孔明、北伐の真意
先ずは孔明の行う北伐軍事行動の基本コンセプトについて。
【第一次北伐】
227年春、
諸葛亮は「出師の表」を奉り、自ら漢中に出陣し、沔水の北、
陽平郡の石馬県に陣を張り駐屯。
※(『三国志』蜀書「後主(劉禅)伝」)
「五年春,丞相亮出屯漢中,營沔北陽平石馬。」
228年春、
諸葛亮は斜谷道から出て、郿を奪うと喧伝し、
趙雲と鄧芝をその囮の軍として箕谷に布陣させると、
魏の大将軍・曹真が総力を挙げてこれを迎撃。
諸葛亮自身は諸軍を率いて祁山を攻撃。
南安・天水・安定の三郡が魏に背いて諸葛亮に呼応し、
関中は震撼した。
『魏略』によれば、
突然な諸葛亮出兵の報に朝野は恐れ慄き、隴右の、
特に祁山ではそれが甚しく、
そのため三郡が一斉に諸葛亮に呼応したのだという。
※(『三国志 諸葛亮伝』注、「魏略」)
「魏略曰:始,國家以蜀中惟有劉備。備既死,數歲寂然無聲,是以略無備預;
而卒聞亮出,朝野恐懼,隴右、祁山尤甚,故三郡同時應亮。
(「魏略」に曰く:始め、国家では蜀中にはただ劉備が有るだけだと考えていた。
劉備が死んだ後、数年に渡って静寂として声もなく、
そのため予めの防備も無かった。
ところが突然、諸葛亮が出兵したと聞き、朝野は恐れおののき、
隴右、祁山では特にそれが甚だしかった。
こうして三郡は同時に諸葛亮に呼応してしまった。)」
またこの時、天水で魏に仕えていた姜維が
蜀漢に仕えることとなった。
【街亭の戦い】
蜀軍の祁山進出に魏の明帝・曹叡は自ら西へ親征伐して長安を鎮め、
また張郃に諸葛亮の撃退を命じる。
諸葛亮は馬謖を先鋒に任じ諸軍を指揮させて張郃と街亭で戦わせたが、
馬謖は諸葛亮の指示に反し、張郃に大敗した。
孔明は、魏延、呉懿らを先鋒にすべきという周囲の反対意見を押し切ってまで、
敢えて馬謖を先鋒に抜擢したのだが、
しかし先鋒の馬謖が敗退したことで、孔明自身も本隊を率いて撤退。
第一次北伐は蜀軍の敗北となり、
孔明は撤退後、馬謖を処刑。
また馬謖のほかでは、彼に従っていた将軍の張休と李盛が同様に処刑され、
黄襲は兵を取り上げられという処分に。
しかしその中で王平のみは現場での対応が評価され、
参軍・討寇将軍に昇進を遂げる。
孔明自身は戦後、丞相としての職務はそのまま受け持つものの、
三階級の降格で右将軍に。
(ルートは現代の地図を参考に推定)
南の漢中盆地から、最高峰である海抜3,767メートルの太白山を中心とした
秦嶺山脈(平均海抜2,000~3,000メートル)を越えて、
北の関中(現在の中国陝西省渭水盆地にある
西安(長安)を中心とした一帯)へと抜けるルートには、
主に五つの道が存在した。
子午道
漢中と長安を結ぶ最短ルートで山脈の最も西を通り
長安の南方へと抜ける道。
魏延が北伐の際、繰り返し強く孔明に主張していた長安への急襲ルート。
実際に蜀軍の北伐でこの道が使われることはなかったが、
229年の第2次北伐の後、
230年に魏の大司馬・曹真によって実行された逆襲の南征の際、
斜谷道を使った曹真に対し、張郃がこの道を使用。
駱谷道
子午道と並行しつつ、同様に長安へとつながる道。
孔明の北伐で使用されることはなかったが、
244年に曹爽・夏侯玄・郭淮ら
10余万の魏軍がこの道を通り漢中へと侵攻。
この時、蜀軍側では王平が3万弱の兵で魏軍の迎撃に当たり、
王平はこの駱谷道中にあるとおぼしき興勢山、
及び黄金谷の進路を塞いでそれ以上、敵軍の侵入を許さず、
やがて到着した費イの援軍と共に魏軍の撃退に成功したという。
褒斜道(斜谷道と同じルート)
秦嶺山脈の中央から五丈原、及び郿方面へと抜け出る道。
「蜀道は難し、青空を上るよりも難し」と李白の詩に詠われ、
今も各地に残る
蜀の桟道(切り立った山や崖の斜面に木材の柱などを打ち込んで
作った人工の道)で有名な道。
元来が戦国時代の昔に秦の昭王が山を削って掘った道が起源だといい、
有名な桟道だけでなく場所によってはそうしたトンネルも掘られ、
まさしく自然を削って苦難の末に切り開かれた大変な道であったようだ。
漢中盆地の中から山脈南側の入り口を
褒谷(陝西省漢中市勉県褒城鎮)と呼び、
山脈北側の出口が斜谷(陝西省眉県褒谷口)と呼ばれる。
距離は百七十里、現代換算で全長約250キロ。
褒斜という名称は秦嶺山脈を分水嶺に、
その北側が斜谷、南側が褒谷と呼ばれ、
それを合わせた名称として付けられたとのこと。
またそれに合わせて斜水、褒水という二つの河が東西に沿って流れ、
然るに褒斜道のルートを通って漢中から長安方面へと抜ける場合には、
その斜、褒の二水を渡って超えていく必要が生じ、
襃水の水路の絶えた所から斜水までに至る距離は百余里で、
そこは陸路となるが、
斜水の方は北側の渭水に水路で繋がり、
褒水の方は南側の沔水と水路で繋がっているため、
そこまでは漕運(水運)が可能らしい。
後漢末には益州牧の劉焉がこの道に架けられていた吊り橋を断ち切って
独立を果たしたり、
当時としては都と漢中を往来する最もメインのルートであったようだ。
孔明の北伐では先ず228年の第一次北伐の際に、
孔明率いる本隊とは別に、囮として向かった趙雲と鄧芝の部隊が
この道を通り、
恐らくその道の途中のどこかにあったと思われる箕谷という場所で、
大将軍・曹真率いる魏の本隊と合戦に及んでいる。
それと234年、孔明最後の第五次北伐の際にも、孔明はこの道を通って
五丈原の戦地へと向かっている。
故道
褒斜道の西から散関を経て陳倉へとつながる道。
孔明の北伐では229年の第二次北伐の際に孔明が通った道。
しかしこの時は前年の第一次北伐から、
次の孔明の動きを予想した魏の曹真によって
故道からの出口を塞ぐ陳倉城が強化されており、
また守備を命じられた城将の郝昭が僅か数千の兵と共に
頑強な抵抗を挑み、
二十日間余りの攻防の末に蜀軍を撤退に追い込んだ。
関山道
山脈の最も西側を、祁山を通って上ケイ、天水方面へと抜ける、
距離的には一番長いが道的には最も平坦な道のルート。
孔明の北伐では先ず228年の第一次北伐の際に、
囮として褒斜道へと向かった趙雲と鄧芝の部隊に対し、
孔明自身が引き連れた本隊でこの道を通って祁山を攻略。
さらに229年の第二次の北伐で陳倉城を攻め落とせず
撤退を遂げた孔明が、
その後、武都・陰平二郡の攻略に、陳式に一軍を与えて
この方面へと派遣。
さらにその翌の230年に、魏の大司馬・曹真、張郃らによって行われた
魏の南征が大雨の影響で失敗に終わり、彼らが引き上げた後、
第3次北伐として、孔明は再びこのルートから今度は魏延・呉懿を
西方の羌中に侵入させ、
迎撃に来た魏の後将軍の費瑤、雍州刺史の郭淮の部隊を陽谿で打ち破る。
【孔明、北伐の真意】
孔明は先ず、斜谷道から出て、郿を攻撃すると喧伝しつつも、
実はそれは囮で、
孔明の真の目的は祁山の奪取にあった。
そして孔明がその祁山を攻撃すると、
何と南安・天水・安定の三郡が自動的に魏から蜀に
寝返るという展開に。
これはだから祁山という地が、そこを取れば丸でオセロの駒の如く、
裏返しに所属が変わってしまうといった、
そんな感じの、軍事上の重要拠点だったのだろう。
無論、孔明も始めからそれがわかっていて祁山を狙ったのだろうし、
だから孔明の第一次北伐の基本コンセプト自体、
それは魏軍との短期決戦ではなく、
先ずは後背地の安全確保を最優先に段階的、漸進的に、
敵との長期戦を戦い抜いていくという考えだったものと思われる。
兵站に乏しい遠征軍の蜀軍が長期持久戦狙いというのも変なところだが、
勿論、遠征軍の兵糧の尽きるまでといった意味での、
持久戦である。
この点、諸葛孔明の北伐では、
蜀軍を迎え撃つ魏軍の方が専守防衛の持久戦に持ち込み、
相手を兵糧切れの撤退に追い込めばいいだけの戦いだったとの認識が
一般的だが、
しかしこれはまったく逆で、
蜀軍に攻め込まれて一番困るのは魏軍のほうで、
だから魏のほうがとにかく早期に、短期決戦で蜀軍と雌雄を決し、
領内から敵を追い払わなくてはいけなかった。
何故かといえば、それが孔明の北伐の真の目的で、
孔明が北伐を行う目的は、
当然、魏を打ち倒すことが究極のテーマとなるのだが、
そのために絶対必要不可欠なこととして、
孔明は先ず、
呉を動かそうとしている。
所詮、蜀の単独では魏に打ち勝つことができない。
凡そ三国の国力は、
魏人口440万、軍隊60万、
呉人口250万、軍隊23万、
蜀人口90万、軍隊10万、程で、
国力比でざっと6:2:1の割り合いになるらしい。
しかしこれでは大本の国力が違いすぎて、
蜀はとても魏と勝負にならない。
だから蜀が本気で魏の打倒を狙うなら、
やはり呉の力を借りなければならない。
孔明が北伐をして魏に攻め込むと、
呉が動くのだ。
蜀が魏に攻め込めば、
当たり前だが魏軍はその迎撃に出ていく。
本国の都から大軍を編成して派遣する訳だが、
そうすればその分、その本拠地の軍備は手薄になる。
スッカラカンというわけにはいくまいが、
それでも魏が蜀の北伐軍の撃退に掛かり切りなっているときこそ、
呉にとっては絶好の進撃チャンスとなるわけだ。
呉は蜀と一応同盟を結んでいるが、
といって蜀が友軍の彼らを上手く同じ魏の討伐に駆り出させることは難しい。
もし蜀が魏に勝てば呉の損になるだけなので、
そこが同盟関係の難しいところだ。
しかも呉の国主・孫権は非常に現実的なタイプの人で、
天下統一などという大事業を無理に成し遂げようとは思わず、
今の、呉の国だけで満足に思っている面が強い。
そんな消極姿勢の人を強引に魏との戦いに引きずり出すのは
実に難しいことだが、
ただそんな人でも、今、敵本国の殆ど無防備の状態に、
いまいま攻め込めば楽に相手を打ち負かすことができるじゃないかと、
そうなれば、
彼の重い腰でも上がる可能性は非常に高くなってくる。
特に呉はこれまで魏との国境で、
勝ったり負けたりの領土争いを長年に渡ってしつこく繰り返していて、
魏が蜀との戦いに追われ本国からの援軍が来ないのであれば、
呉にとっても孔明の北伐は邪魔な国境の敵を排除ずる、
絶好のチャンス到来となる。
だから孔明は北伐を行う。
魏を滅ぼすために先ず、自分自身ができること。
それは自らが遠征軍を率いて北伐を行い、
できるだけ魏の軍勢を自分のところに引き付けておくこと。
だからもう最低、出ていくだけでいい。
孔明の北伐を魏に勝てなかったという観点から、失敗だと見れば、
それは確かに失敗なのだが、
元より自力では不可能なチャレンジなのだから、
最終的な結果はそれこそ同盟国である呉軍の戦闘結果に
大きく左右されざるをえない。
それで上手くいけば、先ず孔明が敵を引き付け、
その間に東方でまた呉軍が戦争を起こす。
もし逆に、呉のほうが先に魏と戦争を始めてくれた場合は、
それに合わせて今度は自分達が出ていけばいい。
例え三国一強大な魏国でも、
多方面に同時に満足な援軍を送ることは不可能なのだ。
例えば孔明最後の北伐の際、
それと同時期に行われた呉の荊州、及び合肥方面への侵攻作戦で、
魏帝・曹叡は蜀軍との戦いに凡そ2万人の援軍を送り出すが、
自らが直接親征して赴いた呉軍との戦いの救援には、
歩騎合わせて僅か8千人止まり。
せめてもう少し孫権が頑張ってくれたならば・・・、といったところだが、
しかし孔明としてはそんな相手の結果に係わらず、
何より自分は自分自身のことを抜かりなく、
シッカリと手を尽くすだけ。
だから最期、五丈原の陣中に没したという彼の死も、
結局は志を遂げられず、センチメンタルに無念の思いからズルズルと
戦地に留まって死んだというより、
丸で実直な公務員が、明日には死ぬとわかったその最後の日まで、
キッチリと自分に与えられた一日の務めをこなし、
そしてその日常のままに死んでいくといったような・・・・・。
むしろそこに、彼の人としての凄みが感じられるところだが、
孔明の北伐の目的は飽くまで魏を倒すことであり、
しかも彼はそれを決して悪あがきではなく、
実現可能な堅実な計画と共に、
それを満たす条件を一つずつ一つずつ丁寧に作り上げ、
積み上げていった。
最終的な勝利とはやはり、そうした地味な条件を積み重ねていった、
その先にしかない。
上手いこと、非常に困難な確立の条件が全て噛み合わさったとき、
その時には一気に、
破竹の勢いで怒涛の如く魏の領土を食い破ることも可能だが、
とても野戦の一勝一敗で、直ぐに決着がつくような簡単な問題ではない。
例えば街亭の戦いで蜀軍が勝っていれば
そのまま魏を滅ぼすことができたのかといえば、
決してそんなことはない。
一つ野戦に勝って、それで一つ前線が前に進むだけだ。
そしてそれを繰り返していく内、国力で6分の1に劣る蜀軍は、
彼らが敵の本拠地へと辿り着く頃にはもう、
限られた軍資をスッカリ磨り減らしてしまっていることだろう。
曹操も官渡の戦いで決定的な戦勝を挙げながら、
その後、袁氏勢力を滅ぼすまでには7年もの年月が掛かっている。
そこはやはり、野戦の大勝で敵を一気に滅ぼせるわけではない。
彼我の国力差を考えれば消耗戦は絶対に避けなければならない。
特に呉の動向を見つつの戦いなだけに、
先に自分達のほうだけ消耗してしまっては、
肝心のいざ、勝負のときに、張りたくても張り出す元手がなくなり、
勝負自体が実行不可能となってしまう。
だから無理に決戦を求める必要などどこにもない。
蜀軍にうるさく取り付かれて困るのは魏軍のほうなのだから、
攻めていかなければならないのも魏軍のほうで、
故に孔明は常に先制布陣を布き、
鉄壁の防御体制で敵を迎え撃つことができた。
だから実際に両軍での戦闘になった場合、
これはもう、ほぼ必ず蜀軍が勝つ。
万全の構えの敵に無理に攻め込まねばならない以上、
魏軍はどうしたって負けざるをえない。
司馬懿だろうが誰だろうがそれは変わらない。
しかしただ待っている訳にもいかない。
うかうかすれば呉が動いてくるし、
また他にも国内外に於いて、どんな変事が持ち上がるかわからない。
逆に魏軍のほうは無理をしてでも、
早急に蜀軍の撃退に手を打たねばならなかった。
が、
しかし攻めれば負けると・・・。
だから第一次から五次までの長い北伐の戦いに於いて、
終始戦争のイニシアチブを握っていたのは諸葛孔明のほうである。
補給に問題を抱え、短期決戦に焦っていたなどと、
焦らなければいけないのはそれこそ魏軍のほうだったのだ。
そしてそんな、状況不利な魏軍に残されたせめてもの狙い目は、
蜀軍の撤退のときだったのだが、
しかしそれもその時を狙って敵が追撃してくることなど、
わかり切ったことなので、
軍事行動では最も困難とされるその退却戦に於いてさえ、
孔明はそれを逆手にとって大きな戦果を挙げている。
蜀軍が補給切れで無様な撤退を遂げるどころか、
本来なら直ちに撃退しなければならない敵の遠征軍をどうにもできず、
結局最後、殆ど毎回兵糧切れで敵が帰っていくまで、
どうすることもできなかったというのが魏の本当の実情である。