、西には出ない。
諸葛亮は毎度、兵糧が少ないのを嘆いていたが、
帰還すれば必ず軍糧の蓄積に励むはずだ。
私が推し量るに、三年は動かないだろう」と。
これにおいて冀州の農夫を上邽へと移して耕作させ、
京兆・天水・南安に製鉄の監冶を興すよう、上表した。)」
杜襲と薛悌は第四次北伐の後、
直ぐにまた来年、蜀軍が北伐に出て来るに違いないと心配したようだ。
だからその前に、第四次の北伐で敵に奪われそうになった上邽の麦を、
予め刈り取って隴右(長安を含む関中方面)に
運び込んでおいてしまえと進言をした。
しかしそれ対して司馬懿は、蜀はまた北伐の準備期間に入って
3年は出てこないだろうから上邽の麦を刈り取る必要はなく、
逆に冀州から農民を移して耕作させるべきだと。
そして兵糧不足の隴東(長安を含む関中方面)は隴東で、
この方面にはさらに233年、
司馬懿は成国渠を掘り、臨晋陂を築き、独自に穀物の増産を図り、
これによって数千頃の農地を灌漑し、国力を充実させる。
成国渠というのは関中盆地内を東西に流れる渭水に対し、
その直ぐ上の北側を平行して通した運河で、
およそ長安と槐里の間のところぐらいから、
武功と郿の間ぐらいまでの区間を流れる水路だ。
それと一方臨晋陂の方は、
長安の東方230km程に位置する、司隷馮翊郡臨晋に築かれた堤防で、
こちらは水害の対策、若しくは貯水を目的とした設備だったと思われるが、
何れにせよ、
司馬懿はそれらの灌漑工事を行うことで、スッカラカンだった関中方面にも、
大量の穀物を積み上げることに成功した。
司馬懿は諸葛亮が攻城をいった後は野戦を挑んでくるという
行動パターンを読み、
次の蜀軍の遠征攻略目標が関中盆地内、
渭水沿い平原地帯での野戦になると予想したため、
その戦いのための軍糧が絶対に必要だった。
諸葛亮は諸葛亮で、彼の最後となる第五次北伐に向け、
入念な準備をして臨んだが、
司馬懿は司馬懿で彼もまた、その諸葛亮を迎え撃つに、
万端の体制で待ち受けていたのだった。
《第五次北伐 ~斜谷から武功、五丈原までの道のり~》
第五次北伐 行軍図
234年2月、
諸葛亮は過去最大、集められるだけの大軍(晋書では10余万)を挙って、
褒斜道から斜谷へと出て関中盆地内に入り、
そこから東進して武功方面へと向かう。
しかし長期、7ヶ月余りも続いたこの戦いも、
蜀軍側の「後主(劉禅)伝」、及び「諸葛亮伝」のどちらとも、
記述がアッサリしすぎて細かい詳細が良くわからない。
『三国志 後主(劉禅)伝』では、
※(『三国志 後主(劉禅)伝』)
「十二年春二月。亮、由斜谷出、始以流馬運。秋八月亮卒于渭濱。
(234年春2月。諸葛亮は、斜谷から出て、始めて流馬で運送を行う。
秋8月、諸葛亮は渭濱で卒す。)」で、
『三国志 諸葛亮伝』でも、
※(『三国志 諸葛亮伝』)
「十二年春、亮悉大衆、由斜谷出。以流馬運。據武功五丈原、
與司馬宣王對於渭南。亮每患糧不繼、使己志不申。
是以、分兵屯田、爲久駐之基。耕者雜於渭濱居民之間、而百姓安堵、軍無私焉。
相持百餘日。其年八月、亮疾病、卒于軍、時年五十四。
(234年春、諸葛亮は悉くの大衆で、斜谷から出て、流馬で運送を行う。
武功五丈原を拠り所とし、司馬懿と渭南にて対峙す。
諸葛亮は毎度のこと、糧食の供給が続かず、
己の志が果たせないことを気に患っていたため、兵を分けて屯田を行い、
長期駐留の基とした。
屯田の耕作者達は渭水の河岸で地元居住民との間に雑居したが、
百姓は安堵し、軍も勝手な振る舞いはしなかった。
相対峙すること、百日余り。そしてその年の8月、
諸葛亮は病に倒れ、軍中に没した。時に五十四歳。)」と・・・。
第五次北伐の詳細に付いては、
むしろ蜀と敵の、魏国側の資料のほうが詳しい。
『魏書 明帝紀』では、
※(『魏書 明帝紀』)
「是月、諸葛亮出斜谷屯渭南、司馬宣王率諸軍拒之。
(この月、諸葛亮は斜谷に出て渭南に駐屯する。司馬懿は諸軍を率いて
これを拒む。)」だが、
『晋書 宣帝(司馬懿)紀』では、
※(『晋書 宣帝(司馬懿)紀』)
「二年,亮又率眾十餘萬出斜谷,壘于郿之渭水南原。
天子憂之,遣征蜀護軍秦朗督步騎二萬,受帝節度。諸將欲住渭北以待之,
帝曰:「百姓積聚皆在渭南,此必爭之地也。」遂引軍而濟,背水為壘。
因謂諸將曰:「亮若勇者,當出武功,依山而東。若西上五丈原,則諸軍無事矣。」
亮果上原,將北渡渭,帝遣將軍周當屯陽遂以餌之。數日,亮不動。
帝曰:「亮欲爭原而不向陽遂,此意可知也。」
遣將軍胡遵、雍州剌史郭淮共備陽遂,與亮會于積石。
臨原而戰,亮不得進,還於五丈原。
會有長星墜亮之壘,帝知其必敗,
遣奇兵掎亮之後,斬五百餘級,獲生口千餘,降者六百餘人。
(青龍二年(234年)、諸葛亮は十余万の衆を率いて斜谷へと出て、
郿県の渭水南岸に塁を築いた。天子(曹叡)はこれを憂え、
征蜀護軍の秦朗に歩騎二万を統監させ、司馬懿の節度を受けさせた。
諸将は渭水の北に往き、諸葛亮を待ち受けることを欲したが、
司馬懿は、「百姓達は皆、渭水の南に集まっており、
ここは必争の地となる」と言い、軍を引き連れて河を渡り、川を背に塁を築いた。
そして諸将に、「諸葛亮が若し勇者なら、武功を出て、
山に依り東に向かうだろう。しかしもし西の五丈原に上ったのであれば、
諸軍は安泰だ」と言った。
はたして諸葛亮は五丈原に上り、渭水を北へ渡ろうとした。
司馬懿は将軍の周当を囮として陽遂に派遣して駐屯させ、
蜀軍を誘き出させようとしたが、数日の間、諸葛亮は動かなかった。
司馬懿は「諸葛亮は陽遂には向かわずに五丈原で戦うことを欲している。
この意図は知るべきだ」と言い、将軍の胡遵と雍州刺史の郭淮を派遣して
共に陽遂の備えとさせると、積石で諸葛亮と遭遇した。
原に臨んで戦争となったが諸葛亮は進めることを得ず、五丈原に還った。
長星が諸葛亮の塁に堕ち、司馬懿は諸葛亮が必ずや敗れることを悟った。
奇兵を派遣して諸葛亮の背後から引き止めに掛かった。
五百余の首級を斬り、生口千余、降伏者六百余人。)」と、
またここでは最終的に司馬懿が大勝利したこととなっているが、(笑)
内容的にはかなり詳しいものとなっている。
それと今一つ、
『三国志 郭淮伝』にも、
※(『三国志 郭淮伝』)
「青龍二年、諸葛亮出斜谷、並田于蘭坑。是時司馬宣王屯渭南。
淮策「亮必爭北原、宜先據之」議者多謂不然。
淮曰「若亮、跨渭、登原、連兵北山、隔絕隴道、搖蕩民夷、此非國之利也」
宣王善之、淮遂屯北原。塹壘未成、蜀兵大至、淮逆擊之。
後數日、亮盛兵西行、諸將皆謂欲攻西圍。
淮獨以爲「此見形於西、欲使官兵重應之。必攻陽遂耳」
其夜果攻陽遂、有備不得上。
(青龍二年(234年)、諸葛亮は斜谷に出て、蘭坑に田を並べる。
この時司馬懿は渭水の南に駐屯していた。
郭淮は「諸葛亮は必ず北原を争うに相違なく、
宜しくこれを先に占拠すべし」と献策したが、議者の多くは
そうではないと言った。
しかし郭淮はさらに「若し諸葛亮が、渭水を跨ぎ、原を登り、
兵を連ねて北山に向かえば、隴への道を隔絶されて、民夷が動揺し、
これは我が国の有利にはなりません」と言を重ねて主張した。
司馬懿はこれを善しとし、郭淮を北原に駐屯させた。
塹壘が未完成の時、蜀兵が大挙して襲ってきたが、郭淮は逆にこれを撃退した。
数日の後、諸葛亮は兵を盛んに西行し、
諸将は皆、蜀軍が西の囲みを攻めようとしているのだと言った。
しかし郭淮は独り、「これは西に行くと見せ掛け、
我が官兵を重ねてそれに応じさせようとしているのです。詰まり敵の囮で、
蜀軍は必ず陽遂を攻めるに違いありません」と主張した。
すると果たして、その夜に陽遂が敵に攻められたが、
備えのために蜀軍は戦果を得ることができなかった。)」と、
また少し、別の詳細が記載をされている。
【諸葛亮vs司馬懿、渭南での対峙】
諸葛亮は先ず漢中から10余万の人数とともに褒斜道を抜けて斜谷へと出る。
斜谷は褒斜道の北の出口で、
もうその直ぐ近くが五丈原となっている。
・・・が、
諸葛亮はこの時、始めからその五丈原には駐屯せず、
そこからさらに東へと軍を進めていた。
「諸葛亮伝」には“武功”という地名が見え、
また「宣帝(司馬懿)紀」でも司馬懿自身が、
「もし敵が武功を出て東に向かえば・・・」などと言っている。
詰まり諸葛亮は斜谷を出た後、武功へと向かい、
そこで背水の陣を布いた司馬懿と向かい合いに対陣したものと推察される。
【渭水南岸、武功での魏蜀両軍の対峙と蜀軍の屯田】
で、この武功という土地の場所なのだが、
現代の地図だとその武功の場所は、陝西省咸陽市武功県で、
五丈原から東に60kmも離れた地点の、
ちょうど長安と五丈原の中間の位置ぐらいの場所になる。
だから五丈原からは相当な距離となってしまうのだが、
しかし諸葛亮は斜谷を出た後、
何のためにそんな遠くまで東へと軍を進めていったのか・・・?
この場合、漢中からの出口からそんなに離れて陣を布けば、
敵にその帰り道となる出口を塞がれる危険性が非常に高くなってきてしまう。
一気に長安まで衝こうというのなら、また別だが、
諸葛亮は途中の武功で留まって、そこで司馬懿の軍勢と対陣をしている。
しかもかなり長期の・・・。
が、実はこの点、
『水経注』の「與步騭書」の箇所には、
※(『水経注』巻十八、渭水、「與步騭書」)
「僕前軍在五丈原。原在武功西十里。
馬冢在武功東十餘里,有高勢,攻之不便,是以留耳。
(私は前軍と五丈原に在ります。五丈原は武功の西10里に在ります。
馬冢は武功の東十余里に在ります、高い勢いを有し、これを攻めるに便せず、
以ってこれに留まるのみとなっております。)」などと書かれていて、
だからこの記述を参考にする限り、
五丈原は武功の西10里の場所だということになる。
漢代の一里は415mなので、詰まり10里だと4150 mと、
60kmから一気に4kmの距離にまで縮まってきてしまう。
五丈原の戦い前半戦、布陣図(推測)
現代の地図で現場を確認してみた場合、
そうすると五丈原から10里、4kmの場所というのは、
もう五丈原の直ぐ近くとなる。
そしてその武功から今度は東10余里の位置に馬冢なる場所が存在し、
そこは高い場所だとも記されているが、
確かに地図上でもその辺りはやや高めの台地のようになっている。
とするとそこが馬冢ということだろうか。
そして武功に駐屯した諸葛亮に対し、司馬懿は渭水を渡って背水に陣を布いて
対峙したということになっている。
地図上では渭水沿い郝家堡の場所が少し高くなっている。
ここなら背水で陣を布いても守備力は高くなる。
馬冢の高地に対し、孔明は固くて手が出せないと言っていることからも、
同じように郝家堡の場所なら司馬懿の陣地が崩されることもないだろう。
ただ魏の将達は皆、司馬懿の背水策には反対をしていた。
元々兵法でも“背水”は特殊で危険な手とされ、
川を挟んだ両軍の戦闘でベーシックな対応策は
“半渡”だ。
しかし自軍が川の北岸ギリギリの場所に布陣をしたままだと、
敵もそのまま川を渡ってこれなくなってしまうだけなので、
だからわざと少し、沿岸から離れた場所に布陣して敵を上陸させ、
未だ敵が河を渡っている際中、
軍の先頭の上陸直後を攻め立てる。
それで魏軍の各将校達は皆、
「諸將欲住渭北以待之,(渭水の北で敵を待つべき)」だと、
司馬懿に進言したのだ。
しかしその案に対して司馬懿は、
「百姓積聚皆在渭南,此必爭之地也。
(百姓達が集まっているこの渭南こそ、必争の場所だ」)」だと言って退け、
敢えて河を突き渡り、背水の陣を布いた。
「郭淮伝」では「並田于蘭坑。」と、
蜀軍が蘭坑で屯田をしたことになっているが、
蘭坑とは恐らく武功周辺のどこかの土地だろう。
要するに蜀軍はその武功で、
「諸葛亮伝」にも見られる、「耕者雜於渭濱居民之間」という、
軍民雑居の状態で、
屯田をしていたものと思われる。
地図上の爛泥渠の辺りは平野になっていて、
おそらく孔明はここに、益州から連れて来た耕作者達を入れて、
屯田に従事させていたのだろう。
だから今回、孔明が率いてきた「悉大衆」、「眾(衆)十餘萬」といった
大人数も、
かなりの人数が屯田作業員だったに違いない。
蜀軍は地元住民達との間に混じって一緒に耕していたようだが、
だから司馬懿の渭水渡河は、
そうした人民達を意識しての行動でもあったに違いない。
ただ司馬懿はそこを「必争の地」だと言いながら守備を固めるだけで、
自分から蘭坑の蜀軍屯田地内へは、全然攻め込んでいない。
蜀軍はそこで生産された穀物を軍糧としようといるので、
だから魏軍としては少しでも早くその屯田地内部へと踏み込んでいって、
畑をメチャクチャに荒らしてダメにしてしまったほうがいいし、
逆に蜀軍のほうでは、
屯田地の畑を敵から守るためには、その広い畑の外周をグルリと囲むように、
兵士を配置して守らねばならず、
そうなると兵力を一ヶ所に集中して配置することができずに分散し、
守備力の弱体化を招くこととなってしまう。
何もない平野で、広い屯田地を敵の襲撃から守っていくことは、
相当困難な筈なのだが・・・、
何故、司馬懿はその隙を衝かなかったのか?
が、それは単純に、
司馬懿は攻めたくても自分達のほうから攻めてはいけなかったから。
詰まり孔明は、敢えて自分達が武功で行う屯田地帯を、
無防備に敵に向かって開放することで、
魏軍に対して、攻めてくるなら攻めてこいといった、
意思表示をしていたのではないか。
詰まり応戦上等。
それで孔明は司馬懿との決戦に持ち込もうとしていた。
その状態でも野戦に持ち込めば絶対に勝てるから。
それくらい孔明はこの武功対陣の初期段階においては、
彼我の戦力状況をみて、
勝負できるという自身を持っていたのだろう。
後に魏の都から征蜀護軍の秦朗が歩騎二万を引き連れて援軍に遣ってきて
両軍の兵力バランスがまた変わるのだが、
だからそれまでは、
渭南で対峙し合う両軍の人数は、蜀軍のほうがかなり多かったのかも知れない。
だから蜀軍のほうは魏軍と違って平地に陣を構えることができた。
それでどこから、
いつ敵に攻めてきて貰っても構わない。
これまでも野戦では蜀軍は魏軍を圧倒してきていた。
孔明自身、野戦には余程の自身を持っていたのだろう。
司馬懿は逆に、彼が蜀軍を攻めたくても、無理に攻めることはできなかった。
いっそ敵のほうから攻め込んできてくれるほうが良かった。
背水も蜀軍を引き寄せるための誘いのようにも感じられる。
司馬懿は武功に居座る蜀軍に対し、
「諸葛亮が勇者なら武功を出て、山に依拠して東に向かうだろうが、
西に出て五丈原に上れば安泰だ」などと言っていたが、
その東の山というのが、
武功から東に10余里に在るという馬冢だったらばどうか。
『水経注』で孔明は、
馬冢は高地で攻め抜くことが難しいと語っていたが、
そうするとそこにはちゃんと魏軍の手が回っていたことになる。
恐らく司馬懿は前回の北伐での諸葛亮との戦いの時と同様、
「敵に攻め込まれていれば危なかった」などと言いつつ、
実はシッカリ防備の手立てを尽くし、
罠を張ってそこに蜀軍を誘い込もうと考えていたに違いない。
しかし敵に周到な防備の備えがあったのであれば、
如何に勇者であろうと無理に攻め込むことはできない。
孔明も東からの突破は考えていたみたいだが、
その諸葛亮の側から見た場合の戦略として、
先ず向かい合う司馬懿の本隊と直接野戦で決着を着ける手が一つ。
それかもしくは司馬懿の遠征軍と、魏の本国、洛陽の都との連絡路を遮断して
司馬懿軍を枯れ死にさせてしまう手がもう一つ。
そして最後は、今度は逆に西の涼州方面と、
魏の本国とを遮断して切り離し、
第一次北伐の時と同じように、涼州方面の各諸郡諸県の地域を
蜀に離反させてしまうという手。
布陣状況を見ると、
魏軍が武功の蜀軍を北東二方面から包囲しているような格好になっている。
しかし魏軍では蜀軍のほうからは無理に攻めていくことができない程、
地勢的に高位を占めて防御を固めていた。
だから魏蜀の両軍どちらとも、
自分のほうへと相手に攻めてきて貰いたかったわけだが、
結局そのまま合戦に至ることはなかった。
しかしそうこうしている内に、魏軍のほうにまた新たな
二万の援軍が現れてしまい、
そうなると今度は逆に、
蜀軍がそのまま平地に陣取っているほうが危なくなる。
それで蜀軍は武功から五丈原へと移ることになったのではないか。
五丈原は高台になっていて、
防御力は武功の比ではなかった。
結局、孔明は東進をせず軍を西に返すこととなるが、
次にその時期について。
五丈原の戦いで有名な孔明の第五次北伐だが、
しかし今のところ、孔明はその五丈原には駐屯していない。
始めは武功にいた。
「諸葛亮伝」では、五丈原で100日余りの対峙の末、孔明が陣中に没し、
蜀軍が総退却をしたと書かれているが、
第五次の北伐は2月の開始から終わりが8月の、7ヶ月間。
詰まりまだ、3ヶ月ちょい程の空きがあることになる。
だから孔明は恐らく、その始めの3ヶ月程は武功で
司馬懿と対陣していたのだろう。
そこで始めは、蜀軍は屯田をしていた。
というより、
殆どその屯田のほうがメインだった。
中国北部地域での主要生産作物は麦で、麦の収穫は夏の五月になる。
だから孔明は2~5月までの3ヶ月少しの間は武功で屯田をして、
そして五月、麦の収穫時にそれを全て刈り取った後、
魏の新たな2万の援軍の出現もあり、
それから五丈原のほうへと移ったのではないか。
とすると、
その時点でその年の穀物の収穫は済んでしまったことになるので、
五丈原の戦いといえば屯田が非常に有名なわけだが、
しかし五丈原のほうでは多分、もう屯田はしていなかった。
余分な人数もその時点で漢中へと戻したに違いない。
だからもう、始めの内は殆ど屯田オンリー。
それは勿論、長期持久戦を戦い抜くため。
で、
第五次北伐の開始は2月からだが、
実は5月に入って、
そこで漸く、今回事前に共同侵攻作戦を提携していた、
呉の対魏遠征が開始をされることとなる。
それは始めから5月からと決まっていたのか、
それとも孫権の気まぐれか・・・。
もし孫権の任意による適当な時期での出兵なら、
蜀軍のほうでは、その間は待ちぼうけを食うこととなってしまう。
孫権軍の侵攻が漸く開始されたときに、
蜀軍が兵糧切れで撤退なんてことになってしまったら、
それこそ本末転倒だ。
だから孔明は相当、長期的なスパンを考慮した北伐遠征作戦計画を
考える必要があったろう。
それで始めは武功での屯田ということにもなったのだろう。
【孫権親征、三方面侵攻作戦】
234年5月、
孫権は号10万の軍勢で自ら親征して居巣湖の入り口から合肥新城へと進撃。
それと同時に陸遜・諸葛瑾らには万余人の軍勢で沔水(漢水)から
襄陽へと向かわせ、
また孫韶・張承には淮水から広陵、淮陰へと向かわせ、魏領内への
多方面同時侵攻に打って出た。
※『資治通鑑』 第七十二巻 魏紀四 青龍二年(甲寅,西元二三四年)
「五月,吳主入居巢湖口,向合肥新城,眾號十萬;
又遣陸遜、諸葛瑾將萬餘人入江夏、沔口,向襄陽;
將軍孫韶、張承入淮,向廣陵、淮陰。
(5月、呉主(孫権)は居巣湖の入り口から、号10万の大軍で、
合肥新城へと向かった。
また陸遜、諸葛瑾ら1万人余りを派遣し、江夏から沔水を上って、
襄陽へと向かわせた。
将軍の孫韶、張承らには淮水へと入らせ、廣陵、淮陰へと向かわせた。)」
このとき、蜀軍の諸葛亮が武功にて魏の司馬懿と長期対陣中で、
そのため孫権は、魏の明帝・曹叡本人はとても、
遠距離の遠征に出てくることは不可能だと思った。
※『三国志 呉主(孫権)伝』
「是時、蜀相諸葛亮出武功、權謂魏明帝不能遠出。
(この時、蜀の丞相・諸葛亮が武功へと出兵していたため、孫権は、
魏の明帝が遠出してくることは不可能だと思った)」
ところが、そんな孫権の甘い考えに反して、
魏帝・曹叡は合肥新城の孫権軍撃退のため、自ら出兵を決意。
このとき、6月。
そしてちょうどその頃、今まさに孫権軍の大包囲を受けていた合肥新城では、
都督揚州諸軍事の滿寵が敵の圧力に、いったん合肥新城を放棄し、
北方の寿春にまで孫権軍を引き込み、そこで改めて敵を迎え撃ちたいと、
都の曹叡にまで打診して許可を求めるのだが、
しかしこれを曹叡が却下。
※(『三国志 明帝紀』)
「六月、征東將軍滿寵進軍拒之。寵欲拔新城守、致賊壽春、
帝不聽、曰:「昔漢光武遣兵縣據略陽、終以破隗囂、
先帝東置合肥、南守襄陽、西固祁山、賊來輒破於三城之下者、地有所必爭也。
縱權攻新城、必不能拔。敕諸將堅守、吾將自往征之、比至、恐權走也。」
秋七月壬寅、帝親御龍舟東征、權攻新城、將軍張穎等拒守力戰、
帝軍未至數百里、權遁走、議,韶等亦退。
(6月、征東将軍の滿寵は進軍してこれを拒む。
滿寵は合肥新城から守備兵を抜いて、賊を寿春城にまで引き込みたいと欲したが、
明帝は聞かず、言った:「昔、漢の光武帝は洛陽を拠り所として遠く兵を派遣し、
終に隗囂を破り、
先帝は東に合肥を置き、南に襄陽を守り、西に祁山を固め、
賊軍が来週するたび、この三城の地域で撃破したが、
地には必ず争うところがあるのだ。
たとえ孫権が合肥新城を攻めたとて、陥落させることなどできないだろう。
諸将には堅く城を守ることを命ずる。
私が自ら孫権の征伐へと向かえば、孫権は恐れて逃げ出すであろう。」と。
秋7月壬寅19日、明帝は御龍舟に乗って東征した。
孫権は合肥新城を攻めていたが、将軍の張穎らが力戦し、敵を拒んで守った。
明帝が未だ数百里にも至らぬ内に、孫権は遁走し、
陸遜、孫韶らもまら退いた。)」
曹叡の言うには、
魏呉蜀の三国にとって合肥、襄陽、祁山の三城はいわゆる、
兵法で言う所の“兵家必争の地”たる最重要防衛拠点で、
魏ではこれまでここを死守することによって、
呉蜀からの侵攻を撃退することができた。
たとえ孫権が合肥新城を攻撃しても決して攻め落とすことはできないので、
だから諸将に於いてはこれらの城を堅く守り抜くこと。
そしてその上に今、もし私自らが親征して赴けば、
敵は恐れを抱いて逃げ出すであろう、と。
そして234年7月、
曹叡は御龍舟に乗って東征を開始。
魏将・張穎らの力戦に合肥新城を攻めあぐねていた孫権は、
さらに曹叡の親征を知り、
曹叡の軍が未だ数百里に至る前に撤退。
陸遜・諸葛瑾、孫韶らもまた同様に軍を引き上げ、
遠征は呉軍の全面敗北という結果に。
ただ孫権軍は撤退をしたが、未だ西方にて大将軍の司馬懿が
蜀軍の諸葛亮と対戦中で、
そのため、群臣の多くが曹叡に対し、
第一次北伐の時と同様、曹叡自らが長安にまで赴いていくことを願った。
しかし曹叡は「既に孫権は敗走し、大將軍(司馬懿)が制している以上、
諸葛亮も必ず敗れ去ることだろう。私に憂慮はない」と言って、
寿春にて諸将に論功行賞を行い、合肥・寿春の諸軍を労った後、
234年8月、
曹叡は許昌宮へと戻った。
『三国志』 卷3 魏書三 明帝紀
「羣臣以為大將軍方與諸葛亮相持未解、車駕可西幸長安。
帝曰:「權走、亮膽破、大將軍以制之、吾無憂矣。」
遂進軍幸壽春、録諸將功、封賞各有差。
八月己未、大曜兵、饗六軍、遣使者持節犒勞合肥,壽春諸軍。
辛巳、行還許昌宮。」
234年、魏vs呉 孫権軍北伐三路侵攻図
【合肥戦詳細、満寵と田豫vs孫権の戦い】
孫権軍の三路侵攻に対し、孫権本人が向かった合肥方面の防衛に当たったのが
魏軍、都督揚州諸軍事の満寵。
それまで魏軍の対南方戦線、合肥方面の守将は、
都督揚州諸軍事で征東大将軍の曹休、及び豫州刺史の賈逵らが受け持っていたが、
しかし228年の、両人の相次ぐ死を以って、
都督揚州諸軍事と豫州刺史の役職を満寵が兼任して引き継ぎ、
新たな対孫呉防衛司令官としての任務に当たることとなった。
しかし満寵はそれ以前の遥か昔、
曹操の荊州征伐時の頃から随行して主に荊州在駐となり、
219年に関羽が攻めてきた際には曹仁の参謀として共に樊城での防戦に尽力。
文帝(曹丕)の代に入ってからも新野に駐屯して呉との戦いに数々功績を挙げ、
やがて南郷侯・仮節、前将軍の地位にまで昇進。
そして228年、新たに都督揚州諸軍事として転任することとなったのだったが、
しかし以後、孫権軍にとってはまさにこの満寵が目の上のタンコブして、
彼らの前に立ち塞がることとなった。
それ以降の満寵の功績を並べると、
230年冬、
孫権軍が合肥に攻め寄せる気配を示したため、
満寵は兗州と豫州の軍を召集することを上奏し侵攻に備える。
しかし孫権はそのまま撤退する素振りを見せたため、
都からこちらも撤退するよう、詔勅が下る。
しかし満寵はこれを孫権の偽装撤退だと見抜き警戒を怠らなかった。
するとやはり満寵の目論見通り、
それから10日程の後、再び孫権軍が来襲してきたが、
孫権は勝利を得ることはできなかった。
231年、
孫権軍の中郎将・孫布という武将が投降を願い出てきたため、
揚州刺史の王淩がこれを迎え入れたいと満寵に申し入れたが、
満寵はその投降を偽降と読んだため、却下。
しかしそこに突如、満寵に朝廷からの召還命令が下る。
これが実は、満寵と仲の悪かった王淩が仕組んだ謀略だったのだが、
しかし勅命とあらば拒否することはできず、
満寵は出国に当たって留府長史に対し、
王淩に決して兵を与えてはならぬとの厳命を残して都へと旅立った。
そのため王淩は必要な兵を確保できず、
結局彼は、自分の督将一人に700人ばかりの兵を与えて
孫布の出迎えにいかせたのだが、
その夜、突如孫布からの夜襲を受けて、兵の大半を失うハメとなった。
一方その後、都で明帝と目通りした満寵は、
もうこのまま朝廷に残ることを願ったが、明帝が許さず、
満寵は再び揚州の任地へと戻されることとなった。
232年、
呉の陸遜が廬江に侵攻を開始。
しかし満寵は、廬江は小城ながら将兵は強く簡単に落ちることはないと、
慌てず軍を整え、陽宜口まで救援に赴くと、
それを知った呉軍は夜の内に撤退をして遁走。
233年、
合肥新城の築城。
(満寵伝では233年。孫権伝では230年の築城)
233年、
孫権が合肥新城にまで攻め寄せてきたが、新たに築かれた城が
岸から遠い場所に位置していたこともあってか、
孫権軍では20日程の日数を経ても、
巣湖の湖上からその先、合肥新城に向かって上陸まではしようとしなかった。
しかし満寵は何れ必ず襲撃してくるのは間違いないと、
歩騎6千の伏兵を用意して待ち構えると、
果たして、孫権軍は上陸を開始してきた。
満寵は用意の伏兵で攻めてきた敵に奇襲攻撃を掛け、
散々に撃ち破った。
孫権軍は斬首数100にその他、多くの水死者をだして撤退。
・・・と、
そして迎える234年の5月、
諸葛孔明の第五次北伐の動きと連動した、
孫権軍による三方面からの同時侵攻。
満寵の受け持つ合肥方面へとやってきたのは君主の孫権自ら率いる
号10万の大軍だ。
しかしここに今一人、
満寵の参謀格として田豫なる人物が登場してくる。
田豫は曹操軍の配下としては、特に北方、烏桓・鮮卑・匈奴といった
異民族対策のエキスパートとして活躍。
殄夷将軍などという恐ろしい彼の将軍名(「殄」とは滅ぼし絶やす、
死に絶える、の意)からも、
およそ彼の受け持っていた役目の凄まじさが窺い知れそうな感じだが、
この実戦経験豊富で知略に優れた田豫が、
234年の孫権軍の侵攻に際し、
魏軍総司令官の満寵に戦略、戦術上の重要なアドバイスを与えることとなる。
田豫のこのときの身分は殄夷将軍、汝南太守。
それまで曹丕の時代には、田豫は持節護烏桓校尉として主に幽州・冀州の
北方在駐だったが、
幽州刺史の王雄と折り合いが悪くなって汝南太守へと転任。
しかしといってこの田豫を外して他に北方問題対策の適任者もいなかったらしく、
太和年間に遼東の公孫淵が起こした反乱の討伐に、
曹叡はこの田豫を汝南太守の身分のまま青州の諸軍を率いさせ、
仮節を与えて遼東を追討させようとしたりしていた。
だから田豫がこの孫権軍三路侵攻の際に、彼が南方にいたのも、
偶々みたいなものだった。
田豫はこの反乱終結の後、正始年間(240年~249年)には
使持節護匈奴中郎将、振威将軍、并州刺史として、再び北方転任となる。
【合肥戦進展経緯】
※(『三国志 満寵伝』)
「明年、權自將號十萬、至合肥新城。寵馳往赴、募壯士數十人、
折松爲炬、灌以麻油、從上風放火、燒賊攻具、射殺權弟子孫泰。」
(明年、孫権軍号10万の大軍が合肥新城に至る。満寵は馳せて赴いて往き、
壮士数十人を募り、
松を折り松明とためし、麻の油を以って、風上より火を放ち、賊の攻具を焼き、
孫権の甥の孫泰を射殺した)
※(『三国志 田豫伝』)
「後孫權號十萬衆攻新城、征東將軍滿寵欲率諸軍救之。
豫曰「賊悉衆大舉、非徒投射小利、欲質新城以致大軍耳。
宜聽使攻城、挫其銳氣、不當與爭鋒也。城不可拔、衆必罷怠。
罷怠然後擊之、可大克也。若賊見計、必不攻城、勢將自走。若便進兵、適入其計。
又大軍相向、當使難知、不當使自畫也」豫輒上狀、天子從之。
會賊遁走。後吳復來寇、豫往拒之、賊卽退。
諸軍夜驚、云「賊復來」豫臥不起、令衆「敢動者斬」有頃、竟無賊。」
(後に孫権が号10万の衆で新城を攻めた。
征東将軍の満寵は諸軍を率いてこれを救いたいと欲した。
田豫曰く「賊が悉く衆を大挙して来たのは、徒に小利を投射するに非ず、
新城を質と欲し、以って大軍で致すのみと。
宜しく城を攻めさせるを聴き、其の鋭気を挫き、敵の先鋒と争うべきではなく、
もし敵が城を抜くことができなければ、衆は必ず罷怠をするでしょう。
罷怠して然る後にこれを撃って、大いに打ち克つべきで、
もし賊がそうしたこちら側の計を見抜けば、必ず城を攻めず、
勢い自ずから走り去ることでしょう。
もし便ち兵を進めれば、其の計に適うことでしょう。
また大軍を相向かわせて、敵にその難を知らせれば、
自ら画らせることがないでしょう」と、田豫はすなわち上状し、天子もこれに従った。
賊の集まりは遁走をしたが、後に呉がまた来寇してきたが、
田豫は往きてこれを拒み、賊を退けた。
諸軍が夜に驚き、「また敵が来た!」と云ったが、
田豫は臥したまま起きることもせず、
「敢えて動く者は斬る!」と衆に命令した。
それからしばらくした頃、結局、賊の姿はどこにもなかった。)
※『資治通鑑』 第七十二卷 魏紀四 青龍二年(甲寅,西元二三四年)
「六月,滿寵欲率諸軍救新城,殄夷將軍田豫曰:「賊悉眾大舉,非圖小利,
欲質新城以致大軍耳。宜聽使攻城,挫其銳氣,不當與爭鋒也。
城不可拔,眾必罷怠;罷怠然後擊之,可大克也。若賊見計,必不攻城,勢將自走。
若便進兵,適入其計矣。」
(六月、満寵は諸軍を率いて新城を救いたいと欲したが、殄夷将軍の田豫が曰く
「賊が衆を悉くして大挙して来たのは、小利を図るに非ず、
新城を質として欲し以って大軍を致すのみ。宜しく城を攻めさせるを聴き、其の鋭気を挫き、
鋒と争うべきではなく、もし敵が城を抜くことができなければ、
衆は必ず罷怠をするでしょう。
罷怠して然る後に之を撃てば、大いに克つことができるでしょう。
もし賊がそうしたこちら側の計を見抜けば、必ず城を攻めず、
勢い自ら走り去ることでしょう。
もし便ち兵を進めれば、其の計に適うことでしょう」)
時東方吏士皆分休,寵表請召中軍兵,並召所休將士,須集擊之。
散騎常侍廣平劉邵議以為:「賊眾新至,心專氣銳,寵以少人自戰其地,
若便進擊,必不能制。寵請待兵,未有所失也,
以為可先遣步兵五千,精騎三千,先軍前發,揚聲進道,震曜形勢。
騎到合肥,疏其行隊,多其旌鼓,曜兵城下,引出賊後,擬其歸路,要其糧道。
賊聞大軍來,騎斷其後,必震怖遁走,不戰自破矣。」帝從之。
(時に東方の吏士は皆が分休しており、満寵は上表して中軍の兵と、
並みに休んでいる所の将士を召し、それらの兵が須く集まってきてから
之を撃ちたいと申請をした。
散騎常侍で広平出身の劉邵が議して以為らく「賊衆が新城に至り、
心は気鋭を専らに、
満寵は少人数で以って自ら其の地で戦っているが、もし便ち進撃すれば、
必ずや制する事能わず。満寵が請い兵を待つのは、
未だ失う所を有していないからでしょう。
以為らく、歩兵五千、精騎三千を先に遣わすべきです。軍に先んじて前発し、
声を揚げて道を進めば、形勢を震曜させることができるでしょう。
騎兵が合肥に到らば、其の行隊を疎にして、其の旌鼓を多くし、兵を城下に曜し、
賊の後ろに引き出て、其の帰路を擬し、其の糧道を要します。
賊は大軍が来て、騎兵が其の後ろを断ったと聞けば、必ずや震え怖れて遁走し、
戦わずして自ら破れることになりましょう」と、帝はこれに従った。)
寵欲拔新城守,致賊壽春,帝不聽,曰:「昔漢光武遣兵據略陽,終以破隗囂,
先帝東置合肥,南守襄陽,西固祁山,賊來輒破於三城之下者,地有所必爭也。
縱權攻新城,必不能拔。敕諸將堅守,吾將自往征之,比至,恐權走也。」
乃使征蜀護軍秦朗督步騎二萬助司馬懿御諸葛亮,
敕懿:「但堅壁拒守以挫其鋒,彼進不得志,退無與戰,
久停則糧盡,虜略無所獲,則必走;走而追之,全勝之道也。」
秋,七月,〔壬寅〕,帝御龍舟東征。滿寵募壯士焚吳攻具,射殺吳主之弟子泰;
又吳吏士多疾病。帝未至數百里,疑兵先至。
吳主始謂帝不能出,聞大軍至,遂遁,孫韶亦退。
(満寵は賊を壽春にまで致し、新城を守り抜きたいと欲したが、帝は聴かず、
曰く「昔漢の光武は兵を遣わして略陽に拠って、終に以って隗囂を破り、
先帝は東に合肥を置き、南に襄陽を守り、西に祁山を固め、
賊が来たれば輒ち三城の下者に於いて破りしは、
地には必ず争うべき所が有るということだ。
孫権に新城を攻めさせるのを縦としても、必ず抜くことはできない。
諸将には堅く守るように勅を出し、吾は将に自ら往きて之を征さんとし、
比至、孫権は恐れて逃走するだろう」と。
乃ち征蜀護軍の秦朗に歩騎二万を督させ司馬懿が諸葛亮を御すのを助けさせ、
また司馬懿に対しても、
「但堅壁拒守して以って其の鋒を挫き、彼が進んでも志を得られず、
退いてもこれと戦うことないように、久しく停まれば則ち糧は尽き、
捕虜を略そうとしても獲る所がなければ、則ち必ずや敗走するであろう。
走れば而して之を追い、それが全勝の道である」と、
勅命を下した。
秋、七月、壬寅、帝は龍舟を御して東征した。
満寵は壮士を募って呉の攻具を焚き、
呉主の弟の子である孫泰を射殺した。又た呉の吏士は多くが疾病に罹った。
帝が未だ数百里に到着しない内に、疑兵が先に到着した。
呉主は始め帝(曹叡)は出てくることないと謂っていたのだが、
大軍が至ったと聞き、遂に遁れ、孫韶も亦た退いた。)」
【合肥戦での疑問点】
孫権軍10万の大軍が合肥新城へと大挙して押し寄せてきた圧力から、
満寵は都に対し、一旦合肥新城から兵を撤退させて、
寿春城で改めて敵を迎え撃ちたいと申し送っていたが、
しかしそれは曹叡から却下される。
だが満寵はまだ敵侵攻の開始、初めの内は、逆に自分で直接、
合肥新城への救援に向かいたいと思っていたことが史書からわかる。
先ず234年5月、
孫権軍10万の大軍が合肥新城へと襲来。
その一ヶ月後の6月、
満寵は諸軍を率いて合肥新城へ救援に向かおうとするが、
その行動に田豫が待ったを掛ける。
田豫の言うには、幾ら相手が大軍でも合肥新城が簡単に
落とされることはないから、
だからここは逆に敢えて敵に城を攻めさせて、
相手が疲労をしたところを反撃して追い返せばいいと。
また敵がその我々の狙いに気付けば、
もはや向こうのほうから勝手に引き上げるだろうし、
あるいは本国からの援軍接近が攻城中の孫権軍の耳に入れば、
やはり孫権は自ら軍を返すに違いないから、
攻めるのはそのときでいい。
だから援軍到来の報も、むしろこちらからリークしてやればいいと、
そうして田豫はその案を都にまで送って、
また曹叡もその作戦プランに許可を与えた。
・・・と、
しかしそうすると、
満寵が曹叡に対し、一旦合肥新城から兵を引き上げさせて寿春城で
敵を迎え撃ちたいと願い送ったのはいつのことだったのか?
初めは直接自分で合肥新城の救援に向かいたいと言っていたのが、
途中で方針が変わっている。
満寵は彼の抱く孫権軍撃退の作戦計画の一つとして、
中軍の兵(本国の予備兵?)、
それと東方に交代交代で休んでいる将士達を呼び集め、
それらの人数が揃ってから、
孫権軍を撃退しにいきたいという考えを都に申請していた。
初めに満寵が合肥新城の救出に向かいたいと思いつつも止められ、
またそれから今度は逆に合肥新城からの撤退を曹叡に
打診するに至るという一連の流れは、
全て6月の間ということになっている。
5月には攻められているから、
とすると、
これを順を追って整理していくと、
先ず5月。
孫権が10万の大軍で合肥新城へと襲撃してくる。
そのとき満寵は合肥新城よりも北方の寿春城にいて、
そしてそこから、初めは孫権軍に攻められる新城の救出に向かおうとしていた。
しかしそれを田豫に止められる。
田豫の言葉に“大軍”で云々といった言葉が見えることから、
当初の内はまだ、満寵が新城の救援に向かうにも人数が少な過ぎたのだろう。
そこで田豫の策に従って、攻城を行う敵軍の疲弊を待つとともに、
その間に自分達のほうでも何とか、
兵士達を掻き集める方針に切り替えた。
東方で分休している将士達を集めてというのも恐らくその辺りのことだろう。
が・・・、
ところがその間にもどんどん、孫権軍の攻撃の勢いはいよいよ激しさを増し、
ついにはもう、
現実に合肥新城が陥落の危機を迎えるまでの事態となってしまったのではないか?
それで満寵は止むを得ず、
再度方針を転換して、今度は合肥新城の味方を助ける意味でも、
彼らに城から撤退させて、
改めて寿春城のほうで敵を迎え撃ちたいと中央に願い出ることになったと。
しかしそれも、今度は曹叡から直接却下をされる。
そしてそれに対し改めて考え出された救援プランが、
劉邵の言った、歩兵五千、精騎三千を先行させて敵の退路断ち、
撤退に追い込むという策で、
劉邵の言うところは詰まり、満寵は合肥新城の放棄を願い出てきているが、
実際に未だ合肥新城が敵の手に陥落させられてしまったわけではないので、
然るに先ずここで歩兵五千、精騎三千を急派することにして、
そうして彼らにまた、魏本国から大軍の援軍到来を派手に喧伝させつつ、
同時に敵の帰路と糧道を遮断するような動きを見せれば、
自ずと孫権は自主撤退を遂げるであろうと。
【孫権の苛立ちとジレンマ】
しかしこれまで連年、何度も孫権軍との戦いを繰り広げて来た満寵が
もうダメだと思うほど、
今回の戦いでの、孫権軍の合肥新城への攻撃は余程の
凄まじさだったようなのだが、
しかし結果はこれまでと全く同じ、
敵援軍の到来をしった孫権自身の自主撤退という形で終わった。
ただそれにしても一体、
孫権は何故、敵本国からの救援がやって来ると、
一々攻城を止めて、引き返さなければならないのか?
曹叡や司馬懿も言っていたが、
魏呉の領土争いにおける最戦略重要拠点は合肥(東関)と襄陽(夏口)だ。
満寵は一時、合肥新城の放棄を考えるまでに追い詰められたが、
ただ田豫や劉邵、そして曹叡らが皆一様に固守を求めたように、
もし実際に、満寵が合肥から兵を抜いて寿春へと前線を後退させていれば、
恐らくはそのまま一気に、
敵は合肥新城を陥落させた勢いそのまま、
寿春城まで落としてしまっていたのではないか。
そして後はもう、
ドミノ式に孫権軍は破竹の勢いで領土を拡大させていけた可能性も高い。
たとえばラグビーのスクラムなどでも、
それまで均衡を保って持ち堪えていた双方のバランスが崩れて、
どちらか一方の力が突然スッと抜けたりすると、
その途端にガタガタ~っと、
一方的に押し崩されていってしまったりするが、
それと同じように、
だから合肥での戦いもそうなってしまってはマズイからと、
魏軍側では合肥新城を絶対に死守しなければならかったのだろう。
逆にこれを孫権軍のほうからみれば、
合肥は何としても突破して超えなければならない壁だったと言える。
だから孫権が本気で魏の打倒を狙うのなら、
とにかく先ずはその、合肥(東関)と襄陽(夏口)を
敵から奪い取らなければならない。
勿論そのため、毎年のように何度にも渡ってしつこく
侵攻を繰り返してきていたのだが、
だから攻めるのはいい。
引き返してしまうのがいけないのだ。
もし本気で孫権が合肥を落とす積もりなら、
かつて周瑜が荊南最大の重要軍事拠点だった江陵城を一年間もの歳月を掛けて、
曹仁軍から奪い取ったように、
とにかく取り付いて粘らなければならない。
敵本国からの救援は当然、やってくるだろう。
しかしその以前、217年に曹操本人が大軍を率いて親征してきた
濡須口の戦いでは、
呂蒙を指令官に、孫権軍では保塁の上に強弩一万を配備するなどして、
半年にも渡る長期戦を戦い抜いたりしていた。
しかも今回の合肥戦では蜀軍の諸葛孔明が今まさに、大軍で出兵し、
魏の迎撃軍を北方で引き付けている最中だったのから、
孫権にとっても魏を打倒する最大のチャンスだったのだ。
だから特に今回の戦いに関しては何が何でも引き返してはならなかった。
もし敵が救援にやって来たのなら、
それこそ自分達のほうにも合肥の南面に濡須という城砦を持っていたのだから、
そこで止まって、別に魏の本隊を直接野線で相手しなくてもいい。
砦で固く守ってさえいれば、
魏は今まさに、蜀の北伐軍も含めて4方面から攻め立てられているのだから、
魏にとってはとにかく相手にいつまでも取り付かれて粘られるのが
最も厄介なことだった。
が・・・、
孫権は魏本国から、明帝・曹叡直々の親征となる援軍出来の報を聞き付けると、
結局それだけでもう攻城を諦め、また本国へと逃げ帰っていってしまった。
しかもその撤退戦に於いて、
呉は孫泰を討ち取られるなどの大損害を被っている。
逆に蜀の孔明などはその撤退戦において王双や張郃を討ち取るなどの、
戦果を挙げているが、
退却時に追撃を受けるなどはわかりきったことだ。
だから要するに孫権はその点についても、
何の手当もしていなかったということになる。
このとき孫権本人の下には一体誰が付き従っていたのか・・・、
朱然でも全琮でも、
実戦経験豊富な彼らに任せておけば、
魏を覆すことまでは難しいが、
それでも敵に付け入らせるような隙を作ることもないだろう。
孫権は無理に自ら遠征にしゃしゃり出ることなく、
大人しく配下の将軍達に戦争は任せるべきだった。
これはだから、もしかして孫権本人が上にいるから、
いくら下に優秀な部下達を引き連れていようと、
意見がそこで押し潰されてしまうということなのか・・・?
それは特に劉備軍がそうだった。
劉備は決して人に軍権を渡さず、
どんなに戦争にも必ず彼自身が直接出向いていくことを止めなかった。
しかし彼自身は全然、戦争が得意ではないので、
出ていけば殆どの場面で負けた。
しかも彼は戦場で配下の助言にも碌に耳を貸さない。
元々戦さ下手の上、おまけに人の意見も満足に聞かないとなれば、
これはもうメチャクチャになる。
その最も象徴的な戦争が夷陵の戦いで、
この戦いでもやはり劉備自身が直に戦場へと出向いて指揮を執ったが、
先ず彼の布いた布陣が最悪だった。
資治通鑑によれば、蜀軍はこの時、4万余りの軍勢を率いていたと言うが、
長距離遠征の蜀軍にとっての一番の問題は、
敵に回り込まれて後方の退路、及び糧道を遮断されてしまうことが
最大の懸案事項だった。
すると劉備は何と、50近くの陣営を築き、
持っていた4万余りのその軍勢を本国からの補給線上、数珠球状に点々と細長く、
ズラリと均等に引き伸ばして配置してしまった。
その上しかも、君主である劉備自身がその最前線に陣取り、
5万ともいう呉の大軍と向き合っていたのだから、
詰まり相手の戦力の集中に対して、自分のほうから自軍戦力の分散を行うという、
これはもう自殺行為に等しい布陣だった。
実際、その当時の魏の文帝・曹丕がこの蜀軍の布陣を知り、
「劉備はまったく戦さの仕方を知らない。必ず敗北する」と、
呆れて側近に語るほどだったという。
曹丕も決して戦争の上手いほうではなかったが、
しかしその曹丕にさえわかる程の、支離滅裂な布陣だった。
※夷陵の戦い、両軍布陣概観図(雑)
(劉備軍) (孫権軍)
・・・
至蜀← ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・・ →至呉
↑ ・・・
劉備ココ
当然、流石に蜀軍内部からもその危険性に対する問題意識が高まり、
それで夷陵遠征時における蜀軍の参謀総長格だった黄権が危ないからと、
せめて前線の部隊指揮は自分が取るから、劉備自身は後方に下がって欲しいと、
直接劉備に諫言を入れた。
すると何とその直後、黄権は劉備の側から外されて、
鎮北将軍として呉軍との戦いではなく、
戦争状態にもなっていない北方魏軍に対する抑えとして配置転換され、
飛ばされてしまった。
以後の展開は史実の通りだ。
戦後、孔明は「もし法正がいれば、あそこまでの敗戦には・・・」と語ったが、
別に黄権でも、彼クラスの将軍なら決して無様に負けることはない。
夷陵戦には馬良も参加していたが、馬良でもいい。
しかしその馬良にしても、彼はもう戦前から、
武陵蛮を説得して呉の征伐に協力させる役目として、
初めから劉備の幕僚からは外されてしまっていた。
だから孔明が言った「せめて法正が・・・」というのは、
珍しく劉備が人の意見を聞く、その相手が法正だったということなのだ。
どういうわけか劉備は法正の意見だけは良く聞いた。
だからまあこれを孫権軍で言った場合、
孫権は陸遜くらいの言うことなら、何とか聞くのかといったところになるのだが、
が・・・、
この孫権の場合に限っては劉備とは全く正反対に、
逆に彼が配下武将達の意見を聞き過ぎて、
それで軍事行動がバラバラになってしまっているのではないか、といった、
そんな側面が非常に強く感じられる。
『三国志 顧雍伝』の注釈、江表伝の記述には、
※(『三国志 顧雍伝』注、「江表伝」)
「江邊諸將、各欲立功自效、多陳便宜、有所掩襲。
權以訪雍、雍曰「臣聞兵法戒於小利、此等所陳、欲邀功名而爲其身、
非爲國也、陛下宜禁制。苟不足以曜威損敵、所不宜聽也。」權從之」
(江辺の諸将は各々自ら功を立てんと欲し、
便宜を多く陳べ、掩を襲おうとするところがあった。
孫権が顧雍を訪ねると、
顧雍は「私は兵法に於いては小利を戒めると聞いております。
これらの陳べるところは、巧妙を迎えたいと欲してその身を為さんとするもので、
国のためではありません。陛下は宜しく禁制なさるべきです。
いやしくも足らざれば威を曜すを以って敵を損ねようなどとは、
宜しく聴かざる所なり」と答えた。孫権はこれに従った。)」などと、
孫権には実際、自分の家臣達を可愛がって、あるいは自ら慮って、
何でも彼らの言ってくることに対し、
“いいよ、いいよ”と許可を与えてしまうところがあり、
もしかしてだから、この江表伝に見られるが如くに、
孫権の行う遠征に対し、それに付き従う将兵達でまた別に、
それぞれが勝手に自分達の利益を求め、
バラバラに動き回るといった状況になってしまっていた可能性もある。
となればこれば統帥上の大問題。
孔明は泣いて馬謖を斬り、公に軍法を明らかに示したが、
軍の統帥に関しては、たとえどのような事情が存在しようとも、
士卒は皆、上からの命令に絶対服従をする。
とにかく先ず兵士達が軍の規定に黙って従うというところから始めなければ、
とても軍全体の統率が保てない。
バラバラでは各部署毎に軍閥化していき、
下手をすればその下のほうから
上層部を乗っ取られるなんてことにもなりかねない。
最悪クーデターだ。
だから昔の兵法では罪状の大小や理由の如何に関わらず、
命令違反者に対しては常に極刑で以って、
厳重に罰せられるという措置が取られてきていた。
孫権軍でもかつて、呂蒙が荊州を関羽から奪取して占領した際、
にわか雨を防ぐため、民家から笠一つを取り上げた同郷の兵士に対し、
呂蒙が容赦なく斬首したエピソードなどが存在しているが、
これは現代においても決して変わることのない、
軍隊組織にとっての最重要テーマであり、
あるいは官僚統制全般について言える事柄なのかもしれない。
孫権にしても、史書には顧雍の諫言に対し、
孫権は「權從之(これに従った)」などと書かれているが、
本当に彼がどこまでもそうしていたのら、二宮の変なども起きないだろう。
私は個人的に、数多い三国志の人物の中でも、
特にこの孫権には非常に日本人に近い性質を感じてしまうのだが、
まあ、それはそれとして、
また孫権が本当に、具眼の幕僚達からの、戦場での適切な対応策を正しく
聞いていれば、
もっとマシな戦い方にもなっていた筈だろう。
そもそも孫権が魏に打ち勝つためには、
絶対に蜀との連携が不可欠なものとなってくるのだが、
しかし孫権が蜀とまったく同時に、同じタイミングで攻撃を行ったのは、
諸葛孔明第五次北伐の際のこの時だけだ。
それ以外では蜀軍が遠征を行った後、
その後の魏軍の疲弊を狙って兵を出したりだとか、
決して同時には行わない。
もしくは孫権が一人で何か策を考えて、それを攻撃のきっかけにするとか。
今回の三路同時侵攻作戦でも、
蜀軍の234年2月の出兵に開始より、呉軍の出兵開始は
それよりも3ヶ月遅れの234年の5月だ。
3ヶ月も開けば、下手をすればもう蜀軍のほうが先に
撤退してしまっているだろう。
要するに孫権は初めから、蜀と連携する気などサラサラなかった。
蜀が魏を攻撃して弱らせるのは、それは好きにやってくれればいい。
しかし一緒に行動はしない。
孫権としてはできればもう中原は無視したい。
無視して彼の居城の建業を王都として世界の中心に、
マイ・ワールドを展開していきたい。
しかしそれは飽くまで孫権一人の個人願望で、
彼がそう望んでも、この中華大陸の人士達はそれを認めてはくれない。
孫権が人々を納得させるにはやはり、
歴代中華王朝の正統を引き継ぐ魏を倒さなければ。
だから彼は何度も何度も、北伐そのものは行う。
だがそれはどこまでも自分一人、単独の力で行わなければならない。
彼自身の呉国主としての始まりは、非常に苦々しいものだった。
孫策から一応、跡目を引き継いだものの、
誰もが自分を軽んじて、次々と国から離れていった。
実を言えば魯粛なんかもまさにそうで、
彼はその孫策から孫権への国主交代の際、
呉の前途を見限って曹操軍へと鞍替えしようとしていた一人だったのだ。
そのときはそれを周瑜から直に引き止められて、
魯粛は出国を思いとどまるのだが、
その他多くの者達にしてもまた同様、
周瑜以外では呉の重鎮たる張昭が各地を駆けずり回って豪族や民衆の慰撫に勤め、
そうして漸く孫権を何とか新たな国主として立たせた。
※(『三國志 張昭伝』注、「呉書」)
「吳書曰。是時天下分裂、擅命者衆。
孫策蒞事日淺、恩澤未洽、一旦傾隕、士民狼狽、頗有同異。
及昭輔權、綏撫百姓、諸侯賓旅寄寓之士、得用自安。
權每出征、留昭鎭守、領幕府事。
後黃巾賊起、昭討平之。
(「呉書」に曰く。このとき天下は分裂し、勝手に人々に命令を与えて
欲しいままにする者達が多かった。
孫策はまだ江東の支配に臨んで日が浅く、与える恩恵や恵みも乏しかったので、
一旦傾落すると、士民は狼狽し、異心を抱く者も少なくなかった。
そこで張昭が孫権を助け、百姓を慰撫して安んじ、
諸侯の賓客や、旅で身を寄せていた者達などに対し、
自らの得意とするところで用いて安心させた。
孫権は出征するたびに、張昭を鎭守に留めて彼に幕府の事務を領させた。、
後に黄巾賊が蜂起した際も、張昭がこれを討伐して平定した。)」
だから孫権は、彼の国主としての出発点が、そもそも周囲からの言わば、
“こいつでは駄目だ”といった、存在の否定だった。
実際、若い孫権が彼の父の孫堅や兄の孫策と比べてどうかなど、
それは誰の目にも明らかだったろう。
然るに彼が異常なほど、“自力”という点に拘っていたのも、
おそらくはこうした彼の、初めの国主誕生の経緯が理由の一つとして
あったのかもしれない。
結局、諸葛孔明の北伐失敗の要因も、
それは同盟国の君主が戦さ下手で意固地な孫権で、
敵対国側の君主が天賦の軍才に応変の機略に恵まれた曹叡だったという点が、
要素として非常に大きかったろう。
孔明としてはそれでも最低限、何とかお膳立てだけは整えようとしていた。
しかし孫権が全くそれに乗ろうとしなかった。
それ以上は人為の限界だろう。
【武功から五丈原へ、第五次北伐第2ラウンド】
孫権は蜀軍よりも3ヶ月も送れて出兵しながら、
結局自分のほうが蜀軍よりも先に撤退してしまった。
それも三方面の全面撤退。
しかし孔明のほうは依然、北方で司馬懿軍と向かい合ったまま。
孫呉軍の全面撤退により、この第五次北伐遠征での魏打倒も叶わぬ夢と
潰え果ててしまったが、
が、それでもまだ彼の戦いは終わらない。
孔明はこれまでの遠征も、決して無駄なことをしてきたという
積もりはなかった。
魏の打倒は決して蜀の単独ではできない、
孫権軍の動向にも結果が左右される非常に成功確率の低い、困難な事業だったが、
しかし最低限、自分達のほうでできること、やれることはある。
自分達でできることは自分達でシッカリとやっておくまでで、
今回の北伐遠征にしても、
おそらく孔明は自分の寿命の限界を濃厚に意識していたであろうが、
だからといって彼が、決してこれが最後だからと、
自分の命の尽きるまで、
ギリギリまで戦場で粘っていたというわけではなかったろう。
飽くまで軍の兵糧が残っているから、
軍事活動の可能な間はそれを行うまでで、
それは前回の北伐と変わらない。
だから孔明が陣中に没したとき、魏延などは北伐の続行を主張していたが、
詰まり兵糧はまだ残っていたということになる。
諸葛孔明とはそういう人である。
どこまでも実直を絵に描いたような人物で、
本来感動ドラマの主人公にはなりにくいタイプの面白みの欠ける、
至って地味な人間だ。
しかし三国志演義ではそれがいわゆる物語的な設定や演出によって、
非常に盛り上がる勧善懲悪の劇場型ヒューマンドラマと仕上がっているが、
しかし概して現実の、生の歴史とは大抵、非常に地味で味気ないものでしかない。
現実はそんなに詰まらない。
詰まらなければ別に人は見向きもしない。
だから現実の徳川光圀や徳川吉宗がどうということもないが、
それが『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』なら大喜びなわけだから。
フィルターを掛けて勝手に盛り上がっているのは、
見ている読者や視聴者のほうで、
元々歴史上の本人達の、現実の姿とは何の関係もない。
【五丈原の戦いおける、各関連史書間の不整合】
諸葛亮は初め、武功で屯田をしていた。
そして5月の麦の収穫を終えてから、
改めて五丈原に向かったものと思われるのだが、
しかし『三国志』曹叡の本紀、及び『資治通鑑』の既述を参照すると、
6月に孫権軍に攻められる満寵が、
合肥新城からの撤退を曹叡に打診してきて、
それに対して曹叡が、
征蜀護軍の秦朗に步騎二万を授けて諸葛亮と戦う司馬懿の援軍に回し、
合肥の方には曹叡自らが親征し、
7月に入ってから龍舟に乗って救援に向かったという格好になっている。
とすると、秦朗の援軍は6月以降のこととなる筈なのだが、
のほうを見ると、
※(『晋書 宣帝(司馬懿)紀』)
「二年,亮又率眾十餘萬出斜谷,壘于郿之渭水南原。
天子憂之,遣征蜀護軍秦朗督步騎二萬,受帝節度。
諸將欲住渭北以待之,
帝曰:「百姓積聚皆在渭南,此必爭之地也。」
遂引軍而濟,背水為壘。
(二年(234年)、諸葛亮はまた、10余万の軍勢を率いて斜谷へと出て、
司隷扶風郡郿県の渭水南岸の原に防塁を築いた。
天子はこれを憂い、征蜀護軍の秦朗に步騎2万人を監督させて援軍に派遣し、
帝(司馬懿)に節度を受け渡した。
諸将は渭水の北岸で敵を待ちうけたいと欲したが、
帝(司馬懿)は言った:“百姓は皆、渭南に集中している。
ここは必争の地だ。”と。
遂に軍を率いて渭水を渡り、背水に陣を構えた。)」
・・・と、
この書かれ方だと、
まだ一番初めの、斜谷から現れて武功へと駐屯した蜀軍に対し、
その迎撃にやって来た司馬懿が、
諸将と共に布陣をどうしようかと協議を始める、
その前に援軍が到着したことになってしまって、
いまいち整合が取れない。
整合性が取れないのはまた、
『晋書 宣帝(司馬懿)紀』と『三国志 郭淮伝』との間でもズレがあって、
中々うまいこと、記事が繋がってくれない。
しかし『晋書』に関しては第四次と第五次、二回の対蜀戦の結果が
何れも司馬懿の大勝として書かれるなど、
かなり司馬懿寄りになってしまっているので、
ここでは取りあえず、合わない点は『晋書』以外のほうで整合性を取って、
合わせていきたいと思う。
なので先ず初めは2月、
斜谷を出て武功に留まった蜀軍に対して、
迎撃にやってきた司馬懿もまた、渭水渡って背水の陣を布いて対峙。
武功では屯田を行う蜀軍。
あわよくばそこで、屯田の邪魔に攻め込んできた魏軍との決戦をもと、
考えていた孔明だったが、
しかし司馬懿は攻めてこず。
5月、蜀軍は無事に秋の収穫を終えて、
余分な非戦闘員を漢中の地へと戻す。
そして6月、
渭南で向かい合う両軍に魏の秦朗が2万の増援を引き連れて武功へと到着。
孔明はその魏の援軍が現れた6月頃に、
平地の武功から五丈原の高台へと陣を移す。
それは恐らく魏軍の人数が増えたことで彼我の戦力が逆転し、
そのまま蜀軍が武功の平地に居座り続けるのが危険になってきたから、
そのための措置として。
司馬懿にとっては以前から自分が諸将に対し、
「諸葛亮が若し勇者なら、武功を出て、
山に依り東に向かうだろう。しかしもし西の五丈原に上ったのであれば、
諸軍は安泰だ」と語っていた、
その結果の通りとなったわけだが、
しかしその東方に関しては孔明自身が、馬冢が堅固で突破できないと語っている。
だからこれも逆だろう。
司馬懿は本当は、自分のほうでちゃんと迎撃準備をしていた、
その馬冢のほうを蜀軍に攻めに来て貰いたかった。
そもそも五丈原のほうが防御力が堅いのだから、
魏軍としては敵に五丈原に登られたほうが排除が難しくなる。
蜀軍の五丈原帯陣は今戦役の長期化を意味することでもあった。
それをだから司馬懿は逆に、
“あ~、本当は敵が東のほうに向かっていれば、こっちは危なかったのに、
あいつら臆病だから、
西の五丈原の方に引っ込んでくれて助かったわ”などと、
敢えてそう反対のことを言うことで、
味方の士気高揚や敵の混乱を誘ったのだろう。
しかしながら勿論それで、蜀軍が動揺するということはなかったが、
だからこんなことも、
引っ掛けられたのは後世の人間達のほうで、
“孔明はバクチをしない慎重派だから。賭けに出ることができずに
安全な消極策を取った。
だから彼は北伐に勝利を得ることができなかったのだ”などと、
司馬懿の言を、そのまま彼の言った通りに受け取って、
やはり孔明は軍司令官として全然ダメだと。
だから司馬懿にそう言われた魏軍内の兵士達なんかは、
やはりそのまま孔明のことを臆病で無能なヤツだと思っていたのだろう。
しかしまあ史書に書いてあることがそのまま真実だというのなら、
もう陳寿や司馬懿の残した通りの評価で、
諸葛孔明という人物像を確定することは可能だ。
だが現実には蜀軍が五丈原へと退いた結果、
魏軍のほうが逆に、
その厄介な高台の方の敵に向かって攻め込んでいくという形に、
変えられてしまっていたのだから。
曹叡は司馬懿に対し、
※(『三国志 明帝紀』)
「但堅壁拒守以挫其鋒、彼進不得志、退無與戰、久停則糧盡、
虜略無所獲、則必走矣。
走而追之、以逸待勞、全勝之道也。
但し堅く壁を拒守し、以ってその鋭鋒を挫け。
敵は進めなければ志を得ず、久しくとどまり糧食が尽きれば、
戦うことなく撤退するしかなくなる。
略奪しようにも獲る物がなければ、必ず敗走するに違いない。
敗走すればそこでこれを追う。
これぞ逸を以って労を待つ、全勝の道だ。)」
と、
敵の兵糧が尽きれば勝手に引き返していくしかないから、
それまで固く守って手を出すなと厳命したが、
それでも今さまに、
魏は多方面に渡って敵の侵攻を受けている真っ最中。
故に蜀軍にいつまでも取り付かれて危ないのは魏軍側のほうだったのだ。
だから司馬懿は何とか、
できれば蜀軍を自分達の陣地のほうへと誘き寄せて撃破したかった。
しかしそれができなくなった。
が、それでも必要以上に時間を長引かせたくはない。
焦りはやはり、司馬懿のほうにあった。
曹叡は飽くまで司馬懿に待てと命じたが、
しかしそれはそれで、魏軍のほうにも憂慮すべき問題点が存在していた。
一般に蜀軍は長距離遠征軍のため、弱点は補給難だと言われ、
だから魏軍はただ砦に籠もって相手にならず、
敵が引き返していくのを待つだけで良かったなどと言われるが、
が、
それが実際、フタを開けて見れば、
先の第四次の戦いにて。
実は敵を迎え撃つ魏軍のほうでも兵糧はギリギリで、
後少しで補給が切れ掛かってしまっていたのだ。
対して蜀軍のほうでは逆に、
李厳の失敗がなければ、依然、食料補給に問題はなかった。
だから第四次北伐の戦いは、
あのまま続いていれば蜀軍が確実に勝利を収めていた。
補給の尽きた魏軍は撤退を余儀なくされ、
蜀はそれを追って追撃をしていくだけでいい。
そうなれば長安まで取れていただろう。
蜀軍が長安を取れば、西域への道を遮断し、
第一次の北伐で岐山を取ったことで南安・天水・安定の3郡が寝返ったように、
長安周辺三捕の地域から瑯西以西まで悉く蜀軍の領土として
確定していたに違いない。
司馬懿は今回の戦いに臨んで、事前に成国渠と臨晉陂を築いて、
軍糧をシッカリと確保していたが、
しかし万が一、それ以上の軍糧を蜀軍が用意していたとしたら・・・?
前回は半年以上戦って、なおも余剰分があり、
しかも今回は武功で屯田まで行なっていた。
孫権軍のほうは先に引き揚げていったが、
司馬懿にとって、五丈原での戦局の行方は、
未だ予断を許さぬ状況に置かれていたと言っていいだろう。
【五丈原移転以後の両軍の戦い】
※(『晋書 宣帝(司馬懿)紀』)
「二年,亮又率眾十餘萬出斜谷,壘于郿之渭水南原。
天子憂之,遣征蜀護軍秦朗督步騎二萬,受帝節度。諸將欲住渭北以待之,
帝曰:「百姓積聚皆在渭南,此必爭之地也。」遂引軍而濟,背水為壘。
因謂諸將曰:「亮若勇者,當出武功,依山而東。
若西上五丈原,則諸軍無事矣。」
亮果上原,將北渡渭,帝遣將軍周當屯陽遂以餌之。數日,亮不動。
帝曰:「亮欲爭原而不向陽遂,此意可知也。」
遣將軍胡遵、雍州剌史郭淮共備陽遂,與亮會于積石。
臨原而戰,亮不得進,還於五丈原。
會有長星墜亮之壘,帝知其必敗,
遣奇兵掎亮之後,斬五百餘級,獲生口千餘,降者六百餘人。
(青龍二年(234年)、諸葛亮は十余万の衆を率いて斜谷へと出て、
郿県の渭水南岸に塁を築いた。天子(曹叡)はこれを憂え、
征蜀護軍の秦朗に歩騎二万を統監させ、司馬懿の節度を受けさせた。
諸将は渭水の北に往き、諸葛亮を待ち受けることを欲したが、
司馬懿は、「百姓達は皆、渭水の南に集まっており、
ここは必争の地となる」と言い、軍を引き連れて河を渡り、川を背に塁を築いた。
そして諸将に、「諸葛亮が若し勇者なら、武功を出て、
山に依り東に向かうだろう。しかしもし西の五丈原に上ったのであれば、
諸軍は安泰だ」と言った。
果たして諸葛亮は五丈原に上り、渭水を北へ渡ろうとした。
司馬懿は将軍の周当を囮として陽遂に派遣して駐屯させ、
蜀軍を誘き出させようとしたが、数日の間、諸葛亮は動かなかった。
司馬懿は「諸葛亮は陽遂には向かわずに五丈原で戦うことを欲している。
この意図は知るべきだ」と言い、将軍の胡遵と雍州刺史の郭淮を派遣して
共に陽遂の備えとさせると、積石で諸葛亮と遭遇した。
原に臨んで戦争となったが諸葛亮は進めることを得ず、五丈原に還った。
長星が諸葛亮の塁に堕ち、司馬懿は諸葛亮が必ずや敗れることを悟った。
奇兵を派遣して諸葛亮の背後から引き止めに掛かった。
五百余の首級を斬り、生口千余、降伏者六百余人。)」
※(『三国志 郭淮伝』)
「青龍二年、諸葛亮出斜谷、並田于蘭坑。是時司馬宣王屯渭南。
淮策「亮必爭北原、宜先據之」議者多謂不然。
淮曰「若亮、跨渭、登原、連兵北山、隔絕隴道、搖蕩民夷、此非國之利」
宣王善之、淮遂屯北原。塹壘未成、蜀兵大至、淮逆擊之。
後數日、亮盛兵西行、諸將皆謂欲攻西圍。
淮獨以爲「此見形於西、欲使官兵重應之。必攻陽遂耳」
其夜果攻陽遂、有備不得上。
(青龍二年(234年)、諸葛亮は斜谷に出て、蘭坑に田を並べる。
この時司馬懿は渭水の南に駐屯していた。
郭淮は「諸葛亮は必ず北原を争うに相違なく、
宜しくこれを先に占拠すべし」と、
献策したが、議者の多くはそうではないと言った。
しかし郭淮はさらに「若し諸葛亮が、渭水を跨ぎ、原を登り、
兵を連ねて北山に向かえば、隴への道を隔絶されて、民夷が動揺し、
これは我が国の有利にはなりません」と重ねて言った。
司馬懿はこれを善しとし、郭淮を北原に駐屯させた。塹壘が未完成のとき、
蜀兵が大挙して襲ってきたが、郭淮は逆にこれを撃退した。
数日の後、諸葛亮は兵を盛んに西行し、
諸将は皆、蜀軍が西の囲みを攻めようとしているのだと言った。
しかし郭淮は独り、「これは西に行くと見せ掛け、
我が官兵を重ねてそれに応じさせようとしているのです。詰まり敵の囮で、
蜀軍は必ず陽遂を攻めるに違いありません」と主張した。
すると果たして、その夜に陽遂が敵に攻められたが、
備えのために蜀軍は戦果を得ることができなかった。)」
さて蜀軍は武功から五丈原へと陣を移し変えたわけだが、
では魏軍のほうはどうだったのか?
一緒に彼らも陣を相手に合わせて、五丈原の側へと移したのか・・・?
で、
これは私が考えるに、
司馬懿は恐らく始めの位置から陣を移し変えてはいない。
もしくは動かしても直ぐ近く。
何故そう考えるのかというと、
『水経注』、及び『太平御覧』という資料に、
孟琰という蜀の武将が登場してくるのだが、
その記述によれば、
先ずこの孟琰が武功水の東岸に布陣。
しかし渭水の増水によって孟琰が蜀の本隊と切り離されて孤立。
するとすかさずそこへ司馬懿が騎兵一万人を差し向け、
二十日の間、孟琰の陣営に攻撃を加えたという。
それに対して孔明は急ぎ竹橋を作るとともに、
その間、武功水越しに魏軍に向かって弓を射掛けて敵を威嚇。
やがて竹橋の完成を見て敵兵も引き下がっていったと。
※(『水經注』渭水)
「臣遣虎步監孟琰,據武功水東,司馬懿因水長攻琰營,
臣作竹橋,越水射之,橋成馳去。
臣(諸葛亮)は虎步監の孟琰を派遣し、武功水の東を拠り所とさせた。
司馬懿が渭水の増水に因り、孟琰の屯営を攻撃した。
臣(諸葛亮)は武功水越しに敵を射ち、浮き橋が完成すると、
敵は去っていった。)」
※(『太平御覽』橋)
「臣先進孟琰據武功水東,司馬懿因水以二十日出騎萬人來攻琰營,
臣作車橋,賊見橋垂成,便引兵退。
(臣(諸葛亮)は先ず、孟琰を進めて武功水の東を拠り所とさせた。
司馬懿が20日の長雨に因り、騎兵1万人で孟琰の屯営を攻撃させた。
臣(諸葛亮)は車橋を作り、賊はその橋の完成を見ると、
すなわち兵を退いた。)」
武功水は別名を斜水と言い、武功水とは五丈原の台地の直ぐ東隣りを
南北に流れて、渭水へと注ぎ込んでいる河だ。
斜水とは詰まり“斜谷の~”といった意味だろう。
しかし孟琰はその武功水の東岸に布陣をして、増水のために孤立。
それに対して蜀軍は河に阻まれて竹橋を作らなければ救援に迎えなかったが、
魏軍の方ではそのまま孟琰の陣地に兵を送って攻撃を加えている。
ということは詰まり、
そのとき司馬懿の軍は、孟琰と同じ武功水の東側のほうに
布陣していたということになる。
さらに渭水の北岸にいてもやはり増水に阻まれて
孟琰の攻撃には行けないことになるので、
司馬懿は渭水の南岸にいる。
詰まり司馬懿は始めの陣地から殆ど動いてはいないと・・・。
だから始めに私が予想をした、
現代の地図上の郝家堡辺りの位置のままだったか、
それか今度は魏軍のほうが、
蜀軍が引き払った武功の陣地に入れ替わりで入ったとか。
五丈原の戦い後半戦、布陣図(推測)
【北原の戦いと陽遂(積石)の戦い】
五丈原の台地へと陣を移した蜀軍は、そこからまさに渭水を北へと
渡ろうとする様子だった。
それに対して司馬懿が取った行動。
司馬懿は周当という将軍のを囮として陽遂に派遣して駐屯させ、
蜀軍を誘き出させようとした。
しかし数日の間、諸葛亮は動かなかった。
司馬懿はそれを見て、
「諸葛亮は陽遂には向かわずに五丈原で戦うことを欲している。
この意図は知るべきだ」と語ったという。
その一方、
郭淮は、孔明は必ず北原の地を狙うに違いないから、
先ずここを占拠すべきだと主張。
しかし諸将はそうではないと思った。
が、郭淮はなおも、
敵の真の狙いは北原を抑えて魏本国の都と西方諸国との間の隴の道を遮断して、
民夷を動揺させることが目的なのだと重ねて主張。
司馬懿もこれに同意し、郭淮を北原に駐屯させた。
するとやがて、郭淮が未だ塹壘を拵えている間に蜀軍が大挙して襲ってきたが、
郭淮は逆にこれを撃退してみせる。
蜀軍が北原の地を抑えることは、おそらく第一次の北伐で孔明が
祁山を占拠したことと同じ意味合いなのだろう。
それで本国との道を遮断された南安、天水、安定の三郡は
一斉に魏から蜀へと寝返ってしまった。
北原の位置は一応地図で確認ができた。
五丈原の北西で渭水の北岸、現代の中国地図で大体、“北庄”の位置くらいか。
サイト「三国遗址五丈原风景名胜区_旅游指南_景区攻略_门票信息_风景网(http://scenic.fengjing.com/shaanxi/index10404.shtml)」様、掲載の五丈原周辺地図。
しかし陽遂の場所のほうが全然わからない。
司馬懿は始め、将軍の周当を囮に陽遂に送るも、
蜀軍は動かず。
しかし郭淮の予想通りに北原へと蜀軍が現れた後、
西へ向かう形勢を示した敵に対し、
郭淮は、今度は蜀軍は陽遂のほうへと向かうだろうと。
そして実際にそっちのほうに敵がやってきて合戦にもなった。
だから渭南で対峙する両軍にとって、
この北原と陽遂はともに戦略・戦術上の重要拠点だったのだろう。
晋書のほうの記述を見ると、
※(『晋書 宣帝紀』)
「亮果上原,將北渡渭,帝遣將軍周當屯陽遂以餌之。數日,亮不動。
帝曰:「亮欲爭原而不向陽遂,此意可知也。」
遣將軍胡遵、雍州剌史郭淮共備陽遂,與亮會于積石。
臨原而戰,亮不得進,還於五丈原。
(はたして諸葛亮は五丈原に上り、渭水を北へ渡ろうとした。
司馬懿は将軍の周当を囮として陽遂に派遣して駐屯させ、
蜀軍を誘き出させようとしたが、数日の間、諸葛亮は動かなかった。
司馬懿は「諸葛亮は陽遂には向かわずに五丈原で戦うことを欲している。
この意図は知るべきだ」と言い、将軍の胡遵と雍州刺史の郭淮を派遣して
共に陽遂の備えとさせると、積石で諸葛亮と遭遇した。
原に臨んで戦争となったが諸葛亮は進めることを得ず、
五丈原に還った。)」
と、
この書かれ方だとどうも、
先ず始めに司馬懿がここに来るだろうと予想した陽遂に、
結局蜀軍は現れることはなかったが、
が、それも何か蜀軍のフェイントだったような感じで、
だから「いや、それもわかっているんだ」と、
司馬懿は警戒を怠らず、
胡遵や郭淮を派遣して蜀軍による時間差攻撃を見事に防いだみたいになっている。
実際、後に陽遂のほうは攻められているので、
北原への攻撃も、
それ自体が本命の陽遂を奪取するための、蜀軍による遠大な見せ掛け攻撃だったと取れなくもない。
しかし三国志の郭淮伝のほうの詳細を見た場合、
やはり司馬懿のほうが読み違いをしているような感じがする。
ただ北原のほうは第一次北伐に於ける祁山と同じような意味合いの
拠点だったとわかるのだが、
果たしてこの陽遂のほうはどのような場所だったのか・・・?
わからないが、
ただその辺りのところが、司馬懿の読みが外れるポイントに
なっているようにも思える。
司馬懿はこの戦いにおいて皇帝である曹叡本人から直に、
厳しく交戦を戒められていたが、
しかし司馬懿個人としては、
何が何でも直接対決で蜀軍、および諸葛亮を力で叩き伏せたい。
だが蜀軍陣地は鉄壁過ぎて迂闊に手が出せない。
蜀軍を倒すためにはだから、何とか都合良く蜀軍のほうから砦を出て、
自分達のほうの拠点を攻めさせるようにしなければならない。
だから司馬懿は余りに敵に勝ちたい勝ちたいと逸る気持ちが強すぎて、
それが彼の戦局眼にも微妙な狂いを生じさせてしまうのではないか。
北原という拠点は、
そこを抑えたからといって直ぐに渭南の司馬懿軍に影響を与えるような
場所ではない。
だから魏軍諸将の反応も鈍かったのだろう。
さてそれで、
先ず蜀軍のほうが先に陣地を五丈原のほうへと移し変えてしまったわけだが、
そのことで、
当初、武功で魏蜀の両軍が渭水の南岸で南北に対峙していたときと変わり、
蜀軍が武功水を西に渡って五丈原の台地へと陣を移したことで、
今度は新たな戦場の状況として、
魏蜀の両軍がその、南北を縦に走る武功水を挟んで、
その河越に東西で対峙するという形勢に変わった。
よって蜀軍にとっては武功水が魏軍の侵入を阻む天然の防衛ラインともなる。
しかし所々は河底が浅く、そのまま渡って来れる場所も
あったかと思われるのだが、
それを現代の地図上の华(華)明村から掛かっている橋のところを
その比較的浅めの渡河ポイントとみて、
仮にその西岸、五丈原蜀軍陣地側の場所、
グーグルの地図で「八岔」の付近を陽遂としてみてみる。
『水経注』、及び『太平御覧』では、孟琰が武功水の東岸にまで出て
布陣していたが、
これは魏軍側に武功水を渡らせないようにするための配備だったのだろう。
河の増水によって孤立した孟琰が救出されて、
その後どうなったかまでは不明だが、
増水期間が過ぎたのであれば、そのままずっと同じ場所に
駐屯していたとも考えられる。
時期的には前回、第四次北伐の時には盛夏の6月の増水が発生しているので、
魏軍が今度、五丈原の蜀軍陣地を目指して武功水の渡河運動を始めたのも、
大体6月くらいの、それくらいの時期か。
残り6、7、8月まで三ヶ月、
五丈原では100日余りの対陣だったということで、
まあ、その頃。
とにかく河の水が引いたことで、
今度は魏軍が逆に武功水の渡河を開始。
先ずは比較的水深の浅目の場所からチョロチョロと先発隊を
試しに送り込んでみる。
それが将軍の周当で、場所が陽遂。
しかし蜀軍は動かない。
司馬懿はそれを見て、
「大丈夫だ、蜀軍は動かない。諸葛亮は五丈原の陣地で待って、
我々を迎え撃とうとしているのだ」と。
そうして魏軍は後続まで次々に武功水の西側へと乗り込み、
そして五丈原陣地への攻撃を開始。
といっても全面攻撃というわけではなく、緩やかなの包囲といった程度で、
攻撃は五丈原でも弱目の箇所を狙ってピンポイントに攻撃を仕掛ける。
そしてそれが詰まり『郭淮伝』に「西圍(囲)」と記述されている場所。
地図上では現代の五丈原鎮と書かれているその場所。
地図ではそのポイントはやや小高い丘となっているのがわかる。
しかも蜀軍本陣の居座っている五丈原の台地の直ぐ近く。
だからこの“西圍(囲)”というのは、
多分、五丈原本陣の防御力を補うための、言わば“出城”だったのではないか。
陽遂の胡遵と郭淮が襲われる前、蜀軍は一旦その、
西の囲みに向かう勢いを示していたが、
要するに司馬懿はその、西囲の出城を攻め上げることで、
彼は包囲された味方救援のため、孔明が五丈原の本陣から降りてきたところを、
捕らえて撃滅したいという狙いを持っていたのではないか。
だから魏軍諸将の誰もが皆、蜀軍が西へと向かう気配を見せたときに、
「よし、引っ掛かった」と思った。
しかしそこへまた郭淮一人、「そうじゃない。今度の敵の狙いこそ陽遂だ」と、
警告を発した。
この場合、もし実際に蜀軍が陽遂を占拠すれば、
蜀軍の西の陣地を攻撃中の魏軍のほうが、
逆に武功水東岸の本隊と切り離されて孤立してしまう。
蜀軍の狙いはそれだったろう。
因みに「陽」という漢字には、
山ならばその南側、川ならばその北側という意味があるそうで、
とするとこの場合、
陽遂の推定ポイントを渭水の南側に置いてしまうのは良くない。
が、
これを武功水の側から見て、
そうするとその地点は、今度は武功水の北端ということになる。
「陽」が北で、「遂」をまあ、その果て、終わりというふうに取れば、
結構いい線なのではないかと思うが、
しかし司馬懿も元々、蜀軍西側陣地への攻撃は
孔明を誘い出すための罠だったので、
蜀軍の狙いが陽遂を占拠して、
武功水東岸の魏軍をそのまま孤立させようとする狙いに、
中々気付けなかったのではないか。
とすれば、
この辺りは孔明も上手く司馬懿の性格を考えながら、
相手をかなり手玉に取って、立ち回っているようにも感じられる。
孔明は演義と同様、司馬懿に婦人用の髪飾りなどを送って挑発をしていたが、
これなども実際、司馬懿という人間の気質を考えれば、
恐らく司馬懿は表面上は黙ってその場をやり過ごしたであろうが、
はらわたは煮えくり返っていたことだろう。
何せ司馬懿は戦さの始めに明帝・曹叡から直接、「但堅壁拒守」と、
詔で以って固く出戦を禁じられていたのにも拘らず、
司馬懿は孔明からその婦人の装飾品を送り付けられた直後、
怒りの余り、自ら上表して蜀軍との決戦を願い出ているのだから。(笑)
※(『晋書 宣帝紀』)
「時朝廷以亮僑軍遠寇,利在急戰,每命帝持重,以候其變。
亮數挑戰,帝不出,因遺帝巾幗婦人之飾。帝怒,表請決戰,天子不許,
乃遣骨鯁臣衞尉辛毗杖節為軍師以制之。
後亮復來挑戰,帝將出兵以應之,毗杖節立軍門,帝乃止。
(時に朝廷は諸葛亮は国外からの遠征軍で、
諸葛亮にとっては急いで戦うほうが有利なため、
そこで宣帝(司馬懿)には常に慎重に、蜀軍の変化を窺うように命じた。
諸葛亮は幾度も戦いを挑んだが、宣帝は出撃しなかった。
そのため、諸葛亮は宣帝に布陣の髪飾りを送りつけた。
宣帝は怒り、決戦したいと上表した。しかし天子は許さず、
硬骨な臣下である衛尉の辛毗に杖節を与え勅使と為し、彼を軍師として派遣し
宣帝を制止させた。
その後もまた諸葛亮は戦いを挑んできて、
宣帝はまた、兵を出して応戦しようとしたが、辛毗が杖節を軍門に立てたため、
宣帝は止めた。)」
司馬懿も司馬懿だが、(笑)
意外にこう、孔明は「応変の才略は・・・」云々などと言われながら、
相手の心理を巧みに利用しつつ、
実は相当、うまく戦っていたものと思われる。
【戦いの終わり。秋風五丈原】
魏蜀の両軍が五丈原にて対峙すること、100余日。
3ヶ月以上も睨み合いが続いたわけだが、
意外に双方共、ただジッと手を拱いて何もしなかったわけではなく、
結構、色々な動きを見せていたことがわかる。
特に効いてしまったのが、諸葛亮の行った司馬懿への挑発。(笑)
しかし江戸時代の日本の侍などにしても、
人に嗤われればその時点で斬り合いの決闘になっていたように、
元よりこれはただの悪口などではない。
晋書にはその辺りのやり取りが、
※(『晋書 宣帝紀』)
時朝廷以亮僑軍遠寇,利在急戰,每命帝持重,以候其變。
亮數挑戰,帝不出,因遺帝巾幗婦人之飾。帝怒,表請決戰,天子不許,
乃遣骨鯁臣衞尉辛毗杖節為軍師以制之。後亮復來挑戰,帝將出兵以應之,
毗杖節立軍門,帝乃止。初,蜀將姜維聞毗來,
謂亮曰:「辛毗杖節而至,賊不復出矣。」
亮曰:「彼本無戰心,所以固請者,以示武于其眾耳。
將在軍,君命有所不受,苟能制吾,豈千里而請戰邪!」
(時に朝廷は、諸葛亮は国外に住み、遠くから来寇してくることから、
敵にとっては短期決戦が望ましいため、宣帝(司馬懿)には常に慎重に、
臨機応変に対処するように命じた。
諸葛亮は何度も戦いを挑んだが、宣帝は出ず、
そこで諸葛亮は宣帝に婦人用の髪飾りを送り付けた。
宣帝は怒り、上表し決戦をしたいと訴えた。しかし天子は許さず。
硬骨の衛尉・辛毗に杖節を与えて軍使と為し、これを制す。
後にまた諸葛亮が戦いを挑んで来ると、宣帝はまさにこれに応じ、
出兵せんとしたが、
辛毗が杖節を持って軍門に立ちはだかったため、宣帝は止めた。
初め、蜀将の姜維が、辛毗がやって来たと聞き、諸葛亮に、
「辛毗が勅使としてきたからには、
もう賊が撃って出てくることはないでしょう」と言った。
諸葛亮はそれに答えて「司馬懿には元々戦う心などなかった。
彼が決戦を申し出た理由は、
自軍の将兵達に対し、やる気だけでも示そうとしたからだ。
将、軍に在れば、君命も受けざる所あり。もし本当に私を制すつもりなら、
千里の道を、戦いたいと申し送る必要などあるものか」と言った。)
・・・などと、記されているが、
しかし司馬懿にまったく蜀軍と戦う意思がなかったとか、
決してそんなことはない。
真逆だ。
だからこれはむしろ孔明の、猛烈なる戦意を秘めた相手に対しての、
痛烈な皮肉なのだ。
孔明自身、司馬懿という人物の性質も性格も知り抜いた上で、
だから正々堂々と、士人同士として勝負を決しようじゃないかと、
ライバルに投げ掛けているわけである。
実際、江陵の戦いで、周瑜と曹仁が両軍で期日を決めて
大決戦を行ったりしているのだが、
(因みにその戦いで周瑜が矢を受けて負傷をする)
そうとなれば蜀軍も五丈原から降りて雌雄を決するだろう。
そして孔明が自ら城砦から出て野戦決戦を行うということは、
元より蜀軍は敵との戦力差を考えて五丈原に上ったのであろうから、
そこから降りて戦うということは自軍の兵力の劣勢を敢えて承知した上で、
それでも戦うということだ。
だからそれくらい孔明自身、自軍の野戦の強さには
絶対の自信を持っていたのだろう。
結局のところ、事実として孔明は戦さに弱いどころか、
もうメチャクチャ野戦には強かった。
もし彼の戦う敵が“孔明は軍事に疎い”などと言って、
舐めて掛かってきてくれるような相手であったのなら、
北伐もよほど楽だったろう。
一方、
司馬懿のほうは司馬懿で彼もまた、
弟の司馬孚に対し、
※(『晋書 宣帝紀』注、「帝弟孚書問軍事」)
帝復書曰:「亮志大而不見機,多謀而少決,好兵而無權,
雖提卒十萬,巳墮吾畫中,破之必矣。
(宣帝の弟の司馬孚が書簡で軍事に付いて問い、すると宣帝はまた、
「諸葛亮は、志は遠大だが機を見る眼がない。謀略は多いが決断力に乏しい。
兵事を好むも、はかりごとがない。十万の兵を連れているといえども、
既に私の術中に堕ちたも同然で、必ず破れる」と返事を送った。)」などと、
色々と非難したりしているが、
無論、こうしたことは兵士達の前でのパフォーマンスの意味合いもある。
司馬懿も当然、諸葛亮の挑戦に応じたいのだが、
それを許して貰えず、
自分だけが一方的に相手からコケにされて悔しいのだ。
が、それも・・・、
※(『晋書 宣帝紀』)
與之對壘百餘日,會亮病卒,諸將燒營遁走,百姓奔告,帝出兵追之。
亮長史楊儀反旗鳴鼓,若將距帝者。帝以窮寇不之逼,於是楊儀結陣而去。
經日,乃行其營壘,觀其遺事,獲其圖書、糧穀甚眾。
帝審其必死,曰:「天下奇才也。
(諸葛亮と対峙すること百余日、諸葛亮は病で逝去した。
蜀の諸将は軍営を焼き払って遁走した。
住民達が走ってその事実を告げて来たため、宣帝は兵を出して蜀軍を追撃した。
諸葛亮の長史の楊儀は、旗を返し鼓を鳴らして宣帝の前に
距離をへだてて立ちはだかった。
宣帝は窮した敵を追うことはせず、楊儀は兵を集結させて陣を去った。
数日後、蜀軍の営塁跡にいった。
蜀軍の遺していった物を見、図書や糧穀の獲得は甚大だった。
宣帝は諸葛亮は間違いなく死んでいると判断し、
「彼は天下の奇才だ」と言った。」
・・・と、
「帝審其必死」、
詰まりもう、相手が死んでしまった後となれば遠慮なく、
そのまま“大したヤツだった”と。
古の漢の三傑の一人、蕭何の故事に、
かつて劉邦が秦の都・咸陽を占領した際、
味方の多くが宮殿の財宝や後宮の美女を求めてその場所へと殺到する中、
ただ一人、蕭何は文書殿に走って秦の歴史や法律、
人口統計の記載された政府関係の書物などを、
片っ端から回収したという有名なエピソードがあり、
蕭何はそれらの文書群を通し、まざまざと秦という国の実態を知ったわけだが、
司馬懿も同様に、
彼が軍営跡に残していった諸葛亮の仕事そのものの内容を知るに及び、
率直に凄いと感心したのだろう。
司馬懿はまだ両軍で対峙中の最中にも、
蜀軍からの使者を通じ、
※(『晋書 宣帝紀』)
「先是,亮使至,帝問曰:「諸葛公起居何如,食可幾米?」
對曰:「三四升。」次問政事,曰:「二十罰已上皆自省覽。」
帝既而告人曰:「諸葛孔明其能久乎!」竟如其言。
これより前のこと、諸葛亮の使者がやって来た時、
宣帝が「諸葛孔明殿はどのようにお過ごしか。
食事はどのくらい摂っておられるのか」と問うてみたところ、
使者は「三、四升です」と答えた。
次に政務について問うと、
使者は「罰棒二十以上の件に関しては全てご自身でご覧になられます」と
答えた。
使者が去った後、宣帝は人に告げて言った。
「諸葛孔明は、そう長くはあるまい」と。
結局その言葉の通りとなった。)」と、
間接的ながら、
司馬懿も孔明の仕事振りについては多少知る機会があったが、
そのときは彼も無論、「死ぬだろう」などとは冗談半分だったろうが、
それが実際、宿敵の仕事場にまでやってきてみて、
“本当にこんなことをやっていたのか・・・”と、
同じ名士クラスの人間が、相手の仕事量に驚くわけだから、
「天下奇才也。」といった彼の言葉も、
もし仮に自分も同じことをやれと言われて、
果たしてここまでのことができるかどうか・・・、
ちょっとわからないといった感じだったのではないか。
苦笑混じりに、半ば驚き半ば呆れてと、
また今生で二度とは会えぬという多少の物悲しさもあっただろう。
それと今一つ、
蜀軍の遺棄していった陣所からは大量の糧穀が獲得できたというが、
先程も述べたように、これがもし五丈原に於ける両者の戦いにおいて、
魏軍のほうが先にその兵糧が尽きていたとしたら・・・。
もし司馬懿の想定をも遥かに上回る物であったとしたら、
もしかして蜀軍が単独で五丈原の司馬懿軍を撃ち破るほどの
戦果を挙げていた可能性だって、
決してなかったとは言いきれないだろう。




