追っかけ
今回のテーマは「目」です。
ちょっと長いですが、読んでいただければ嬉しいです。
窓から入る朝日がガラスに反射する。
ピカピカに磨かれ光るそれは、私の世界のようなグレー。
眠たそうな顔と波打った黒髪が映る。
「おはよう」
今日も答えてはくれない。
黒い目玉を覗き込む。
左目の黒に浮かぶ茶色。
瞼を閉じる。夜になる。
五年くらい前に、初めて人を好きになった。
遠くからでもわかる茶髪は、生まれつきのものらしい。
私の黒髪を見つめる目は、透き通る茶色だった。
日だまり色が、私の中の彼の色の全て。
半年くらい前から、彼は私の目の中にいる。
だから、私の左目はあまり機能していない。
映るのはずっと薄暗い世界。
時々視界が青くなるのは、彼のシャツの色だろうか。
昼間なのに暗くなるのは彼が外を覗くからだろうか。
遠くに行ってしまうという。
もう帰って来られないという。
夢を叶えるためだという。
一緒に連れてって、なんて馬鹿な言葉は使えなかった。
飲み込んだ言葉は心の底に沈んでいく。
積もった無意識の願望が、彼を不幸にしてしまった。
これは祈りとか願いとか、そんな綺麗なものではない。
おぞましいほど暗い呪いだ。
目があまり見えなくなったけれど、不便だとは思わなかった。特に外出することもないし、
家具は殆ど棄ててしまったから、家の中でもつまづいたりする心配はない。
よくわからない世界の中で、時の流れも見えなくなる。
自分が何者なのかも、どこにいるのかもはっきりしない。
でも、このままこの世界を漂うことになっても構わない。
これは罪滅ぼしだ。
私は普通に生きられるけれど、
彼は私の中でしか生きられないんだから。
私の中で、死ぬんだから。
雨が降っている。
静かに静かに、包み込むように降っている。
今夜、星は出ないだろう。
もし出ていたとしても、私までは届かないけれど。
薄暗い、夜明け前のような世界の中で、朝日に反射するガラスの光だけが真っ直ぐに差し込んでくる。
ガラスに映る私の目の中の彼と目が合う。
言葉は決して伝わらない。
目玉の世界はきっと、真空の硝子管みたいなものなのだ。
「おやすみなさい。」
小さな唇が開く、一瞬で真夜中。
電球の明かりにガラスが反射する。
殺風景な部屋のそれは、僕の淋しさを表すような灰色。
「おやすみなさい」
小さな唇が開く前に夜にする。
僕の左目には女の子が入っている。
黒に沈む小さな黒点。
幼い頃からの夢が叶うチャンスがやって来て、三十年近く住んだ場所を離れ、海を渡った。
しかし、国を離れて数年後、彼女の消息が掴めなくなった。
そして数日前、鏡に映る僕の目の中に彼女の黒髪が揺れているのに気づいた。
これは呪いだ。
夢を叶えたいという欲望と、彼女を失いたくないという願望がぶつかって生まれた醜い呪いだ。
僕は彼女をこんなにも遠くの地まで連れて来てしまった。
閉じたままの僕の目の中には、あの真っ直ぐな黒髪が揺れている。
あの黒目が動いている。
一日中降り続いた雨は上がって、
今は星空が広がっている。
片目だけで捉える宇宙は狭すぎてよく見えない。
日が沈んでからは、左目に眼帯をつけるようにしている。
これで少しは彼女に時間を感じてもらえるはずだ。
目の中の世界は、おそらく狭くて暗いだろう。
彼女はそこで生きつづけ、いつか、僕の中で死ぬ。
かわいそうな彼女のために、昼間はできるだけ外を歩くようにする。
彼女に少しでも世界を見せられるように。
少しでも、黒以外の色を感じさせてあげられるように。
明日はどこへ行こうか。深い藍色の海か、若い緑の森か、
あるいは、虹色の雑踏か。
まずは金色の朝日を、彼女の世界に届けよう。
そんなことを考えながらベッドに潜り込む。
「おやすみなさい」
そのささやきは、真夜中の黒に溶けていく。
部屋の隅に、一台のテレビがある。
旧型の、ブラウン管型のそれは、故障しているのか、使用されていないだけなのか、
一日中沈黙しつづけている。
朝は日の光を反射して、夜は電球の明かりを反射して。
外からの光を映すだけで、自分から光を放つことは無い。
ある女の部屋にも、異国の地の男の部屋にもそれはある。
女は一日中家の中で呆けたままで、男はカメラを持って外出したまま日が沈むまで帰ってこない。
二人ともテレビを見つめては何か言葉をかけ続ける。
テレビはその声を受けるだけで、やはり音を発することは無い。
二人の部屋は、時代を駆け抜けたアイドルや俳優のポスターに囲まれている。
それらは、時代に流され、忘れ去られた人間の、輝きのキリトリ。
それだけが光る静寂の中で、彼らは映らない画面に縋り、見つめ続ける。
沈黙したままのブラウン管の中の世界は黒いままで、
なんの色も生み出さないのに。
彼らは今日も、壊れることの無い永遠を、真っ黒い世界に映った自分の目の中に求め続ける。
月明かりのまどろみの中で、彼らは昼間よりも鮮やかな世界を見る。
時の中で輝く憧れを追いかけて、止まったはずの時間は満たされていく。
朝日が部屋に差し込んでくる。
『おはよう』
四角い画面はグレーのまま、黒い世界を映している。
丸い画面はきらきら光り、夢の色を浮かべている。
今日も、理想を追う時間が始まる。
読んで頂いてありがとうございました。
一応、ブラウン管の茶色と、その中の黒い世界というのが
人間の目を表してたりします。